幼馴染騎士様の恋慕にパティシエ少女は気がつかない
「おはようございます。マリーさん」
よく晴れたある日、ここメイナード国の王都にあるパティスリー「シエル」で働くソマーズ・マリーは同僚からの挨拶ににこやかに返す。
「おはようアリス」
「今日もあの騎士様お昼に来ますかね?」
いたずらっぽく笑うアリスにマリーは思わず苦笑いを浮かべた。
アリスのいう騎士様とはマリーの幼馴染に当たるエイジャー・アドルフのことだ。
彼は王都の警備を担当する第一部隊の副隊長を25という若さで勤めている今この街で1,2を争う人気の未婚男性と言っても過言ではない人物だ。
そんな彼はいつからか毎日のようにこの店にお菓子を買いに来ているのだから恋人のいないアリスが浮き足立つのも無理はないが…マリーとしては複雑な気持ちだった。
マリーがお菓子作りを始めたきっかけが、実は幼い頃の彼の言葉が原因だったからだ。
両親が仲が良く幼い頃から2人はよく遊んでいた。もっともアドルフの方がマリーよりも2つ年上だったため遊んでもらっていたという方が正しいのだろうが。
その日も午後からアドルフが遊びに来る予定だったためマリーは母に頼んでお菓子作りを教えてもらっていた。まだ出来は良くなかったからアドルフに振る舞ったことはなかったのだが、その時に作ったクッキーはうまくできたとアドルフに喜んでもらいたくて渡したのだ。
しかし、彼はそれを1枚だけ口に入れると2枚目は決して口にしてはくれなかったのだ。
「美味しくない?」
そして、不安で泣きそうになりながら聞いたマリーにアドルフは
「別に」
とだけ返した。
クッキーは持ち帰ってはくれたがあの様子ではきっと家に帰ったら捨ててしまうのだろう。
幼いながらにそう理解したマリーは深く傷ついたのだ。
しかし、そこで落ち込むだけの少女ではなかった。
マリーの両親は商魂たくましい商人だ。その性格は娘にも強く受け継がれていた。
その日からマリーはアドルフに会う予定を減らしお菓子作りを本格的に勉強し始める。
いつの日か彼に美味しいと言ってもらえるようなお菓子を作るために。
そうしているうちにマリーの実力はどんどん伸び、ついに王都の有名なパティスリーに雇ってもらえることになったのだ。
そんな経緯があったため彼には今でこそある意味での感謝はしているが、彼は今だにマリーの作るお菓子を美味しいと言ったことがない。そのくせ毎日のように買いに来る。彼はそこまで甘いものが好きなわけではないだろうからきっとどこかの女の子にでもあげているのだろう。どんな顔をして私が作ったお菓子を渡すのだろう。そう思うとマリーはいつも正体不明のモヤモヤに襲われるのだった。
「別に彼が来ても来なくても私には関係ないわよ。さ、お店開けるわよ!」
「はーい」
「これをふたつ。」
アリスが昼休憩に行ってしまった時間にふと聞こえてきた低く心臓に響く声にマリーは顔を向ける。そこには予想通り騎士服姿をきっちりと着込んだアドルフがいた。
名誉ある騎士様が毎日パティスリーに通い詰めなんて周囲の視線をもっと気にしたらどうよ?とマリーは心の中で思うが今は仕事中だ。きちんとこなさなければと思い直す。
「はい、こちらですね。いつも通り袋だけでいいのですか?」
アドルフはいつもリボンも何もつけない。
この店に来るお客様の中で8割くらいの人はプレゼントや手土産用としてラッピングを頼むのに。
今日選んだクッキーの袋は特にシンプルなのだからラッピングをした方が女性からは喜ばれるはずだが。
「ああ、そのままでいい。」
商品を受け取るとアドルフは特に何か話すわけでもなくすぐに帰っていく。
おそらくお昼休みにわざわざ来ているのだろうから時間がないのだろうが、マリーは自分と話すことがないのだろうと思っていた。
(それに他の女の子に渡すお菓子を幼馴染の女の子の店で買っているなんて、気にする人は気にするでしょうし…)
でも、それならこんなに毎日のように来ることないのに。
幼馴染であっても、いつも無愛想で無表情の彼のことはマリーにもわからないのだった。
「嫌です!!!」
仕事から帰ってきたマリーは部屋の中央に位置するリビングテーブル越しに座る両親を正面から睨みつけていた。
両親は娘に怒鳴られてもへっちゃらなようでどこか楽しそうな顔をしている。
「マリー、あなた幾つだと思っているのよ?いい加減もう時間切れよ。」
マリーとて分かっている。自分が行き遅れであることくらい。
でもそもそも結婚願望がないのだ。
仕事が楽しいし、強いて言うなら自分で開発したお菓子たちが可愛い子供だ。
今の生活にある不満といえばこうして度々両親から勧められる婚約の話と、常連さんたちに言われる「まだ結婚しないの?」「どうして結婚しないの?」と言う質問だけだ。
それにマリーは好きな人ができた事がない。身近にいる異性といえばアドルフだけだったし、彼は何を考えているのかよくわからないし、まして自分が彼に好かれるなんて想像もできない。
だからマリーは周りの女友達のように誰かを好きになったり、誰かに愛されたりすることとは無縁なのだといつからか諦めていた。
「私は仕事が、」
「マリー、ダメよ。うちの商会を継げなんて言わないけれど結婚だけはしてちょうだい。」
「それにだな、マリー。この方は結婚しても仕事を続けても良いと言ってくださっているんだ。」
その言葉にマリーの意思がぐわんと揺らいだ。
どうせいずれ誰かと結婚しなくてはならないのなら、仕事をしても良いと言うのなら、もう諦めるべきなのだろうか。18くらいから頻繁に婚約の打診を両親からされ続け、今日まで必死にかわしてきていた。
それももう潮時なのだろうか。
大切に自分を育ててくれた両親の願いを叶えなくては親不孝なのだろうか。
あまりに必死な目でマリーを見つめる両親にマリーは少しづつ押されてしまう。
「…お相手は?」
ため息とともにこぼしたマリーのその言葉に2人は目を輝かせ、気が変わったらたまったもんじゃないとでも言うように釣書を見せた。
相手の名前はジョージ・クレイグ。ジョージ侯爵家の次男坊だ。
彼は品行方正な上に整った顔立ちとキラキラと光に反射する金髪が人気でいつもご令嬢たちに囲まれているが、品のない浮名を流すわけでもなく慎ましく兄である次期侯爵を支えていると聞く。つまり完璧な貴公子とも言える人物だ。そんな人がなぜ自分に婚約を打診してくるのか、マリーはわからなかった。
「何かの間違いでは?」
むしろ間違いであってくれ。自分には荷が重い。ソマーズ家は豊かだが爵位はない。成功している商家というだけだ。どう考えても身分が釣り合っていない。その上仕事を続けても良いというマリーにとってこの上ない好待遇だ。どう考えてもおかしい。マリーは眉間にしわを寄せる。
「何言っているの!おかしくないわ!マリーに以前接客されて一目惚れしたそうよ。やるじゃない!」
「マリーは可愛いから当たり前だ!」
浮かれきった両親に何を言っても無駄であるとマリーは悟った。
お客様の顔なんていちいち覚えていないため接客したかどうかもわからない。
まあこれは何かの間違いで向こうが断るでしょうと勝手に心の中で結論づけ、
「あとはもう勝手にしてちょうだい」
と両親に丸投げした。
それから2週間がたちマリーはいつもどおり店で働いていた。
あれ以来両親からは何も言われていないためきっと婚約の話は無くなったのだろうと思っていたし、なんならその話自体忘れかけていた。
だからお昼休みにアリスが駆け寄って叫んだことがまさかあのことだなんて考えもしなかった。
「マリーさん!水くさいじゃないですか!なんで言ってくれなかったんですか!?おめでとうございます!」
「ちょっとアリス、なんの話?」
「何言ってるんですか!とぼけちゃって〜!」
「だから何がよ?」
「ええ?照れているんですか?」
「なんの話?」
「婚約!したんでしょう?」
「私が?誰と?」
「本当にわからないんですか?マリーさんがジョージ・クレイグ様と婚約したんでしょう?」
その時、店の入り口から何か大きなものが扉にぶつかるような音がした。
マリーとアリスが咄嗟に振り向くとそこにはいつものように騎士服をまとったアドルフの姿があった。
「あ、いらっしゃい…」
アドルフは数秒の間停止したかと思えばずんずんとマリーのそばまで近づくとその両肩をがっしりと掴み口を開いた。
「今の話は本当なのか?」
あまりに突然の出来事だったためマリーはしばらく呆然としてしまう。
アドルフと、異性とこんなに近づいたことなんて初めてだった。
女性とは違う力強さに心臓が警報を鳴らす。
「あの、ちょっと離れて…」
「それは本当だからか?婚約者に誤解されないためか?」
「え?いやだからちょっと離れてって」
「…じゃなかったのか」
「え?」
「結婚しないんじゃなかったのか!」
初めて聞くアドルフの大きな声に店は静まり返る。
他にお客さんがいなくてよかったとマリーは見渡して思う。
「えっと、私が接客しておくのでマリーさんはエイジャー様とお話してきていいですよ?」
マリーはひとまずあとで詳しく教えてくださいと言わんばかりに瞳を輝かせながら気を利かせたアリスの好意に仕方なく甘えることにした。
「アドルフ、お店で大きな声を出すのはやめてちょうだい」
「いや…悪かった。って、そうじゃなくて!結婚するのは本当なのか?」
「え?ああ、先日両親から釣書を見せられたけれど…」
「承認したってことか!?」
「話をするのも疲れちゃって、抜け出しちゃったの」
「結婚しないんじゃなかったのか!?」
またこの質問だ。
マリーは確かに結婚願望はない。以前アドルフにもどんな会話の流れだったかは忘れたがそのようなことを言った気もする。でもそれは数年前の話だ。まだ働き始めてすぐの頃で仕事を覚えるのに必死だった頃。
「別にしたくてするんじゃないけど、未婚のままでいるのは両親が許してくれないのよ。それなら仕事を続けてもいいって言ってくれている貴重な人と結婚するしかないのかなって。仕事は辞めたくないから…。」
「じゃあ本当にジョージ・クレイグと…?」
「私にもわからないのだけれど、もしかしたらそうなるのかもしれないわね」
マリーは困惑していた。
目の前で唖然とした表情を浮かべるアドルフが何を考えているのかさっぱりわからないからだ。仮に自分が結婚するとして一体彼に何が関係するというのだろう。ジョージ・クレイグとも特に親交はなかったはずだし、彼には何も影響がないはずだ。だからどうしてそんなに尋ねてくるのか見当もつかなかった。
一方で名誉ある第一部隊の副団長を務めるエイジャー・アドルフは動かない表情筋の下でパニックを起こしていた。
それもそのはずだ。ずっと一途に愛を捧げてきた可愛い可愛い2つ年下の幼馴染が自分以外の男と結婚をするというのだから。以前それとなく尋ねた時は結婚はしたくないと言っていたはずの彼女がだ。マリーは結婚自体が嫌なのかと思いアドルフは今までどうしたらずっと一緒に居られるのか考え続けていたというのに、仕事が続けられるなら結婚してもいいというのか?それなら今すぐにでも自分と結婚してくれ!そう叫びたい気持ちだった。それなのに。
よりによって美丈夫で性格も良いと名高い侯爵家の次男坊が相手だなんて。かたや自分は代々騎士の家系ではあるが爵位は無い。その上マリーと話す時はいつも緊張してうまく話せないようなつまらない男だ。敵うはずがない。
「ちょっと、アドルフどうしたの?」
何も言わないアドルフを怪訝な顔をして覗き込むマリーにアドルフはさらに何も言えなくなってしまう。
「いや…今日は帰る」
どうにかしてそれだけ言うとふらふらと店を出た。お菓子買いにきたんじゃなかったの?とマリーが呼びかけようとした時にはもう彼は扉から出たあとだった。
仕事終わり、話を聞きたがるアリスを適当にあしらってマリーは帰路を急ぐ。
「ちょっと!どう言うことなの!お父様、お母様!」
噂の出どころであろう両親を問い詰めるためだった。
「あら、マリー。おかえり。そしておめでとう」
「くっ…。ついに可愛いマリーがお嫁にっ!」
にこやかに浮かれきっている母と、今にも泣きそうな父がいっぺんに話を始めようとするのでマリーは慌ててそれを止め、冷静に話をしようと努めた。
「私がジョージ・クレイグ様と婚約したと同僚に言われたのですが?」
「ええ!だからおめでとう。この前マリーに見せたでしょう?その時勝手にしてって言っていたじゃない。だからジョージ侯爵に返事を出したのよ。それで一昨日正式に婚約が決まったのよ〜!私嬉しくってついお友達に話しちゃった」
マリーは頭を抱え、母の言った言葉を反芻した。
確かに自分は勝手にしてと言ったが、それはあのジョージ侯爵家がマリーとの婚約を承諾するはずがないと信じていたからだ。身分が違いすぎるし、ジョージ・クレイグ様ならもっと好条件の貴族の娘でもなんでも選びたい放題だろう。おおかた適当に年頃の娘がいる家に釣書を配りその中から条件の良いクレイグの好みの人を探すのだと、だから愛人候補でもない限り自分には関係ないとマリーは思っていたのだ。それなのにもう正式な婚約まで進んだと言うのか。本人に会ってもいないのに。貴族や王族の結婚なら式まで会わないこともあると聞くが、マリーはただの商人の娘だ。きちんと人となりを互いに知ってから婚約をするものだと考えていた。
「来週顔合わせをしてその時に式の相談とかしましょうね〜!楽しみだわ」
「ああ…ついにマリーが…」
「お母様、人に話す前にまず当事者に話すのが普通では?」
「あら、勝手にしてと言ったのはマリーよ?女に二言はないでしょう」
母に勝ち誇ったような顔でそう言われてしまってはマリーも言い返す言葉が見当たらない。
勝手にしてくれと言ったことはマリー自身も覚えているからだ。
「来週の顔合わせ楽しみね」
母の言葉にもうただ乾いた笑いを発するしかできなかった。
「一応はじめまして、かな?ジョージ・クレイグです」
日が緩やかに差し込むカフェの一角。
目の前に座るサラサラな金髪をなびかせるこの男こそがマリーの婚約の相手だ。
爽やかな微笑みを浮かべる彼を店中の女の子たちが頬を染めながら見ている。彼女たちにマリーの姿は写っていないのだろう。
「は、はじめまして。ソマーズ・マリーです」
クレイグは緊張してどもるマリーに
「実は以前君の働くお店に行ったことがあってね。その時接客してもらったんだ。だから僕にとっては2回目の出会いかな」
覚えてなくて当然だよ。人気店だもの。と付け足し少し照れたような笑みを浮かべる。
これはモテるわ…とマリーはぽかんと開きそうになる口を慌てて戻す。
しかし彼の言うことが本当なら、釣書を見せてきた時に母が言っていた一目惚れというのは真実なのだろうか、という疑問が頭に浮かんでしまいマリーはさらに上手く話せなくなってしまう。アドルフ以外の男性とまともに話したことがないから男性と何を話せばいいのかわからないのだ。
「緊張している?実は僕もだからお揃いだね」
気遣い方といい、この表情の作り方といいモテないはずがない。
それなのに彼はなぜ自分との婚約を承諾したのかますますマリーはわからなくなる。
「あの、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「ど、どうして私と婚約を…?」
クレイグはマリーの質問に少し瞳を見開いたあと少しして破顔した。
「え?ちょ、何かおかしいですか?」
「いや、なんでもない。君と婚約した理由だよね。さっきも言ったけれど僕は君に接客をしてもらったんだ。その時の君が忘れられなくて。だってすごく素敵な笑顔でまるで大きな花がパッと開いたように感じたんだ。それで君のことを調べた。あ、調べたって言ってももちろん家とか名前とかだけだから気を悪くしないでね。どうしても君のことを知りたかったんだ。そうしたら君はソマーズ商会の娘だとわかった。ソマーズ商会はうちと取引があってね。侯爵家としても利点があったんだ。だからすぐに兄と両親にお願いをして婚約を申し込んだ」
説明するのって恥ずかしいな、という彼は耳まで真っ赤だった。
マリーはそんな彼につられて頬を染めた。
「それで、その…もし、もしも結婚したとしてお仕事を続けてもいいと言うのは本当ですか?」
「ああ、もちろん。君と僕の出会いの場所になったあのパティスリーには感謝しているし何よりあんなに楽しそうに働く君から仕事を奪うなんて僕には出来ない。幸い僕は次男で侯爵家を継ぐのは兄だから家のことも君がやる必要はないしね。今ほど次男で良かったと思ったことはないよ」
2人はその後互いの話をしたり、他愛もない世間話をしたりして時間を共にした。
案外悪くないのかもしれない。マリーはクレイグと別れそう思った。
心のどこかはまだモヤモヤするがそれはきっと自分の人生において結婚という存在がどこか他人事だったからだろう。きっとそうだ。クレイグ様は優しくユーモアもあるし何しろ仕事を続けてもいいと言ってくれている。次男だから家のこともしなくて良いとも。こんな好条件きっと他にないだろう。結婚しない限り両親はマリーに婚約を打診し続けるはずだ。それならもう良いのではないか。諦めと、クレイグとなら上手くいくかもしれないという思いと、正体不明のモヤモヤを抱えながらマリーはベッドに沈み込んだ。
「今なんと?」
第一部隊副団長であるアドルフは目の前の自分の上司が発した言葉に耳を疑った。
「聞こえなかったのか?ジョージ侯爵家が麻薬の取引をしていると垂れ込みがあったんだ。」
アドルフの聞き間違いではなかったらしい。
つい先日自分の最愛の人を掻っ攫っていった憎い相手の家門に黒い噂があるというのだ。
アドルフは頭に血が上った。
彼なら、由緒正しいジョージ家の次男であるクレイグなら副団長とはいえ一介の騎士に過ぎない自分よりもマリーのためになるのではと、そう思ったから無理矢理にでも諦めようと思ったのに。
いや、正確にはマリーが自分のことを本当に何も思っていないということを痛感させられたのがショックで何も出来なくなってしまったというのが正しいのだが。
「それは、信憑性のある垂れ込みなのでしょうか。」
「はっ珍しいな。いつものお前なら怪しい奴はまず調べるというだろう。そう言わないのはお前の可愛い幼馴染のせいか?」
この上司にはお見通しらしい。
当たり前だろう。アドルフはきっと一生マリーを思い続ける。勇気のない自分を呪いながらそれでも彼女の幸せを願い続けるのだから。彼女の伴侶は憎いが、奴に黒いところがあるなんてアドルフとて信じたくはない。
しかし今は仕事中だ。たとえ上司にバレていても私情を堂々と持ち込むのはアドルフの美学に反する。
「……彼女のことは関係ありません。ただジョージ侯爵家は自分としては疑うところがなかったので。」
「まあ確かにな。だがそれが逆に怪しいとも言える。貴族なんてある程度法に触れないギリギリのことはしているものだ。それなのにジョージ侯爵家はそれすらなかった。一度徹底的に調べても良いと思う。」
上司の言葉は反論の余地もない。
あとアドルフにできることは調べても何もないことを願いだけだ。
心の中に浮かぶ大切な幼馴染はいつだって花が開いたように笑っている。
その顔が曇るのはアドルフにとって耐えられることではないだろう。
「報告します!調査の結果ジョージ侯爵とその長男サイラスが港町にて海賊と取引をしていることが判明いたしました!次の取引は一週間後とみられております!」
部下の報告にアドルフは頭を抱えた。
調査が始まって実に2ヶ月の時間が経っていた。
ここまででなければきっとあの垂れ込みは単なる噂に過ぎなかったのではないかと皆が思っていた時だった。
侯爵とサイラスが動きを見せた。侯爵家の領地の端にある港町にて2人が怪しげな倉庫に入っていったところを尾行していた騎士の1人が目撃したのだ。
その間にもクレイグとマリーの婚約の話は進んでいる様子だった。
アドルフは調査期間も「シエル」に通い続けた。
マリーとは相変わらず上手く話せないことが多かったが、毎日食べていたマリーのお菓子を食べられないのは耐えられることではなかったし、マリーの同僚であるアリスという女性から話が聞けることもあったので時間を見つけては店に足を運んだ。
「エイジャー様、このままだと本当にマリーさん人妻になっちゃいますよ?良いんですか?」
マリーの同僚は無愛想なアドルフの気持ちを知っていた。
なぜわかったのか聞いたところ気が付いていないのはマリーさんくらいだと笑っていた。
「…よくない。」
駄々っ子のようにそれしかいえないアドルフをアリスは呆れた目で見るのだった。
「それなら早く動かないと!マリーさん鈍いというかなんというかとにかく絶対にエイジャー様の気持ちに気がつかないですよ!」
「わかっている。」
「いや全然わかっていないじゃないですか!マリーさんが婚約してからもう2ヶ月経っていますよ!?マリーさんがクレイグ様を本気で好きになったらどうするんですか!今はまだ仕事を続けられる婚約相手だしって思っているみたいですけどこの先はわからないですよ!?」
「でも、マリーが幸せなら…。」
「ああもうじれったい!!マリーさん!」
そう叫ぶなりアリスは店の休憩室にずかずかと入り、食事をしているマリーを連れ出す。
「ちょっと、アリス?何かあったの?」
「良いから来てください!この人の相手お願いします!」
「この人って…へ?アドルフ?」
「良いですか?店のことは気にせずしっかり話してきてくださいね!?」
「ちょ、」
アリスは強引に2人を店の外に締め出すと扉を叩くマリーを無視しドアノブを押さえつけた。
何度叩いても反応が返ってこないためマリーも諦めアドルフの方に向き合う。
「アリスとなんの話をしていたの?」
アドルフは緊張でこんな状況にしたアリスに対し憎まれ口を叩きたい気分だった。
しかし目の前にはマリーがいる。
腹をくくって自分の気持ちを伝えるべきか…。
しかし、もだもだと悩むアドルフをマリーは不思議そうな顔で眺めていたかと思えば突拍子もないことを言い出した。
「そういえばあの日以来ね。私が婚約だなんて今でも信じられないわ。次はアドルフの番かしら?毎日お菓子をあげているお嬢さんとはどうなの?」
アドルフは何を言われたのか理解できなかったが、自分がマリーになんとも思われていないということは強く認識した。そしてその途端どうしようもない焦燥感と悔しさと愛しさがごちゃまぜになってアドルフの心をかき混ぜた。
「俺に結婚できると思うのか?」
「へ?え、ええ。アドルフは無愛想だけれど優しいところもたくさんあるもの。それを見てくれる方だっているはずだわ。そうじゃなくてもアドルフのこと好きだっていう方たくさんいると思うわよ?」
「マリーから見て、どう思うんだ」
「私?さっきから何が言いたいの?」
「そもそも…!さっき言っていたお嬢さんってなんの話だ」
「へ?だって、いつもお菓子を…」
「お菓子?自分で食べていたが?」
「そ、そうだったの…?」
マリーもマリーで様子のおかしな幼馴染に混乱していた。
眉間に皺を寄せていつもよりさらに低い声で話すアドルフは怒っているのだろうか?
自分の勘違いがそんなに不快だったのかしら、と首をかしげる。
「誤解が不愉快だったのならごめんなさい。」
「ああ。俺は好きな人の作ったものをただ食べたかっただけだから。」
何気ない一言だった。
突然の告白めいた言葉にマリーは固まり、発言した本人であるはずのアドルフさえも固まった。
(俺は今なんといった…!?い、いやでも本当のことだし良いか…?いや、良いのか!?マリーの反応はどうだろう…。怖いな、今更何いっているの?とか思われるのか…?)
(へ!?好きな人!?まさか私…?いやいやそんなの勘違いよね…?あ、もしかしてアリスかしら!そうよね、きっとそうだわ!最近2人で話しているの見るし。よかった。痛い女になるところだったわ…!)
「ち、違くて」
「だ、大丈夫よ?わかっているわ。お、応援しているから!」
2人が口を開いたのはほぼ同時のことだった。
そしてマリーの言葉にアドルフは誤解されたというのに気がつく。
「いや、俺は、」
「アリスが好きなのよね?アリスも今は恋人いないはずだし…」
「だから、違くて、」
「良いのよ?誤魔化さないで、アリス可愛い、」
「俺はマリーが好きなんだ!」
なかなか聞いてくれないマリーにとうとうアドルフがしびれを切らした。
先日マリーの婚約の話を聞いたときと同じくらいお腹から声が出てしまい2人の間には再び沈黙が流れる。
アドルフは心臓が喉まで移動したような感覚を体感し、立っているのもやっとな気持ちだった。
恐る恐るマリーも顔を覗き込むと、そこには自分と同じくらい真っ赤にしたマリーの頬が見えた。
「あ…だから、その」
「ごめんなさい」
アドルフが何を言おうか頭の中をフル回転させていた間にマリーはそれだけ言うと店のなかに入ってしまった。
取り残されたアドルフはしばらくの間ただ呆然と立ち尽くすしか出来なかった。
ジョージ侯爵家を調べる仕事と、マリーに告白し「ごめんなさい」と言われる大事件に挟まれたアドルフはもうどうしたら良いのかわからなくなりそうだった。
「ごめんなさい」ということは自分は振られたのだろうか?しかしそんなこと信じたくない。いや、結婚が決まっている相手に何を言っているのだという話なのだろうが。アドルフはあの日以来ずっとろくに眠れていなかった。
しかしマリーとまた話すには心の準備をする時間が必要だった。
だからこそ今はもう目先の仕事をいち早く終わらせるしかない。
実際、侯爵家の黒は決まったようなものだった。部下たちが張り込みをした結果彼らは定期的に港町を訪れて海賊たちと麻薬を取引している様子だった。侯爵と長男サイラスが海賊から麻薬を仕入れ、それを国内の高位貴族に内密に売りさばく。そうして貴族たちと共犯者というつながりと多額の金を得ていたことがわかった。
「ジョージ侯爵家は事業に失敗したとか災害で領地が貧しくなったとかそういう話はなかったはずだが、なぜこんなことに手を出したんだろうな。」
上司の言葉にアドルフも考える。
しかしその答えだけは誰にもわからなかった。
「良いか?油断するなよ。相手はあのジョージ侯爵家だ。護衛くらいつけているはずだ。関係者含め取り逃がすなよ!」
団長が第一部隊の面々に言葉を投げかけ一同は気を引き締める。
この日、海賊とジョージ侯爵家の取引があると調べがついているのだ。
アドルフが特攻隊長として先陣を切ることになっていた。
アドルフの頭に浮かぶのは大切な幼馴染の顔。
振られたとしても何よりも大切な女の子。
幼い頃からうまく自分の感情が表に出せず友達が出来なかったアドルフにいつも笑顔で話しかけてくれた子。
(俺はマリーを守る盾となる。もしこの先何があろうとも)
ジョージ侯爵とサイラスが捕まった場合考えられるのは二つのパターンだ。
一つは事実を全く知らなかった次男が家を継ぐパターン。これならばマリーはそのまま結婚となる可能性が高い。侯爵夫人となり家を支えることになるだろうが、マリーの仕事を続けたいという希望と家同士の婚約という約束だと後者の方が優先されるべき事項だからだ。しかしこれはクレイグが全く関与していないと証明された場合のみだ。
もう一つのパターンはジョージ侯爵家が取り潰しになるもの。クレイグが捕まるかは別にして侯爵家が爵位を剥奪された場合マリーの婚約はなかったものになる。もしそうなった場合、マリーは貴族の間では忌避される立場になるかもしれない。世の中には愚かにも関係のない立場の弱い人物のせいにして不吉だなんだとのたまう奴が多くいるからだ。
もしそうなっても…アドルフはどんな手を使ってもマリーを守ると心に誓っていた。
「突入だ!!!」
団長の言葉にアドルフが先陣を切り扉に体をぶつけ部屋になだれ込む。
「なんだ!?」
「騎士団!?」
「バレていたというのか!?」
「なぜバレた!?」
「おい逃げろ!」
「話が違う!」
「ずらかるぞ!」
「お前ら取り逃がすな!1人残らず捕まえろ!」
「はっ!」
海賊と侯爵家の護衛と侯爵とサイラスと第一部隊たちの怒号が飛び交い現場は混沌となった。
しばらくたち海賊たちと侯爵家の護衛たちはみな捕らえられ、立っているのはジョージ侯爵と次期侯爵サイラス、第一部隊の面々だけになっていた。
「ジョージ侯爵、その長男ジョージ・サイラス!麻薬取引の現行犯で確保する!」
団長の声に2人はがっくりとうなだれ力が抜け落ちたように座り込んだ。
その後、団長とアドルフの尋問により事件の全貌が明らかになっていった。
ジョージ侯爵家は数年前までは噂通りの品行方正な領地管理を行っていた。
しかし状況が変わったのは二年前のことだった。
侯爵夫人が原因不明の病に倒れたという。
その時に頼った医者がいけなかった。
その医者は侯爵家のお抱えの医者の紹介で知った人物だったが、医師としての資格を偽装した海賊の一味だったのだ。侯爵家から治療費をぼったくるために医者のふりをして周辺に近づいて虎視眈々とその時を狙っていた。
治療費がとうとう払えなくなってしまった侯爵家は医師に治療費の支払いをどうにか遅らせてくれないかと頼み、そして海賊との麻薬の取引を持ちかけられた。
ジョージ侯爵とサイラスは愛する人のため愛する母のため、その大義名分を前にして正常な考えが出来なくなってしまった。気が付いた時にはもう元に戻ることができなくなっていた。
侯爵とサイラスは最後にこう言った。
「侯爵家は取りつぶしでも構わない。でもどうかクレイグは罪に問わないでほしい。あれは何も知らないんだ。妻とクレイグだけは見逃してほしい。」と
結果としてジョージ侯爵家は取り潰しになった。
何も知らなかったとはいえども、この国に麻薬を持ち込んだ罪は重く、クレイグと病床の夫人は王都から遠く離れた地で暮らすことが言い渡された。しかしこれまでのジョージ侯爵家の功績もあり、夫人の体に障りがないよう十分な配慮がなされるとのことだった。
「婚約はなかったことにしてください。このようなことになり大変申し訳ありませんでした」
クレイグは目の前の元婚約者に丁寧に頭を下げた。
その体は少し震えているように見える。
「そんな…大変な時にわざわざ直接来ていただいて…」
マリーはこんな時にどこか安心してしまった自分を呪った。
クレイグが今一番大変なのに。自分は婚約がなくなったことにホッとしてしまったのだから。
クレイグのことは人として好きになっているが、恋人としての甘い思いは婚約の準備期間一緒にいても全く芽生えることはなかった。それどころか彼といるときはいつも無愛想な幼馴染の姿が頭に浮かんでしまうのだ。
そんな失礼なことはないと頭をふり自分の心の中を見ないふりしてきた。
「……マリー嬢、貴方のことを好ましく思っていたのは事実です。こんな時に卑怯かもしれませんがそれだけは覚えていて」
「クレイグ様…本当にありがとうございました。えっと」
「ふっ、大丈夫。貴方の心がどこにあるのか、僕は知っています。ずっと見ていましたから。もう会うこともないでしょうが……どうか自分の気持ちをきちんと見つめて幸せになってください。僕からの身勝手な最後の願いです。」
クレイグはそれだけ言うと丁寧に一礼して立ち去った。
最後まで彼は紳士にふさわしかった。
「マリー」
クレイグが立ち去った後、呆然と立ち尽くしていたマリーの前にアドルフが現れる。
「マリー、大丈夫か」
アドルフと最後にあったのはあの日以来だ。
彼がマリーを好きな人と呼んだあの日。
マリーはとっさにごめんなさいと言い立ち去ってしまったが、あの日のことがずっと頭にこびりついて離れなかった。
ずっとただの幼馴染であると思っていた彼の想いに戸惑い、そして自分の中の見えなかった感情に驚いた。
彼の告白が嬉しかった。
愛しているどころか何を考えているのかわからない人だとすら思っていた。
でも、幼かった時から彼に美味しいと言ってもらいたくて必死になった。
それがマリーの原動力だった。
ああ、私はきっとあの頃から。
でもそう自覚してももう遅かった。
自分はもうすぐ結婚するのだから。
だから、マリーはいつものように自分の気持ちに蓋をした。
でも、今は状況が変わった。
婚約は止むを得ない事情でなくなった。
でも婚約破棄してすぐになんて…そうためらうマリーの想いは先ほどのクレイグの祈りによって封じられる。
「アドルフ…あのね」
マリーの言葉にアドルフは体を強張らせる。
睡眠不足でうまく回らない頭が重い。
「なんだ」
「私、婚約なくなったの」
「あ、ああ」
「ねえアドルフ今なら言ってもいいのかな」
「何をだ」
「愛しているの」
どこか泣きそうな気持ちでマリーは精一杯の勇気を振り絞って彼女の幼馴染に自分でも最近まで気が付かなかった想いを口から振り絞った。怖くてアドルフの顔が見られない。
しばしの沈黙の後マリーの視界が大きく揺れアドルフの靴が目に飛び込んだ。
アドルフに抱き寄せられたのだと気が付いたのはそのさらに数秒後のことだった。
「あ、アドルフ?」
「本当に…?夢じゃないよな?マリーが俺を?」
「夢じゃないわ」
「ああ、幸せだ。ああ、どうしよう」
「アドルフ?」
マリーの体にズシリとした重さが加わったかと思えばアドルフはそのまま地面に倒れこんだ。
「ちょっと!へ!?しっかり!誰か!」
ここ数日の寝不足から一気に解き放たれたアドルフはそのまま1日眠っていた。
目が覚めるなりアドルフはマリーに結婚を申し込み、婚約期間を省略し出来うる限りの最短期間で結婚式を挙げた。
「もう二度とマリーさんを取られたくなかったんでしょうね〜」
式に来てくれたアリスがそうマリーを冷やかす。
大変だったんですからね!とマリーの知らなかったことも愚痴としてニヤニヤしながら教えてくれた彼女にはとても感謝している。
「アドルフ、ありがとう。私のこと好きでいてくれて」
「違う。お礼を言うのは俺だ。ありがとうマリー。幸せにする」
「いいえ、幸せにしてくれなくていいの」
「え?」
「2人で幸せになりましょう」
そう微笑むマリーをアドルフは慣れない手つきで抱き寄せた。
「ああ、幸せになろう」
結婚してからもマリーは仕事を続けることにした。
他でもないアドルフがそうしたらいいと勧めてくれたからだ。
アドルフは今でも毎日マリーのお菓子を買いにきている。
前と変わったのは家に帰った時に毎回買ったお菓子の感想を言ってくれるようになったこと。
「今日の紅茶のクッキーは香りが高く美味しかった」
「このケーキは何が入っているんだ?とても風味がいい」
評論家のようねと笑うマリーを見てアドルフもまた幸せな気持ちになるのだ。
幼い頃初めてもらったクッキーはもったいなくて一気に食べられず自宅に持ち帰った後大切に食べていたとアドルフはマリーと結婚してしばらくしてからようやく伝えたのだった。まさかそのせいで勘違いさせてしまいマリーを傷つけていたとは考えもしていなかったらしい。
「いいわよもう。そのおかげで今があるんだから」
そのことを知ったアドルフはマリーが呆れるほど謝罪を繰り返したのだった。
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作者豆腐メンタルなのでお手柔らかに。。。