二話 自称千年生きた吸血鬼
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今日は少し風が強い。運ばれてきた雲が満月を隠す。それでようやく眩しくなくなったのか、レゾンはいつもかけているサングラスを外した。
モデルのような体型には若干不釣り合いな、繊細で神経質そうな相貌があらわになる。改めて見ると、顔立ちはいくぶん端正だ。とても千年生きているとは思えない。外見年齢は二十七,八歳だろうか。明らかに年齢を詐称しているように見える。
しかし、そこだけ朝露のように輝き浮かび上がる青い瞳には、長い時を知る者特有の、この世の無常を達観した寂しさの色が浮かんでいる。
つまりは、じじくさい目つきをしていた。ざっくばらんに切られた髪は、本来の銀色に戻っている。月の光が途切れたからだ。
相変わらずの楽し気な様子で、レゾンは口を開きかけた私を制した。
「いやいや、大丈夫。お酢を持っていないことぐらい知っとるよ。困っているのは本当だが、そちらに関しては冗談だ」
強めの風が吹いているが、彼の声はすんなりと私に届く。何らかの魔術が行使されているのかもしれない。
私には魔術の痕跡を見る才能はない。ゆえに、それが私に害をなすものでないかぎり、私にはこの場にどんな結界がはられているのか、知ることはできない。
さらに言えば、この場はレゾンの庭も同然だ。コンセントもないのにそこで明かりを点しているテレビしかり。この土地を再利用しようという声が未だ挙がらないのも、また。
結界とは内側と外側を切り離す術だ。少なくともこのビルは、完全なる異界へと作り替えられてしまっている。この一見ただの優男にしか見えない、レーゾン・デートルの手によって。
「久しぶりといえば、そう、このあいだは悪かったな」
ベッドチェアーに腰かけ直し、一切悪びれない風にレゾンが言う。しかし私には、彼に謝罪される心当たりが無い。
「……なんのことでしょうか」
この間というからには、まさか出会った時のことを言っているわけでもないだろう。そうなると、更科君関連のことしか思い浮かばない。けれど、彼のことで直接私が謝られる筋合いもない。私は彼の保護者ではないのだ。
「なに。この間とはほんの一週間前のことさ。依琥乃の葬式だよ。もう忘れたのか? いちおう参列できなかったことを、悪いとは思っとるのだ」
「……別に誰も気にしていないでしょう」
むしろこんな異様な男が来ても混乱ぐらいしか起こらない。依琥乃本人は愉快気にその様子を眺めていそうだけれど。
「いいや。気にするのだよ。君たちではなく、悲壮に漂う哀れな彼らが」
「……誰ですかそれ」
そんな珍妙な知り合いはいない。
「彼らは彼らだ。己が終焉を認められずに肉体を求めて彷徨い続ける、輪廻の輪から逃げ出した人間の成れの果て。俗にいう、幽霊というやつさ」
「ゆう、れい……」
口内で言葉を転がしてみる。しかし、どうにも現実味がない。夢で教えられた事象の実現について協議することにも似た胡乱さがある。そもそも私は幽霊などという存在を、一度も見たことがないし感じたこともない。
「ふはっ。そりゃあそうだろうよ。奴らだって君なんかに興味はなかろう。奴らが欲するのは肉体だ。現世に直接干渉できる接続器。もしくは単純に、それがあれば生き返るとでも幻想しているのだろう。
だから奴らは生者になぞ関心がない。なぜならその身体には、すでに君たちが入っているからな。肉体に宿る魂は一つだけだ。入り込む余地のないものには見向きもせんのさ。
故に葬式なんぞには奴らが集まってくる。空の肉体を求めて。ふん。そこには死体しかないというのに」
哀れだろう、とレゾンは口角を片方つり上げる。なるほど死体は死体だ。動かないから死体だ。動かない壊れた器をそれでも欲する幽霊は、憐憫に値するのだろう。私にはよく分からないが。
それよりも、なんだか話が繋がっていない気がする。
「……それとあなたに何か関係があるのでしょうか」
確か、レゾンが葬式に出ることができないとかいう話をしていたはずだ。
「関係? もちろんある。俺のような生命力あふれるナイスガイは奴らを際限なく引き寄せてしまうからな。
俺が基本なぜ、自分の力を無理矢理に抑えているのだと思う? 町を漂う奴らを刺激しすぎないようにだ。あの亡霊どもは個がどれほど無力でも、集まりすぎると現世に悪影響を及ぼすからな」
「……それはこまりますね」
「だろう?」
日ごろから非現実の世界に身を沈めていても、どうしてもこういう『ザ・オカルト』な話は、実際見てみない限り信じることができない。話を聞く気力も湧かないというものだ。つい適当な返事で話を終わらせにかかってしまうほどに。
レゾンには悪いが、こちらにも、そう時間の余裕があるわけではない。早急に本題に入るべきだろう。別に話を聞くのが面倒というだけではなく。
「それよりも──っ」
話題を転換しようとした途端に生じる焦燥感。このまま次の話題に入ってしまって本当にいいのかと、自分の全神経が告げている。
私はレゾンを視認する。彼の周囲には、はっきりと靄のように危険反応がまとわりついている。しかし、それはいつもの通り。この化け物は、存在自体が危険物なのだから。初対面の時など敵だと見誤って脳天を撃ち抜いてしまったほどだ。
そばにいると微かに血の匂いが漂ってくるし、鉄臭さが口中に広がり頭痛をもよおす。全ての危険を捉える私の稀癌が、レーゾン・デートルという生き物を決して受容しないのだ。
稀癌が私に与える感覚は、本来の五感とは切り離された、一つ別の時空で感じているものだ。俗にいう第六感とも少し違う。
自らの身体が有する全ての感覚神経で危険を察知するのが、私の稀癌だ。この稀癌は、命にかかわるものから、日常のちょっとした変化まで、幅広く感じ取る。では、この焦燥感の出どころはなのだろうか。
見た限り、レゾンが直接私を害するというわけではないようだが。恐らくこのまま話題を変えてしまえばそうは言えなくなってしまうのだろう。
とにかく、この話題はここで終わらせてはいけない。頭を働かせるのは苦手なので、直球で訊く。
「……デートル。あなたは何が言いたいのですか」
風にはためいて、白いシャツがひるがえる。一部分だけ長く伸びた男の前髪がその表情を隠した。
一見ただの好青年に見えるレーゾン・デートルの本性は、魔性だ。彼が愛するのは愉悦、好奇心、そして己への反逆。
愉快なものを最良とする彼は、吸血鬼のくせにギョーザを食して日光浴をする。そして、胸には大きな、十字架のペンダントをつけている。といっても、このペンダントはすでに十字の形をなしていない。以前、真っ二つに割れてしまったらしい。
しかし、縦に割れ左側だけになったペンダントは、今も彼の首に下がっている。残りの右半分は現在、更科奏繁の手にある。伝説の吸血鬼が己の魔力を注ぎ続けた一級の特異物の半身は、更科君の弟子入りの際に、彼に分け与えられた。
レゾン曰く、このペンダントは思い出の品らしい。そんな大切なものを半分とはいえ与えられた更科君は、よほどレゾンに気に入られていると言える。そして、この吸血鬼がさらに気に入っているのは、更科奏繁が苦境に陥った姿なのだ。
「ふはっ。そう。大事なのはこれからだ」
一大イベントが始まるとでもいうように、レゾンは立ち上がって柏手を打つ。顔には先ほどまでとは大きく質の異なる笑みが浮かんでいる。八重歯をむき出しにした吸血鬼は、残念なことに、心の底から愉快そうだった。