十七話 仕種
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「私もついついお前に頼りがちになってしまっているが、お前はあくまで一般人だ。あまり無茶をしてくれるな。…………それと、弾薬はいつもの場所に補充してある」
という、真逆のような言葉を残して射牒さんは仕事へと戻っていった。
仮眠室のロッカーから拳銃の弾をバッグに移す。いったい射牒さんがどこから仕入れているのかわからないが、いつもありがたく頂いている。警察からの支給品ではないはずだから、独自のルートを確保しているのかもしれなかった。
腕時計を確認する。時刻は午後の一時をまわっていた。遅めの昼食をとるべきだろう。誰かが必ず買い置きして補充しているカップ麺の中からうどんを拝借し、代わりに『一ついただきます 誡』と書いた付箋を棚に貼りつける。即席麺にお湯を注ぎながら、私は明日のことを考えた。
射牒さんの話を聞いて、夜の徘徊にあまり意味がないことに気が付いた。犯人は死体を隠さずに放置している。それでも足がついていないということは、恐らく目撃者も期待できないということだ。
そもそも目撃者の捜索は警察が血眼になって行っている。その中には射牒さんもいるのだ。
昨日も師匠のコミュニティに属していない人間を選んで話を聞いてはいたけれど、やはりプロの人海戦術には及ばない。なにか別の側面から犯人を捜す必要がある。依琥乃が言っていた「うわさ」に焦点を当てるべきだろうか。
となると、一度更科君に連絡をつけるべきだろうと考え携帯を取り出して、気づく。
連絡先を交換していない。
「…………。明後日、学校で話せばいい」
依琥乃に仲介してもらえば連絡をつけることはできるが、いかんせん面倒臭さが勝ってしまった。どうせ同じ場所に通っているのだ。そう急くこともないだろう。
「……ああ、そういえば、彼のクラスを聞いていなかったような」
それどころか、私は彼のことを何も知らない。
………………何も、ってなんだ。
「……違う」
知っているではないか。彼が依琥乃の親戚で、稀癌罹患者であるということ。そして、名前。相手の素性ははっきりしている。
「……それだけ知っていれば十分なはず」
……なぜだろう。心臓のあたりで消化不良が起きているような感覚がある。しかし稀癌は危険を告げていない。この感覚はただの錯覚だ。私はどうしてこんな錯覚を起こしているのだろう。それこそ、体調に不備はないはずなのに。
「……今日はもう帰って、ゆっくり休むべきか」
うん。きっとそれがいい。
なにも伝えてこない稀癌を無視して、私はカップ麺のふたを開ける。
立ち上る湯気の向こうに、コーヒーに砂糖を投入し続ける女性の幻影が見えた気がした。
『──だって、相手の事を知って自分のことも分かってもらうなんて、思いのほか重労働じゃない?』
14
翌日、私は特にやることもなく自分の部屋で本を読んでいた。依琥乃におすすめされた本だ。
依琥乃は私によく本を読ませようとする。特にそれは、小説というジャンルの本だった。内容は、外国文学から人気のライトノベルまで、節操が無い。
曰く『映画やドラマは共感するものだけど、小説は共感させられるものだから。誡はいろいろ読んでみたほうがいいわ』とのことだった。今回渡されたのは、おいしそうな名前の作者が書いた伝奇ミステリーだ。
この時間、義父さんは仕事に母さんは日課の料理教室に行っている。家には完全に一人だ。静まり返った部屋の中、休日の昼間から布団に横になって本を読むのは心地がいい。
友人の少ない私は日頃予定が入っているほうが珍しい。せいぜい定期的な射牒さんとのトレーニングだが、それも大きな事件が起きた時は中止となる。本を読む時間はたくさんあった。
春の日差しが窓から差し込み、私の背中を照らす。少し眠たくなってきた。……このまま昼寝でもしてしまおうか。
本にしおりを挟み枕に顔を沈めて目をつむったその時、唐突に着信音が鳴り響いた。
手だけ伸ばして携帯を掴む。そのまま耳に当てると、聞こえてきたのは耳慣れない声だった。
「おっはよう! 誡ちゃん。調子はどうかしら? 今どこにいる?」
どこかふわふわとした、捉えどころのない柔らかな声。機械を通しているので一瞬気づかなかったが、この声はおそらく先日会った女性だ。
「えー…………、仕種さん。どうしたのですか」
「あはは、覚えててくれてよかったぁ。はーい。湯苅部仕種その人です。いやあ、それが今日突然暇になっちゃってさ。よかったら、今から遊べないかなぁ? 街にいるんだ」
言われて時計を見る。うたた寝はほんの一瞬だったようで、まだ午前十一時をまわったところだった。
「誡ちゃん暇だったりしないかなぁ? って思って連絡したんだけど」
「……暇は暇ですが」
ベットから出るのが面倒臭い。しかし今日の予定が無いのは事実だ。
「じゃあ会いましょう! お昼ごはん奢るから」
食い下がるように仕種さんが声を張り上げる。そこまで言われたら断るのも失礼だろうか。
「…………わかりました。今家にいるので、そっちに着くまで待っていてもらえますか」
肩で電話を押さえつつバスの時刻表を確認し、起き上がってウエストバッグに手探りでリボルバーを入れる。今日は裏道を廻るつもりはないが、一応の護身用だ。
「もっちろん! じゃあ、一時間後くらいに河童の前で待ち合わせね」
テンションの高い返事を聞いて、私は通話を切った。身支度を整え、運動靴を履いて玄関を開ける。
「……いってきます」
返事がないことを確認して、私は鍵をかけた。
『河童の前で待ち合わせ』
もちろんこの河童は本物の河童ではない。私と仕種さんの認識に相違がなければ、上通りの書店に昔から置いてある河童の銅像のことを指している。足を組んで座っているその河童にはおよそ可愛らしさはなく、どこか言いようのない存在感を感じる。
河童は毎日休むことなく書店の入り口に鎮座している。何故本屋で水辺の妖怪が瞑想しているのかは分からない。
市内で待ち合わせするならばもっとメジャーな場所はいくらでもあるはずだ。だからこそ人が少なくわかりやすい、という点はあるかもしれないが。
市電を降り、信号を渡って上通りへと向かうと、二、三分で目的地の書店が見えてくる。
上通りに入ったところで、私はフードを目深に被った。休日の市街地は人通りが増えるとともに、小さな危険があちらこちらで生まれては消える。私の稀癌はその全てを拾って伝えて来る。
金切り上げる足音、皮膚を刺す微風、明滅する視界。
届く情報が多いと処理が追いつかなくなり私の身体は不調を示す。情報量に幻惑される様は、さながら人酔いした人間と同じらしい。
その点、フードをかぶって自分の内側だけに意識を向けていれば、稀癌をあまり気にしないで済む。だから外出する際はできるだけ、フード付きの恰好をするようにしていた。
しかしフードの有無に関わらず、今日はいつもより届く異変が少ない。続く事件のせいだろうか。日曜日だというのに普段の休日よりも人通りが少ないように感じる。ごみ一つ落ちていないアーケードはいっそ殺風景で、活気がない。理由は明快だ。いつもうるさい程の若者の笑い声の反響が、聴こえないのだ。
だからこそ、大きな声は悪目立ち、衆目を集める。
「だーかーらー。俺らと一緒に遊ぼうよお嬢さーん」
目的地の書店の横に伸びる細道。喫煙のために灰皿が用意されている場所で、女性が三人の男に囲まれていた。男達は全員二十代前半と思しい。女性もおそらくは同じくらいだろう。
その挙動を見るに、オレンジ色のワンピースを着た女性は声をかけてくる男たちに困惑しているようである。まばらな通行人は、視線は向けるものの、すぐに顔を背けて速足で通り過ぎる。
それでなくても、現在県内では治安が乱れている。見ず知らずの人間のために余計な面倒事に巻き込まれるようなことはしたくないのだろう。彼らの反応は一般人として正しいものだ。
しかし、刑事やヤの付くご職業の方とお知り合いであり、日常的に銃刀法違反を犯している私は残念ながら一般人とは言えない。
私は無言で女性とそれを囲む男達の元へと近づいた。三人グループの中心であろう男に目星をつけ、中心に立つ男の肩を叩く。
「……こんにちは」
言いながら男性の手をとる。
「あぁ? んだよ」
ナンパの邪魔をされて不機嫌そうに振り向いた男の襟首を掴み、そのまま大内刈りの要領で足を引っかける。
「──へっ?」
音も無いまま地面に引き倒された男は自分が投げられた事実に気づかず、なにが起こったのかわからないというように目を丸くしている。襟を掴んで支えていた手を放し男が頭を打ったところで、周囲はようやく事態を飲み込んだようだ。残りの二人が倒れた男に駆け寄る。
「なにしやがるテメエ!」
「何者だ!」
雑魚臭溢れる二人を無視して、私は未だに放心している男に言う。
「……女性の迷惑になるようなナンパは止めなさい。さもなくば──今度は少々、痛くします」
目を覗き込んでそう告げた。さっと顔を青ざめさせた男は立ち上がると、そのまま何も言わずに背中を向け、速足に歩き出す。その後を取り巻き二人がぎゃーぎゃーと騒ぎながら追いかけて行く。あの様子なら少なくとも今日は大人しくしているだろう。
よかった。言葉が通じなければ、今度はだいぶ痛くするしかない所だった。あまり人目のある所で騒ぎを起こすと、通報を受けた射牒さんが怒り顔で飛んでくる。できれば避けたい事態だったので、相手に度胸がなくて助かった。
「うっわー。誡ちゃんすごい!」
呼ばれて振り向くと、そこにいたオレンジのワンピースを着た女性の顔に見覚えがあることに気づく。よく見ればニコニコと目を細めていたのは、待ち合わせ相手の仕種さんである。
…………知り合いだった。
「誡ちゃんって強いんだね! 今のって何かの格闘技?」
「……柔道の投げ技の一つです」
「三人もいたのに追っ払っちゃった。かっこいいわね!」
興奮した様子で仕種さんが私の手をとる。そんなに褒められると体が少しこそばゆい。ついでに今の今まで仕種さんだと気づいていなかったのは秘密にしようと胸の内に決めた。
「……あの程度の男共が私の友人に手をだすなど、一億と二千年早いですから」
「八千年過ぎた頃が転機になりそうな年月ね……。あれ? 誡ちゃんってアニソンとか聴くの? 意外」
「……友人にカラオケで歌えとせがまれたので、覚えました」
「カラオケ行くの!?」
今までで一番の驚愕顔で仕種さんがのけ反る。この人は私を何だと思っているのか。私だってカラオケに行くし遊園地にも行く。……自分から行こうという発想は浮かばないが。
よほど驚いたのか、仕種さんはまだ目を丸くしたまま両手を振って否定の意を示す。
「あ、ごめんごめん。変な意味じゃなくてね? 誡ちゃんってそういう騒がしいのは苦手だと思ってたから。なんというかぁ、家でごろごろしてる猫のイメージ? みたいな」
「……苦手というわけではありません」
面倒臭いとは感じるが、親しい人間とならそういうことも無い。たまに誤解されるが、私は厭世家などではない。
複雑な人間関係を避けているのは事実だが、人間が嫌いというわけではないのだ。知り合った人には情が湧くし、親しくなれば力になりたいと感じる。その程度の人間性は持ち合わせているつもりだ。
――たとえ人として致命的なほどに、感情が薄いとしても。
「……念のため、今度彼らに会ったら逃げてください。逆恨みも有りえますから」
「ありがとう。大丈夫、あたし人の顔覚えるのだけは得意だから!」
忠告すると、仕種さんは親指を立てて応える。その表情はどこか得意げだ。掲げた手でそのまま流れるように私の手を掴むと、顔を覗き込むように、少し屈む。
「お昼食べに行こっか。なにがいい?」
握り絞めたままの拳が仕種さんに引かれる。引かれるままに、私はその後姿を追った。
「きゃー! 見てみて誡ちゃん! こっちもおいしそうっ」
食後のミルクセーキを飲みながら仕種さんがメニュー表を見て興奮している。開いているのはデザートのページだ。
「誡ちゃんはどれにする?」
仕種さんは空になったパスタのお皿を下げる店員さんにお礼を言ってから、私へメニューを差し出した。どのケーキも食欲をそそるように、上手く撮影されている。フォンダンショコラの断面から流れ出るチョコレートが、その熱までもこちらに訴えかけるようだ。
「……では、こちらを」
フォンダショコラの隣の、「当店おすすめ」と書かれたチョコレートケーキを指さす。表面を黒々としたチョコレートで覆われ金粉をまぶした、贅沢な仕様だ。
「ああ、いいわねぇ。私もそれとコッチのフルーツケーキで悩んでたのよ。私もそれにしようかなぁ。でもこのフルーツモリモリも捨てがたいっ!」
フルーツとそれを覆うシロップが光を受けて煌々と輝くケーキを指さす。「当店一番人気」と書かれていた。
しばらく迷った後、仕種さんは結局フルーツケーキを注文し一息ついたようだった。
急に静かになったせいだろうか。遠くのテーブルの雑談が、突然耳につく。
「──ねぇ、連続殺人事件の犯人、まだ捕まってないんでしょ? 怖いよね」
「被害者って全員未成年なんだっけ。やっぱロリコンの仕業じゃない?」
「だねぇ。でもそれなら、なんで何もせずに殺しちゃうんだろう」
「それは…………、なんでだろう?」
大学生くらいの女性二人組の疑問は、私も抱いたものだった。
どうして犯人は人を殺すのか。
射牒さんは、犯人には明確な理由があるのだと言っていた。それは殺すことに直結するが、殺し自体が目的ではないとも。
殺しが必要不可欠なのに、殺しが目的ではない。そんな理由は皆目見当もつかない。
人を殺すことで金銭を得ているというのはどうだろう。しかし、そうであったならば、なぜ被害者の金品に手を付けなかったのか。
もし職業としての人殺しならば、とっくに射牒さんの包囲網に掛かっているはずだ。それにそういう人種は、うまく死体を偽装する。あんな風に目立つように死体を放置したりはしない。そうでなくては、目立ちすぎて今度は同業者に狙われてしまうからだ。
むしろ、死体を目立たせたかったのか。いいや。射牒さんはその可能性を否定していた。
……どれほど考えても、犯人の思想が浮かんでこない。いっそのこと犯人が常軌を逸した思考回路の異常者ならば、もう少し簡単に事は説明できるのだが。
そんな考え事をしていたせいだろう。気が付くと遠くのテーブルから人影は消えていた。女性たちはいつの間にか会計を済ませ、店から出て行ったようだった。
わたしが見つめていたからか、仕種さんも彼女たちの話を聞いていたようで、神妙な顔つきになっている。
……笑顔以外の彼女の表情を、今更初めて見た気がする。私と会話する仕種さんはいつもニコニコと笑顔を浮かべていた。それが今は何処となく視線を彷徨わせ、思考の最適化を行っているようだった。
笑顔の無い仕種さんはいつもと漂う雰囲気が違う。私が覚えていたよりも切れ長な面持ちをしている。
やわらかく親切なお姉さんといった印象は奥へ控え、頭の切れる社会人といった理性的な雰囲気だ。特に伏せられたまつ毛の間から覗く瞳はどこか新月に浮かぶ雲の灰色に似ていて、彼女の明るげな印象からは程遠く感じた。
それでも全く仕種さんから危険を感じないところを鑑みるに、彼女の本質とは、表情によって変化する類のものではないらしい。
そうだ。例えばこの人は、どう考えるのだろう。
人が人を殺すその意味と、意義を。
「……仕種さんは、どうして……、どうして犯人は人を殺すのだと考えますか」
訊くと、一瞬眉をひそめてから彼女は、ミルクセーキの入ったカップの縁をなぞりながら答えた。
「そりゃあ、なにか犯人にメリットがあるんじゃないかしら。ああ、でもニュースだと物取りじゃないって言ってたっけ? じゃあ頭の問題かもねぇ」
「頭……」
「うん、頭。考え方だよ。他人にとってはくだらない物でも、当人にとっては大切な物だったりするでしょう? 犯人にとって、人を殺す理由はそれかもしれない」
「……つまり、殺しが娯楽になっていると」
「あー……、いや。ちょっと違ってたかも。うむむ、そうねぇ。金銭的、性的理由でも、怨恨による犯行って線も浮かんでこないなら、たぶん犯人の頭の中はもっと私たちの想像とはかけ離れた価値観があるのかもしれないわ。
例えば、殺すのが目的じゃなくて、殺したのはただの結果でしかない。本当は殺したくなかったけど、止められない理由がなにかあるとか、ね。人の価値観は時に人間を傷つけるものだから。特に、自分にとって大切なもののためなら人間は簡単に他を切り捨てる。
それが親だろうと恋人だろうと、自分という個人を形作る根っこの部分だろうと。欲望のためなら人は何処までも残酷になるから。それがたとえ他人にとっては掃いて捨てるような他愛ないものでも、自分の価値観に沿っているなら他の犠牲を許容してしまうの。
……ええっと、まあ、自分で言ってて訳わからなくなっちゃったけど」
苦笑してカップに口をつける。確かに話は難しい。しかし、新鮮な考え方ではある。『殺したくない』、『止められない』。犯人がそういう類の感情を抱いている可能性は、私も射牒さんも念頭になかったからだ。
「まあ、だから犯人はなにがしたいんだって聞かれたらよくわからないけど。とにかく、犯人はなにか大切な物のために動いてると思うわ。さっきの人たちは通り魔だとかロリコンだとか思ってたみたいだけど。だったらもっと簡単に共通点が見つかるでしょうし、もっと犯行が雑になってくるはず。たぶん基準が他人と違うのよ、犯人は。
――それにしては捕まらないよねぇ。日本の警察って、こうも無能なのかしら」
仕種さんが空になったカップを指で弾いた。響く音を聞きながら、私もココアに口をつける。
殺し自体が目的ではない。殺しはただの結果。目的は別にある。それは射牒さんとも考えた可能性だ。
そしてその目的とは、確かに、ここまで犯行を重ねるならば犯人にはそれ相応のメリットが存在するはずだった。そして、そのメリットは「私たちの想像とはかけ離れた価値観」によるもの……。犯人は異常者なのではなく、その価値観だけが、人とは違う。
それは小さな違いで、重要な差異なのかもしれない
「……警察も鋭意捜査中ですよ、きっと」
考えてもやはり及びつかない。犯行の動機から犯人を絞るのは、私には不可能だ。
他人の考えなど、そもそも私には分からないのが常だった。
私に探偵役は向いていない。せいぜい探偵の護衛役が限界だ。……もう今は、事件のことを考えるのはよそう。
頭を切り替えて顔をあげるのと、注文したケーキが運ばれてくるのは同時だった。
テーブルに置かれたケーキに仕種さんが目を輝かせている。
いそいそとフォークを取り出す仕種さんだったが、二つのケーキを見比べて、その動きが止まる。
どうしたのだろうか。
「うーん。やっぱり私もそっちのチョコケーキにすればよかったかも」
どうやら、実物を見て気が変わってしまったらしい。
「……交換しましょうか」
「えっ、いいの!? でっでも、誡ちゃんそっちのケーキ食べたかったんじゃ」
「……別に構いません。両方おいしそうですし」
お皿を仕種さんの方へ滑らせると、ついに欲に負けたらしく、素直に受け取ってくれた。
「じゃあ、ありがたく交換させていただきます。──誡ちゃんって、思ったよりこだわりないのね」
「……そうですね。あまり執着しないのは確かです」
フルーツケーキとフォークを受け取りながら考える。物事にこだわりを持ち、執着する心構えを私は持っていない。全て流されるままだ。
これも感情が薄いためだろうか。何に対しても大きく心が動かないから、それを繋ぎとめようとしない。……そうなのかも、しれない。
円形のケーキにフォークを刺し入れ、口に運ぶ。
「…………おいしい」
シロップ輝くフルーツケーキは、見た目通りに甘かった。
「ねぇ、誡ちゃん。誡ちゃんにとって大切なものって、なぁに?」
問われて答える。
「……それはきっと、失いたくないと思えたもののことです」
「そっかぁ。なんだか誡ちゃんらしいねぇ。ちなみに私の大切なものは、私を否定しないでいてくれる、誡ちゃんみたいな友達だよ」
浮かぶ笑顔には、やはり欠片の脅威も存在しない。あったのは、人好きする純粋な笑み。それだけだった。




