尾行編-3
紅茶のポットの中身がなくなってしまったので、向井は台所に行ってお湯を注いで来た。
しばらく紅茶を飲みながらビスケットを齧っていたが、私を護衛していたと言う話の真相を話し始めた。
「奥さん、本当にこの話知らないの?」
本当に初耳で、私は首を振る事しかできなかった。
「奥さんが通っていたミッションスクールの周辺の男子学生の中で、奥さんは美人だってかなり騒がれていたんだよ」
「嘘。そんな話聞いた事もないし、声もかけられた事もありませんよ」
ただ、学校の登下校中に視線を感じる事はあった。男子学生とも目があって逃げられる事は多かったと思う。当時は不審に思いつつ、気のせいだと思って無視していたが。
「だから、隆から頼まれていたんだよ。そっと登下校見守る仕事。実際な、奥さんに話しかけようとしていた変な男子学生もいてさ。隆は俺に依頼して心底よかったと泣いて喜んでいたよ」
「そんな……」
始めて聞く事実ばかりで、私は下を向く事以外できなくなってしまった。
「言ってくれればよかったのに。向井さんの事も全く気づきませんでした」
「まあ、気づかれないように尾行しながら警護していたしな。俺としては楽で高給な仕事だから、喜んでやってたけど」
「言ってくれれば良かったのに…」
そこまで自分を心配していたと思うと、涙が出てきそうだ。そんな影で動かなくても。
「心配させたくなかったからだろうね。せっかくミッションスクールの生活を楽しんでいるのに」
向井は笑っていたが、隆さんは真面目過ぎるもは玉に瑕だと思わされた。そこまで気を揉まなくてもいいのに。
「奥さんは意外と友達と寄り道ばっかりしてたからなぁ。隆も心配だったんだろ」
「それは本当にごめんなさい……。私、本当に何もかも知らなかった」
自分は想像以上に隆さんに護られて愛されているようだった。自分が美人と言われるのは信じられないが、隆さんがこれほど気を揉んでいるのは事実のようで否定できない。
そう思うと隆さんは、浮気なんてして居ないと思う。やっぱり自分は隆さんが好きすぎて、大事な事がわからなくなっていたのかもしれない。
ただ、疑問が一つ残った。
隆さんが口にした「清美」という女性は、一体誰なのだろう。
「だったら隆さんが会っているという女性は誰だったのかしら……」
「それは実は調べてき来たんだよ。前、奥さんの家に行った時、空気を壊すような事を言ってしまったからね。ちょっと調べてみたよ」
「え、本当?」
向井は驚いている私を無視して二階の方に行ってしまった。
しばらくして書類と雑誌を片手に戻ってきた。
再び私の向き合うようの座り、私に「清美」という女性のついて説明してくれた。
「隆が会っていたのは、田辺清美っていう女性作家だよ」
「田辺清美?」
その名前だけは聞いた事があった。確か女流作家のお嬢様だ。文芸誌にもよく顔が載っている。
向井はそんな私の気持ちを見透かすように文芸誌を見せてくれた。清美さんの顔写真とともに、作品の制作秘話などが語られていた。
今の時代は女性が作家になる事などとても珍しい。その事で文壇の大先輩からは差別されて苦労しているという話だった。また、女性のために女性が楽しめる文芸雑誌を作りたいとも意気込みを語っていた。
顔写真は、ほっそりとした洋装の女性が写っている。確かに細過ぎる面も気になったが、緑色のワンピースや短めの髪型は自立した女性に見えた。自分には一切無い要素なので、眩しく見えてしまった。顔も知的でどう見ても美人だった。
清美さんも作家だ。隆さんの同業者とも言える。和菓子屋の主人の話も総合すると、仕事で会っていたと言うのが真相だろう。
「実は、清美の足取りを追っていてね」
「え、何で追う必要があるんですか?」
「例の華族のお嬢様の浅山夏美嬢と清美嬢がどうやら友達みたいなんだよ」
「え?」
思わぬところで共通点があった。無関係な向井が、清美さんを調べている理由もわかってきた。
「清美嬢はこの当たりの住んでいるみたいだし、これから尾行しようと思ってる。どうだい、奥さん。一緒に清美嬢の尾行しないか?」
どうやら隆さんは浮気していないという結論で纏まりそうだったのに、向井に予想外の提案をされてしまった。
「え、どう言う事です?」
「実はですね」
向井は咳払いし、事情を説明する。清美さんは警戒心が強く、なかなか尾行しにくい相手らしい。尾行も一人でするより複数人でやった方が良いらしい。何でも相手は友達や恋人同士で尾行するとは思わないから、警戒心が緩むんだそうだ。
「という事で、奥さん。一緒に尾行しよう!」
「えぇ」
思わず頷いてしまった。
よく考えてみれば、仕事中に押しかけたのは自分である。
こうして向井の協力する事は断れそうになかった。
それにミッションスクールに通っていた時は陰ながら自分を護衛していた相手だ。恩がある。そんな人が困っていたら手を貸すのが真っ当な人としての努めだと思った。