尾行編-6
想像した通り、銀座は人で溢れていた。
銀座に来た事は初めてではなく、隆さんの知り合いの挿絵画家のギャラリーを夫婦で見に行ったりした事もあるが、その日よりも人が多く感じた。
路面列車が走り、近代的な西洋風の建物が多く、改めて自分の住む町は田舎の方だと思わされた。
向井は大股で早歩きで、ついて行くだけでも大変だった。兄妹にフリをしているせいかもしれないが、あまり私を気にかける素振りは見せない。洋装に比べて着物はちょっと歩きにくいのは事実だった。
隆さんは、混雑した道を歩く時は歩幅を合わせてくれたし、人とぶつかりそうになるとさりげなく守ってくれたものだが、向井はそんな配慮は一切なかった。
改めて隆さんが優しい夫である事を実感すると同時に、浮気を疑ってしまっ自分が心底恥ずかしくなってしまった。今日、帰ったら自分から謝ろうと心に決める。
「あそこの喫茶店だ」
大通りを離れ、人の少ない道に入ると私は心底ホッとした。
すぐに目当ての喫茶店があった。
小さな喫茶店であったが、窓のステンドグラスが豪華で都会らしい雰囲気を漂わせている。
「どうするの? 入るの?」
「ああ、入って清美嬢を待とう」
こうして私は向井と一緒に喫茶店に入った。
中は意外と広かく、客で賑わっている。私と似たような姿の女学生姿も見え、女性客が大半だった。洋装を着たモガも客として来ていて、やはり都会だと思わされる。
私と向井はすみの方の席に座り、コーヒーと紅茶を注文した。
「奥さんはコーヒー飲まないんだ」
「苦くて飲めないのよ。ミルクとお砂糖入れてもちょっと苦手だわ」
「あはは。奥さんは、意外と子供だなぁ」
何故コーヒーが飲めない事が子供である証拠になるかはわからないが、今もこうして女学生姿が板についている所を見ると、自分は子供なのかも知れないと思わされた。
近くのテーブルでは、モガが人気舞台の話をしていた。大きな声で話しているので嫌でも耳に入ってしまった。舞台は悲恋もので、吉原の遊女と書生の話だそうだ。許されない恋に溺れ、最後には心中してしまうという物語だった。「来世を誓って死ぬなんて泣ける舞台」だとモガ達はうっとりとした表情で語っている。
紅茶を啜りながら、そんな舞台はあまり見たくは無いと顔を顰めてしまった。
「奥様は悲恋ものの舞台とか見ないの?」
向井は、意外そうな顔をしてコーヒーを啜る。
「見ませんね。私も主人もあまり舞台が興味ないです。それに心中だなんて、クリスチャンとしてはあまり楽しくない話です」
「あれ? クリスチャンって心中禁止だったっけ?」
向井は色々と知識があるようだが、キリスト教についてはあまり知らないようだった。
命も神様が創ったもので、それを無碍にする事は罪にあたると説明する。
「それのイエス様を信じれば私達は天国に行けるから。心中なんてする必要は無いですね」
「そっかぁ。でも、本当に天国に行けるの? 罪を犯したら行けないんでしょ? 難しく無い?」
「だから、その為にイエス様が十字架にかけられて私達の罪を身代わりになって下さったんです。罪を認めて悔い改めれば……」
「なんか、難しいな」
私が一生懸命こんな話をしているのに、向井はあくびをしていた。思わずカチンとしてしまうが、普通の日本人の反応はこんなものだとも思う。実際、春人くんも似たような反応だった。
「俺は、輪廻転生がいいね。死後裁きにあうとか怖いよー。すっごい怖い。俺は食いしん坊だし、お調子ものだし」
そう言って向井はわざとらしく身震いをした。
「だって心の中で女性をいいなとか思うのも罪なんでしょ。隆から聞いた事あるよ。それはちょっと難しいね」
なぜか向井は私の目をチラリと見ながら呟いていた。
「でも、輪廻転生こそ確実にできる? そっちの思想では、別に偉大な神様のようなものはいるの?」
「そういえば居ないな。お釈迦とかかね? でも来世が虫や蛇になる可能性があるのは、ちょっと嫌だな」
意外と向井は、輪廻転生のついて疑問を持ちはじめていた。
「死んだらどうなるんだろうね…」
騒がしい喫茶店の中での向井の声は、やけに寂しく響いてしまった。普段は明るく人懐っこい向井でも死については想う事があるらしい。
そういえば私も隆さんも教会のみんなは、イエス様を信じているから、死について解放されていた。
だから、もう死んだ後の事については心配がない。キリスト教の葬式は、昇天式といい、意外と明るい雰囲気なのだという。私はキリスト教式の葬式には出た事はないが、隆さんや牧師さんが教えてくれた。
だからといって罪が消えたわけでは無いので、日々悔い改めなければならないので大変である事は変わりないが、寂しそうな向井の声を聞いているとお節介したい気持ちも生まれてしまった。
「向井さん、今度うちの教会に来てみない? もちろん、勧誘とかするわけじゃないけど、死に興味があったら是非」
「うーん、やっぱりちょっと勧誘っぽいよ、それ」
「え……」
「美人な子にそう言われて断れる男は居ないわな。うん、日曜日日は基本的に忙しいけど、気が向いたら教会に行ってもいいよ」
「本当?」
思わず嬉しい声をあげてしまった。勧誘っぽいと言われた事は、後々変えていかなければならないが、そう言ってくれるだけでちょっと嬉しくなってしまい、向井に笑顔を見せる。
なぜか向井は、顔が赤くなり私から視線を逸らしたような気がしたが、同時に喫茶店に清美さんと編集者らしき男が一緒に入って来たので忘れてしまった。