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またあつまれ、みんな

「面影ひとひら」

                              


 雪が降る夜空。街灯に照らされた一人の男の子。


もうすぐ千秋の誕生日。

 千秋は喜んでくれるだろうか。

 その手には千秋が大好きな、だるまぱぱ。もふもふしてる。

千秋にこのだるまぱぱをプレゼントしてやろう。なんだか恥ずかしいけど、


男の子はだるまぱぱを握りしめた。


しかし、だるまぱぱが千秋のもとへプレゼントされることはなかった。

それどころか千秋と会うことすらできなくなってしまった。

突然、千秋は男の子の前からいなくなったのだ。


どうして、千秋。


男の子はただ、呆然と立ち尽くした。


それから、、、、、、、


それから長い年月が経った。経ってしまった。

だるまぱぱは今も男の子の家の押入れの奥に置かれたままである。












「いってきます」

 ガチャン、と玄関のドアを閉める。


 何もない、何もない今日が、また始まる。空虚な日々。これは、いつまで続くのだろうか。先が見えない。楽しくて明るい未来を想像することができない。その理由は、もうずっと楽しいことがないからだ。中身のない生活を繰り返しすぎて、俺は。


 もう、何も見えない。


 


 チャイムが鳴る。また無意義な一日が終わった。校門を出て、帰路に着く。

 自分は何がしたいんだろうか。ずっと同じで変わらないこと、こんな状況を望んでいたのだろうか。‥‥‥‥そんなはずはない。こんな空虚な日常なんて、俺は認めない。

 大体高校ニ年生なんて青春全開の時期だ。それなのに、俺は。

 ‥‥‥‥‥。

 バスは進んでいく。

 昔はよかったな。小学校の頃は毎日が楽しかったな。皆で無邪気にわいわい出来て‥‥。

 あの頃の俺は輝いていた。あの頃の広中勇気は、一番輝いていた。俺はクラスで一番頭が良かったし、かけっこはいつも一位で、もちろんクラスの人気者。仲のいい女の子だっていた。‥‥いたんだ。毎日新しい発見があって、何に対してもわくわくしていた。

 友達との虫獲りや魚すくい、市民プール、町内会の小さな祭り、全部楽しかった。本気で面白かった。                 それなのに今は‥。

 俺は昔のことを思い出すことが多くなっている。よく夢に出てくる。

 夢中で鬼ごっこをしたり給食で牛乳の早飲み対決をしたりする夢だ。

 何故そんな夢をみるのか。

 それは簡単なことだ。少し考えればわかる。

 

あの頃に帰りたい。そういう願望の現れ。


ただそれだけだ。

 なのに、今の俺は。 何もない。何ひとつ。

 昔の俺は、もっともっと輝く未来を想像してたよ。大きな夢見てたよ。

 ‥‥‥‥‥。

 バスを降りた。


 勇気は、細い道を、黒い影のように静かに音もなく歩いていた。

 機械のように過ごす毎日。やることを最低限やって、帰る。

 その繰り返し。新しい発見などどこにもない。モノクロの世界。

 「今」に何の価値も見出すことができない。

 


 小学校の頃の思い出の場所も、最早今では勇気とって過去の残骸にしか見えなかった。琴凛の裏山、足旺神社、門前大池。そもそもこの高陽団地一帯が、もう色を失くしているのだ。ずっと前から、輝きを失っているのだ。



 勇気の時間は、もう長いこと動いていない。ずっと止まったままだ。

 動き出す気配はない。


「あー。‥‥何か楽しいことないかな」

 ふと呟いてみても、空しさが自分の周りを包むだけだった。





「いってきます」

 ガチャン、と玄関のドアを閉める。

 昨日、夢を見た。給食時間に牛乳の早飲み対決をする夢だった。

 最近、昔の夢を見ることが多くなっている。

 小学校時代。あの頃は全てが輝いて見えた。毎日新しい発見があった。

 あの頃あの頃あの頃に‥‥‥。


 何もない、何もない今日がまた始まる。




「‥ふう」

 そして何もない一日が終わった。虚無。

 新しいことなんて何ひとつなく、機械のように最低限のことを消化していく日々。

 今に価値を見つけられない。

 どうしてこんなことになったんだろう。昔の俺に土下座したくなる。

 

俺はいつものように道の隅を目立たないように、音もたてずゆっくりと歩いていく。

 いいんだ、これで。

 もう、俺なんて。死んだも同然で‥。


「勇気? 勇気だよね? うわー、すごくおっきくなってる」


 !?

 勇気は振り返った。そこには、一人の少女がいた。年の頃は勇気と同じぐらいだろうか。

 ‥‥誰、だ? 勇気には目の前の女子が誰なのかわからない。

 同じ高校? いや、見たことないな。他校か。

「あの、失礼ですが、どちら様でしょうか?」

 なっ?!

 その瞬間、目の前の女子があまりにも悲しげな顔をしたので俺は驚いてしまった。

「私だよ。‥‥‥千秋だよ?」

 何かに縋るような。そんな様子で。

「千秋?」

 ‥‥‥‥‥‥‥。

 まさか、お前は。

 頭の中から遥か昔の記憶がよみがえる。

 まさか。

いや、そんなはずはない。そんな、ここにいるわけがない。

「悪い、人違いだ」

 勇気はその場から逃げるように去った。




 何だったんだあれは。いるわけがない。いよいよ俺も幻を見るようになってきたか、やべえな。

 名も知らない彼女は、千秋と、言っていた。

 千秋だと?

 あの千秋だって言うのかよ。

 ‥‥‥‥。

 思い出すのは、もう六年も前。ずっと楽しかった頃の、小学五年生。

 あのとき、交通事故に遭い、意識が戻らないまま学校から消えた女の子がいた。学校では死んだとか、遠くへ引っ越しただとか、果ては幽霊になって音楽室に出るなんて噂まで出てきて、結局彼女の行方はわからなかった。


 その彼女の名前は、千秋。冬宮千秋といった。


 いや、まさかありえないだろう。しかし他に千秋という名前の女の子を勇気は知らない。

 そもそも、勇気の中では、もう答えが出ていた。認められないだけだった。

 思い出せば出す程俺の記憶の中の千秋と、今日の女の子が重なっていく。


そう、あれは、紛れもなく俺の知ってる千秋だった。


体は成長していたが、思いだしてみるとその姿はやはり、千秋だ。


その昔、千秋と勇気は、親友と呼び合った仲だった。小学生の言う、親友という言葉にどれほどの重みがあったのかはわからない。しかし千秋は俺の親友だったのだ。

でも、千秋は突然いなくなった。

担任の先生は、大きな事故に遭って、遠くの大きな病院に彼女は入院した。この学校には戻れない。とだけ言った。俺がそのときどこの病院ですかと何度も聞いても、先生は苦しそうな顔をしたまま教えてくれなかった。


それきり、千秋と会うことはなかった。

それから勇気は千秋のことを忘れた。

いや、忘れたふりをし続けた。


‥‥‥‥‥‥。

本当に千秋だったのかな。

どうして俺、逃げてしまったんだろう。

「‥‥‥怖かったんだ」

 ぼそっと、呟いていた。それが自分の声だと気付くのに数秒かかった。

 怖い? 俺は、何かを恐れていたのか。





 チャイムが鳴る。一日が終わった。

 校門を出て、勇気は昨日と同じように、同じ道をゆっくりと歩いていく。

 昨日見た千秋は、俺の中の幻だったのか。そんなことを考えながら勇気は昨日、彼女と会った道の角を曲がる。

「あっ」

 そこには、いたのだ。千秋が。


「どうして、昨日は逃げたん?」


 彼女、いや、千秋はぶるぶると震えながら俺を睨みつけていた。

「お前、やっぱり千秋か? 冬宮千秋か」


「そうだよ。冬宮千秋。勇気は私の親友でしょ? 忘れない‥でよ」

 

 笑いながらそう訴えかけてくる。だけどその手は、

 震えていた。瞳が潤んでいた。

そのあまりにも切なげな様子は、今にも消えて無くなってしまいそうで。

「ち、千秋」

 ずっと口にしていなかった名前。

 俺はその名を、再び呼んだ。





「おじゃまします」

 千秋が俺の家に来るのは、五年振りだろうか。いやそれ以上か。

 五年間。

言葉にすると三文字だが、その長さは俺にとってあまりにも長すぎた。

 

千秋は成長していた。そして綺麗になっていた。

 小学校卒業以来、俺は女子を自分の家に呼んだことなんてない。

 呼べる奴なんていないし。年頃の高校生が男女二人だけで男の部屋ってのは、あかんでしょ。彼氏彼女ならともかく。

 幸い家には今俺以外いないのでよかった。

 まあ、そんなことよりも


「うわ、すっごい変わったね。勇気の部屋」

 当たり前だろ。お前がいなくなってからどれだけ経ったと思ってる。

 千秋はわくわくした様子で俺の部屋を見まわしている。


 ごそごそと、襖の奥の段ボールを漁りはじめる。

「おいっ」

「あー、これ玉ねぎ戦士だー。うわこっちはトマト忍者!」

 勇気は不思議に思ったことがあった。

 

 それは、千秋があの頃のままだということ。


 体は成長している。胸の部分も‥。よせ。

 だけど、あの頃と変わってない? 

「なあ千秋」

「なにー?」

 無邪気な声。その声はあの頃のままで。

「お前何歳だ」

「十一歳だよー」

「‥‥‥‥‥‥」

 どう見ても、千秋の体はじゃすと十七歳と言える、うら若き乙女である。

 とてもちびっこ小学生には見えない。でも。

「‥‥‥起きたらさ、世界が変わってたんだよね」

「は?」

 千秋の切なげな様子に、勇気はたじろいだ。


「友達が、みんないなくなってた」


 そうか。

千秋はあの頃のままなんだ。起きたら知らない世界だった。本当にそうなんだ。

 五年前、千秋に関する様々な噂が流れていたが、その一つに意識を失ったままずっと寝ている。植物人間状態になった。などの噂があった。

 噂とは得てして、全くでたらめのものから真実に近いものも、多ければ多い程増える。


 そう、目の前にいる千秋は、あの頃のままなんだ。


「りっくんとか、かなでちゃんとかさ、真広とか探してたんだけど見つからなくて、で、とぼとぼ歩いてたら勇気がいたんだよ。‥‥なのにさ、勇気逃げるんだもん」

千秋は俯いてしまった。静寂。

「‥悪かった」

 俺自身、心の整理が間に合わなかったんだ。

「うーん、特別に許してあげよう」

 腕を組んで千秋は述べる。

「おう、ありがとな」

 ‥。

 沈黙が訪れる。ここは何か話を繋げないと、

「ところでさ、お前学校は?」

「行ってるよ。病院ふぞくのもふもふ学校」

「もふもふ学校?」

「うん、なんだかね。私学校では皆のお姉ちゃんなんだよ。私だけおっきくなっててさ‥」

 病院付属の特別学校か。病気や事故、様々な理由で普通学校に通えなくなってしまった人達が通う学校のことだろう。

「お前、すっごく成長してるもんな。体だけ」

「あー、ゆうきってば私をばかにしてるの?」

「いやいやまさか」

「勇気のあほ、あほー」

 お前、本当に変わってないな。ぽんぽんと俺の肩を叩きまくる千秋。

 ち、近い!

 やはりあの頃のままといっても、千秋の体はもう高校生のそれだ。しかも少し大人びた外見だ。そして綺麗で。‥‥あーーーーーーーー。

「ちょ、近いって!」

 俺の中の野獣が目を覚ましそうになったので、俺は反射的に千秋の手を振り払ってしまった。

「ったい‥‥」

 千秋が声をあげる。

 やばい、勇気はそう直感した。千秋の顔が固まっていたからだ。

「‥‥‥‥‥。変わったね、勇気」

「え? ‥‥‥」

「こんなのいつものやりとりだったじゃん」

 ‥‥‥昔は、そうだったのかな。あの頃は異性とかあんまり意識してなかったから。

 そうだったのかもしれない。

「‥‥‥‥明日、琴凛の裏山に虫獲りに行こ」

 俯いたまま、唐突に千秋は呟いた。

「虫獲り? おいおい俺達もうそんな年じゃねえん‥あっ」

 失言だった。俺はばかだった。

 ぶるぶると、千秋は震えていた。


「こんなの私の知ってる勇気じゃない!」

 

おいっ! 千秋はいきなり飛びかかってきた。俺は動けなかった。いや、動かなかった。

「返してよ! 私の知ってる勇気を返してよ! 私のいた、世界を、返してよ!」

「千秋‥」

「ねえ勇気。私にとってね、少し前まで皆といつも一緒だったんだよ。なのにさ、目が覚めたら誰もいないんだよ」

「‥‥‥‥」

「もうわけがわかんないよ‥‥」

 いきなり五年後の世界に放りだされた千秋。現実とは過酷だ。無邪気な女の子にこんな仕打ちをする。

「行こう! 虫獲り!」

 俺は叫んでいた。千秋の悲しげな表情は、もう見たくない。

「‥‥‥ほんと?」

「ああ」

「じゃあ、魚釣りも? あ、そう言えば足旺祭りがもうすぐだね。あとねー」

「おまえなー、落ち着けって」

 嬉しそうに騒ぐ千秋を見て、勇気も嬉しくなった。


 勇気はまだ気付いていなかった。

 その日から、勇気の時間は再び動き出していた。





「さあ、獲るぞよ」

「ああ」

 勇気と千秋は琴凛の裏山にいた。

 全方位が緑で囲まれ、ギンギンに照らしつける太陽。

 ここは昔、皆で鬼ごっこをしたり、かくれんぼ、缶けり、小学生ながらエアガンサバイバルもやってたな。‥‥‥もうずっと昔のお話だ。

 千秋は虫網と小さな虫かごを持って駆けだす。虫獲り少年とは言うけど虫獲り少女ってのは聞いた事ねえな。千秋はよく外でも遊ぶ奴だった。休み時間は運動神経抜群の猛者達のドッヂボールに女子単身で参加する。それほどのおてんば少女だった。

 少しずつ、思い出していく。


 六月も、もう中盤。辺りからは蝉の声も聞こえてくる。木々に囲まれて、勇気は気付く。

 この場所も、変わってないんだ。高陽団地はあの頃と変わっていない。

 変わったのは、俺だ。


 そよ風が吹く。六月にしては珍しい、少し肌寒い風。葉っぱが何枚かひらひら舞う。

「はい、一匹目―獲りましたーー」

「早いな!」

 ゆっくりと勇気は歩いていく。


「ほら!」

 虫かごの中には一匹の蝉がいた。民民民! と高らかに鳴く。

 夏の音が、千秋と勇気を包んでいた。





 気が付けば、千秋の虫かごは一杯になりかけていた。蝉が三匹。こおろぎ一匹。かなぶん一匹。この時期珍しいのがいるな。

 俺は蝉二匹。

「まあまあね」と千秋が言う。

 

 虫獲りあみ持って、走りまわるのなんて小学校以来だ。全身の血が踊るというかなんというか、楽しいな。無論一人でやってもあんまり楽しめないだろうけど、ここには千秋がいるのだ。それだけで、今までとは違う世界が広がっていくように思える。

「勇気、あそこ、あれ、カブトムシだ!」

 千秋の指差した木。その木の少し高いところに、確かにカブトムシがいた。

 しかしあんな目立たないところでじっとしているカブトムシによく気付けるなぁ。

 思わず感心してしまう。

「獲る!」

 おいおい、お前の背じゃ届かねえって。俺でも届く距離じゃないし。

 千秋はおかまいなく駆けだし、木に登りはじめた。

「おい、待てよ千秋!」

 危ない、そう勇気は直感した。千秋は軽い感覚のようだが、千秋の体は成長している。体はあのときのままじゃないんだ。それにずっと病院に居たんじゃ、体もそんなに動かせないはずだ。

 千秋はそれなのに登っていく。


「あれっ」

 ずるっと千秋が足を滑らした。

 あっ‥と千秋は声を出し、落下する。

「きゃあ!」

 ふわっと千秋は何かに包まれた。

千秋は衝撃をうけなかった。

「‥あ、勇気」

 そう、勇気が千秋を受け止めていた。さながら御姫様抱っこのように見えたのは一瞬。即座に勇気は千秋の下にうずくまった。

「だ、大丈夫勇気?」

 土や砂を払いながら起きあがる。

「ああ、大丈夫だ。つーか気を付けろよ。お前の体はあの頃と違うんだぜ」

 そう、俺が言うと、千秋はしょんぼりと俯いて、

「うん」とだけ頷いた。

 暫くの沈黙を庇うように、いつまでも蝉の声が千秋と俺を包みこんでいた。





 

 民民民! ぶうーん。

 蝉達が虫かごから飛び去っていく。近くの木に止まるもの。遠くまで飛んでいき見えなくなるもの。まだ、かごに入ったままのものもいる。

 彼らの命は、もう残り僅かなのか。蝉達は何を想いながら、力強く鳴いているのだろうか。


「それじゃ、またな千秋」

「うん。明日は六丁目の小川だからね。蛙の像があるところ」

「‥‥わかった」

 俺は手を振った。

 ‥‥‥。

 千秋は知らない。六丁目の小川にはもう蛙の像はない。結構痛んでいたため、俺が中学に入学するころにはもう撤去されていた。

 やっぱり、あの頃のままなんだな。

 ‥‥‥‥‥‥‥。

「ばいばい!」

 遠くから千秋が手を振っていた。





「明日は、川で魚を獲る、か」

 俺は自分が思いのほかわくわくしていることに気付く。


 千秋が現れてから、勇気の世界は少しずつ変わっていく。





 六丁目団地が佇む奥の柵を越えていくと、ぶどうと桃の木が立ち並ぶ農園に出る。その農園を越えた先には、緑が豊かな小川が流れている。

 ぽちゃん、とトノサマカエルが水に飛び込んだ。見事なな平泳ぎ。

 ここに来るのは、なんだかな、やはり五年振りだ。

 楽しかったのに、いつしか皆遊びが変わった。そして何より遊ぶ友達が変わった。

 皆、変わってしまったんだ。


「よし勇気、獲りまくるよ」

「おう」

 千秋はやる気満々だ。昨日の虫あみが今日は魚を獲るあみとなる。万能。

 そして虫かごはバケツに。

 くつを脱ぎ、裸足で小川に入っていく。

「冷たっ」

 まじで冷たい。

 俺の声など気にせず、千秋はばしゃばしゃと水音を立てながら歩いていく。

 さすが、元気だな。さて、俺も久しぶりにやってみっか。

 勇気は童心に戻る。


 もともと、小川などの水辺で小魚や蛙やザリガニを捕まえるのは好きだった。小学校時代でも、通な奴らはつりざお持って門前大池で釣りをしていたが、俺と千秋は池で釣りよりも小川でめだかを獲るだけで十分楽しめた。何よりその方が好きだった。

「そいやッ」

 勢いよく千秋のあみがまわる。

「‥‥‥獲った! 勇気、いち、にい、えっと六匹、六匹獲れたよ!」

 千秋の笑顔は太陽の下、輝いていた。

 




「もうバケツが一杯だ!?」

 バケツの中はメダカで溢れていた。よくみると一匹のザリガニが蹂躙している。食物連鎖!

「獲りすぎたな」

「大漁大漁! おらららっ」

 おっとッ

はしゃいでいた千秋が水をかけてきた。

 ばしゃばしゃと音をたてながら冷たい水が振りかかる。

「ちょ! お前なぁ」

 水は冷たくて澄んでいた。胸の中のもやもやがすっと消えていくような、そんな感覚。

「おらららっらー」

 千秋はぎんぎんに光る太陽の下、すごくすごく楽しそうに水をかけてくる。

 そんな千秋を見て俺は、

「仕返しだぜ うらぁっ」

 ザパァァァァァン

「きゃ」

 その瞬間、千秋がぐらついて、

「千秋?」

 ばっしゃあああああああん。

 水面に突入した。

「お、おい大丈っ」

 突然水面から千秋がジャンプして跳びかかってきた。

「うお!」

 ばっしゃあああああああん。

 千秋に続いて俺もズブ濡れになってしまっていた。

「おいおいどうすんだよこれ」

 俺は参っていたが、千秋は

「楽しかった!」

「あ‥‥」

 日差しが千秋を照らし、千秋の影しか見えなくなる。

 眩しい。眩しすぎて、俺は直視できなかった。千秋は笑い出していた。楽しくて仕方がないという様子で笑っている。

 そんな千秋につられて、勇気も笑いだした。

 楽しい。この時間がどこか懐かしくて愛おしい。

 

小川に、二人の無邪気な笑い声がしばらく響き続けた。




 一斉にめだか達が広がっていく。自由自在に小川を泳いでいく。そして最後にのそのそとザリガニが出ていく。

 ふむ、有意義な時間であった。

「ところで、明後日だね」

「え? 何が」

「足旺祭り!」

 千秋は高揚していた。

 ‥‥‥‥‥‥。

 足旺祭り。懐かしき響き。高陽団地では有名な足旺神社の祭りである。決して大きな祭りではない。各町内会の人達が協力して開く、ささやかな催し。都会に住む人から見ればお世辞にも祭りとは言わないだろう。

 ただ、小学生のとき足旺祭りは俺達にとって紛れもなくお祭りだった。いつもと違う景色、人が行きかう、露店屋台が並ぶ。学校の友達と、それに普段学校以外では会わないクラスメートともばったり会えたりしてどきどきが止まらない、それが足旺祭り。‥‥だった。でもそれは、遠い過去のお話で‥‥‥。


「一緒に行こうね! 勇気!」


 千秋が言った。勇気の目を見つめて、そのまばゆい瞳を輝かせながら。

「一緒にか?」

「あたりまえじゃん!」

「いいのか?」

「あたりまえじゃん!」


 こんなに眩しくて、純粋であの頃のままの千秋と俺なんかが一緒にいていいのか?

 そんなことが頭を巡る。俺は汚れている。俺はもうあの頃の俺じゃない。

 なのに千秋、お前は。

 頷かない理由は、ない。千秋と一緒に過ごす時間は最高なのだ。昔からずっとそうだった。

 もう、失くしたくない。

「ああ、行こう!」



 


 六月にしては珍しく満月。

 足旺祭りは丁度一番の賑わいを迎えているところだ。

 神社の境内から赤いぼんぼりが数えきれないほど灯されている。

いくつもぼんぼりが様々な方向に枝分かれしていて幻想的な風景を生みだしていた。

普段とは一味も二味も違う景色を見せてくれる。

いつもなら人が全くいないこの場所も、今日は大賑わい。金魚すくい、たいやき、たこやき、ふらんくふると、スーパーボールすくい、ヨーヨーすくい、やきとり、ざっと見渡すだけでいろんな屋台が立ち並び、それぞれに人がたむろしている。

 この景色。小学生の時はすごくわくわくと興奮したものだ。でも、いつしかそういう高揚はなくなってしまっていた。中学生になって、この祭りに行く同級生は一気に減った。

 各々は部活が忙しくてだとか、行っても大したものがないとか、恥ずかしいとか、中学生特有の現象ともいえるようなものか。俺も行かなくなっていた。

 色褪せて見えていた景色、だけど、今の俺の目には、今までにない程の景色が広がっている。

「勇気、これおいしいよー」

 たいやきが差しだされる。

「おう、ありがと」

 千秋がほくほくのたいやきを頬張りながら、たいやきをくれる。

 

 そうなんだよ。千秋がいるだけで、周りの景色さえ、輝いて見えるんだなこれが。


 たいやきは温かく、甘くて、おいしい。

 来てよかった。

「‥‥うーん。りっくんとか、真広とか、かなでとか、いないね」

 突然の言葉に俺は何も言えなかった

「‥‥‥千秋」

「知ってる人いないや」

 千秋は少し寂しそうに、いや、とても寂しそうに。

「さ、千秋。あれやろーぜ。金魚すくい!」

「‥‥勇気。‥うん! やろっか!」

 千秋の笑顔を守りたい。この純粋なままの千秋を守らなくちゃいけないと、俺は思う。




「あちゃー。‥‥‥おじさんもう一回!」

 千秋、一匹も獲れずもう三回目。水でふやけてすぐに紙が破れて金魚が逃げていく。

「はいよ。お姉ちゃん」

 むーーーーー。

「あちゃー」

 失敗。またも一匹も獲れず。

 周りの子供達がだっせー、と呟いた。

「ださくないもん! これ網がだめなんだよ!」

「うわー言い訳ですか」

 千秋と小学生が激突。といっても千秋は中身が子供でも、外見は大人びて上品に見える女子高生そのものだ。

 千秋は周りから見たらどう見ても大人げないやつだった。

「お姉ちゃん。まあまあ落ち着いて、ほらこれ」

 金魚すくいのおじさんは金魚が二匹泳いでいる小袋を渡してくれた。

 千秋は腕を組んで、

「‥‥‥まあ、勘弁してやろうじゃないか」

 何故か偉そうにしていた。




 勇気と千秋は、いろんな屋台をまわった。千秋はいろいろゲームをした。射的、輪投げ、ヨーヨーすくい、町内会くじ引き。全部、小学生に混じって騒いでいた。だけど浮いていたようには見えなかった。むしろ千秋や子供達の中で浮いていたのはこの俺だったと思う。

 俺はいつ、子供じゃなくなったんだろう。いつからこんなつまらない奴になってしまったのだろう。

 千秋は子供達と何の壁もなく騒いで騒いで楽しそうにしている。それを見ていると‥‥。

 それは勇気にとってとても懐かしく感じられる。

千秋といると、まるで自分はまだ小学生のままのような気さえしてくるのである。

しかし、それは一時の現実逃避に過ぎないともう一人の自分が囁く。

「いいだろうが、楽しいんだからよ」

 ぽつりと、勇気は一人呟いた。

 子供達が俺の周りを駆け抜けていった。

 ‥‥‥‥俺にも、あんな時代があったのにな。





「あー楽しかったね!」

 あれやこれや背負って千秋が言った。全く元気で何より。

 夜は更けていく。もう時間は九時が近い。

 笛の音が響いてくる。

 やよいやよい、はい! やよいやよい、はい! やよーい音頭でやよい、はい!

「始まったな、やよい音頭」

 境内からは大きな太鼓の音が聞こえ、舞いの楽音が鳴る。

 人々が太鼓や笛の音に合わせて音頭をとりはじめる。

 お年寄りの踊りを見よう見真似で子供達が踊りはじめる。これが足旺祭りの最後の締め。

 このやよい音頭は、高陽団地の伝統の一つでもあるらしい。俺も昔、踊ってたっけな。

「さ、勇気! 一緒に踊るよ」

「え?」

 さも当たり前のように、千秋は俺の袖を引っ張った。

「せっかくの祭りなんだから。ほら早く早く!」

 千秋は荷物を端のたこやき屋台に置いて、俺を引っ張りながら音頭の列に加わった。

「俺、もう覚えてねえよ」

「だいじょぶ。私覚えてるから」

 千秋はそう言って踊りはじめる。よよいのよい、よよいのよい。

 それは見事だった。優雅で上品で、気品が、俺の語彙力じゃ言葉が全然足りない。

ぼんぼりに照らされた千秋はどこまでも美人であった。

 俺は千秋の真似をして手足を動かしていくが、上手くいかない。

「こうだよ勇気」

 千秋がこっちを見ながら体を動かして、教えてくれる。

「彼女さん、上手ね」

ふと後ろの婦人に囁かれた。

「かかか、彼女じゃないです」

「あら、そうなの? お似合いなのに」

 婦人はにっこりと笑った。

「勇気、どうかした?」

「い、いや何も」

 ふう、千秋には聞こえてなかったらしい。

 やよい、やよい、はい! やよーいやよい、はい!

 あれ? 不思議だ。徐々に体が動くようになっている。確かこの後は手を後ろに回してと、‥‥そうか。

 体が覚えているんだ。こんな昔に踊ったことでも、体はまだ覚えてたんだ。

 そうだった。やよい音頭は小学校の頃、何度も踊ってたんだった。

 ‥‥‥。

 どうして忘れてしまっていたんだろう。

 本当に俺は、いろいろ失くしてしまっているみたいだ。笑えない。

「勇気、もっと笑顔で。ほら、にこっ」

 辺りは明るく太鼓と笛の音に包まれ、人々はいきいきと踊っている。

 千秋が眩しい。景色が眩しい。なんて心地よいだろうか。他のどんなに大きい祭りだろうが祭典だろうが、この高陽団地の足旺祭りには勝てない。少なくとも勇気と千秋にとっては。



 俺と千秋は、祭りが終わるまで、踊り続けた。

 夢のような時間だった。




 人の数は次第に減っていき、屋台も次々と解体されていく。ぼんぼりも一つずつ取り外されていき辺りは徐々に暗くなっていく。祭りの後、とはよく言ったものだ。確かに今ここに来ても、切なくなるだけだろう。

 ん? 

 千秋が静かである。見ると何か考え事をしているようだった。

「どうした千秋?」

「せっかくだからさ、お見舞いしとこう」

「お見舞い?」

 千秋は鳥居をくぐり抜けて、境内へと続く階段を上りはじめる。

 あ、そういうことか。

「お見舞いじゃなくて、お参りな」

 せっかくだし、俺も参拝しとこうか。


 境内は静まり返っていた。ぼんぼりも外され、太鼓も片づけられている。そして暗い。辺りを見回すと屋台の片付けやなんやらで灯りを確認できるが境内自体は暗かった。

 ただ、夜空の月光が俺と千秋を照らす。

「じゃ、一緒にお見舞いお見舞い」

「お参りな」

 俺と千秋はお賽銭箱に十円玉を放って、鈴をならして、手を合わせた。

 ‥‥‥‥‥‥‥。

 俺は、何をお願いすればいい?

 ‥‥‥‥‥できることならこのまま千秋と。いや、それは少し勝手すぎる。

 ふと隣りを見ると、目を閉じて、手を合わせている千秋。

 千秋、お前は何をお願いするんだ?

 月光の効果なのかいつも以上に大人びて見える。

 再び勇気は視線を戻し、目を閉じて、手を合わせた。

 どうか――。


 


「ふっふっふーん」

「ご機嫌だな」

 千秋は手荷物を振り回し、鼻歌にしては見事な音階を奏でる。

 夜の並木通りは静かで閑散としている。祭りがあっても、ここまで来るともういつも通りの景色だ。

「ところで千秋は何をお願いしたんだ?」

 これを聞くのは無粋なことだろうかとも思ったが聞かずにはいられなかった。

「んー。ま、いっか、教えてあげる」

 そう言って千秋は月を見上げた。


「みんなとまた遊べますようにって」


「みんな?」

「うん、かなでとかりっくん、真広ちゃん、美咲も、あと小春、てっつーとー」

「‥‥‥‥‥」

 その願いを叶えることがどれほど難しいことか。

 勇気は何も言うことが出来なかった。

「会いたいな、みんなに」

 夜空の星を眺めながら千秋は呟いた。





「あれって‥」

 並木通り、勇気と千秋の後ろ五十メートル。

「どうしたの真広?」

「いや、見間違いだと思うんだけど‥‥」

「何なに、幽霊?」

「今あそこに、千秋がいたような」

「え? 千秋って、‥‥あの千秋?」

「うん、冬宮千秋」

 そう真広が答えると、小春は言葉を失っていた。

「そんな、まさか」

「うん、そうだよね。いるわけないよね。私の見間違いだ」


 白崎真広はその場では見間違いと言ったが、内心、本当に千秋だったのではないかと思った。




 

「楽しみー」

 千秋はうきうきわくわくといった感じだが、勇気はその逆だった。

 怖いのだ。久しぶりに同級生と再会するのが、怖い。そして何より千秋のそのきらきらした笑顔が崩れてしまう可能性が高いことが、何より恐ろしい。

 一丁目団地が見えてくると千秋の足どりはどんどん早くなっていく。

「かなーで、かなでちゃん!」

 松前かなで。あの頃千秋がよく一緒に遊んでいた友達の一人。

 かなでは、いや松前は容姿端麗、面倒見が良くしゃきしゃきとした性格から男子からすごくモテた。小学校時代、あこがれのまどんな と男子だけではしゃいだものだ。

 ただ、それは あの頃の話。

 中学に入ってから松前は変わった。変わってしまった。柄の悪い不良と付き合いだしてから、髪も茶色に、耳にはピアスも空けていた、いつも不良メンバーの中心にいたので怖かった。三年時はあまり学校にこなくなり、今はどうしているのかわからない。

 勇気は小学校を卒業して彼女と喋った記憶がない。

 ‥‥‥‥‥‥。

 もうお前の知ってるかなではいないんだよ。

 千秋、お前の笑顔が、消えるところなんてみたくない。けど、

 言いだせない。

「ここ、ここだ!」

 絶対行くと言われて押し切られてしまって、もう戻れない。


 団地 113館 四階。右扉。

 階段を上がるのが懐かしく、古びた手すり鉄の匂いが鼻につく。


 ぶるぶると千秋の手が揺れる。‥‥‥はよ押せ。

「‥‥‥勇気、押してよ」

 何やら緊張してるらしい。

「はあ、しゃあねえな」


 ピンポーン。


 押した。

 しばらくの沈黙。留守か?

 そういやインターホンを押した後って、なんか緊張してたな。もうそんな機会なかなかねーけど。

「和哉―? ちょっと待って、すぐ出るからー」

 え、和哉?

「どゆこと」と千秋が呟く。

 扉の向こうから歩きまわる足音がして、そして

 がちゃん、と扉が開いた。

「おまたせー‥‥‥‥って誰?」


 松前は想像通り派手な化粧に茶髪だった。

「あ、あの、え、えと勇気。このお姉ちゃん誰?」

 かなでだよ! と突っ込もうと思ったが口が動かなかった。

「えーと、すみませんけど、人違いじゃないですか?」

 松前はこっちを見て不審そうに言った。

「‥‥なあ松前、千秋って憶えてるだろ?」

 ぽん、と千秋の肩を叩き、

「千秋だ」と松前の目を見て

「憶えてるよな」と念押しに二回伝える。

 松前、わかるか?

「いやちょっと意味わかんないっていうか、人違いって言うか‥‥」

「やっぱりかなでだ! わからなかったけど、よく見たらかなでだー」

 千秋はかなでだと気付いたらしく、顔がほころぶ。

「え、ちょっと、ほんとに誰?」

 瞬間、千秋の顔が固まる。

「わ、私だよ。千秋」

「千秋? ‥‥‥‥‥あっ、まさか千秋って、え、でも」


「うっす、かなで。待たせたな。行こうぜーってお取込み中?」

 背の高いちゃらちゃらとした男が背後に。

 男は何か底知れない気迫を感じさせる。ただの不良ではないようだ。

 千秋の体が縮こまる。俺も冷汗が‥。

「ううん何でもない。行こっか」

 松前は俺と千秋を越えて、階段を降りはじめる。

「おい、待て‥よ」

 声を絞り出して、

 止める。すると、松前は振り向いた。止まってくれた。

「ごめん、乗るバス出ちゃうから。‥‥広中だよね、あんた。久しぶり。それと、千秋、ほんとに、千秋なんだね」

 そう言って松前は行ってしまった。少し寂しげな顔をしていたようにも見えた。

 静かな団地の真ん中に、俺と千秋はぽつんと取り残された。




 千秋はなんとも言えないような表情で歩いていた。

「おい、大丈夫か?」

「あのね、勇気」

「何だ」

「かなでじゃなかった。いや、かなでだったけど、私の知らないかなでだった」

「‥‥‥‥‥」

 上手い言葉が見つからない。だから勇気は話を切り替えた。

「りっくんのところ行こうか」

「うん、すぐ行く。というか向かってる」

 千秋は珍しく無表情で言った。機嫌はよくないらしい。それは当たり前だ。


 一丁目の長い坂道を登っていくと、三丁目に着く。

 母校、高陽西小学校が視界に入る。

 千秋は小学校前を通っているときも、何も言わず、無言のままだった。

 様子が、おかしい。

「千秋、ほんとに大丈夫か」

「何のこと?」

 無表情で返されたので俺は何も言えなかった。


 赤みがかったレンガ道を越え、細い階段を登れば大通り。住宅地に出る。

 その一角にあるのがりっくん、仲原陸の家だ。

 陸とも中学に入ってからはあまり遊ばなくなった。陸はガチの体育系だった。中学時代、野球部のエースだったりっくんはその実力で推薦を受け、県内有数のスポーツ高に進学した。

 今も野球一筋なんだと思う。

「ついた」

 小さな声で千秋が言った。

 大きな一軒家だ。そして大きな車庫。車はなかった。

 きっと陸はいない。けれども俺はインターホンを押す。

 ピンポン

 しばらくの静寂。

 ‥‥‥‥。

 物音ひとつ聞こえない。

「いないな。多分まだ帰ってないんだ」

 そう千秋に言うと、千秋は案の定。

「待つ。りっくんが帰って来るまで、待つ」と言ったのだった。




 日が暮れてきた。もう六時が近い。あれから何十分待っただろうか。もしかしたら一時間を越えてるような気もする。

 千秋はずっとだまったままだ。俺はいたたまれない。

 早く帰ってこいよ、陸。

 そう呟いた時だった。

 キキ―、と自転車が目の前に止まった。

 隙間からグローブが見える野球鞄を下ろして、野球帽をかぶった男子が姿を見せる。

 陸だ。

「よう」

「ん、‥‥あぁ、勇気か。久しぶりやな」

 何やら陸は疲れているようである。だるそうな表情、全身から伝わる疲労感。

 喋ることすらも面倒くさそうである。

「それにしても彼女と一緒かよ。ふざけやがって」

「ち、ちが、千秋なんだ」

「は、お前何言ってんの? つかよ聞いてくれよ。俺さ、いきなりレギュラーになったのは良いけどよ三年の先輩がめちゃくちゃ厳しくてよー。もうくたくた。走り込みキツ過ぎてなー。グラウンド何十周させるつもりだっての。‥‥ふう、悪いな。愚痴ってもわかんねえよな。まあ、すっげえ疲れてるってことなんで、寝るわ。じゃな」

「お、おい陸」

「彼女と仲良くなー」そう言って陸は自分の家の門をくぐる。

 千秋のことに陸は気付かなかった。千秋は無表情で固まったまま。

 陸はほんとにくたくたのようであった。足がふらついている。きっと強豪校の練習は想像以上に大変だったんだろう。

 でも、だけどっ!

「待っっ」

 どんっと千秋に背中を叩かれた。

「もういいから」

 ぼそっと千秋が呟いた。

 陸はそのまま家に帰ってしまった。




「なんか、悪かったな」

 千秋は無表情だった。だけど突然笑みを浮かべて微笑んだ。

「次は、美咲の家行こっか」

「‥千秋」

「ほら行くよ! 行くよ!」

 手を引っ張られ、俺はついていく。

 からげんき。

 今の千秋は、どこか、悲しげで、無理に笑っているように見えた。

「美咲のいえはー、あっちだー」

 ‥‥‥。


 長谷部美咲。おてんば少女という言葉がしっくりくる。中学時代、遊ぶことはなくなったものの何度も話したことはある。正直、長谷部なら千秋を喜ばしてくれると思う。だって長谷部はあの頃からあまり変わっていない。中学でもにこにこして自然と周りを明るくする奴だった。高校は確か、岡山商だったか。確か街の方に出てたな。

 中学卒業からは会ってないけど、千秋が来たらびっくりするだろうな。ちょっと楽しみだ。

 それに千秋も元気いっぱいになってくれるだろう。


 七丁目、高陽団地で一番高い丘の上に位置する住宅街。中心には大きな広場があり、集会所や子供塾がある。そして俺達の溜まり場の一つだった駄菓子屋、ひまわり商店。‥‥はもうないんだったな。

 ま、そんなことより、長谷部だな。



「そ、‥んな」

 声が出なかった。長谷部美咲はいなかった。というか

 そもそも家がなくなっていた。

『空き地 売り地』大きな看板がさら地に立てかけられている。

「美咲、いないね」

 千秋は、笑っている。無理に笑って、それで俯いた。

 くそ! 引っ越していたのか、長谷部のやつ。

 これじゃあ、会えるわけがなかった。



 千秋は笑っていた。

「なんだー、引っ越ししてたのかー。もうびっくりしちゃったな」

「‥‥‥そうだな」

「仕方ない、仕方ないからお菓子を食べる」

 やめろ。そんな寂しげな顔で笑うな。

 お前の作り笑いなんて見たくねえ。

「勇気、ひまわり商店行こっ」

 立ち尽くす俺の手を握りしめて、千秋は歩きだす。

「行っくよー」

 千秋は駆けていく。

「おい待っ」

 咄嗟に繋がれた手が離れてしまった。

 どうして、こんなことに。

 全てが、変わってしまっている。想像以上に、変わってしまっていた。

 言えない。言えなかった。ひまわり商店がもう三年も前に潰れてるなんて‥。

 俺はただ無力に千秋を追いかけることしかできなかった。



「あ‥‥れっ」

 見ていられなかった。千秋はただ、呆然と立ち尽くしていた。

 閉じられているシャッター。錆びついてぼろぼろになった看板。

「くっ、千秋」

 俺はただ、かすれた声を出すことしかできなかった。


「あれ、広中じゃん。よう、こんなところで何してんの?」


 割り込む声。‥‥‥。

声の主は三石だった。中学時代そこそこ仲が良かった。小学校も一緒だったがそのときは縁はなかった。中学から皆それぞれ友達が変わってしまった。それは自然の摂理なのだろうか。

 今、三石のことは置いとけ! 千秋を。 千秋を!

 自分の中から声がした。

「千秋だ。憶えてるか三石。千秋だよ」

 五年前と変わらない少女を指して言った。

「あ? 千秋。そりゃ誰だ?」

「だから千秋だって! 憶えてるだろ」

「いや‥、誰だよ千秋って。俺はそんなやつ知らねえよ」

 決定的な言葉。千秋の存在を否定する言葉。

「帰ってくれ」

「え、‥」

「三石、悪いけど今日は帰ってくれ」

「何いって」

「帰れっつってんだよ!」

 叫んでいた。俺は叫んでいた。叫ぶしかなかった。

「意味わかんね」

 そう吐き捨てて三石は立ち去った。

 ‥‥‥‥‥‥。

「なあ、千秋」

 返事がない。

「‥千秋?」

 千秋は俯いている。ぶるぶると震えるほどに自分の手を握りしめている。

「大丈夫‥か?」

「はは、そっか」

 千秋が顔を上げた。千秋は笑っていた。だけど、嘘の笑顔。俺にはわかってしまった。

「そうだよね。私ずっと寝てたから仕方ないよね。うん仕方ない仕方ないんだー」

 千秋は笑う。

「‥‥‥‥‥」

「みんな私のこと憶えてないのも、無理ないか。そりゃそうだよ、私ずっといなかったんだから」

 笑いながら続ける。千秋の口は止まらない。

「やめろ、千秋」

「はは、なんで期待しちゃってたんだろ。私、ほんとばかだ。ばかみたーい」

「やめろよ」

「私なんていない方がいいんだよ。うんそーだそーだ。もう、どうでもいいや。どーせ勇気も私のことなんてすぐ忘れると思うし‥‥」


「もうやめろォォォォ!」


「っ‥‥‥‥勇気」

「やめろって! ‥‥‥冬宮千秋! お前はちゃんとここにいるぞ。俺の友達の千秋! 忘れるわけないだろ! ふざけたこと言ってっとぶん殴るぞォ!」

 俺は、すごく腹が立った。必死に笑って、心にもないことを漏らす千秋が許せなかった。

「‥‥‥‥ぐすっ‥。勇気は忘れない?‥ 私のこと、忘れない?」

 千秋は、泣いていた。目を赤くして、鼻水たらして、泣いていた。

「あたりまえだろ」

「私‥‥‥ちゃんとここにいるよ。見える?」

「あたりまえだって」

 うわーーーーーーーーーーー。

「おい、ちょっ千秋?」

 千秋に抱きつかれた。

 温かくて、甘い香りで、ああ、懐かしくて。



 失ったものは大きい。

 だけど、取り戻せるものだってたくさんあるはずなんだよ。





「千秋、その、明日も知ってるやつの家行ってみるか?」

 このままじゃ嫌だろ。俺は、嫌だ。だけど千秋は

 首を横に振った。

「やめるのか?」

 またしても千秋は首を横に振る。

「きゅーけい。ちょっと疲れたから。休憩ってことで」

「休憩か。そうだな、それがいいかもな」

 ‥‥。

 でも、俺は千秋とはしばらく会えなくなるってことか‥。なんか嫌だな。寂しい。俺にとってはもう、千秋はいて当たり前の存在になりつつある。だから本音を言うと、休憩なんて俺にとってはいらない。もっと千秋と一緒に過ごしたい。じゃないとまた俺は、何もない空虚な日々に戻ってしま‥


「ということで、明日は一緒に学校行くよ」

「へ?」

 拍子抜けの一言。

「私の通ってるもふもふ学校へ招待してあげる」

「まじか」

「まじだー」

 千秋はいつも予想を越える。昔もそうだった。変わってない。昔から俺は、千秋に振り回されるのが嫌いじゃなかった。

 



 

プシューゥゥ、と電車のドアが開く。俺と千秋はドアをくぐり電車に乗り込む。

 車内は空いていた。空き席が半分以上ある。ゆったりとできる。

 俺と千秋は向かい合った四人席に座った。

 プシューゥゥ、ドアが閉まる。

 ガタン、ゴトン‥と音を立て、電車が動き始める。

「次は―たかもとーー、たかもとでございます」

 アナウンスの真似を始める千秋。

 なんというか、可愛い。

 揺れる外の景色と、正面席の千秋が目に入る。それは不思議な感覚だった。

 こんな日が来るなんてな。千秋と二人で、電車乗ってるよ俺。

「なんか遠足みたいだねー」

「そうか? どちらかと言えば新幹線っぽくね。修学旅行が懐か‥‥あっ」

 そうだった。千秋は修学旅行に来てないんだった。千秋のいなくなった六年生のときの思い出なんて引っ張ってどうするんだ。ばかだ俺は。また、千秋を傷付けてしまっ‥。

「いいなー修学旅行。私も行きたかったよ」

 千秋? すごく大人びた表情で呟いたその様子、俺はたじろいでしまった。

 まるで年上の先輩みたいだ。お前は俺なんかよりもずっと‥。

 きょとんとして俺を見つめる瞳。

「勇気、どうかした?」

「いや、別に」

 幼い一面を持ちつつも、稀にすごく大人びていて静かな一面を見せる千秋。

 一瞬、目の前にいるのが千秋だとわからなくなりそうだった。

 記憶のなかの千秋よりも、目の前の千秋は成長してる。体だけじゃなくて、心も。

 俺にはそう思える。

 ふわっ

「え? ‥‥‥うお!」

 心臓の鼓動が高鳴っていた。

 隣りに千秋が割り込んできていた。

「となり!」

 近い。距離が近い。甘い匂い、する。頭がぼうっとする。

 ああ、やっぱり、千秋は女だ。異性として意識してしまう。

「これで遠足のときのバスみたいになった」

「あわわわ」

 遠足のバスだろうが新幹線の席だろうが、はたまた飛行機の席でも女子と隣合わせだったことは一度もない。勇気は女の子に慣れていない。

「あわわわ」

 と固まるのだった。

 そんな勇気を見て、

「あわわわ」と千秋も真似をするのだった。




 まもなくー大和町――、大和町でございます。お降りの際はーー

「ここで降りるよ」

「わかってるって」

「ならよろしい」

 なんで偉そうなんだよ。

 ガタンゴトンと音がゆっくりになり、電車が停車する。

 プシューゥゥゥゥ、ドアが開く。

 もう三つ駅を越えれば終点の岡山だからか、人も増えてきている。

「脱出せよ!」

 ていっと謎のポーズを決めて千秋がドアへと進みだす。

「誰だよお前は」



 車掌さんの笛の音が響き、ドアが閉まる。

 ガタンゴトンと電車が徐々にスピードを上げていく。

 ‥‥‥‥。

 電車の去ったホームは、少し寂しげに映った。

「さて、行くか」

「gogo!」

 俺や千秋と同じくここで降りた人々が改札口に消えていく。

 俺達も後を追い、改札を抜けて階段を下って、駅の外に出た。


 目の前には大きなスーパーがあり、またパチンコ店がある。人通りは少なくなく、コンビニ一つない高陽団地と比べれば十分に街である。

 道路には絶えず車が通過しているので、歩道橋を渡る。

 歩道橋を越えて大通りの交差点を曲がると、大きな書店やファミレスなどが立ち並んでいる。

「ここを真っすぐいったら着くよ」

「そうなのか」

 大通りの横にそれた細道。千秋につられて進んでいく。


 住宅地を越え、少し進めば景色は一気に田舎のそれに変わる。畑や田んぼが目立ってくる。

「それにしても、今日は涼しいな」

「すっずしいよー」

 六月にしては風が心地よく、吹いている。とても過ごしやすい気温だ。

 真夏の兆し。猛暑の前の静けさ。蝉もまだこの辺りでは鳴いていないのだろうか。


「着きました!」

 ここが、千秋の通ってるもふもふ学校。

 大和町総合病院。大きな病院だ。名前も何度か聞いたことがある。県内でもこの規模の病院は数えるほどしかないだろう。

 ここに学校があるのだろうか。

 この規模の病院に入るのは久しぶりなので少し体がこわばる。

 病院内のフロアは予想以上に広かった。テレビと自販機の後方にはいくつものテーブルとベンチが並んでいる。そして仄かにカレーの香り。どうやらこの広いフロアは食堂も兼ねているようだ。壁の奥に厨房がある。だからこんなに広いことにも納得できる。

千秋はずんずん歩いて受付のおばさんに元気よく挨拶した。続いて俺も会釈した。

人は想像していたよりも少なく、ゆったりとした雰囲気があった。俺が昔行ったことがある県下の大病院では人が多すぎて気分が悪くなったものだ。

全体的にこの病院はのんびりしてるな。


東病棟。224山崎亮太 225和森聡子 と各部屋のプレートには名前が記されている。それぞれの患者さんの病室だ。どの部屋にも一人ひとり患者さんがいるようだった。

時折部屋から話し声も聞こえてくる。

廊下で看護婦さんとすれ違った。千秋と看護婦は互いに目を合わせて微笑んだ。

「知ってる人?」

「いやー。見たことあるだけの人」

 リアクションに困るぜ。

 各病室の廊下を越え、大きな渡り廊下を進んでいく。そして突き当たりには。

 他の病室よりも大きな扉。

 もふもふ学校、と書かれた雲の形の大きなプレートが掛けられている。

「勇気、ここが私の学校」





扉が開いてゆく。

 千秋と共に中に入った。

「千秋姉ちゃん!」

「あ、千秋だ」

「ちあきー」

「ちあきたー」

 子供達が駆けよって来る。

「えっへん! 皆の衆。千秋が帰ってやったぞ! ほれほれ」

 なんか偉そうだ。

 部屋は思いのほか広く、前の壁には大きな黒板がある。隣りには本棚。壁には子供達が書いたのだろうか。楽しそうで個性豊かな絵が飾られている。また十分スペースを開けて、一つ一つの机が並んでいるのでより快適そうである。


「ちあきおねーちゃん!」

 子供達は十数人ほどで、背丈からしてみんな小学生のように見える。一年生から六年生まで一緒の教室。学年の区別はないようだ。

 そのなかでも千秋は背丈が誰よりも高かった。傍から見れば誰がどう見ても子供と一緒に遊ぶ高校生のお姉さんだ。だが、

「千秋―、ここ教えてー」と一人の男子が算数の教科書を開く。細い体だけど背が千秋の次に高いのはこの男子だ。六年生か。

「ふむふむ、‥‥‥‥‥えーとね、あのね、自分でやろっか」

「あー千秋わからないんだ」

「わかるよ! わかるけども!」

 その会話はお互い小学生のそれだ。

「千秋ってさ―、この中で一番大人っぽいのに僕の方が勉強できるんだぜ」と一人がぼやく。‥‥‥んなこと聞いてねーよつか誰だよ?

「つか、君誰?」

 さきに聞かれた。他の子供も寄って来る。

「お兄ちゃんだれー」

「のっぽさん のっぽさん」

「おじさんだれー」

 おい、のっぽはともかく、おじさんはねーだろ!

「私の友達だよ。勇気って言うの。みんな仲良くしてあげてね。彼寂しがりだから」

 とんっ、と千秋が俺の肩をたたく。 何この扱い? お前キャラ変わってね。

「よろしく」と俺は言った。

「声が小さい!」男子が吠える。

 生意気な餓鬼だな。

「声が小さい!」

 千秋も吠える。おいおいお前は乗るなよ。

「くっくっく、れでーすあーんぜんとるめーん! 新入りも混ぜてやろうではないか。まずはこれでいこう」

 意味深な雰囲気を醸し出して、男の子の一人はトランプを出した。 

うん君、ぎこちない英語が可愛い。小六病?

 

「くくく、見せてもらおうじゃないか貴様の力を!」

「ごごごごご」←男子達効果音。

 何だこの男子達可愛すぎだろ。

「男子って子供よねー」

「だよねー」

 女子は囁き合う。もちろんその中には千秋もいる。なんというか不思議な光景だ。



 楽しかった。子供達と一緒にとらんぷ。すごく、楽しかった。

 まるで自分も小学生の頃に戻ったみたいだ。

「またおにーちゃん大貧民だ」

「だっせー」

「よっしゃ僕大富豪」

 子供達はどこまでも純粋だ。それゆえ誰とでも仲良くなってしまう。けんかしてもけろっと仲直りできる。遊びの天才。仲直りの天才。

 俺も昔は、‥‥‥‥いや、よそう。振り返ってばかりじゃ仕方がない。

「もう一回やろうぜ」

「よし来た、望むところ!」

 



 俺はお手洗いに出ていた。ったくトイレに行くのも一苦労だ。しきりに男子が、うんこーうんこだーと叫んでくる。まあ、どこか懐かしいけどな。

 小学校時代、授業中に腹を壊すと、あだ名が大変なことになりかねない。

 廊下を進んでいくと、ふと後ろから声をかけられた。

「君、待ちなさい」

 聞き覚えの全くない男の声。俺は振り返った。



 そこは会議室だろうか。今は無人である。普段使われている様な気配もなく、しんとしていた。

「私は国立というものだ」

 初老の医師はそう言った。勇気は思いだした。さっき部屋でトランプをしてたときに、ドアから覗いていた人だ。何だろうと思った時にはもう、その医師はいなかった。でも今目の前にその医師はいる。何の用だ。

「私はこの病院の院長だ」

 へ? えええええ! 

「な、何のご用でしょうか?」

 恐る恐る口を開く。何故俺に話しかけてくる? 俺は何かいけないことでもしただろうか。

「君は千秋君の友達かい」

 それは予想外の質問だった。

「はい」

「どうだった? もふもふ学校は?」

「はい、‥‥楽しかったです」

 そう答えると、院長先生は少し訝しげな表情をした。

「君はもふもふ学校が何のための学校か、知っているかね?」

「‥‥‥いえ」

「あそこは、事故や病気、虐待、いじめなど様々な事情を抱えた子供達のための学校だ。普通学校に行きたくて行きたくて、それでも行くことができない。そんな葛藤を抱えた子供達が仲間とふれあって、楽しく学ぶ場だ。子供たちにとっての大切な、なくてはならない居場所なんだ」

 院長先生の言葉に、俺は何も答えることができなかった。

「君は何も考えず、遊んでいたんじゃないかね」

「‥‥‥それは、違います」

「じゃあ、子供達を可哀そうな目で見ていたのか」

「違いますよ!」

 疑い深い院長先生の目と真っ向から対峙した。

「‥‥‥いや、すまない。嫌な言い方をしてしまった。私は口下手でね」

 自嘲気味に院長は呟く。

「‥‥はあ」

「千秋君は、前と比べて随分元気になった」

「そうなん、ですか?」

 前、とはいつのことだろうか。小さな疑問が頭に浮かんだ。

「それは、君のおかげなのかもしれないな。千秋君は言ってたよ。君と一緒に祭りに行けて楽しかったと、ここのみんなにいっぱい話してたよ」

「ほ、本当ですか?」

「ああ、本当だ。他にも虫獲りでは木から落ちそうになったとき助けてくれたとか、川で水を掛けあったとか、いろいろ彼女は話していた。そのときの彼女、すごく楽しそうだったぞ」

 千秋が、俺のことを。

「きっと君と再会できたことが、本当に嬉しかったんだろうな」

 院長先生は遠くを見つめるような目をしていた。そして俺の目を見据えてきた。

「千秋君には、君が必要なんだと思う。だからときどきでいい、また一緒に千秋君と遊んでやってくれないか」

 院長先生は立派な医者なんだろう。だけど、何かが、足りないように思える。


「遊んであげる、じゃなくて俺が千秋に遊んでもらうんですよ。俺が千秋と遊びたいんですよ。一緒に、居たいんですよ」

 院長先生は何も言わない。俺は続ける。

「昔からそうでした。千秋はいつも、俺を引っ張っていってくれた。どこへでも連れ出してくれた。千秋を見てると元気を貰えるっていうかなんていうか‥」

 とんっと肩をたたかれた。

「千秋君は、良い友達を持ってるな。   そして君も、な」

 院長先生の手はごつかった。

「はい!」

「どんな奴かと心配していたが、君のようなしっかりものが千秋君の友達で良かった」

 とんっとんっ、今度は二度、肩をたたかれた。




渡り廊下を進む、もふもふ学校の扉が見えてくる。

 っといきなり扉が開く。子供達が一斉に飛び出してくる。

「なっ、なんだ!」

「逃げろ―」

「えすけーぷ!」「ごごごごごご」

「鬼さんこっちだー」

 ドンドンと遠慮なしに俺とぶつかっても通り過ぎていく。

 子供達の中に千秋が。千秋と、目が合った。

「勇気―、一緒に逃げよ」

 千秋が俺の手を掴んで駆けだす。

「お、おう」

 どうやら鬼ごっこが始まったらしい。

 でも病院で鬼ごっこなんてしたら怒られるんじゃ‥。



「こら! 何しとるかァァァァァァ!」

 案の定でした。

 年配の看護婦さんが怒り狂っている。

「やば、勇気思いっきり走るよ」

 俺と千秋は駆けていく。千秋の足は思ったよりも速かった。

「待たんかいこらァァァァ!」

「ひいいいいいいいい、鬼婆が来るーーー」

 


 僅か五分もたたず、子供達全員は大人の手により捕まってしまった。

 こっぴどく怒られました。はい。





 ガタンゴトン。電車が発車する。

 次は―高陽団地――、高陽団地でございます

 アナウンスが流れる。

「千秋、次だぞ。起きてるか?」

 ‥‥‥‥返事はない。さっきから目を閉じていたが、やっぱり寝てたのか。

 くぅ、すぅ、くぅ、と寝息が聞こえてくる。

 こうして窓にもたれかかって寝ている姿を見ると、すごく様になる。思わず写真を撮りたくなる。

「くぅ、‥‥ゆうきー」

「え?」

 起きてるのか?

 ‥‥‥いや、寝言か。


 窓を少し開けると、心地よい風が吹き込んできた。

 一面田んぼ景色だ。新緑の景色が流れていく。踏切の音がエコーをかけて消えてゆく。

「うう、うん?」

 虚ろな目を開けて、千秋がのろのろと体を起こす。

「帰ってきたぞ」






 ふと部屋の窓を開けた。外はもう真っ暗だ。耳を澄ませば遠くから蛙の鳴き声が聞こえてくる。田んぼではたくさんの蛙が合唱しているのだろう。

 さて、手付かずだった宿題を片付けるか。数学に英語に古典、生物、溜まりたまった宿題の数々。

 千秋と再会する前の俺なら考えられないことだ。全てのことに気力をなくし、宿題なんて全くする気分にならなかった。高校の授業も全然耳に入らなくなっていたが。

 千秋に会ってから、無気力から解放されたような気がする。当たり前だが勉強なんて皆無の如くしていなかったので学年での成績順位は下から数えた方が圧倒的に早い。

 自慢ではないがこれでも小学生の時はトップクラスで勉強ができていた。

 だがそんなことはどうでもいい。過去の栄光など、もういいんだ。

 でも過去は、何らかの形で今に繋がっている。それは風化した思い出か、それとも磨けば輝きを再び放つものか。

 きっと後者。

 千秋と会って、そう信じることが出来た。


 俺はもう一回、やり直せるだろうか。

あの頃のように、心から笑うことができるだろうか。

きっと、出来る。千秋と一緒に居たら、出来るような気がしてくる。


さあ、まずは宿題を片付けるか。

そう呟いて、俺は数学チャートを開いた。





「真広、いるかな」

「いるんじゃないか」

 頼むぜ神様。今度の再会は、千秋を喜ばしてくれよ。

 白崎真広。中三の時まで同じクラスだった。優しい委員長という言葉がしっくりくる。彼女はおしとやかで清楚だった。小学校時代からの落ち着いた物腰は一層磨きがかかっていた。

 まさに大和撫子。それは大人気アイドル、輝く王道美少女というよりは、一歩引いた雰囲気であった。しかしその飾らないところが逆に彼女を引き立てていたようにも思える。

間違いなく和服が似合う美人だ。

 才色兼備な白崎は今、秋山高校に通っていると聞く。県内一の進学校だ。

「真広、私のこと、憶えてる。かな」

 千秋は不安そうだった。無理もない、松前に陸は変わりすぎていて、長谷部は引っ越していた。みんなが遠い。みんながいない、いなくなってしまった。千秋はその現実と戦い続けている。

「憶えてるさ! 白崎は絶対にお前のことを憶えてる! ‥‥と思う」

 千秋は少しして、ふっと笑った。

「気を遣わなくていいよ。そういうの勇気下手だし」

「な、そんなんじゃねーよ」

 千秋は笑顔のままだった。


四丁目はほとんどが住宅地だ。車の通る道路は少なく、歩道が多い。赤レンガの道が続いている。レンガ道の沿いには色鮮やかな花が咲いている。町内会の力だ。

住宅地を抜けた一本線の道路先には高陽桜保育園がある。子供、といか幼児達の元気な声が聞こえる。

この保育園の角を右に曲がれば、三軒目。ここが白崎の家。

小さな日本庭園を想わせてくれる庭、戦国時代の城のような塀。松の木が江戸時代的な何かを感じさせる。

「よし、じゃあ」

 ピンポーン。

 しばらくして玄関の扉が開く。

「はーい、‥‥ってえっと、どちら様?」

 出てきたのは、白崎、じゃなくて。似てるけど、違う。

あ、お姉ちゃんか?

 白崎には三つ上の姉がいたのを今になって思い出した。お姉ちゃんだ。

「真広の友達?」

「はい、あの、真広さんは‥」

「真広は今、はむはむの、いや、犬の散歩に行ってるのー。さっき出ていったところだから近くにいると思うよ。ごめんね」

「いえ、ありがとうございます」

 ‥‥‥。はむはむ? 

 聞き覚えがあるような。



「勇気、はむはむって覚えてる?」

「うーん、犬だろ」  

それぐらいしかわからん。白崎は犬飼ってたからな。

‥。いや待て、どうして俺は白崎が犬を飼ってることを知っているんだ?

「私も勇気もはむはむに会ったことがある。三人で散歩したよ」

 真面目な顔で千秋が言う。うっすらとそんな記憶が蘇りそうになるが、上手く思い出せない。悔しいな。



 レンガ道を進んでいく。

「千秋、ほんとにこっちに白崎はいるのか?」

「きっといる」

 表情を変えず、真剣な口調で答えるので、リアクションに困る。

「真広、‥‥‥早く会いたい」

 千秋が呟いた。




「ふう‥」

 パンダ公園にて。四丁目唯一の公園。入り口にパンダの銅像があることから俺達が小学校の時はそう呼んでいた。中々広い面積のわりにはブランコと鉄棒と砂場しかないという‥。公園には誰もいないようだ。だが蝉の鳴き声がそこらじゅうから聞こえるため、賑やかだ。しかし随分歩いたが白崎の姿はない。

「いないな、白崎」

「‥‥‥‥」

 そっぽを向く千秋。

「いるもん」

「どこにだよ」

 しばらく間があった。おい。

突然道の角から柴犬が飛び出してきた。

 愛嬌がある、べろを出しながら千秋の足元に駆けてきた。

 くんかくんかハっハっハ シッシっ! 

 元気のいい柴犬。‥‥‥もしかして

「はむはむだ!」

 俺の直感を前に千秋が高らかに叫んでいた。

 フンっフンっ、くんかくんか。

 もしこの柴犬がはむはむだとすれば、近くには、


「こらっ、はむはむ! もう、急に走り出してどうしたの‥‥‥よ」

 

 目の前に可憐な少女が姿を現す。髪が少し長くなっている。だけど昔から印象的だった青色のピン留めは変わっていない。そのため今日も前髪はしっかり整っている。いや訂正。全てが美しく整っている。隙のない、だけどでしゃばりすぎない容姿。これぞ日本の女性。大和撫子! 密かに周りからモテてしまうタイプだ! とそれはさておき、

 そう、この可憐な少女の正体は、白崎真広だ。

「‥‥‥広中君?」

 彼女は少し驚いたように俺を見ていた。だけど次の瞬間、目を見開いた。

 さらに驚愕したようだった。

「もしかして、一緒にいるのって‥‥‥」

 声がぶるぶるとなっている。白崎の瞳は、千秋にくぎ付けだった。

「千秋なの?」

 白崎の瞳は動かない。

「真広、ひ、久しぶり!」

 ぎこちなく千秋が声を上げる。どうやら嬉しすぎて声がこわばっている。

「千秋、千秋だ!」

 白崎は千秋の体にふれた。

「本当に、本当に千秋だ!」

 すっごく嬉しそうに白崎が声をあげた。今にも思いっきりジャンプしそうな勢いだ。

 いや、実際にジャンプしている。大和撫子がジャンプしている。飛び回る。

「‥‥ま、まひろ」

 千秋の大きな瞳から、大粒の涙が零れだす。

 その瞬間、白崎が千秋を抱きしめた。

「おかえり、千秋。久しぶりだね」

 温かい言葉が千秋を包んだ。ようやく、千秋を包みこんだ。

 よかった、千秋が白崎と再会できて、よかった。

「ただいま。‥‥まひろ、ただいま」

 むぎゅうううううう、とお互いを抱きしめている。

 男としては、ちょっとむらむらするぞ、という雑念は全くなく、俺自身も感動していた。

 はむはむは千秋と白崎の周りを祝福するかの如く、ぐるぐると駆けまわっていた。


 千秋は、白崎真広と再会した。

 失われた空白の時間が、またひと欠片、繋がる。






 部屋の窓を開けた。窓から夜空を見上げると、月が綺麗だった。満月、まんまるお月さまだった。煌びやかに輝く月が、まるで自分を照らしているように感じられた。

 モノクロの世界に、色が付いていく。そんな感覚。

 今度、俺と千秋と白崎と陸、この四人で集まることになった。

 集まって、遊ぶ。何をして遊ぶのかはわからないけど、集まるんだ。

 楽しみだ。まるで、小学校の放課後に戻ったような‥。

 ‥‥‥‥‥。

 そのためにはまず陸と会わなければならない。

 陸はまだ憶えているはずだ。楽しかった小学校時代を。

 それと、はっきり伝えなきゃいけないことがある。

この間、お前の目の前にいたのは、千秋だったってことを。冬宮千秋を忘れたなんて言わせない。

 野球の練習で忙しいのはわかるが、見失っちゃいけないことがあると、俺は思う。少し勝手で傲慢だけど、そう思う。

 

 取り戻す、あの頃の楽しさを。





 電灯の明かりが眩しく光っている。近くからほのかにカレーの香りがする。晩ご飯だろうな。腹が減る。

「で、話って何だ?」

 薄暗くてはっきりと表情は見えなかったが、陸は疲れているように見えた。

 そんな陸に俺は言った。

「ちょっと散歩しようや」

 陸は黙って頷いた。


 しばらくはお互い口を開かず、歩いていたがやがて陸が呟いた。

「こういうの、いいな」

「夜道を男二人で散歩。なかなかロマンがあるだろ」

「ねーよっ。微塵もねーよ」

 小さく陸が噴いた。

「‥‥‥いいじゃねーか。お前は可愛い彼女がいるんだからよ。羨ましいぜ」

「‥‥‥‥」

「この前一緒に居たじゃんかよ。どこで知り合ったんだ? 同じ高校なのか?」

 陸はぐいぐいと聞いてくる。

 ‥‥‥‥‥‥‥。

「陸、大きな勘違いだ」

「何だよ。いきなり真面目な顔して‥」


「あれは千秋だ。冬宮千秋。小学校の時、いつも一緒に遊んでた奴だよ」


 少しの間固まっていた陸は、やがて驚愕した。

「千秋。戻ってたのかよ‥‥」

「ああ、この前。すげえ成長してたけどよ、中身はあの頃のままだぜ。お前は気付かなかっただろ。千秋、お前に会いに来てたんだよ」

「何言って‥」

「千秋はお前に会いに来てたんだ」

 少し責める口調になってしまった。

「お前が気付いてくれなくて、千秋は、その、落ち込んでた」

 陸は暫く黙ったままだった。それから俯いた。

「‥‥‥‥‥‥オレ、何てことを。気付けなかった。まさかそんな‥、ほんとに千秋だったなんて」

 暗がりの中、陸が拳を強く握り締めているのが見える。

「今度、千秋と真広と遊ぶことになったんだが、お前も来てくれないか。というか絶対来い」

「‥勇気」

「千秋は絶対喜ぶよ。かなで、いや松前と長谷部はいないけど、お前が来れば四人になる。三人から、四人になる。ちあきーず再結成に協力してくれ」

「‥‥はは、ちあきーずか、懐かしい言葉だな」

「だろう」

 ちあきーず。俺、陸、千秋、真広、かなで、美咲。メンバーはこの六人。

 席替えの班がきっかけで、俺達は仲良くなって、やがて席が変わっても、グループを作る時はこの六人だった。

 放課後は、このちあきーずで活動することが多かった。高陽団地一周の旅は思い出深い。

 もう、五年も前のことで、千秋がいなくなってからは集まることがなかったが、

「再結成か。面白いな、乗ったぜ!」

「よし!」

 閑散とした夜道に、俺と陸の声が響いた。


 ちあきーずが、再び揃うかもしれない。





「しっかし大変そうだな、部活」

 俺の言葉に、陸がゆっくりと話し始めた。

「ああ、先週レギュラーから外されちまってよ。やばいんだよなー。一年にめっちゃ上手い奴とポジションが重なっちまってるんだよな。練習はきついだけで試合には出れないし。一年にレギュラー盗られるとか、ないわ」

 中学時代、野球部のキャプテンだった陸が、レギュラー落ち。にわかに信じがたい話である。しかし、それが甲子園を目指す強豪校ということなのだろう。

「ま、気分転換にお前らと遊ぶのは楽しそうだな。最近切羽詰まってたから、一休みだな」

「いいのか?」

「いいさ。俺が自分で決めたことだ。今は野球の練習より、お前や千秋と話がしてえよ」

 陸には珍しく、朗らかでゆったりした口調だった。

「勇気、お前はどうなんだ? 高校」

「お前とは正反対。帰宅部ですることがなさ過ぎて困ってる。クラスでもいるかいないのかわからないようなキャラになってるよ」

 苦笑いで俺は言った。

「‥‥‥そうか、お互い状況は違っても、大変だな」

「ああ、でも、千秋と再会できて俺は少し変われた気がする」

 千秋が、俺の日々に色を塗ってくれた。広い景色を見せてくれた。

「そうか、そりゃあよかった」


 夜風が少し肌寒くなってきていた。

 今日の夜空は少し不気味だ。おぼろ月夜に灰色の雲がかかっている。

 遠くから蛙の合唱が聞こえた。

 



 

 快晴の青空。

近くの並木から蝉の力強い鳴き声が耳をうつ。小鳥が目の前を羽ばたいていく。

 五丁目、懐かしき通学路。その景色は五年前と変わらない。

 青色のフェンス。小学校時代によくここを千秋と一緒に飛び越えて近道したものだ。フェンスを飛び越えるとき、千秋が盛大に転んで大泣きしたときがあったな。

 思わず笑ってしまう。

 いつも一緒に通ってたんだったな。

 ちゅん、ちゅんと小鳥が鳴いている。

 さてと。俺が向かっているのは、そう。

 千秋の家だ。

 ぴんぽん、とインターホンを押す。

 ドタドタと音がして、すぐに扉が開いた。

「勇気が、一番乗りだ! さ、入って入って」

 すてきな笑顔が迎えてくれた。


「おじゃましまーす」

 千秋の家、久しぶりだ。玄関を越えて二階へあがる。そして右に行くと、千秋の部屋だ。

 千秋の部屋は広かったため、ちあきーずはよく千秋の家に集まっていた。

 がちゃ、扉が開く。

「どう? 私の部屋」

 ふわふわしていた。昔と同じく、ふわふわしていた。くまさんにうさぎさん、かめさん。それに当時流行っていたアニメのぬいぐるみや人形が並んでいる。

とことこほむたろうのマスコットは全キャラコンプリート! 

魔法ガールズの杖が厳かに立てかけられている。

どこか懐かしい世界が、ここには広がっていた。

 ‥‥‥、これは! 俺は思わず目を見開いてしまった。

 数々の瞬間を捕えた写真達。たくさんの時間が飾られている。

「すごいな。芋掘り大会に、かるた決戦。ドッヂボールクライシス、キャンプファイヤー」

 たくさんの情景がよみがえって来る。

「いいでしょ。すごいでしょ」

 一枚一枚、みんな笑ってる。どこまでも純粋で輝いている。

「かるた決戦、白崎強かったよな」

「ちあきーず準優勝だよ。すごかったよ」

「クライシスはりっくんがなー」

「粘って粘って三位入賞。さすがりっくんのおかげだ」

「四年の林間学校な」

「炎よ、燃え燃えろーー」

 良い笑顔だ。みんな最高に。


 ぴんぽん、鐘が鳴る。

「おっとー。真広かな。それとも‥‥、りっくん、かな」

 千秋がドキドキしてる。その様子を見ていると俺もドキドキしてくる。

 というか、さっきからずっと俺と千秋はドキドキしていた。高揚していた。

 なぜなら今日、ちあきーずのメンバー四人が、再びここに集結するのだから。


 がちゃ。


「千秋ー。おじゃましまーす」

「まっひろー」

 白崎が、丁寧に脱いだ靴を揃える。

 ‥‥この情景、昔も見たような気がする。

「ほーら、早く来なよ」

 白崎が後ろを振り返って言った。

 誰かが玄関の外にいるようだ。

「お、おっす」

 そこには陸の姿があった。

「‥‥りっくん」

 小さく千秋が言った。

「‥‥‥久しぶりだな、千秋」

「うん」

 ぎこちない。

「その、あれだ、この前はごめんな。千秋に気付けなくてよ。オレ、バカだったよ。ほんとごめん。‥‥だからさ、その、許してくれなっ」

 ぽんっと陸の胸に何かがぶつかる。

 千秋の手のひら。

「おかえりっくん! はやく入って入って!」

 いつも通り、昔のまま、そんな千秋の笑顔に、陸は拍子抜けしたような表情で言った。

「おう、おじゃまするぜ。‥‥‥お前は、やっぱり千秋だな」

 納得したように陸が呟く。

「私はいつまでも、千秋だよ。りっくんの知ってる千秋だよ」

 あの頃と変わらない微笑みが陸を包みこんでいた。




 人生ゲーム、懐かしきものだ。

「あっと、株で大成功! 3兆円手に入れるー」

「‥‥まじかよ」

「えっと俺は‥‥‥、ファ? 宇宙旅行に行く? 5億円の支払い?」

「ざまあ」

「てめえこの野郎!」

人生ゲームは続いていく。

‥‥‥‥。

「ここにかなでと美咲がいたら、最高だよね」

「そうだな、ちあきーずが揃うもんなー、っと誰かと結婚する? ナンダこのコマ?」

「結婚コマは自分以外の誰かを選んで、一時協力してゴールへ向かうんだよ。だから私か真広を選ぶんだよ。あ、でもりっくんを選んでもいいよ。男同士だけど」

「うわ、まじかよ。何この精神的に厳しいコマ!」

 ‥‥‥‥。じー、と三人の視線が集まる。千秋の瞳は、私を選びなさいと告げていた。白崎は、え、私を選ぶんですかみたいな仕草。陸はおいおい勘弁してくれよと。

ふう、たかがゲームなのに緊張するな。

「ち、ち、千秋を選ぶ‥‥」

 その瞬間、千秋の頬が赤く染まった。

 しーん、と静まる部屋。そして

「うわーーん、私ふられちゃった。千秋に負けたー」

 なんか、真広が落ち込んでる?

「おい真広、これゲームだから、そんなしょんぼりすることないだろ」

 そう言ったら、いきなりにっこり笑われた。

「ぷっ勇気、私のこと白崎じゃなくて真広って呼んでるじゃん」

「‥‥あ! 本当だ。気付かなかった。ていうかお前も俺のこと広中じゃなくて勇気って呼んでる」

「‥‥あら」

「へへ、おめーら」

「戻ってる。みんな私の知ってるみんなに戻ってる」

 千秋がけらけらと笑った。

「‥‥‥‥千秋」

 白崎、いや、真広が言った。

「じゃあこれからは、勇気、りっくんって呼ぶから、よろしく」

「お、おう、じゃあ、真広」

「はい」

「りっくんも呼んでよ」

「お、おう、ま、ま、まひろ」

「りっくんかわいいー」

「りっくんりっくんりっくんくん」

 完全に女子二人に遊ばれる陸だった。




 

 会話が弾む、弾む。

 ただこの時間が、いつまでも続けばいいと。

 そう思う。

「それでさ、今度はかなでや美咲も呼んで遊ぼうよ」

「ちあきーず再結成」

「なあ、どうせならさ、もっともっと呼ばないか? 小学校時代のやつ、もうずっと会ってないやつらばっかだからさ」

「そうだそうだ、どんどん呼ぼう」

「うーん、いいとは思うけど、どこで遊ぶの?」

 ‥‥‥‥。雑草が生い茂った大地を駆け抜ける。独特の緊張感。胸が高鳴り夢中になって走り回る。人数が多い程楽しい、熱い。それは、

「おにごっこ‥」

 思わず、呟いていた。

「お、いいじゃんおにごっこ! やろうよそれ」

 真広が乗ってきた。

「こりゃあちょっとした同窓会ができるな。おにごっこ、盛り上がるぜこりゃ!」

 陸が大きく声をあげる。

 気付けば、千秋の顔がパァーっと輝いていた。

「やろう! 絶対やろう!」





 部屋の窓を開けた。ちょうど陽の光が上りはじめている。山の陰から強い光が姿を現す。眩しい。一日の始まりを感じさせる。

 来週の土曜日、門前の森にておにごっこ。

 そのためには人を集めなければならない。片っ端から懐かしい面子を誘ってやる意気込みだ。千秋と真広は主に女子を、陸と俺は男子を、集める。

 今から考えるだけでわくわくしてくる。

 ‥‥。

 思えば千秋が目の前に現れてからは、本当に日々が眩しく感じられる。ずっとこのままでいたい。少し前の自分が想像もしていなかった世界が、あった。

 もう二度とちあきーず、いやそれだけじゃなく小学校のメンバーとは遊べないと思っていた。だけどもう一度始まる。俺の、俺達の物語が、始まる。

 

さあ、ものがたりをはじめよう。




 

 並木通りを越えれば、二丁目。ここには寺崎凌の家がある。色が落ちて寂かかったポストと自販機の角を横切って、細道に入る。日曜日だというのにさっきから道行く人は俺以外に見受けられない。

 伊坂、村岡は来れないらしい。残念だが仕方ない。伊坂はバスケ部の遠征試合。村岡はまさかの土曜学校。土曜もみっちり授業があるらしい。私立の特別進学コースは鬼だな。

 でも俺は少し嬉しかった。何故なら二人共本当に行きたがっているように見えた。

 もし用事がなかったら、絶対におにごっこに行くのに。すげえ楽しそうだな。

 というふうにすごく自分が行けないことを悔しがっているようだった。

 なんだかんだ言ってもみんな、忘れていないんだ。小学校時代の頃の楽しさを。またみんなで集まって馬鹿やって騒いで、そういうのが好きな奴はきっと多いはずだ。

 何をしてたか、何で笑ってたのかを忘れてしまっても、楽しかったという記憶は時間が経っても消えない。


 住宅地の中で、唯一イギリス風のレンガ式の塀に、アメリカンなハウス。門には小さな風車が差し込まれていて、時折風に吹かれてくるくるとまわる。

 そう、ここが寺崎の家だ。

 ぴんぽん。

 どたどたどた、と家から足音。

 がちゃ。

「えっと、‥えっと?」

「俺だ、広中だ」

 名を告げると寺崎はハッと気が付いたようだ。

「うわ、広中か。久しぶりやね。でも何で? 何か用事か」

 寺崎は少し戸惑っている。それもそうかいきなり俺が来てもびっくりするよな。

「実はよ、千秋が帰ってきたんだ」

「‥‥‥千秋だと? それって冬宮千秋のことか?」

「そうだ。あいつが帰ってきた。中身はあの頃のままだ。姿は成長して大人っぽくなってるけどな」

「‥‥まじか。そりゃあ、驚いたな。でも何でわざわざそれを?」

「千秋がみんなに会いたがってるんだ。そこで、来週の土曜に小学校時代の奴らを集めてみんなでおにごっこをすることになったんだが」

「ほう、面白そうじゃねーかよ。それ」

「来るだろ? 寺崎」

「もちろん行くぜ。でもあれだ、本当に千秋に会えるんだな。なんかオレ懐かしすぎて緊張するかもだわ」

「千秋の奴、ほんとに変わってないから驚くぜ」

「楽しみだな、そりゃあ」

「千秋は昔からみんなに元気をくれるからな。今もあいつの笑顔は‥」

 気が付くと寺崎がじっと俺を見つめていた。

「な、何だよ?」

「なあ広中、お前今も千秋のことが好きなんだな」

 寺崎の真顔が俺を貫いた。

「へ? ‥‥‥‥‥うおおおおおおお!?」

「お前小学校の時千秋にデレデレだったもんなー。いっつも千秋と一緒に居たし」

「い、一緒だったけどデレデレじゃなかったし!」

「へえーーー」

 にやにやした寺崎の目がむかつくぜ。

 


 ‥‥‥‥。

あの頃の俺って、千秋のことが好きだったのかな? 

答えは一つ。

 好きだった。

そして俺は今も千秋のことが好きなんだろうな。


 

 寺崎と別れて、並木通りに戻る。

軽音部か。寺崎の奴、ギターとかモテまくりだろうな‥。

 バンド。いいな、青春って感じだな。文化祭とか盛り上がりそうだな。

 文化祭、今度見に行ってやるか。でも寺崎がリア充爆発してたらどうしようか。

 ま、いいや。


「さて、次は三石だな」

 三石孝則。この前のことを謝らないとな。三石は千秋のこと忘れているのも無理はなかったのだ。だって三石は五年の時クラスが違ったから。小学校時代接点はなかった。

 いきなり小学五年時の、隣りクラスの女子を思い出せって言われても困るって話だ。

それなのに怒鳴ってしまったのは、やっぱ俺が悪かったと思う。

でもあのとき、千秋の気持ちを考えたら、ああ動くしかなかった。


 七丁目。緩やかな坂道を登っていく。角を曲がればひまわり商店。

 今はシャッターが下ろされ、看板がぼろぼろに錆びている。

 ここはいつ来ても寂しさが押し寄せてくる。


 団地 727館 2階。

 ぴんぽん。

 ‥‥‥‥‥。がちゃ。

 ぼさぼさ頭の三石が顔を出す。俺の顔を見て若干怪訝そうな表情を見せた。まあ予想していたのでどうということはない。

「‥何か用かよ」

 いかにも気だるそうな、そんな様子。

「謝りに来た。‥‥この前は悪かった。いきなり千秋だとか言われても困るよな、お前には悪いことをしたと思ってる」

「‥‥わざわざそれを言いに来たのか?」

「ああ、そうだ」

「‥‥‥、それは感心だ。ご苦労なことだな」

 三石はあまり納得していないようだった。まあ当然と言えば当然か、いきなり意味もわからず怒鳴られて、後でごめんの一言で終わらせるのはすっきりしないだろう。だから、

「それで、話が変わるんだが来週の土曜日、小学校が一緒だったやつらを集めて鬼ごっこをするんだがお前も来ないか?」

「はあ、鬼ごっこ。オレはやめとくよ。家で寝てる方が楽だ」

 アホか、みたいな表情。三石、お前昔はもっと積極的なやつだっただろ。なんだよその無気力な顔は‥‥。

 いや、三石は、少し前の俺なのかもしれない。千秋に会わなかった俺。

 特に何もやることがない休日。だけど家から出る理由も見つからず、ぼんやりと過ごす日々。違うか。

来い三石、来いよ、来させてやる、鬼ごっこに。

「もういいか、広中。じゃあな」

 ドアを閉めようとする三石を止めた。

「待てよ、長谷部さんも来るぜ」

「何!」

「お前が中学時代ずっと好きだった、長谷部美咲も来るんだぜ。もう一度会いたいとは思わないか。お前言ってたじゃねーか、三年間眺めるだけで告白できなかった。今思えば告白すればよかったって嘆いてたじゃねーか」

「そうか長谷部さんも‥‥来るのか」

「最後のチャンス。ダメもとでも想いをぶつけてみないか? いや、特攻するしかないだろ」

「‥‥‥広中、オレ、行くわ!」


三石の目が久しぶりに輝いた。

「叶わない恋だとしても、俺は想いを伝えて見せる」

 力強く宣言する姿は、漢だった。彼方の君を想い続けて 第36話 孝則の決意。ありがちなドラマが一つ作れそうだ。三石が主人公の物語もついに最終章に突入だ。

 彼が長谷部さんに想い続けた三年間は繋がるのか。‥‥勝率は限りなく低いように思えた。

 ‥‥‥三石よ。まあ、がんばれ。

 



 




涼しい夜である。ついに明日が鬼ごっこだ。この一週間は長かった。一日一日がいつもより長く感じられた。でも、それは今までのようにぼんやりと毎日を過ごしていないからかもしれない。曇った、濁った視界が洗われて、再び目を開ければそこは透明で澄み渡った景色。そんな景色に帰ってきたんだ。

再び、ちあきーずが集まる。小学校メンバーが集まる。

そう思うだけでわくわくする。

小学校時代、俺が過ごした日々は消えたわけじゃない。みんなと笑い合った日々は確かにあるのだ。

それをもう一度確かめに行く。

俺は、いつも過去ばかりを振り返っていた。今もそうかもしれない。

だけど、明日を越えれば、踏み出せる気がする。新しい場所に進める気がする。

自分の歩いてきた足跡を数えるのはもう明日で終わりにしよう。未来に生きるため、過去を繋げる。

俺の時間が動き出す。新しい風を味方にして、動き始める。


明日、全てが変わる。



 


 


眩しい朝。希望の朝だ。小鳥の声が耳に優しく響き渡る。

 カーテンを開け、窓を開ける。

 透き通った大気が入って来る。ふわりと風が吹き込んでカーテンが揺れる。

 本日快晴。絶好の鬼ごっこ日和。


 

 準備完了。そろそろ出発するか、いざ門前の森へ

 ぴんぽん。

「ん、誰だろう?」

 ゆーうーきー、はーやーくー。

 は~や~く~、ゆ~う~き~。

 馴染み深い声が外から響いてくる。

 急いで靴を履き、扉を開け、外へ飛び出す。

 眩しい笑顔の千秋が手を振っていた。

「おっはよう! 勇気! 一緒に行こー」

「おうっ!」

 ギンギンに輝く太陽が眩しい。


「私、昨日からずっとドキドキしてるんだ。だってまたちあきーずが揃うんだよ。再結成だよすごいよ! かなでに美咲、それに小春と凛子も来るみたいだし」

「それだけじゃないぜ。寺崎、いや、りょーもてっつーも来るんだぜ」

「うわー。もう、グッドだね。デリシャスだね」

「ああ、デリシャスだ」

 千秋は勢いよくステップを刻む。

「私ね、みんなもう、どこにもいないかもって思ってたけど、勘違いだったみたい」

「ああ、ばか千秋。勘違い千秋」

「なんだとーばか勇気」

「大丈夫、みんなお前の傍にいる。今もずっと。お前を忘れてる奴なんていないよ、きっと」

 温かい風が吹く。ゆっくりと歩いていく俺と千秋。

 

「あ、あのさ、勇気。ありがとう」

「何がだ?」

「いろいろやってくれたじゃん。私といつも一緒に遊んでくれて、それにみんなの家をまわるのも手伝ってくれて、学校も来てくれて、なんかさ、勇気のおかげでいろいろ大丈夫になったみたい。勇気がいるからみんなとまた会えた。そんな気がする。だからね、ありがとうって」

 少し恥ずかしそうに、だけどまっすぐ俺を見つめる瞳。

 俺は立ち止まった。そして微笑んだ。


 ばか千秋。感謝するのはこっちの方だ。お前のおかげで俺は、

前へ歩きだすことができた。



 五丁目の坂道をずっと下っていくと、門前の森が現れる。木々が生い茂り、どこまで緑が続くのかがわからない。圧倒的な広さ故、方向感覚がなくなることもある。一度入れば迷うことは必至。その森の中心には門前大池があり、その周りは一面が木々で隠れているためどこか不気味で違う世界に来たような錯覚に囚われる。さらに森の中には古びた廃墟の屋敷があり、幽霊屋敷として知られている。以上のことからわかるが、門前の森は子供達にとっては危ない場所なのだ。大人達は行ってはいけないという。

 しかし不気味で神秘的な場所ほど、子供達をわくわくさせるものはない。

 小学校時代、俺達は何度も門前の森で遊んだ。俺達にとってこの広い森は、今や庭みたいなものなのだ。迷うことなど、ない。

 

 この角を曲がれば門前の森入口、緑道広場に着く。

「‥‥あれって、おい、千秋?」

「うわぁぁ」

 圧倒的な高揚感。

 広場には既に旧友が集まっているようだった。

 胸が高鳴っている。

「どどどど、どうしよう勇気。私何だか、緊張してる」

「お、お、俺もだ」

「そ、そっか、一緒だね。あはは」

 ふいに足が止まる。広場から聞き覚えのある、でもすっと聞いてなかった声が響いてくる。そして蝉の鳴き声が重なる。懐かしい情景がすぐそこに、ある!

「よし、行こうぜ!」

「うん」




「うおおおおおおおお! お前、千秋か!」

「千秋が帰ってきた!」

「憶えてる俺のこと? りょーだよ。寺沢のりょー」

「私は小春。久しぶりだね、千秋」

 千秋には手荒い歓迎が待っていた。みんな千秋に触りまくり。

「みんな、‥‥みんなぁーーーー」

 千秋の瞳から涙が零れる。一筋の涙が流れる。

「ど、どうした千秋?」

「‥‥‥‥嬉しい。みんなに会えて、わたし、わたしっ」


「すっごく嬉しいっ!」


「よく言ったぜ千秋。オレ達も嬉しいぜ」

 りょー寺沢がどんどんと千秋の肩を叩く。


「千秋、泣くのはまだ早いよ」


 後ろから声。俺と千秋の後に来たやつだ。その人物は。

 美しく長き髪。引っ越したはずの、

「美咲!」

 千秋が駆けだす。そして、ちあきーずメンバーの長谷部美咲に抱きつく。

「ただいま、千秋。やっと会えた」

「みさき、うん、美咲だ!」

 俺には、千秋だけじゃなく美咲も瞳に涙を浮かべているように見えた。


「おい、かなでも来てやったぞー」

 ふうっと後ろから風が吹いた。振り返るとそこには、茶色い髪を棚引かせている松前かなでの姿があった。

「かなで?」

「そう、かなで。忘れちゃった? この前少し会ったのになぁ」

 松前が自分の耳に手をあてる。恥ずかしいときにする癖だ。今も変わってないのか。

 それに今日はピアスを付けていない。化粧も前と比べて薄い。

 以前の面影が、はっきりと見える。

「うんうん、かなでだ。なんかいろいろ変わってるけど、やっぱりかなでだ」


「おー、みんな揃ってる揃ってるー」

「結構いるじゃんか。お、長谷部に松前も来てるな」

 真広と陸がやってきた。


「おお! すごいよ! これはすごいよ」

 千秋が大きく声を出す。

「ちあきーず、揃った!」

 無邪気な笑顔がこの場所に咲いた。

 



 千秋、俺、真広、陸、かなで、美咲、のちあきーずメンバーに加えて、りょー、てっつー、むーら、三石、そして小春に凛子。外遊びでここまで集まるのは小学校時代であっても珍しかった。それが今、五年の月日を越えて集まっている。これはすごく豪華なことである。ちょっとした奇跡だと思う。



「おう広中―。元気してたかよー」

「いや農業は大変だぜ。実習ばっかでよ、この前なんか桃の木が台風でよう」

「先週、陸上部試合でさ、あと一歩のところで抜かれちまったわ~」

「よう、広中。土曜授業バックれて来てやったぜおい」

「そっちも大変だな―。そういや田辺と里咲付き合ってるんだぜ」

「まじかよー。それいや田村カップルは別れたってよ」

「うわー、てか実はおれ今、青桐と付き合ってんだ」

「ぶはっ」

「そういや憶えてるか。田山給食事件」

「あったなー、沈黙の食卓だったな」

「あいつ今秋高だぜ」

「あいつ中三で開花したよな。偏差値10上げるとか」

「天才かww」

「いや―――――――

 話は尽きることなく、続く、続く。楽しくて、懐かしくて、驚きと興奮が重なって、そんな不思議な時間。俺はただ、かけがえない今しかない時間を噛みしめた。




 グッパでしーまーしょ!

 全員がグーとパーのどちらかを出して、少ない方が抜けていく。

 今回は人数が多いので鬼は二人。


「あら」

「鬼かよ」

「りょーと小春が鬼で決まりね! じゃあ、今から十秒数えてー」

「逃げろー」

「レッエスケープッ!」

 一斉に森の中に入り散っていくメンバー。俺も駆けだす。

 さあ、鬼ごっこの始まりだ。


 鬼ごっこは戦略性が高い。特に鬼が二人となると、挟み撃ちされる可能性がある。常に鬼一人から逃げ続けるだけではだめだ。広い視野が必要になる。

 だが俺にとっては余裕。ここは俺のフィールドだ。この場所での鬼ごっこは昔から一番得意だった。森は隠れやすいし、地形を利用すれば逃げやすい。単純な運動神経だけでは鬼ごっこは決まらない。頭を駆使することができれば一気に逃げ道が広がる。逆に鬼もしかりだ。特にこの森では身体能力よりは戦略性を試される。学校の運動場とは訳が違う。ここは森なのだから。いっといずジャングル。


「ゆうきーーー」

 千秋の大声が響いた。振り返ると千秋と美咲、三石がいた。

「たくっ、大声出したら場所がばれるだろ」

 呆れながらも俺は笑っていた。‥‥楽しいのだ。


 よく考えればこれは不思議な組み合わせだ。千秋と美咲と、三石?

「三石君って、私と話したことないよね」

 千秋がぽつりと三石に話しかけた。

「え、ああ。でもなんとなく憶えてるよ。確か、隣りクラスに居たような‥」

 頭を掻きながら三石が言う。

「今度からはみっつーだね」

「なっ」

「よろしく、みっつー。友達になってあげる」

「ななっ」

 千秋が三石に手を差し出す。どうやら握手を求めているようだ。

「お、おう」

 三石は千秋と握手した。

「よ、よろしく。冬宮さん」

「千秋でいいから」

 そんな三石と千秋の様子を見て美咲が笑った。

「いやー、初々しくていいね」

「そうだなー」

 俺も乗る。

「実は三石君って照れ屋なんだねー」

「い、いや、そうでもないっすよ。へへっ」

 三石、しっかりしろ。

「やっぱり照れ屋だー」

 美咲がまた笑った。

 でも、さっきから三石の動きがぎこちないのは、長谷部美咲。お前がいるからだ、なんて言えない。いつもの三石はどこだ。

(おい三石、今こそ長谷部といっぱい話すチャンスだぜ? がんばれよ)

(そ、そんなこと言ってもよ。オレは、オレは、ぁぁぁぁ)

 ぼそぼそと三石と話してみたが、今の様子じゃ告白どころか会話すらままならない。

 しゃいすぎるぜ、三石。

「どうしたのみっつー?」

 早速、みっつーと呼ぶ美咲。

「え、いや、えと、今日は天気がいい、ですね」

 こりゃだめだ。三石君だめだわ。

 しかしいきなりあだ名で呼ぶ辺りが美咲らしい。誰に対しても壁を感じさせない、自然に話せる。そして気がきく。そんなところに三石や他の多々男子は惹かれたのだろう。

 俺は千秋の方がタイプだけどな。千秋と美咲は似ているよう似ていない。

 千秋は元気いっぱいおてんば少女。美咲は民思いの姫君って感じかなぁ。って何を俺は妄想しているんだろう。


「あ、あ、あの長谷部さん!」

 ついに、ついに覚悟を決めたのか三石? 玉砕の覚悟を‥‥いやなんでもない。

「あ、ちょっと待って」

 美咲が手で制した。どんまい三石。美咲は無言で東の方角を指差した。

「あれは、小春」

 千秋が呟いた。小春はこっちに駆けてきている。突進して来ているように見える。誰かに追いかけられている様子も感じられない。むしろ逆‥。そして何故こっちに突進しているのか‥。

「もしかして小春、鬼かも」

 がさっ、木の陰から。


「よう皆さん、俺も鬼だァァァ」


 何だとっ? 数メートルしかない距離。突如木の陰からりょーが現れる。

 罠だったか、挟み撃ちされている。小春に気を取られ過ぎた。本命はこっちだったか!

「うわわわ、逃げろ!」

 なりふり構わず、俺は走っていた。周りの様子を確かめる暇はなかった。

 ただ、森の中を全力疾走していた。不思議と爽快な気分になった。既視感、昔の情景が重なる。昔と同じ景色。もうずっと味わっていなかった懐かしい感覚に俺は包まれた。



 速い! りょーの野郎。さすがは元サッカー部だ。徐々に距離を詰められている。

 てか、狙い撃ちされている。気が付けば俺とりょーの一騎打ちだ。

 素力じゃ逃げ切れない。運動神経はりょーの方が上だ。

 だが、鬼ごっこは運動神経だけで決まるものではない。知力もいるのだ。しかも森という特殊な地形。勝てる、振り切ってやる。

 全力疾走しながら勇気は考える。

 徐々に距離が詰められる。やはり速い! このままじゃいずれ追い付かれる。

 一メートルずつ、確実に詰めてくる。

「逃がさねえぜ、勇気!」

 りょーの声が耳を通り抜ける。

 手を伸ばされたら届く距離。だがな、作戦通りなんだよね。

「甘いな! こっからが本番だ!」

 俺は体の向きを180度回転させ、逆方向にカットを切る!

「なっ!」

 紙一重でりょーの手が届かない。

 そして全力疾走。りょーは体勢を立て直すため、動きが一秒止まる。

 僅か一秒。しかし鬼ごっこにおいて一秒の差とは、天と地の違い。

 あえてわざとスピードを落とし、タッチされるギリギリで方向転換からの全力疾走。

 相手が速い程この技は効果がある。

 その昔何度も使った技。反転するタイミングは何度も何度も鬼ごっこをしているうちに掴めるようになっていた。俺だけが使える技、ダイハードエスケープ!

 再び披露する時がくるとはな。


 自分より速い奴を振りきることが、なんと心地よいことであろうか!

「さらばだ!」

 りょーの足が遅れ、離れていく。

 俺は快走し逃げ切った。



 

 


太陽の光と蝉の声が辺りを輝かせている。どこか幻想的な景色。

万華鏡のように景色が揺れて見えた。

 ふと立ち止まる。

 走り続けて気が付けば、門前の大木の前まで来ていた。大木は大きく聳え立ち、周りの木々とは違う別格の存在感を示している。大木は小学校の時から変わっていない。

「ゆーうーきーーー」

 大木の陰から、千秋がひょこっと顔を出した。

「千秋、居たのか」

「居たよー。というかみんないるよー」

 千秋の後ろから、真広とかなでと美咲と、陸も出てきた。

「ちあきーず、‥揃ってんじゃん」

「ほんとだー」

「へへっ」

 チームちあきーず、鬼ごっこ攻略戦線。

「ちあきーずの名にかけて、皆で逃げ切るよ」

「えっと、今鬼なのはね、小春とりょー?」

「いや、りょーはてっつーにタッチしてたよ」

「じゃあ小春とてっつーが鬼ってことだな」

「陸上部のエースが鬼かよ」

「笑えねえな」


「おい、噂をすればだぜ」

 陸が指差した西の方角に人影、その距離100メートル程。目をこすって見つめると。

「てっつーだな」

「やばいじゃん、はやく逃げないと」

「待って、こういうときはてっつーだけ見てたらだめよ、あそこ」

 今まさに逃げようとしていた東の方角には、

「小春か」

 距離30メートル、近い。さらにてっつーも徐々に距離を詰めてきている。

「また挟み撃ちね。二度は通じないわよっ」

「ちあきーずぅぅファイ!」

「おう!」

「草原に出るぞ」

 西と東がダメなら北の草原。大木を越え、森を駆ければ小さな草原が広がる。昔のそのまた昔ここはテニスコートだったそうだが今では芝生が茂っている。

「みんな全力疾走で!」

「おっけー」

 

 俺達は思いっきり走った。千秋も、真広も、陸も、美咲もかなでも、みんな笑っていた。

 快晴の青空、太陽が照る草原をちあきーずは駆け抜けていた。

 自分の駆ける音、千秋達みんなの声、蝉の鳴き声。

 ふと思えば、目に映る全ての景色が輝いていた。きらきらと眩しい世界は、小学校以来長らく見ていなかった。

 大袈裟かもしれない、けどこの瞬間、一瞬一瞬が輝いて見える。

 こんなに、こんなにも楽しい今日のことを、俺は生涯忘れないと思う。





「いやぁいいね。想像以上に楽しいな」

 息を整えながらりょーが言った。

「だねー」

 てっつーが答える。

「このメンバー、修学旅行の三人部屋を思い出すよな」

「お!」

「ほんまや!」

 俺とりょーとてっつーの三人は木陰で休んでいた。

 太陽の光は雲に隠れていた。辺りは静かだ。耳を澄ませば水の流れる音と、小鳥の囀りが耳に入る。この辺りから蝉の声はしない。

 少し歩けば小川に出る。そこから少し歩けば門前大池だ。水場が近いからなのか、太陽が雲に隠れたからなのか、この辺りは涼しい。

「確か朝まで語ってたよな」

「そうそう、で、眠くて眠くて大仏様拝めなかったんだ」

「バスで寝てたっけお前」

「どんまいやな。金閣寺見てないのかよ」

「バスに居たわ」

「どんまいやなー。つか何を朝まで語ってたっけ?」

「あれだよ、てっつーが西野に告白するにはどうしたらいいか! みたいな」

「あったなーそれ。で、結局コクったっけ」

「言うな勇気‥‥‥‥‥ふられました」

「どんまいやな。でも西野ってまた懐かしい名前出すねー」

「思い出すと、うん、確かに可愛かったな」

「よなー」

 俺は二人の野郎と、たくさんの思い出を語り始めた。

「それでさーっ、ん?」

 木々がカサカサと音を立てる。風だ。

 強い風が吹いて、葉っぱが数枚散った。

 静寂が、辺りを包んた。





 冬宮千秋は息を切らしていた。

「はあっ、はあ、ちょっと走りすぎちゃったかな」

 気が付けば目の前には幽霊屋敷が聳え立っている。周りを雑草で深く囲まれ、まるで悪魔の棲む不気味な城みたいだった。雑草は千秋の背丈の半分ほどもある。

「うわ、暗いなー」

 みんなどこだろ? はぐれちゃった。

「んっ?」

 冷たい。ぽつぽつと水滴を感じる。顔が冷たくなる。

「雨、降って来てる‥」

 太陽が陰り、雨雲が空を覆っている。

「とりあえず戻ろっかな」

 来た道を引き返そうと振り返る。あれ、誰かいる。

「誰?」

 薄暗い、木々の陰から人影が現れる。四人いる?

「勇気? 真広? それともりっくん達?」

 えっ?

 急に人影が迫ってきた。見知らぬ顔、わからない。誰? 

「い、いやぁ!」

 乱暴に手を掴まれた。

「は、離して! ‥‥‥‥ぁ」

 怖い怖い怖い、怖いよ。いやだ。いやだ。いッ?

口に何かを押しあてられ、気持ちの悪い臭いが‥‥、あれ、なん、‥だか、眠た‥‥い。





「参ったな。雨が降って来ちまった」

「うーん、この場合鬼ごっこって一時休戦か?」

「どうだろ。つか今鬼は誰なんだ」

「さあな」

 雨はまだ降り始めたばかりなので、木々の葉が雨粒を防いでくれている。辺りは暗くなっており、雨音だけが聞こえてくる。

「妙に静かだな」

「そうだな。他の奴は何してんだろうな」

 がささッ

「何だ?」

 芝生をこする足音が近づいてくる。振り返ると、小春の姿が。

「小春、まだ鬼なのか?」

 何気なく聞いた。だが小春は返答は全く違うものだった。

「それどころじゃないの、‥実はね」

 小春は下を向いた。口を開きたくないような様子。苦しげな顔。

「何か、あったのか?」とてっつーが聞いた。


「‥‥千秋が、‥千秋がどこにもいないの」


 しばらく小春の言葉が理解できなった。小雨が降る中、俺達三人と小春はただ立ち尽くしていた。雨音だけが途切れることなく響いていた。





 千秋以外のメンバー全員が鬼ごっこ開始場所の広場へと集まった。

「最後に千秋と一緒に居たのは誰だ」

「‥‥多分、私だ」

 そう答えたのは真広だった。

「心当たりは?」

 真広は無言で首を振った。そしてしばらくして言った。

「陸が追いかけてきてそこではぐれちゃったから‥」

「その後、陸はどうしたんだ?」

「真広をタッチしたから、千秋のことは見てねえ。すまん」

「仕方ないさ、こんなことになるとは誰も思ってなかったんだから‥‥」

 十一人もいるというのに、会話が途切れる。ただ、雨音だけが響き、体を少しずつ濡らしていく。

「どこにいるんだ、千秋」

「‥‥‥まさか千秋って、幽霊じゃったんじゃ‥」

「ふざけたこと言わないでっ」

 真広が大きな声を上げた。

「千秋は幽霊なんかじゃない。冗談でもそんなこと言っちゃだめ」

「ああ、悪い」

 てっつーが謝る。

「こんなこと言いたくないけど、どっかで倒れてるとか。それか、それか池に‥」

 小春と目が合った。小春は続きを言わなかった。いや、言えなかったのか。

「考えたくないけど、それくらいしか‥」

「ここで考えてても仕方がねえ。よし、今から全員で千秋を探すぞ!」

 陸が大声で一喝した。


「まず、真広と勇気は奥の幽霊屋敷とその周辺を見てきてくれ。かなでと美咲は南の小屋辺りを、それでむーらと三石は草原の辺りを、りょーとオレは池の辺りを探す。てっつーは森奥の祠を探してみてくれ。凛子と小春はここで待機だ。千秋がここに帰って来るかもしれないからな」

 陸がみんなに確認する。

「これでいいか? みんな」

「わかった、それで行こう」

「まかせろ、オレが千秋を見つけてやるよ」

「どっちが速く見つけられるか、勝負だな」

「遊びじゃないんだよ」

「‥わかってる、真面目に言ってんだ。オレは本気で千秋を探す。お前らも頼むぜ。さ、陸早く行こう」

 りょーと陸は森の中へとダッシュで消えていった。

「真広、俺達も」

「うん、絶対見つけよう」


 小雨の降り続ける中、千秋の捜索が始まった。




 森は暗く、さっきと同じ場所とは思えない。楽しいから走っているのではなく、今は大きすぎる不安を抱えながら走っている。それが景色が濁って見える原因かもしれない。

「千秋! どこだ!」

「居るんなら返事してーーー」

 ‥‥。

 俺と真広の呼び声も空しく、返事はどこからも返ってこない。ただ雨が俺と真広を冷たく濡らしていくだけ。

 気が付けば、もう幽霊屋敷の前まで来てしまっていた。

 鬱蒼と高く茂った芝生の真ん中に大きくぼろぼろの屋敷が聳え立っている。雨が降り、景色が暗いからなのか、想像以上に不気味だっだ。


 ここまでずっと千秋を探してきたが、どこにも千秋の姿はなかった。

 こっちには来てない。

でも、きっとほかのみんなが見つけてくれているはず。そう思いたいが、みんなからの連絡はない。

 ただ、不安だけが増殖していく。

‥‥。

 息を切らして走り続けたせいか、真広が膝に両手を当てて立ち止まった。

 そして真広は静かに、語りかけてきた。

「ねえ、勇気」

「どうした?」

「千秋がいないと、私達がまた一緒に遊ぶなんて叶わなかったよね」

「‥‥そうだな」

「私と勇気が遊ぶことも、ちあきーずがもう一回集まることも、小学校の時のみんなが集まって鬼ごっこをすることも、全部、千秋がいないとできなかったんだよ。千秋が、千秋がね、がんばって私達を繋げてくれたんだよ」

「わかってる。そんなの、俺が一番わかってるよ。‥‥なんていうか、昔から千秋には助けられてばっかなんだよ、俺達は」

 さっきまですぐそこに千秋がいたのに。一緒にいたのに。

 どこなんだ。どこにいるんだ、千秋。

「もう千秋、いい加減出てきてよ‥‥」

 真広が小さく、声を絞り出す。しかしその声も雨音に消えて、‥‥ィ

 ん?

「どうかしたの?」

「今、屋敷から声がしなかったか?」

 確かに今、男の声がしたような‥。

 真広が耳を澄ます。

「‥‥‥ほんとうだ。誰か、いる」

 俺と真広は顔を見合わせた。そして頷き合い、忍び足で屋敷へと続く芝生を越えはじめた。


 葉っぱや砂、泥が服を汚していくが、俺も真広もそんなことは最早気にならない。

 長い芝生を越えて、ついに幽霊屋敷の入り口まで辿り着く。俺は小さく呟いた。

「‥‥千秋、いるのか?」




 

冬宮千秋は震えていた。

動けない。

 目が覚めると、手と足を縛られ、口も塞がれていた。動けない。喋れない。

 目の前に、見知らぬ男達がいる。ヤンキー? 四人とも派手で厳つい、怖い。何で私こんなことになってるの? 意味わかんない。怖いよ、みんな。

「あーあやっちまったな、ついに」

「はは、女子高生誘拐ってか」

「結構綺麗だね、この娘」

「たりめーだろ。だから拉致ったんだからな」

「うわ、なんかムラムラしてきた」

「つーか。お前まだ童貞だったろ」

「そっす」

「この娘で卒業しとけ」

「まじすか!」

「まあ、まずは俺がヤルけどな」

「うわ、ここは童貞に譲ってくださいよー」

「まあ、焦るな焦るな。ここには誰も来ないだろうし。時間はあるんだ。全員でヤっちまえばいい」

「ひっひ、じゃ、まずは」

 嫌な笑顔が千秋を貫く。

「脱ぎ脱ぎしましょうね」

 男の手が千秋にかかり、服のボタンをはずしていく。

「‥‥っ!」

 抵抗!

 しかし、千秋は動くことができない。ただ空しく、開くことのできない口が呻くだけ。

 千秋の瞳から涙が流れる。

 嫌だ。やめて。やめて。やめてやめてやめてやめて。

 助けて、誰か、助けて!


 ガララララッ


 古びた扉が勢いよく開いた。

 千秋の瞳には、勇気と真広が映っていた。

「‥‥‥っっ」

 

「千秋!」

「なんてことを‥」

 異様な光景が目の前に広がっていた。

「ち、こんなときに」

「や、やばいっすよこれ」

「落ち着け」

 男達は口々に言い合う。派手な風貌でよくわからないが、年の頃は俺達と同じくらいだろうか。

「千秋を、離しなさい!」

 真広が力強く言った。

「返せ、千秋を返してもらおうか!」

 我ながらこんなセリフを言う現実が来るとはな。ってそんなことよりもだ。

 正直、相手は四人だが派手なだけで体格がでかい奴はいない。

 なんとか、なるかもしれない。

「このままじゃオレ達警察行きっすよ」

「お前は落ち付けっての」

 派手男が言い合ってる間に千秋を!

 俺は千秋に近づいていく。

「止まれ」

 一瞬で俺の足は、俺の体は凍った。

 何故なら、リーダー格の男が鋭利なナイフを千秋に突きつけていたからだ。

「近づいたら千秋ちゃーんが、死んじゃうよ~」

 にやりと男が笑う。完全に目が狂っている。

「や、やめて、お願い。千秋を傷付けるのは、やめて」

 真広が震えながら訴える。

「た、頼む、千秋を返してくれ。ここであったことは見なかったことにするから」

 必死に訴えかける。どうしてこんなことになっているんだろう。本当に笑えない。

「信用できねえな。後で警察に言うんだろ」

「言わない! 約束する! だから千秋をっ」

 千秋を解放してくれ。頼むから。

 ‥‥‥。

 男はにやっとまた笑い、

「いいぜ。千秋ちゃんを返してやるよ」

「ほ、ほんとに?」

 真広が男に問いかけた。

「そのかわり、お前、こっちこい」

 男の指先が真広に向く。

「‥えっ」

「千秋ちゃんは放してやる。だがその代わりにお前がここに来いってことだ。いいだろ、どうしても千秋ちゃんを放してほしいみたいだからな」

 言いわけがない。それじゃ真広が千秋の身代わりになるだけじゃないか!

「そんなのダメに決まっ」

「わかったわ」

 真広は俺の言葉を制して男達に言った。強く言い切った。

「だからすぐに千秋を放して」

「ああいいぜ、お前がこっちに来たらな」

 真広は男の言葉に従う。男の方へ歩いていく。

「待った。なんかつまらねえな」

 男が嫌な笑みを、また浮かべる。

「お前、まずそこで脱げ」

「何言ってっ」

「いいから早く脱げ。じゃないとちーあきちゃーんが」

 男が気持ち悪い声をあげながら千秋にナイフを向ける。千秋は瞳から涙を零しながら真広を見つめていた。

 その瞳は真広やめて! と叫んでいる様にも助けてと訴えている様にも見えた。

「‥‥‥‥‥‥」

 真広は上着のボタンをはずし始めた。

「おい、真広!」

「勇気は黙ってて、仕方ないの。‥‥だってこうしないと千秋が」

 悲痛な声が鼓膜に響く。

 千秋の首筋にナイフが向けられているため、俺も動くことができない。すごく気持ちが悪い。ただただ男達に憎悪が沸く。俺は無力に拳を握りしめるしかないのか?

 真広の上着が地面に落ちた。普段見えるはずもない肌が姿を現す。もう上半身はブラジャーだけだ。

「真広ちゃんって言うんだー。可愛いねー。胸も中々あるし。‥‥じゃあ、その邪魔な布も取っちゃおうか」

 異様な空間。異様な光景。吐き気がする。

 真広は震えていた。背中に汗の筋ができている。

 くそったれ! くそったれ! くそったれ!

 俺が、俺がなんとかしないと! 

 真広の青いチノパンが地面に落ちて、真広は完全に下着姿になっていた。

「いいねえ、じゃああとは、どっちから脱ぎ脱ぎする? ブラ? それともパンツ?」

 リーダー格男の屑な言葉とその周りのやつの嘲笑。

 千秋だけじゃなく、真広まで、瞳に涙を浮かべていた。

 真広は震えたままで動かない。

「どうした。おいどうした? 早く脱げよ」

 真広は動かない。いや、動けない。

「ふうーん、そっちがそのつもりなら」

 男はいきなり千秋に近づき強引に服のボタンをはずし始める。

「千秋ちゃんが脱ぎ脱ぎするだけだよー」

 千秋は必死に抵抗しようとするが、手足を縛られ口を塞がれ無力。

「やめて! わかったから、私が脱げばいいんでしょ!」

 男がニヤついた顔で真広の方を向く。

 千秋の首筋にはナイフが突きつけられたままだ。

 真広は震えながらその手で胸のホックを‥。

 許せない。俺の中で何かが吹っ切れた。

 ‥‥ナイフが向けられていようがいまいが、許せねえ!

 

俺は気が付けば、男に向かってダッシュしていた。

 やばい、男達が一斉にこっちを、


 ガシャン! それは突然の出来事。


 男達背後の左端の木壁が叩き壊された。

 その場に全員の視線が壊された木壁に向く。壁に穴が空き、そこから三つの人影。

 りっくん、りょー、てっつーが姿を現す。

 助っ人‥、登場!

 男達全員が混乱し動きを止める。その間に俺はリーダー格の男との距離を僅か一メートルまで詰めていた。

「て、てめッ」

 

 俺は思いっきり男の顔面を殴り飛ばした。

 顔面一撃決殺。

 ナイフは地面へと落下して、リーダー格の男は吹き飛んだ。

「汚ねえ手で千秋に触ってんじゃねえぞおい! 千秋はな、俺の大事な友達なんだよ!  千秋はお前ら程度が触れていい相手じゃねえんだよ! こちとら久しぶりにみんなで遊んでたのに、邪魔してんじゃんねーよ! このクソ野郎!」


 

叫んでいた。とにかく心のままを叫んでいた。

リーダーを失った男達の前には、りっくん、りょー、てっつーがそれぞれ立ちはだかった。

 現野球部、現陸上部、元サッカー部キャプテン、容貌だけ派手なチンピラヤンキー達が勝てる相手ではなかった。

 ヤンキーは混乱状態。そしてりっくん、りょー、てっつーの全員が容赦をしなかったため、僅か数秒でこちら側が完全勝利した。

 地面に転がり呻き声を上げる四人のヤンキー男。

 最早伸びてしまっていて動けそうにない。


 俺はすぐに千秋の手足の縛りを解いて、口にべっとりと張り付いたガムテープを痛くないようにゆっくりと剥がしてやった。

 千秋は俺をずっと見つめていた。

「勇気‥」

 甘い千秋の香りに全身がふわっと浮いたようだった。気が付けば千秋に抱きつかれていたのだ。

 肌で、全身で、千秋を感じることができる。

 千秋はここにいる。俺はその事実を噛みしめた

「ほんとに‥怖かった」

 ぐすっと千秋が洟をすする。

「‥‥‥ありがと」

 千秋の声が、鼓膜に響いた。

 ああ、無事だった。千秋は、無事だったんだ。


真広は遠くから、抱き合う千秋と勇気の姿を眺めていた。

「よかった」

 ぽつりと呟いた。

「真広っ」

 後ろから、美咲とかなでの声。いつのまに来てたの。

 振り返ろうと体を動かす前に、抱きしめられていた。

「美咲? どうしたの」

「真広、千秋のために無茶しすぎ」

「え‥?」

 隣りでかなでが言った。

「真広、あんたが居なかったら、千秋が汚されてた。あんたのおかげで千秋は助かったのよ。勇気の奴がいいとこ取りしてるけど」

 気が付けば、りっくん達も目の前にいた。

「無理させちまったな、真広」

「ありがとよ」

 緊張の糸がぷつりと切れた。溜めてきたものが、必死に強がっていた心が溢れ出す。

 ‥‥ああそうか、私、無理してたんだ。

 気が付けば、また瞳から涙が零れそうになっているのが自分でもわかった。

「泣いていいよ、真広。私の胸でお泣きなさい」

「‥すっ、ぐずっ、‥‥う、私も、怖かったよ。でも、がんばったよ‥。私がなんとかしないと、千秋がっ、千秋が‥」

「うん、真広、あんたはすごいよ」


「ところでな、その、真広」

 りっくんが目をそらす。

「その、そろそろ服着ようぜ」

「あっ」

 真広は自分が下着姿のままだということを忘れていた。




 

 雨は上がり、雲の隙間から光が差し込んでいる。

 真広の前に千秋がひょこひょこ歩いてきた。

「千秋、ほんとに無事でよかった」

「‥‥‥ごめん真広。私のせいで変なことさせちゃった」

 真剣な顔、申し訳なさそうに私を見つめる千秋。そんな千秋を、真広は見たくなかった。

「千秋、そんな顔しちゃだめ。私は今嬉しいから、千秋が無事ですごく嬉しいから、だから、だから笑ってっ」

 

 きょとんとした千秋が、しばらくして笑った。

 ふんわりと真広と千秋は抱き合った。


 

 そんな二人を見て、俺やりっくん、美咲達は微笑んだ。

「ところで何でこの場所に千秋がいるってわかったんだ?」

「勇気や真広が帰って来るのが遅かったからだよ。もしや幽霊屋敷って思って。‥‥その、少し前に私達外の穴からここを覗いたら、千秋とあなたたちが大変なことになってて、それでなんとかしようと思ったんだけど、男がナイフを持ってたから入れなかった。下手に入ると、千秋が危険だって思って‥‥。ごめんなさい、もっと早くなんとかできたら」

 謝る美咲とかなで。謝る理由なんかないと思う。

「でも、陸達はよく裏の壁を壊せたね。屋敷の裏は草木の迷路になってるし、木の壁って言っても簡単には壊せないだろ」

「りょーのおかげだ」

 陸はりょーの肩を叩いて言った。続いて肩を叩かれたりょーが口を開く。

「この屋敷のことは全部知ってるんだ。左隅の木壁は昔からぼろぼろなのはわかってた。だからすぐ壊せた」

「どういうことだ?」

「憶えてるか? 何たってオレは5A調査班、班長。またの名を、はかせ」

 えっと、‥‥そうか、思い出した。

「りょーの二つ名。団地のはかせ、だったな」

 男子同士、陸、てっつーと頷き合う。女子は?の表情だ。

5A調査班(男子のみ)。小学五年生の時、りょーを中心に結成されていた組織だ。俺は入ってなかったがテルやおかっちが入ってたな、懐かしい。

 調査班はクラスの情報屋。クラスメートの様々な依頼に応えていく調査班はいくつもの情報をキャッチしていた。誰々の好きな人などを調べる類の依頼に加え、おすすめの釣りポイントから夜景ポイント。先生のパトロールエリア(夕方五時以降に見つかると、怒られる)など様々なことを調べ尽くしていた。(だいたいは恋絡みか今思えば笑えるくらいくだらないこと)まあ、それが面白かったんだが‥。

 その一つに、この幽霊屋敷が入っていたのだ。門前の屋敷に幽霊はいるのかいないのか調査せよ という依頼。そのためりょー達はこの屋敷には何度も足を運んでいたのだ。

 りょーにとってはこの屋敷の構造は手に取るようにわかってたんだ。

「小学校時代の賜物だな。この無駄知識のおかげで千秋を助けることができたぜ」

 誇らしそうにりょーは言うのだ。

「まさにそうだな」

「欲を言えばもっとはやく助けたかったんだが、壁穴からお前らの状況を見るに下手に動けなかった。すまんな。でも、ぎりぎり間に合ってよかったぜ」

 にかっとりょーが笑う。どこか懐かしい。誇らしい友の姿がそこにはあった。

 

りょーの屋敷に関する知識が、千秋と真広を助けた。

 奇襲を成功させたのだ。


「千秋ちゃん!」

「無事だったか!」

「よかばい!」

 小春、凛子、三石、むーらが駆けてきた。皆、森全体を探してくれていたのだ。

 千秋の姿を確認すると、四人は安堵した表情になる。

再びこの地に全員が揃った。



「なんてこった」

「ひどい‥」

「許せないかも」

 四人に今回の一部始終を話すと、反応は案の定だった。

 派手男達はまだ横たわっているが、目を覚ますのも時間の問題だろう。

 このまま返してはいけない。そう誰もが思っている。

「さて、こいつらはあたしに任せて貰おうかな」

 かなでがにやりと恐ろしい笑みを浮かべていた。完全に悪役のそれだ。かなでのこんな笑みは見たことがない。

「任せろつっても、どうするんだ?」


「かなで、来てやったぜ」


 唐突に屋敷が張り詰めた空気に覆われる。背後から新入り登場。

 本物の不良達。そんな言葉が相応しいだろうか。髪は赤茶色に染まり、耳にはピアス、響くチェーンの音。

 しかしその一人ひとりが、妙に落ち着いていて、底知れない力を感じさせる。冷静かつどこまでも狡猾な狼。

「和哉、頼める?」

「たりめーだ。どいつだ、かなでの連れを傷付けた野郎は」

 以前、かなでの家を訪れたとき、見た背の高い男だ。和哉というらしい。

 かなでは横たわっている派手男達を指差して言った。

「思いっきりやっちゃっていいから」

 限りなく無表情で、冷たく言い放つかなで。

「へえ、松前をここまで怒らすなんて残念な奴らだねー」

 かなでの連れらしき男の一人が呟く。

「みんな、ちょっと外に出ててくれる。こいつら私達に二度と逆らえないようにしとくから」

 かなでは平然と言うのだ。そして後ろでかなでのお連れ、和哉達が腕を鳴らしている。

 俺は派手男達のことを考えて、少し同情した。

 ごしゅうしょうさま。





「うぎゃァァァァァァァ!」

「か、勘弁してくだっぐあッ!」

「ゆ、許してっ! ぎがががッ」

「ウイwgfく家gf悔いlbげぅclbぐえぃ!」

 ドスッドスッと鈍い音と、甲高い叫び声が交互に聞こえてくる。一体中で何が起こっているのか。それは知らない方がいいだろう。

 屋敷の外から、俺はそう思った。

「かなで、ちょっとやりすぎかも‥」

 千秋がぽつりと呟いた。

「千秋は甘いな。これくらいやっとかないとまたあいつらは調子に乗るかもしれない。またお前や真広を襲うかもしれないんだぜ。そんなの、許せねえよ。かなではお前のために汚れ役をやってくれてるんだと思うぜ」

 陸が諭す。確かにその通りだと俺も思う。しかし、楽しんでるふうもあると思う。さっきのかなでの笑みは恐怖そのものだったからな。

「ま、とにかく、ちあきーずにかなでがいれば、安泰だな」

 不良グループのトップに、かなでは君臨しているのだろうか。くわばらくわばら‥。


 鴉がカァ、カァと鳴く。もう夕方だ。




「今日はありがとな。楽しかったぜ」

「また遊ぼうねー」

「いろいろあったけど万事解決だな」

「くぅーーー、久しぶりに小学校時代に帰ったぜ」

「おっつー」

「じゃな」

 一人、また一人、それぞれの帰路に着いていく。寂しくはない。また会えるから。

 でも、やっぱり少し名残惜しいな。まだずっとずっとみんなで鬼ごっこを続けて居たい気分だ。

「また遊ぼう!」

 俺は力強く手を振った。


「今日は楽しかったな。なんかめっちゃ久しぶりに思いっきり走った。みんなと久しぶりに遊べてすごく楽しかったな。‥‥また、誘ってな」

「かなで‥」

「ちあき、また一緒に遊ぼうね」

 かなでが笑った。さっき派手男達に見せた恐怖の笑みではなく、今のかなでの笑顔はどこまでも優しくて昔のままだった。きっと今千秋に見せた笑顔が、かなでの本当の姿。

 たとえ、髪を染めても、化粧が濃くても、耳にピアスが空いていても、かなでは、かなでだ。俺や千秋が知ってる、ちあきーずのかなでだ。

 手を振ってかなでを見送る。俺の目に映るその後ろ姿は、もう不良少女なんかではなく、どこからどうみても大切な友達の一人にしか見えなかった。



「駅までわざわざありがとね。千秋、久しぶりに会えてよかったよ。今度はさ、街においでよ。私がいろんなとこ案内するからさ」

「ほんと!」

「千秋の好きなあれ、おすすめのクレープ屋さんがあるんだよね」

「なんと!」

「男子禁制だからねー。その日は千秋を一人占めだよぉ」

「クレープ! クレープ!」

 美咲と千秋の話はますます盛り上がり、俺と陸は蚊帳の外でした。はい。


 汽笛が鳴る。

 美咲を乗せた電車が、俺達三人の視界から消えていく。

「また、すぐ会えるさ」

「あったりまえじゃん!」

 千秋は満足そうに呟いた。


 六時のチャイムが鳴りはじめる。

 一日の終わり、それを告げる合図。

「こんこん、きつねさーん♪ かぁかぁからすさーん♪ みーーんーーな、手をつなーいでーかえーーーろーーーーかーーー♪」

 チャイムに合わせて千秋が歌う。

 今まで何度も見てきた光景。だけどずっとふれてなかった久しぶりの姿。

「ほら、勇気とりっくんも歌ってよー」

 俺と陸は思わずお互い顔を見合わせて笑った。






 次の休日。俺と千秋、陸と真広、この四人で母校、高陽西小学校を訪れていた。

「いつも遠くから見てたが、こうやって校門をくぐるのはすげえ久しぶりだな」

「ああ、そうだな」

「私はこの前まで居たはずなんだけどなー」

「‥‥千秋」

 千秋の透き通った瞳が、小学校を映す。

 広いグラウンド、何度も遊んだ総合遊具。端の鉄棒。バスケットゴール。

 ここで、毎日思いっきり走っていたんだ。


 玄関を越えると、靴箱が並んでいる。下は砂だらけ、休み時間の終わりに子供達が駆けていく光景が目に浮かぶ。

 階段を上がり、二階中央の職員室。

 休日なので先生方も少なく、そして長い時が立っているので知っている先生はいなかった。卒業生で訪問に来たということを伝えると、初老のおじさん先生は快く頷いてくれた。

 おじさん先生に聞けば、俺達の担任だったこまっちや市野先生のことは知らないらしかった。きっと何年か前に転勤で別の小学校に行ったのだろう。先生も元気だといいな。


 体育館、理科室、家庭科室、図書室、音楽室などを見てまわった。体育館は少年クラブチームがバスケの試合をしていた。理科室には見たことない人体模型があったり、音楽室にはアンプの横に何故かドラムやギターがあった。バンドでもするのだろうか。

 結果、いろんなところが昔のままだったり、変わっていたりだった。

 どこも、俺達が過ごした場所だ。

 千秋は昔、いや千秋にとっては昔ではない頃にあったものが無くなっていたり、別の新しいものに変わっているのをみると、少し切なげな表情になっていた。

 けれどもそれは仕方ないこと。時の流れは誰も止められない。

 大丈夫だ千秋。こんなに時が立っても、俺達はこうして集まっている。


 たくさんの場所を周り、そしてついに、

 5年A組 その教室。 千秋が居た頃の、ちあきーず全盛期の頃の教室。


 扉を開ければ、そこは昔の景色と変わっていなかった。強いて言うならテレビが薄型の最新機になっていたぐらいだろうか。

 今も使われ続けている黒板。字が綺麗に消し切れていない。いくつかの図形が書かれた後が残っている。きっと算数の授業だ。

 机は整頓されているが、後ろのロッカー棚の上には体操服やらボールやら筆箱らしきものまで無造作に置かれている。横の壁には習字。一面に努力という文字が並ぶ。同じ字を書いていても、一つとして同じものはない。大胆に半紙から飛び出したものから綺麗すぎるほど細くて整った字体まで様々だ。まるで現5Aの様子が活き活きとして伝わってくるようだ。


「この場所にはもう、みんないないんだね。私が目を覚ました時にはみんな、もう卒業してたんだ」

 ‥‥‥たとえ場所が変わっても

「ここにはみんないないけど、みんなはいつも近くにいる。たまにしか会えないけど、みんな、お前の知ってるみんなだよ。変わったところもあるけど、変わらないところもある。この前の鬼ごっこでそれがわかったじゃんか」

「うん」


 目の前に情景が浮かぶ。

 教室の後ろで、兵隊ごっこをするりょーやてっつー。黒板に絵を描く、小春や凛子。廊下を走り抜けるむーらやトオル、そして

 千秋の机に集まる、俺や陸に真広。千秋が何か言って俺達が思いっきり笑う。その笑いにつられて美咲とかなでがやってくる。

 

 もうあの頃には戻れない。だけど、消えないものがある。

 変わらないものがあるんだ。






 陽が暮れた空。琴凛公園にて。四人は集まった。

 時期は少しばかり早いけど、花火。大きな祭りの花火師が打ち上げるようなものではなく市販のものを買い込んで、ささやかに。

 まずは線香花火。ジュ、っと音を立てながら光を放つ。これは序の口。

 特大閃光花火。激しい光を放つ。本来これは手に持つだけのもので振り回してはいけないのだが、千秋は案の定。

「そらそらそら! どどどどどどーーーー」

 両手に特大閃光花火を持ちぐるぐると回転しながら近づいてくる。

「おい千秋あぶねーぞ」

「どどどどどどどーーーーー」

 千秋は止まらなかった。

「お、おい、‥‥ァッっつ!」

 陸が犠牲になられました。

 

 ねずみ花火や蛇花火、どこどこ花火、ぽんぽん花火。それぞれの花火がそれぞれの光を放ち、そして消えていく。

 最後に残った、打ち上げ式ギガントブラスト花火。


「それじゃ、いくよ」

 真広が掛け声をかける。

「3、2、いーち!」

 点火。

 ぼっと音を立てて、そしてしばらくして、

 どんッ

 空に大花が咲く。大きく音を立てて、鮮やかな花が夜空を舞った。

 それぞれの火花が、やがて散っていき、やがて消える。

 静寂。

 再び静かな夜に戻る。空は真っ暗だ。


 打ち上げた光は、花を咲かせる。でもすぐに散ってしまう。

 だけど、俺達は少し違う。

 俺達は何度でも、花火を打ち上げる。花が散っても、また打ち上げる。

 それだけだ。




ぴんぽん。

 千秋の家の鐘を鳴らす。

 俺の手にはだるまぱぱ。もふもふしてる。

 今でいうと、ゆるキャラってやつだ。

 今では知る人ぞ知る幻のだるまぱぱ。

 あの時渡せなかったプレゼント。

 今度はちゃんと渡せる。


 さあ今日もはじめよう、楽しいこと。




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