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第一話:祖母の遺言と、『月の影』

  (しきみ)が会社を辞めたのは、梅雨の終わりだった。



 ◇



 その日、会議室で課長と係長がとある営業案件の責任を押し付け合っていた。

 誰が確認したか、誰が諾を送ったか。そんな応酬を聞くたびに、胃の奥が濡れた綿布のように重く沈んだ。


「もっと早く確認していれば防げたはずだろう?」

「誰が確認して……──ああ、そうだ」


 言葉が落ちるのとほとんど同時に、二人が(しきみ)を見た。


「このミス、派遣さんのほうで気づいてもらえないと困るんだよね」

「……え」


「派遣さん」と呼ばれた瞬間、『信頼』の文字が音もなく剥がれ落ちた。


 くだんの案件は、自分には回ってきていなかった。確認すべきファイルは別の人の管轄で、そもそも当日は風邪で半休を取っていたはずだ。

 それなのに今、「派遣が見逃していた」と処理されようとしている。周囲の誰とも目が合わず、皆が見ていないふりをしている。それが、まるで暗黙の合図のように見えた。

 昼休みのざわめきはいつの間にか途切れ、コピー機の音だけが空気を刻んでいた。パソコンの画面が滲んで見えた。



 翌週、派遣元に退職の意思を伝えた。


 残っていた有休を挟み、二週間後──最終出社の日、私物を紙袋に詰めて会社をあとにした。

 誰にも挨拶はしなかった。

 する気になれなかった。


 ◇


「もしもしぃ? しーちゃん、元気? 今、大丈夫?」


 声の調子で、何か頼みごとがあるとすぐ分かった。向こうの空気に、テレビの音が重なっている。


「おばあちゃんの店、覚えてる? 『月の影』。あの食堂なんだけどね。遺言があるのよ。おばあちゃんが『あの子に継がせて』って書き残してるの。『孫の八重(やえ) (しきみ)に店を任せる』って」

「……」

「お母さんは無理なのよ。まあ、最初からやる気もないんだけどねぇ」


 相変わらず、返事を聞かずに一人で喋る。昔からそうだ。

 娘が口を開かなくても、母は気にかける様子もない。


「それに、お母さん、来月にはお父さんのところ行く予定でしょう?」


 父の話が出た途端、母の声に少しだけ『媚び』が滲んだ。

 母は単身赴任中の父のもとへ行くらしい。

 電話口の声には、娘に向けるのとは別の温度が宿っている。


 (しきみ)は思う。母にとって自分は、いてもいなくても変わらないのだろう、と。

『母親』になるのは、父のそばにいる時だけなのだ。


「ほんっと、あの人ってば、私がいないとダメなんだからぁ。というわけで、しーちゃん、お願いね?」


 お願い、というより、もう決めたから、という響きである。


「……なんで私なの?」

「だって、遺言なんだもん。そう書いてあるんだもん。ああ、遺言書もあるわよ? あとで郵送しておくね」

「お母さん、私……」

「鍵は昔のままかな、たぶん。あっ、鍵も郵送しておくね。それと──」


 その声を聞きながら、(しきみ)はスマートフォンをテーブルの上に置いた。画面の光が、テーブルにうっすら反射する。


 声がまともに届いていないことは分かっていた。

 母の中で娘はもう、とっくに役目を終えた存在に過ぎないのだ。それが嫌で、大学進学と同時に実家を出た。


 ふと、昔の思い出が、蘇る。

 母とのものではなく、祖母とのものだ。

 あの木のカウンターに頬をつけて、他愛ない話をしていた時間。

 味噌汁の香りと、しわくちゃな手のひらの温度が、ぼんやりと脳裏をかすめる。

 母に言われたから、ではなく、祖母の気配に触れたい、と思った。


 窓の外では、何かを洗い流すかのように雨がしとしとと降っていた。



 ◇◇◇



 母との電話から(ひと)(つき)後、(しきみ)は小さなキャリーケースを引いて、新幹線を乗り継ぎ、田舎の駅に降り立った。

 東京の部屋はすでに引き払い、転出届や契約の解約も片づけてきた。


 駅前のロータリーは無駄に広く、タクシーの影も人の姿もなかった。アスファルトには雨の跡がまだ残り、遠くで鳥の声がひとつ響くだけ。音の少なさが、広さをいっそう強調している。

 空気がやわらかく感じられるのは、都会よりも湿気が多いせいかもしれない。


(……すごい……呼吸(いき)ができる……)


 そんな当たり前のことを思いながら、細い路地を抜けて歩く。

 途中、錆びた自販機と、小学校の前のブランコが目に入った。

 どれも記憶のとおりなのに、色褪せている。

 何も変わっていないのに、ひどく遠い。



 食堂が見えてきたのは、坂を一つ下った先だった。


『よるごはん(どころ) 月の影』


 木の看板は色が抜けかけていて、屋号の『影』の字は少しかすれていた。

 店先のベンチには落ち葉が溜まり、戸は閉まったまま。

 窓の向こうには、誰の気配もない。


 鍵は言われたとおり、昔と変わっていなかった。

 鞄の内ポケットから取り出し、鍵穴に差し込む。ひねると、思ったより軽く開いた。

 中に入ると、空気が変わった。


 油の残り香が床板に染みつき、その奥からは木の匂いがかすかに立ちのぼっていた。ふいに祖母の気配まで一緒に立ちのぼったようで、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 掃除をしていない家特有の黴臭さはあったが、それ以上に、懐かしいものに包まれたような気がした。

 六つのカウンター椅子は革がくたびれ、奥の四人がけ三卓も色を失って沈んで見える。

 ふと、子どもの頃、深夜に祖母が誰かと話しているのを、何度か聞いたことがあったのを思い出す。


 (しきみ)は椅子に腰を下ろした。

 何を考えるでもなく、ただ、音のない空間に身を置く。


 祖母が亡くなって、二か月が過ぎていた。


 (しきみ)は、忙しさを理由に葬儀に参加しなかった。

 今さら後悔とつんとしたものが込みあがり、視界がぼやける。……けれど、今の自分に泣く資格なんてない。


(おばあちゃん、ごめん……)

 そう呟きかけた時、煙草の匂いが鼻先をかすめた。


 店の外からだ。


 ガラス越しに視線を移すと、通りに面したベンチに、一人の男が座っていた。


 白いシャツに、ブラックジーンズ。寝癖の残る黒髪。左手に本、右手に電子タバコ。組んだ足を組み直し、こちらを見ている。

 知らない顔だ。端正な面立ちなのに、どこか粗野な印象がある。

 近くに住んでいる風でもなく、観光客にも見えない。


 男はそのまま立ち上がり、ベンチから数歩、食堂の戸口まで歩いてきた。


 そして、がらりと戸を開けて、開口一番──


「今夜、客が来る」


 唐突に、そう言った。


「…………どなたですか?」


 声が出るまでに、少し間があった。


「この店の常連客兼、案内人だ。叶子(かなこ)さん──(きみ)のおばあさんと俺は飲み友達でね」

「案内人……?」

「今日の深夜、客を案内する。店を開けておいてくれ」

「え?」

「『月の影』は、夜に開く店なんだ」


 意味の分からないことを、まっすぐな目で言った。冗談の気配はない。


 だけど、意味が分からない。


「……あの、何の話ですか?」

「叶子さんの遺言の『(しきみ)に継がせて』の『(しきみ)』は──君だろ? 言ってたよ、叶子さん。『いずれ、あの子が来てくれるの』って」


 (しきみ)は、息をのんだ。


「開店を、『この店の夜の客たち』が待ってるよ」


 そう言い残して、男は店から出て行った。


 (しきみ)は言われた瞬間、なぜか『そうだった気がする』と思った。

 ……そう、思ってしまった。

 理屈じゃない。根拠もないのに、ひどく自然だった。



 ◇◇◇



 午後になると、湿気がじわじわと重くなってきた。

 窓を開けても風は入ってこず、空気がまとわりついてくる。


 (しきみ)は、なんとなく掃除を始めていた。

 旅の疲れはあったはずなのに、じっとしていられなかったのだ。

 カウンターの椅子を持ち上げ、床を雑巾で拭き、壁に貼られた色褪せたメニュー表を剥がす。棚の上の埃は積もっていたけれど、不思議と台所周りはそれほど荒れていなかった。


 母に頼んでおいた電気とガスは、すでに復旧している。あの人なりに、最低限の段取りだけはしてくれたらしい。


 冷蔵庫の扉を開けると、電源も入っておらず、中身も空っぽだった。

 棚の引き出しを探すと、砂糖と塩、空の醤油瓶。どれも、祖母が使っていたものの残りだろう。


「……こんなんじゃ、何も作れない」


 一人言のように呟いて、(しきみ)は台所の壁に手をついた。


(なんで……私……『何も作れない』なんて思うの……?)


 何を作るつもりもないのに、なぜか『作れない』ことに、うっすら焦りのようなものがあり、近くのスーパーへ足を運ぶことにした。


 食堂から徒歩五分。

 シャッター街の途中に営業している食品店と八百屋や肉屋がある。

 地方とはいえ、住人はそれなりにいて、生活の匂いがした。


 そして、店に並ぶ品を前に、気づけば手が動いていた。


 鶏もも肉にじゃがいも、人参とごぼう。ぶなしめじや舞茸も加わる。

 さらにナスとかぼちゃを選び、乾物の棚からは干し椎茸と鰹節。味噌と醤油、油にキッチンペーパー。

 そして古びた調理器具に似合いそうなアルミ鍋と菜箸、最後に卵を一パック。


(料理なんて、ずっとしていなかったのに)


 東京では、仕事の帰りにコンビニか、スーパーの惣菜売り場で済ませていた。レシピを検索するのさえ億劫だったから。

 でも、今はなぜか『何を買えばいいか』を、分かっている。

 迷いなく手が動くのだ。『作りたい』とも思う。

 どこか体が覚えているような感覚だった。


 思えば子どもの頃、祖母のそばで包丁の音を聞いていた時間は長かった。


 ◇


 夜。

 空が暗くなる頃には、店内の埃はほぼ拭き取られていた。


 床板は古く、ところどころ軋んだが、掃除しただけで不思議と空気が変わったように思えた。

 照明は年季の入った蛍光灯のまま。白くまばゆい光が、天井からぽつりぽつりと滴っている。


 時計の針は、二十三時五十分を指していた。


 テレビも音楽もない店の中で、針の音だけが響いている。

 カウンター越しに見える調理場には静寂しかない。


 戸の前に目をやる。


 そこには、白い暖簾が畳まれて置いてあった。


 見覚えのある布だった。祖母が使っていたものだ。刺繍された《ツキノカゲ》の文字は墨が滲んだように黒ずんでいるのに、不思議と布はきれいなままだった。

 思わず手を伸ばして端をつまむ。埃を払うとざらりとした感触が指に残り、思ったより軽い布が指の間をすり抜けるように落ちていく。

 洗いたてではないのに、あたたかい匂いがした。


 そして、時計の針が零時を指した。


 ぴたりと、時間が止まったような感覚。

 次の瞬間、不思議なくらい自然に足が動いていた。

 何度も繰り返してきたかのような手つきで、店の正面の竿に暖簾をかける。

 意識しないまま、布がすっと滑るように掛かった。

 カラン、と金具が音を立てた。

 風はないはずなのに、布がふわりと動いた。


 背中がひやりとする。


(『お客様』が、来る)


 五感ではない何かが、そう確信した。

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