サンタ ✖ トイレの男
食事中の方はごめんなさいm(_ _)m
朝の通勤ラッシュは、倉田浩二にとって苦痛以外の何物でもなかった。
混み合う電車内は不満が溢れ出しており、ぎすぎすした雰囲気が充満している。
グルル、獣が小さく唸るような音が浩二の腹から鳴る。誰も気に留めないのは、そこまで大きい音ではないからなのだが、当の浩二にしてみれば緊急事態のサイレンが鳴ったに等しい。
脂汗が額に浮かび、血の気が引いていく。浩二はつり革に掴まりながら、必死に流れる景色に集中して気を紛らわそうとするが、これまでの経験上それで乗り越えられた試しはない。
ギュル、と再度腹が鳴る。同時に言い表せない焦燥感に襲われ、浩二は目を瞑りながら神に祈った。どの神なのか分らないが、とにかく祈らずにはいられない。
幾度も濁流が崩壊しそうになり、肛門括約筋を引き締めながら浩二は開閉ドア前まで行く。本来は降車する駅ではないが、後三十分も乗車し続けるのは不可能だと判断した。決断は早いに超したことがない。遅れてしまっては大惨事だ。
電車が停止しドアが開くと、浩二は一歩一歩慎重に歩き出す。大事なのはリズムだ。緩急をつけてしまうと、バッドエンドが早まるリスクを増大させる。
浩二は着実と改札前のトイレに向かって行く。通勤間の駅にあるトイレにはすべてお世話になっている為、最短のルートを覚えてしまった。致し方ない事とは言え、労働に関係のない事柄を覚えるのは、酷く気が滅入る。
トイレは浩二が予想していた以上に混んでいた。朝方は大体混むが、それにしてもトイレ内で収まる程度だ。だが今朝は、列がトイレ内から飛び出している。見る限り、浩二の前には五人が並んでいた。
(おいおい勘弁しくれよ。この駅はトイレの数が少ないからか? 頼むから並んでいる奴は、全員小をしてくれ)
一人、また一人と列が前に進む。この永遠とも思える時間は、あらゆる物理法則を無視しているに違いない。次第に限界が浩二を迎えにくる。この間に、何度出してしまおうかと考えただろうか。それを阻むのは、人間としての尊厳か、はたまた周囲からの恐れか。どちらにせよ、限界だ。この状況でまだ頑張れると言ってくる奴がいたら、全力で殴ってやる。
「すみません、小ですか? 大ですか?」
浩二は見知らぬ三人の男性に声を掛ける。二人の男性は小だと答え、一人の男性が大だと答えた。浩二は大だと答えた男性に向かって、再度話し掛ける。最早、話し掛けている男性が老若なのかすら判断がつかない。
「申し訳ありませんが、順番を代わっていただけませんか?」
男性は鬼気迫る浩二の顔を見て、あっさりと譲ってくれた。恐らく事情を察してくれたのだろう。誰しも一度は経験していることだ。もしくは、脂汗が顔から滴り落ちて目が血走っている男には関わらない方が賢明だと判断したからかもしれない。どちらにせよ、浩二は譲ってくれた男性に多大な感謝を述べた。ここが外国だったら、チップを惜しみなくはずんでいたに違いない。
後は四つある個室が空くのを待つだけだった。ただ、浩二はふと嫌な想像をしてしまう。それは、個室で用を足すわけでもなく、ただのプライベートな空間として使用している輩の存在だ。この輩が一番質が悪い。個室を一つ潰すだけに飽き足らず、使用時間がやたらと長い。よって、浩二はそういう輩に対しての憎悪が凄まじいほど募っている。
(早く出てくれ! 頼む頼む頼むお願いします)
ガチャと一つの個室から男性が出てくる。浩二は急いで空いた個室に滑り込むような形で入る。
スーツのベルトを力任せに外し、パンツを下ろすと同時に肛門括約筋が緩む。慌てて便座に座り、交響曲を数十倍汚くした音が個室内で響く。一度トイレを流して、
第二波が来ないかを見極める。目を瞑り、静かに己の体と問答を行う姿には、先程の危機を脱した愉悦など微塵も感じさせない。歴戦の猛者が相対するだけで強さを感じ取れるように、浩二もまた、腹の調子を知るという一点においては、猛者と呼べるのかもしれない。
幾らか不安が残るが会社までは保つと判断した浩二は、ウォッシュレットを用いて尻を拭く。するべきことが終えたら直ぐに個室から出る。長居は無用であり、はっきり言ってしまえば悪だ。
洗面台で手を洗い、ハンカチで拭きながら先程順番を譲ってくれた男性に再度お礼をしようと思ったが、その男性は居なかった。恐らく、個室に入ったのだろう。ありがとうございました、と個室に向けて心の中でお礼をする。
電車を待ちながら、浩二はいつまでこんな日々が続くのかと考え、気分がみるみる沈んでいく。今いる駅だって、通勤では止まらないはずの駅だ。
本来ならば快速電車を利用するのが効率としては良いのだが、駅ごとの間隔が長いために各駅停車の電車を利用している。それに、今のような不測の事態に備える為に、始業時間の一時間前に到着するよう逆算して電車に乗っている。おかげで遅刻はないが、朝がやたらと早い。
いつから生活の中心がトイレで回っているのか、浩二は思い出せない。少なくとも、幼少期はまったく気にしていなかったはずだ。初めて危機感を抱いたのは、高校の期末テストの時だった。
昼食を終えてから始まった世界史のテスト。突発的な腹痛に、浩二は動揺した。そこで手を挙げてトイレに行けばいいものを、何を思ったのか浩二は耐えることを選んだ。黒板の上にある丸時計を一分毎に確認し、そして絶望する。名前だけ記載されたテスト用紙は汗でふやけて皺になり、点数と用紙の両方の意味でボロボロになった。
その記憶が浩二を消極的にさせた。健康的な生活が理想なのは分っているが、朝食を取ることに抵抗がある。家にいる間に便意を催せるのなら一番良いのだが、浩二の場合は決まって、外に出てから催すのだ。やがて朝食を取る習慣はなくなり、便秘と下痢を繰り返す負のスパイラルに陥った。
社会人になって二年目になるが、営業職である為、常にトイレがある環境ではないストレスが更に浩二の体調を悪化させている。この悩みを打ち明けると、同期にはトイレの神様とからかわれた。
一時期、転職を本気で考えたこともあったが、そもそも屋内で作業を行う業種は限られており、経験も資格も何もない浩二には無謀な夢であることが分かった。それに、今の会社は上司や同期など周囲の関係性に恵まれており、仕事にもやりがいを感じている。トイレの為にこの仕事を辞めるなんて、本当に人生が狂ってしまうだろう。
「はぁ、誰か無臭のオムツでも開発してくれないかなぁ」
「えっ? そんなのあんの?」
浩二は後ろから声が聞こえ、驚いて振り向く。
そこにはサンタクロースの姿をしたおっさんがおり、気怠そうに無精髭をいじっている。何というか、全体的に覇気が感じられない。
「えっ? サンタ? この時期に?」
「ああ、俺はサンタだが、それよりもオムツって何だ?」
それよりもって……浩二は周囲を見渡すが、ホームではまばらな人の数がこちらを窺っている。明らかに浮いているこの状況に、浩二は戸惑いを隠せない。
「なあなあ、オムツって赤ん坊が使うやつだよな? 何でお前がそんなこと考えてんの?」
なぜこのサンタは、オムツにこれほど執着してくるのだろうか。浩二が相手をしようか迷っていると、サンタが更に畳みかけてくる。
「ああ、じいちゃんやばあちゃんがオムツをする場合もあるのか。でも、お前はまだ若いから関係なくね?」
「関係ありますよ!」
浩二はいかに今の状況が大変なのかを、目の前のコスプレサンタにとうとうと語った。通勤時間の恐怖といつ暴発するかという怯えを交え、それを共感されない苦しみも話した。
「お、おう。でもそれってさ、会社の近くに住むことで解決するんじゃね? お前、今ドコに住んでんのよ?」
「……千葉の実家です。通勤できる距離なのに、一人暮らしって変でしょ?」
「はあ? 会社を辞めるって考えたことがあるのに、一人暮らしを考えたことがないわけ? それってどうなのよ? 社会舐めてない?」
「でも、一人暮らしは何というか、怖いというか、一人じゃ不安なんですよ」
「何が? 家族がいれば腹の調子は良くなるわけ? 家族が代わりにお前の腹の痛みを引き受けてくれるわけ?」
「……食事も用意してくれますし、お腹の調子を整える為には健康な食生活が必要です」
「お前さっき、朝食は取らないって言ったじゃん。つまり、どっちにしろ健康的な生活は送られていないわけだ」
「あなたには分らないんですよ! 朝食を取って電車に乗る恐怖が!」
浩二は正論を説くおっさんに、苛立ちながら言い返す。
「まあ、お前の言う通り、俺にはわかんねーな。俺はサンタだから糞はしねーから。代わりにプレゼントをやるよ」
糞をしない? サンタってそんな存在だっけ? 浩二が疑問に思っていると、サンタは一枚のオムツを差し出してくる。
「わり、お前のプレゼントを考えてると、どうしてもオムツになっちゃうわ。一回、履いてみれば? お前の性格から考えて、どうせ一度も試したことないだろ? 別に漏らせって言ってるわけじゃないぞ、漏らせる準備はしてあるって考えろ。要は気持ちの問題だな」
浩二はオムツを手に取り、しばらくそれを見つめる。ホームからアナウンスが鳴り、電車が到着する。
「乗らねーの?」
「……トイレに行ってきます」
ホームから踵を返し、浩二は去っていく。
――――
線路を歩きながら、ヨシオはふと考える。
「なあ、俺がプレゼントを渡す奴って、みんなどこか変じゃね? もっと普通の人っていないの?」
「普通って何ですか? それぞれがその人間にとっての個性ですよ。一括りにしてはダメです。最も、ヨシオが変なんて言う資格ないですけどね」
「……もう呼び捨てには慣れたわ」
「それは進歩しましたね、おめでとうございます。あと、後ろから電車が迫っているので轢かれないで下さいね。余計な遅延を起こして人間の皆様を困らせないで下さい」
ヨシオは慌てて線路から離れる。轟々と走る電車が傍で通過した。