迷愚霊処
辺りは暗く、サイレンの赤い光が断続的に放たれる以外に、全ては静まっていた。パトカーは月を乱反射させる黒い海沿いの道を下る。刑事の隣に座る少年の髪から雫が滴り落ちて、ポタポタと重苦しい音を車内に響かせていた。
「暖房を効かせてくれ」
刑事が運転席に合図を送る。蝉の声も絶える夏の終わりの夜は、濡れた体を冷やすには十分だった。通気孔から生ぬるい風が漏れ始めたとき、
「刑事さん、ボクは夢を見ていたのでしょうか」
少年が澱のように濁った瞳をしばたたかせて呟いた。震える肩に、刑事はそっと手を置いた。
午後二時発の列車は山間部を抜けて、大きな川を横切る橋を渡るはずだった。車体が突然に小刻みに揺れ、レールを外れた車輪の金属音が空気を切り裂いた。
雲の漂う青空が、半回転して静止する。横転した車両は、いびつな螺旋を描いて、川面に吸い込まれていった。
事の顛末が警察署に伝わったのは、列車が落下してから一時間も過ぎたころで、山奥だったことが災いして、発見が遅れていた。
第一発見者の農夫は、山仕事の復路にて、水没している電車を確認したが、連絡手段を持ち合わせておらず、帰宅して電話をかけるまでが長かった。
「刑事さん、こっちだよお」
浅黒い肌の農夫に先導されて、刑事ら一行は藪をこいだ。川縁に出ると、異様な光景が広がっていた。
「これは、一体どうなっているんだ」
刑事は言葉を失った。窓ガラスは割れ、へしゃげた車体がとぐろを巻いていて、微かに焦げたような、油の匂いが漂っていた。
遥か上空を仰げば、鉄橋の中央では柵がねじ曲がり、大きな穴を開けていた。
「あそこから落っこちたんだ、まず助かるまいな」
「それにしてもひでえ匂いだ」
村人や消防が口々に囁き、途方に暮れる。刑事は舟を出させて、潰れた列車を調べることにした。変形して隙間のない金属の塊をよじ登り、刑事はやっと車内へと通じる窓を発見した。
車内は薄暗く、懐中電灯を点けた。
「うわっ」
白い肌には幾つもの痣がまだらになっている、目を見開いたまま亡くなっている女性の顔があった。伸ばされた手は何かを掴もうと必死だ。もう片方の腕のなかには、小さな頭がのぞいている。
変形した車体に挟まれている女性を、人力で外に出すのは困難であった。見捨てるつもりはないが、それ以前に彼女の脈は一切停止していた。
赤黒い血飛沫がそこかしこにへばりつき、これを地獄とせずに何と例えようか。思わず顔を背けずにはいられなかった。
時刻は午後四時を回ったところで、夜の闇が着実に忍び寄っていた。光が閉ざされる前に、出来る限り事故状況を子細に記録した刑事らは、最寄りの駅へ戻ることにした。
駅舎に一人残った刑事は、当局への報告資料を作成していた。乗車記録や、線路の点検表に目を通していた。赤い夕日がホームを茜に染めていた。
いつからだろう。ズボンから水を滴らせ、ずぶ濡れの少年が線路に佇んでいた。
「おい君、そこは危ない。早くこちらへ来なさい」
刑事の忠告に耳を貸さずに、少年は黙ったまま動かない。少年の唇は青く、眉間の皺はあまりに深く、生来から刻まれているかのようだ。
腕に触れても抵抗はなかった。氷のように冷たい少年の肌には驚かされた。急拵えだが、仮眠室の毛布を拝借して与えた。刑事は机の上の受話器を取って、
「万が一のことがあるかも知れない。とても信じられないが、事故の生き残りの可能性がある」
要件を伝えた刑事は電話を切った。そしてホームのベンチに座り毛布にくるまる少年を手招いた。
「迎えが来たら署まで同行してもらう。それまではここで一緒に待とう」
山際から空が紺色に変わっていく。
パトカーがやってくるまでには時間がかかるから、刑事は慎重に聴取することにした。
「君はどこから来たんだ」
少年は結んだ唇を頑なに閉ざしている。もしかすると耳が不自由なことがある。或いは事故に巻き込まれ、心に傷を負ったのではないか。
「ところで怪我はないようだけれど、横になってはどうだい」
少年はかぶりを振った。そこで刑事は詰問を止め、事故の状況を思い出すことにした。
金属の車体が変形する高さから落下したとして、少年にこれといった外傷が見当たらないことは刑事に困惑せざるを得ない。
会話の糸口を掴めないまま、迎えのパトカーが来てしまった。二人を乗せて駅を離れ、海沿いの道を走っていく。空調のくぐもった風が荒く吹き付けると、凍った少年の唇を割った。
「乗っていた車両は、一番後ろでした。ボクの他には、老夫婦、親子連れ、それと若い男女がいました」
確か記録によれば列車には、十名の乗客がおり、八割が最後尾に集まっていたということになる。
「乗客はみんな橋からの眺望を心待ちにしていました。ボクも例外ではありませんでした。これから悲劇が起こるとも知らずに」
刑事はごくりと唾を飲む。乾ききらない少年の髪は、艶やかに鈍い光沢を帯びている。
「列車が始発駅を出て、それは賑やかでした。両親と語らう娘さんは、旅が楽しみで仕方なかったのでしょうね、笑みが絶えませんでした」
少年は懐かしむように呟く。
「ああ、あれは地獄でした。脱線した車両は、本来の役目を失って、真っ逆さまに川面へぶつかっていくのです。先頭、二両目と、順番に」
潰れた金属の塊が放つ異臭と、真っ赤に染まった車内を思い出した刑事は、深くため息を吐いた。
「とうとうボクたちの落下するときがきました。老夫婦は足がすくんで、手摺にもたれて動けません。親子連れと、若い男女は車両の最後部へ駆けました。橋から傾き、滑るように柵を割る正にそのときです」
少年の青い唇の端が僅かに痙攣している。
「垂直に落下する車内では、信じられないことが起きました。あろうことか若い男女は、助かりたい一心で親子連れを踏み台にしているのです。娘を守るので必死な両親の背中を足蹴にして、二人組は最後部に留まろうと躍起になっていました。すぐそばで、老夫婦が歯を食い縛り、親子連れの服を引っ張っています」
車内でもがく人々の、血走った眼と、他人を蹴落とし、すがってまで生きんとする執着心に少年は傷ついたに違いない。
月を隠していた雲が一瞬途切れ、パトカーの内部を明るく照らす。少年は口角をひきつらせていた。刑事の背中に冷や汗が流れる。
笑っているのだ。少年は濁った目をむいて、不気味な笑みを浮かべている。
「ふふ」
阿鼻叫喚を目撃し、気がふれたのだろう。そうでないとしたら、
「おかしいですか」
怪訝そうに顔をしかめながら、少年は静かに言い放った。
署に到着し、少年を待合室へ通したところで、刑事は一服するために喫煙所へ向かった。
「ちょっと」
パトカーの運転手に呼び止められて、刑事は煙草をポケットにしまった。
「これを見てください」
後部座席には、少年が座っていたあたりに水溜まりができていた。濡れた髪や衣服からポタポタとこぼれていた水滴が、アスファルトに続いている。署から伸びる蛍光灯は、地面に広がる真っ赤な鮮血を明らかにしていた。
少年の肩に触れていた刑事の掌は、黒く凝固した血液がこびりついている。慌てて署に戻ったときには、少年は忽然と姿を消していた。
「くそっ、どこに行ってしまったんだ」
「職員たちは誰も気が付かなかったそうです」
「あの少年はひょっとすると、もうこの世にはいないのではないか」
刑事は口走らずにはいられなかった。不気味な少年は、列車事故の生き残りではなく、幽霊だったのではないかと。
「そんなまさか」
パトカーの運転手は驚いた表情で、
「彼はトイレに行っています」
「それは本当かい」
刑事は耳を疑った。
「ええ、ついさっき会いましたよ」
「では君が探していたのは」
ふいに背中を引っ張られた刑事はよろめいた。
「ああ良かった。そこにいたんですね。早く病院へ参りましょう」
ほっと胸を撫で下ろしたパトカーの運転手の瞳には、刑事の背後に佇む痣だらけの女性の姿が映っていた。
ひやりとして頂けたら
作者冥利につきます




