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アビス一族の眼《め》


 *



 侯爵家の女主人、ロザンヌ・ローレン・ジークベルトは上機嫌だった。

 

 自邸に向かう馬車は軽快に進み、馬の蹄の音が耳に心地よい。

 落ちかけた夕陽は鮮やかな光の筋を木々に投げかけ、目に映るもの全てをオレンジ色に輝かせていた。


 向かい側には老齢に近い夫が気持ち良さげに船を漕いでいる。

 昨夜は二人で無理をしてダンスなど踊ったものだから、まだ疲れが残っているのかも知れない。

 

 ——ロナウドと踊ったのなんて、いつぶりかしら。


 昨夜は実に素晴らしい夜だった。

 古友の屋敷に招かれ、洗練された美食の席を和やかに囲んだあと、促されるままに夫婦のダンスを披露して見せたのだ。


 若かりし頃は、晩餐の席でワイングラスを片手に夫とチークダンスを愉しんだものだった。夫婦の息はぴったりで、曲の終わりには必ず甘い口づけを交わす。そんな決まりごとのような幸せも、今はもう遠い昔のこと。


 ——わたくしたち、まだ踊る感覚を忘れていなかったようね。


 友人の邸を出るまで昨夜の高揚感がくすぶるほど、久しぶりに愉しいと感じる時間を過ごせたと思う。


 ——ええ、ええ。

 心穏やかでない日々は、あの無能な嫁のせい。


 わたくしがあのを推したのは異能持ちだからよ、だたそれだけ。家門に益をもたらすと思っていた。でなければ息子と婚約などさせるものですか。

 ああ……あの娘に異能がないなら、せめて身分の確かな令嬢とアレクシスを結婚させれば良かった。


 苛立ちが募りはじめたので、ロザンヌは自らをいさめる。


 ——せっかくのすばらしい余韻が台無しになってしまうわ。今日ばかりは余計なことを考えるのはよしましょう。


 車軸が石を踏み、馬車が大きく跳ねた。

 その反動で微睡まどろんでいた夫が目を覚まし、若い頃の面影を残す精悍な面差しをしばたたかせる。


「ふむ……。眠ってしまった」

「ええ。もうすぐ我が家に着きますわ」

「どうした?」

「何がですの」

「不機嫌な顔をして」

「あらそうかしら」


 愛している。その夫が笑顔を向けて来る。

 ただそれだけで……苛立ちがなごみ、気に入らない嫁のことにも寛容になれてしまうのだから不思議なものだ。


 ロザンヌは茜色に染まる山の端を見据え、目を細めた。


 ——まあ良いわ。あの嫁のこと。今はまだ大目に見てあげましょう。


 名門のロッカジオヴィネ学園に通わせているのだし、夫が言うように何かの弾みで異能が芽吹くかも知れない。


 エリアーナの母親は、国王陛下のそばに仕える——『国王の』だった。


 嘘偽りを見抜くアビス一族のあのは「国の宝」だとも言われる。

 国王陛下と『国王の』の面前では、誰もが正直にならざるを得ない。


 国内の不正や腐敗を暴くことができれば、国民たちの国政への信頼を得られるばかりか、反乱や陰謀を未然に防げるだろう。

 国王陛下は自分を取り巻く家臣の忠誠心や信頼について疑う必要がなくなるばかりか、反逆者や陰謀者を簡単に見抜くことができるのだ。


 アビス一族の娘エリアーナとの縁談が舞い込んだとき、ロザンヌは歓喜の興奮にうちのめされたのだった。

 アレクシスとエリアーナの間に子が生まれれば、王の眼の血がジークベルト家にも継がれることになるのだから。


「……あれは?」


 夫の一声で我に返る。

 馬車はすでに広大な屋敷の敷地内に入っていた。ロータリーの馬車受けに見慣れない馬車や荷車が列をなして停まっている。

 どれも簡素な造りで、少なくとも貴族のものではなさそうだ。


 窮屈に並ぶ馬車の合間をぬうように進み、ロザンヌたちを乗せた馬車は屋敷の入り口から少し離れた場所に停めざるをえなかった。


 尋常ではない周囲の状態をいぶかしみながら馬車を降りれば、


「ロザンヌ、見よ。あれはそなたの……」


 見覚えのあるものを自分の馬車に運ぶいかつい男がいる。


「まさか。ビーナスの彫像ですわ!?」


 これっ、と大声をあげて男を呼び止める。

 女性の裸体を模した彫像をかついだ男が「あ〜?」と気だるげに振り向いた。


「そ……それを……っ、一体どこへやるつもり?」

「あん?」


 名だたる彫刻家が彫った貴重な美術品で、ロザンヌが日々うっとりと眺めながら癒しを得ているものだ。


「だから、それをどこへ持っていくつもりだと聞いているのです!」

「どこへって、見りゃわかるっしょ〜 俺の馬車ですよ」

「あなたの馬車ですって!? いったい……どうして」

「あい? 知らないっすけど、こんな《《ガラクタ》》。もう要らなくなったんじゃないっすかぁ? とにかく持ってけって言われたんでさ〜 」

「ガラ、ク……大切な家宝を……。要らないなどと、誰がそのような事をっ!」


 見れば屋敷の裏手から家具や調度品が次々と運び出されてくるではないか。

 何が起こっているのかわからず《《ア然》》と立ちすくむ。彼らの真横に、先ほどとは別のヒゲづらの男が何やら四角い大きなものを運んできた。


「あれも、そなたの気に入りの……」


 ロザンヌのぽかんと大きく開いた口が塞がらない。


「は……はすの、絵画ですわ」

 


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