第3話『本当の顔を見たのは、あなただけ』
夜の回廊は、誰の気配もなく、静まり返っていた。
廊下に差す月明かりだけが、白いタイルを青白く照らしている。
寝室を出たキャロルは、鏡台に忘れ物を取りに行くため、廊下を一人歩いていた。
本来、令嬢が夜に一人で出歩くなど、ありえない。
だが彼女は「使用人に気を遣う」などという感覚は持ち合わせていない。
──そう見せかけているだけだった。
(あの人……今日は、ちょっとだけムカつかなかった)
キャロルはぼんやりと思い返す。
どんな命令にも眉ひとつ動かさず、ふざけたようなことを言いながら、完璧にやってのける。
しかも、からかうようで、嫌味じゃない。
なのに──なぜか、心が揺れる。
(どうせ、明日には“幻滅しました”とか言って辞めるのよ)
そう思い込もうとしていたときだった。
「──おや、お嬢様?」
その声に、キャロルは弾かれたように振り返った。
そこにいたのは、黒髪の男──アルシア・ジ・セレスティア。
「な、なんであんたがここにいるのよ……!」
パニックにも似た声を上げるキャロル。
──なぜなら、今の彼女は“メイクをしていない”。
くっきりしたつり眉も、切れ長の鋭い目元も、
すべては“つくった顔”。
素の顔は──眉が下がり気味で、目も少し垂れていて、
肌も少しだけ幼く見える。どこかあどけなさの残る、少女のような顔。
(見られた……! “私”じゃない顔を)
「……すみません、こんな時間にお見かけするとは思わず」
「それにしても……」
アルシアは、ゆっくりと彼女に近づいて、目を細める。
「……その、失礼ですが……とても、可愛らしいですね」
「…………ッ!!」
キャロルの心臓が、ドクンと大きく鳴った。
「だ、黙りなさい! 馬鹿じゃないの!? 可愛くなんかないわよ、私は──私は、“悪役”なのよ……!」
目の奥が熱くなる。
怒ってるはずなのに、悔しいわけでもないのに。
涙が滲みそうになるのを、キャロルはぐっとこらえた。
だが、そんなキャロルを見て、アルシアはほんの少しだけ微笑む。
その笑みは、今まで見た誰のものとも違っていた。
「……その言葉、本当は信じていないんでしょう?」
「……は?」
「“自分は可愛くない”って。
本当は──どこかで、“そうじゃない自分”を誰かに見てほしかったのでは?」
「…………」
答えられなかった。
口を開けば、感情がこぼれそうで、こわくて。
けれどアルシアは、それ以上何も言わなかった。
ただ一礼して、静かに言った。
「……では、私は見なかったことにして、退きます」
「おやすみなさい、キャロル様」
そのとき、初めて彼女の名前を“敬称付き”でなく、優しい音で呼んだ。
キャロルは、背中越しにそれを聞きながら、口元を押さえた。
(……なんなの、あの男……なんで、あんなふうに……)
部屋に戻ったキャロルは、誰もいないベッドの上で、膝を抱えて座った。
月明かりがカーテンの隙間から差し込んで、部屋の片隅を照らしている。
「……私、可愛くないのに」
「──しかも、私は……」
ぽつりと、誰にも聞かせたくない言葉が、唇から零れた。
「……王太子の婚約者なのよ。
あの人に惹かれたなんて……そんなの、“罪”でしかないじゃない……」
涙は流さなかった。
けれど胸が、ひどく痛んだ。
本当の顔を見られた。
それだけで、どうしてこんなに苦しいのか──
彼女には、まだわからなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
お嬢様婚約してたなんて……