一話 救出依頼
第一章
1
着信の音で目が覚めた。
いつの間にかソファーで寝入っていたらしい。床に放り出された携帯電話が低くうなっている。
……自分で設定しておいて、若干耳障りだなどと考えてしまうのは、やはり自分勝手だろうか。
寝転がったままでは手の届かない位置に携帯電話はある。ディスプレイに表示されている名前は『更科奏繁』。
なにかと私に世話を焼く男であり、この寝心──、座り心地の良いソファーをくれた友人でもある。
けれど、彼は用もないのに連絡してくるようなタイプではないし、私と彼は密に連絡をとり合う間柄でもない。用もないのに彼が突然訪ねてくることはままあるにしても、だ。
壁にかかったアナログ時計を見る。時刻は二時二十七分。外を見なくても、特有の静けさで今が深夜なのだとわかる。そして更科奏繁はこんな時間に、くだらない要件のために電話をかけてくるような非常識な人間ではない。なぜなら、彼は良くも悪くも『一般的』に判断を下すのだから。
故に、文字通り厄介事の香りしかしない。
無視してもうひと眠りしようかとも考えたが、私に直接連絡が来るのだ、よほどの出来事でもあったのだろう。しかも、急を要するような。
しばらく逡巡したが、音は鳴りやまない。自分が確実に電話を取るようにとあえて設定した騒音だったが、予想よりも遥かに効果はあるらしい。観念して起き上がり、通話ボタンを押す。
耳に携帯をあてると、聞き慣れた、クセのない低めの声音が耳朶をたたいた。
「やあ、おはよう、誡。お寝ぼけのところ突然悪いんだけど、ちょっと助けてくれないか?」
私は耳を疑った。大抵一人で事態をどうにかしようとした結果、すべて悪化したところを私に発見される更科 奏繁が、開口一番、私に助けを求めている。どうやら、すでに事態は行き着くところまで行ってしまっているらしい。
「……更科君、説明義務というものをご存知ですか」
仕方がないので詳細を聞いてみる。いったい彼はこんな時間までなにをしていたのだろうか。
しかし、彼の返答は私の予期せぬものだった。
「いや、それがわからないんだよ。自分でも事態を把握できていないから、説明のしようがないんだ」
寝ぼけているのはこの男のほうではないかと疑ってしまう。面倒なので通話を切ってしまおうかと考えたが、幸いそれはただの思考で、行動に直結はしなかった。
こういう時、感情の大部分が欠落している私に、彼は感謝すべきだと感じる。
「……説明しようとする努力はいつの時代も評価されるものだそうですよ」
「あれ? 寝起きでちょっと不機嫌?」
「……理解しているなら、わかるように説明してください」
こんな私でも、怒りの感情くらいはまともに持っているのだ。人間の業だろうか。
「うん、でもね、自分自身本当にワケが分かってないんだ。ここが何処なのかも、なぜこうなったのかもわからない。
ただ調べたいことがあって外出していた。人気のない道に入ると気を失って、目が覚めると物理法則の効かない、出口のない空間に居たというわけだ。ね? 説明になってないでしょ?」
なぜか楽しそうに彼は語る。いったいなにが愉快なのだろう。極限に追い詰められた人間は、しばし笑みを浮かべるとはいうけれど。
「……はぁ、わかりました。自分で出られますか」
「うん。これならたぶん。でも、その後は自分じゃどうしようもなさそうだ」
周囲を確認するような沈黙の後、聴こえてくる確かな返事。ならば、こちらのやることは決まっている。
「……詠唱は」
「今からだよ」
短く条件を確認しながら、私はテーブルの上に置いたままにしていたウエストバックを腰に巻いた。居眠りをしていてよかった。着替える手間が省ける。
「……では、それまでにあなたを見つけて迎えに行きます。大人しくしていてください」
「うん。頼んだ」
「ええ、……いつも通りに」
今度こそ通話を切って、二丁の拳銃を手に取る。その不格好な重さで、己の意識を覚醒させる。
「守りますよ。あなたを脅かすもの、全てを屠って」
それがたとえ、どんな脅威であっても。
2
────人の生命がどれほど脆弱か、わたしは理解していたはずでした。
万物には終わりがあり、人の一生は胡蝶の夢のように淡く消えゆくものなのだと。
幼い頃から身近に死が潜んでいたわたしは、当然知っていました。それは、自分の命であっても変わらないということを。
人の人生の結果というものは常に等しく訪れる。
死の意味を解し、死の瞬間を夢想し、そうして私は、死の訪れを当たり前に受け入れていたのです。
しかし、わたしは正しく理解できていませんでした。
命の幕引きがある日突然訪れることを、ではなく。
――死によって取り残された人間がどれほど生を渇望するのかということを。
2
上城町は東を低い山々に囲まれた、いわゆる田舎だ。十数年前に一度都市開発計画が持ち上がったが、当時の市長の収賄容疑や、工事を行っていた組合が起こした町民との乱闘事件などが重なり、計画は現在も凍結されたまま、放置されている。
“再開したいけどまた以前と同じことが起こったら誰が責任をとるんだ”という考えが上にも下にも存在しているのだ。
おかげで町の中、特に、新しく山を切り崩していた最東端の飯野地区には、工事途中のビル群が放置されたままの区画がある。
その中でもひと際規模の大きい商業ビル、多彩なテナントが入る予定だったそこはしかし、外枠だけは完成していても内部はただの空洞と同じだ。各階コンクリートが剥き出しになっていて、あちこちになにかしらの機材が積まれ放置されている。
人の気配はない。一切の殺風景が広がっている。不良が溜まるにはちょうどいい塩梅だが、そういった連中が荒らした痕跡もない。
なぜかここに足が向かないよう、建物自体に一種の暗示がかけられているからだ。
誰がかけたかは言うまでもない。
自称『千年生きた吸血鬼』。
レーゾン・デートル。存在価値、存在理由という意味の言葉を自らの名に冠する男。
この通称「赤井廃ビル」と呼ばれる廃ビルに住み着く一人の化け物こそ、私がこの飯野まで足を運ぶ理由なのだ。
千年生きた怪物。人ならざる者。
彼は、このビルの屋上から、この町の全てを観ている。
赤井廃ビルは七階建てのビルだ。しかし中身の電気系統はまったく完成していないため、屋上まで登るのには階段を使わなければならない。
つまり、七階分の階段を上らなければならない。
普段、最低限身体を鍛えているといっても、これはかなりの重労働だ。
私は更科君ではないので階段を上る程度で息切れしたりはしないが、やはりかすかな疲労感が溜まるのは否めない。主に膝のあたりに、ヒアルロン酸とかがたぶん足りていない。でなければ人間の膝はこんなにじんじんしない。
念のために、最後の踊り場で自分の体を確認する。
まずは視認。
──不自然な輝きは見受けられない。異常なし。
次に聴音。
──歪な旋律は聴こえない。異常なし。
最後に残りの器官を全て内側に向ける。
──触覚、味覚、嗅覚、感度良好。異常なし。
大丈夫だ。自分の中に危険はない。
一呼吸入れてから屋上へ続く扉を開く。生ぬるい外気が流れ込んでくる。思ったよりも強い風に煽られてたたらを踏んだ。細めた目を開いて周囲を見渡せば、そこには、月光を受けて輝く、金色の男がベッドチェアーに寝転がっていた。
「おぉ、よく来たな、誡。不機嫌そうで何よりだ。ところでお酢を持っていないか。ギョーザがあっても酢醤油を作れんのだ、これが」