・うみはみんなのもの
・うみはみんなのもの
「ごばごぼごぼごぼ」
人魚。お伽話の花形。可憐で薄幸な乙女のシンボル。下半身が魚で上が人間。脇腹から胸に掛けて、呼吸用のエラがある。深海でも水圧で死なず、大半の水中生物より早く泳げる。
目は魚眼かと思いきや、解像度が高いだけで見え方は人間準拠。だけどピントの合わせ方、目を凝らすってのが、結構すごい。
というか人間以外の種族は目の見え方、焦点の合わせ方の振れ幅がかなりある。これが慣れないとまあ気持ち悪い。
「ごぼごぼごぼごぼ」
耳に水が入ってるのに、いやによく聞こえる。空気振動を知覚し易いのだろうか。音に乏しい海中のほうが、音に敏感というのも奇妙だ。
これが変身してみて感じだ、身体的な特徴。
「ごばっごばごばごば。ぼっ」
歌が得意で船を惑わすというが、呼吸の都合上やろうとすると、首だけ水の上に出す必要がある。そして水中で喋ろうとすると、今みたいになる。
目の前の人魚、亜麻色の髪のマーサさんのお宅に、俺はお邪魔していた。水中植物の根で編まれ、貝から切り出した石材で建てられた家。家っつーか庵っつーか。
ここに来た理由は灯台の光の件で、人魚側の感覚を知り、ミトラスへ伝えるためである。
「ぼうーばべべ」
事情を話して休みの前日から泊めて貰った。また人魚に変身するために、彼女から全身を隈なく見せて頂いた。同性とはいえ役得である。であるが。
「ばばびばびばば?」※わかりましたか?
「ばっばびばばんべえ」※さっぱりわかんねえ。
「ばばっべばぶぼべ?」※わかってますよね?
この調子である。
ちなみに周囲は夜中なので真っ暗だ。一応海底のあちこちに、微かに光るクラゲのオブジェが配置されているが、役に立っているかは疑問である。
屋内はというと、ドアはスライド式で個室はある。テーブルや椅子もある。しかし台所はない。食器もない。当然ながら『水中ではない場所』が存在しないのだ。
「ぼあぼべぼぶばいばぼう」※じゃあこれを使いましょう。
そう言ってマーサさんは、図書館で借りられる筆談機みたいな板切れを取り出した。白いまな板みたいなそれに、油性ペンにしか見えない物で、文字を書いていく。
『これなら話ができますね』
差し出された板に書かれた内容を読んで、読んで、これ消していいのかな。一枚しかないし、裏面にでも書くか。
『元々の人魚なら、そこまで不便はないのですが』
自分の前の文章を指でぐしぐしと消してから、新しい文章を書く。アナログ。
『元々の人魚ってどうやって話すんですか』
『イルカやクジラのように声を出します。それだけでだいたいのことは伝わります』
歌というより超音波。人間にも聞き取れそうではある。
『地上みたいな空間ってないんですか』
『魚介類の養殖場くらいですかね』
人魚ってその気になれば肺呼吸も出来るし、下半身が魚のままでも、陸上で生活出来るらしい。だからと言って私生活にまで、地上を作ろうとはならないか。
俺は腕を組んで考える。貝殻ビキニの感触が痛い。これが人魚の正装だと聞いたがたぶん嘘。でも相手の機嫌を損ねたら面倒なので、黙って従う。
人魚の体は不思議だ。鼻で水を吸いこんでしまっても、痛くなったり咽たりしない。肺に流れた水は、エラ呼吸を通じて体外に排出される。胸で息をしてる感じだ。
逆に飲んじまうと吐く。いやこれは元からか。
『とりあえず、照明がどのくらい明るいかを体験して、それで帰ります。わざわざご協力ありがとうございます』
『私もしばらく地上暮らしが長かったので、久々に帰ることになりました。気兼ねなく使ってください。質問があればそれもどうぞ』
無言の静かなやり取り。対面してのチャットがこんなにも侘しいとは。まあいいこの際だ。人魚のことを少し知っておこう。仕事の話ばかりでも息が詰まるし。
『ごはんはどうしたら』
『この時間じゃやってないけど、養殖場に行けばご飯が食べられます。それ以外は自分で取るしかないです。養殖場は地上から、お野菜や果物の仕入れもやってます。あそこだけは地上と同じ空間だから、色んなご飯が食べられますよ』
『美味しいですか』
『どちらかと言えば、自分でやらずに済むから楽です。楽が一番です』
『お金は』
『一食目はタダ。お代わりは有料。地上のお金で払います。最初はお魚を奪われるのを、お金で誤魔化されてました。でも今はお金いっぱいあるから、人間が取られたら困る場所を買ってます。そうしたらちゃんとしてくれるようになりました』
人間のご飯が美味しいから、そのようにしたって訳じゃないと。ていうか人魚の経済活動が不穏。人間側に非があったんだろうが、大丈夫かこれ。
『分かったありがとう。ところでトイレは』
俺はデリケートな問題を、何気ない話題の切り替えに混ぜ込み、それとなく聞いた。現在人魚に変身しているので、現在股間の穴は一つである。
資料を見た限りでは、出る所が肛門一箇所なのに、直腸も膀胱もある。だから尿意と便意は別々に存在している。
『要るんですか』
予想外の答えが返って来た。
『というと』
『おしっこは地上と違って、広く留めておけます。自分たちの場所だって長く示せます』
金魚のなわばりみたいなこと言ってる。香水が悪臭防止以外の用途、つまり化粧に使われることが、存在感の主張であることを考えると、そこまで違いはないのか。
『うんこは』
『それは別にいいです』
俺は慌てて筆談機を引っ手繰ると、急いで発言を止めた。皆まで聞かずとも良いだろう。このまま長時間居れば、それを目の当たりにすることになる。或いは俺も。
生まれて死ぬまで海の中、というのはそういうことなのだ。地上の土と同じく、生のためにあらゆる不浄を内包しているのだ。海は広いな大きいな。
程度の差はあれガンジス川※なのだ。市民プールで小便する奴が、自分の小便に浸かっているように、海は同じくして、その更に上のスケールなのだ。
※きたないものの代名詞。
『もうそろそろ照明の時間ですね』
しばらくしてマーサさんが言った。うんこで話題を切ってから、次が出なくなってしまった。便秘のような沈黙が破られたのは、皮肉にも仕事の話であった。
『天井も水草なんですね』
『流木を積んだ物もありますよ』
などと言っていると、周囲が急に明るくなった。あまりに平坦な表現だが、そうとしか言えない。黒々としていた海底は、一瞬で乳白色に塗り潰された。昼間の太陽による明るさではない。
『ね、かなり眩しいでしょう』
『窓の光を遮っても、天井がもう』
陽光を透かした木の葉のように、美しく輝いている。これはこれで感動的だけど、寝るときには只管邪魔だな。
『昼間になったのとは違いますよね』
『はい。あちらを見てください。奥のほうです』
マーサさんは俺を連れて、窓の外の真っ白に染められた海底を指差した。灯台の明かりの側面、照らし出されることのない、本来の世界。
『……』
光の向こうに闇が見える。不思議な光景だった。
神秘を見るか、恐怖を覚えるかは感性が分かれる。
『これでもこの前よりは控え目です』
困ったような顔で古参の人魚は言う。恐らく本当なのだろう。ウィルトも一日で照明に手を加えたのは流石だが、まだまだ問題の解決には至りそうにない。
そもそも灯台の光って明るくてなんぼだから。最低限まで出力を落とすしても、眩しかったら詰みである。
今度ウィルトにそのことを伝えておこう。もしもそれで駄目だった場合、次のアプローチへの切り替えを促せるだろう。欲張って上から下げて行くより、話は早いはず。
『これ夜の間ずっとですよね』
『はい。でもだからって、今度は海の中を真っ暗にしないでくださいね。あくまでも夜の海なんです。私たちには見えますから、見えなくされたら困ります』
案外鋭い指摘が飛んできた。これはつまり墨でも撒いて、物理的に見えなくするなってことだろう。環境破壊にも釘を刺されてしまった。
問題の解決のために、海底に工作をする線も身長を期さねばなるまい。海面上の光が下に届かないようにするには、どうすれば。
『せめて眩しさを感じない道具でもあれば』
『それと枕とかベッドが欲しいですね。人魚用の』
『え、じゃあどうやって寝てたんですか』
『その辺に浮かんだり沈んだり』
雑魚寝か。言われて見れば寝具の類も無かったな。あってもベショベショになるだろうし。
『寝ることを追求するというのは、人魚にはなかった発想ですから』
『分かりました。伝えておきます』
かくして、俺の半日人魚体験(夜の部)は終了した。貴重な体験であり、貴重でもしたくない体験はせずに済んだ。後で皆にこのことを伝えなくては。
余談だが俺が帰宅したとき、ミトラスが『お風呂でよく体を洗ってね』と言ったので、こいつが俺を海へ差し向けたのに、別の意味があったことを察した。覚えてろ。
まあでも異種族とはいえ、異性の範疇で垂れ流しの目撃とか。確かにちょっとつらいもんな。俺も今度から海に行ったら、あんまり人魚のほうは見ないことにしよう。
誤字脱字を修正しました。
文章と行間を修正しました。




