第二話:夏の神様と、具沢山味噌汁
暖簾を出して、二十分ほど経った頃。昼間の男が戸を押して入ってきた──白いシャツにブラックジーンズ。昼間と同じ装いだ。
「こんばんは」
「あ、はい、こんばんは。えっと」
「そういや、名前を言い忘れたな」
男は戸を閉め、名を告げた。
「俺は、御子柴。御子柴 一登」
(え?)
名前を聞いた途端、記憶の奥から検索結果のように浮かび上がった。
(文映社新人文学賞を取った人だ……!)
受賞作『夜を抱くひと』の内容が、断片的に思い出される。
季節を失った山の集落に、都会から逃げてきた女性が迷い込み、『夜』を守る男と出会う物語だった。
男は人間ではない。でも、懐かしい仕草と匂いがあり、彼女はその理由を思い出せないまま物語が進んでいく。
最後に女性が山を出る朝、男が言う台詞は、あの年の流行語大賞に選ばれた。
まさか、こんな田舎の、しかも祖母の知人として現れるとは。
御子柴はカウンターの奥に腰を下ろした。そして尻ポケットから何かを取り出した。
文庫本かと思ったが、違った。
手のひらほどの、折りたたみ式の小さな端末。ボタンを一つ押すと、パタンと開き、小さな画面が点灯した。
(……ポメラ?)
大学の同期が持っていたのを、一度だけ触らせてもらったことがある。
ネットも音楽もない。文字を書くためだけに生まれた、文章専用機。
御子柴は説明もなく指を動かしはじめた。店の空気に溶け込むみたいに、使い込まれたキーの音だけがカタカタと空間に広がっていく。
そうして、画面から目を離さずに彼は言った。
「卵焼きが食いたい」
「……作りましょうか?」
「いいのか? ……じゃあ、お客の後に」
その言葉と同時に、彼の目線がゆるやかに入り口へ向く。樒もつられて、そちらに視線を向ける。
そこに、一人の男が立っていた。
気配がなさすぎて、気づかなかった。
背は中くらい。シャツの色は薄墨。
目元に力がなく、視線の行き先も定かではない。
年齢は不詳。五十歳にも、三十歳にも見える。
どこか、すべてが自分に無関係だとでも思っているような、空ろな気配で覇気がない。
「いらっしゃいませ」
口をついて、声がこぼれた。
男は、それにうなずいたかどうかも曖昧なまま、ふらりと席に着く。
何を出せばいいのか分からない。
だけど、包丁の前に立った瞬間、手が勝手に動き出していた。
小鍋に水を張る。
指先で干し椎茸を一枚ずつ拾い上げ、水面に浮かべると、輪がいくつも重なり合い、やがて水面はぴんと張った。
しばらく置き、ふやけた頃を見計らって火を入れる。
鍋の底から小さな泡がぽつぽつ浮かび、縁をなぞるように広がっていく。
鰹節を袋から一掴み取り、手の中で軽くほぐす。乾いた繊維が指先にざらりと触れ、同時に香ばしい匂いが立ち上った。
火を止めて、晒し布でそっと濾す。
湯気の奥に、透き通った琥珀色がひっそりと浮かびあがる。
包丁を取って、じゃがいもの芽を丁寧に抉り、ごぼうは流水にさらしながら斜め切り。にんじんには細く、滑らかに刃を入れる。
ぶなしめじと舞茸は、掌の中でやわらかく割き、香りを立たせ、油揚げは湯にくぐらせてから水を絞り、細く刻む。
鍋に出汁を張り、切った野菜たちを一つひとつ順に落としていく。
野菜は熱湯に沈み、色を変えていった。
味噌を溶く直前、かぼちゃを一口大に切って鍋に加える。刃を入れた断面から、ほのかな甘い香りがふわりと立った。
切る音、湯気に混じる香り、掌に残るぬくもり。
それらが重なって、台所の気配を変えていく。
(あ、茄子もあったんだった)
茄子を一本ずつ手に取り、皮を剥いで浅く十字に切り込みを入れる。油を引いた鍋で転がすと、じゅっと短い音を立て、表面に香ばしい焼き色が浮かんだ。
取り出した茄子を、出汁と薄口醤油を合わせた小鍋に沈める。
火を止め、残り火の中で、少しずつ味を含ませていく。
ここで、麦ごはんが炊き上がった。
土鍋の蓋を開けると、白い湯気の奥にふっくらとした麦が顔をのぞかせた。
しゃもじを入れると、湯気と一緒に甘やかな香りを感じた。
味噌汁、茄子の煮浸し、炊きたての麦ごはん。
それらを一つの盆に並べる。
椀を前に、男は音も立てずに手を合わせた。
箸を取り、まず味噌汁に口を寄せる。
一口啜った瞬間、ふわりと湯気と一緒に、出汁の香りがこぼれた。
干し椎茸のまろやかさと、鰹節の香ばしさが重なり合い、舌にやわらかく溶ける。
にんじんの甘み、ごぼうのほろ苦さ、ナスの柔らかな舌触り。
具材それぞれが、一口ごとに違う表情を見せた。
──お客様とやらは、何も言わない。
けれど、箸を置くたび、彼の肩から少しずつ力が抜けていくのが分かる。
啜る音と噛む音が、夜に重なり合い、店を満たしていく。
やがて、すべて食べ終えると、男は箸を揃え、そっと盆の端に戻すと、音もなく立ち、戸を開けて夜の中へと消えていった。
カウンターには渋沢栄一が十人、寄り添うように置かれていた。
(じゅ、じゅうまんえん……っ!?)
と、その時。
「俺の卵焼きは?」
カウンターの奥の席で、御子柴がぽつりと言った。
ポメラから目を上げずに、少しだけ口元を緩めている。
「……」
樒は、卵を取り出し、ボウルの縁に一つ、二つと軽い音を立てて、卵を割る。
黄身と白身がほんのり筋を残す程度に菜箸でやわらかく溶く。そこへ、少し多めのだしを注ぐ。溶き卵に薄く波紋が広がり、ほのかに温かな香りが立った。
小さな銅の卵焼き器を火にかけ、油を含ませた布で鍋肌をなぞり、温度を確かめる。
鍋に注いだ卵液が、ぱちりと小さな音を立てた。
焦げつかせぬよう、端から丁寧に巻いていく。
一層、また一層と重ねるうち、卵は形を整えていった。
箸先ですくい上げるたび、だしの香りが湯気に乗って広がる。
焼き上がった卵をまな板へ移す。
温めた刃を添え、形を崩さぬようにそっと引く。
切り口から湯気がじわじわと立ち上り、だしの甘みが空気に混じった。
小さな皿に並べ、カウンターの向こうへ差し出す。
皿の上、卵はわずかに揺れていた。湯気をまとう表面が、うすく光を返している。
御子柴は、一口だけ箸を伸ばした。そして、噛むたびに卵の熱と香りを確かめるように味わった。
「日本酒、飲みてえなあ」
(そんなものは置いていない)
樒はその呟きを聞かなかったことにし、代わりに疑問を口にすることにした。
「……あの、今の人って何者なんですか? 十万円も貰えません。御子柴さんから返してくれませんか?」
御子柴が、ポメラから目を上げる。
「『夏の神様』。お代は受け取っておきな。金額は、向こうが決めるものなんだ」
「……かみ、さま?」
「ああ」
樒は、まばたきを一度した。
「え、か、神様って? ……え、比喩ですか? お客様は神様、的な……?」
こちらの問いに、御子柴は表情を変えずに返す。
「いや、文字通りの『神様』。夏の熱を受け止めて、調整して、人の暮らしに届ける役割をもった存在。夏の終わりには、くたびれて、ああやって味噌汁を飲みに来る」
「……意味が分かりません。人じゃないんですか? あの人」
「人に見えるけど、神だ。少なくとも、『こっち側』ではそう呼ばれてる」
樒はしばらく口を開けたまま、視線を宙に漂わせた。
椀から立つ出汁の香りが、ほんの少しだけ現実へ引き戻す。
「この食堂は、どういう場所なんですか」
「夜にだけ開く店──神様が立ち寄る場所だよ」
御子柴は、ポメラをぱたりと閉じた。
続ける声は、淡々としていたが、どこか遠いところを見ているようでもある。
「神様って言うと、神社に祀られてる立派なやつを想像するかもしれない。でも、本当は違う。日本には『八百万』の神様がいる。山、川、風、季節、忘れさられた傘、割れた茶碗、古い時計、しまわれたままの靴……すべてに名前があって、意味がある」
「……」
「だけど、忘れられた神や、役目を終えた神、祈られすぎて壊れかけた神もいる──あの人も、その一人」
樒は、まだ信じきれていない顔をしていた。
けれど、不思議と否定する言葉も出てこない。
「『夏の神様』は、毎年この時期になると現れる。人間が海で騒いだり、打ち上げ花火で空を焦がしたり、クーラーの中でアイスを食ったりするたびに、少しずつ力を使ってるからな」
「……働きすぎて倒れるサラリーマンみたいですね」
「まあ、味噌汁は仕事帰りのビールじゃなくて、魂の補給みたいなもんなんだけどな」
言いながら、御子柴はカウンターの端に置かれたグラスの水を一口飲んだ。
「さっき、君が出した味噌汁で、あの神は、ちゃんと満たされてた──と、思う」
「……作ってる時、自分でも『これしかない』って思ったんです……」
「それが、君の力だよ」
「……?」
「食べるべきものが君の手から生まれる。『魂の腹』を満たす料理だ。だから君はここに呼ばれた。叶子さんの力を継いでいる」
しん、と『静寂』が店内を満たす。
「御子柴さんは──」と言った切り、黙る樒に御子柴が「ん?」と促し、おずおずと口を開く。
「……人間、ですか?」
「ははっ!」
御子柴がくつくつと笑い、顔の前で手を小さく振る。
「俺は、この店にお客様を連れてくる案内人。神様の気配が分かるだけの、ただの人間だ。職業は、短編やエッセイでなんとか暮らしている落ち目の……一応、小説家」
(落ち目?)
文映社新人文学賞を取った『夜を抱くひと』以降、御子柴の名は聞かない。
話題になったのは、一作だけだった。
沈黙が降りた。
外では虫の音が、遠く近くに重なって聞こえている。
味噌汁の香りだけが、神様の気配のようにそこに残っていた。
樒はカウンター越しに、御子柴の横顔を見る。
それがあまりに『当たり前』の顔をしているものだから、何も言い返せない。
ただ、一つだけ。自分の中で『確信』になったことがあった。
(この店は、夜になると世界の裏側とつながる)