始まりは路地裏で
「うーん…どうしたものかしら。」
はぁ、と大きなため息を吐いて、ヒルダ・シューベルトは着ている外套のフードを目深に被る。そうして、人の目を惹く白銀の髪が見えないよう仕舞い込んだ。
だがしかし、そんなヒルダの意に反して、通りすがる人のほとんどが彼女へと目を向ける。そしてぽかんと口を開けたり、二度見したり。ヒルダを見過ぎて人や物にぶつかる者までいる。
それというのも、フードでは完全に隠しきれないヒルダの容姿に皆見惚れるためだ。
ヒルダは、類稀なる容姿を持っている。
それはヒルダが、人間を魅了し、生気を得る悪魔だからだ。人間を魅了することから、彼らからは淫魔と呼ばれる事もある。そんな人間の興味を惹きつけるため、悪魔は基本的に人並み以上の美しい容姿を持っている。
その中でも、ヒルダは特別だった。
銀糸のような白銀の髪は太陽の光を浴びるとまるで宝石のように輝き、髪の色に似たシルバーグレーの瞳は見た者の視線を釘付けにさせる。そしてヒルダを目にした者は、彼女はまるで女神か妖精かなようだと口々に彼女の顔立ちを褒め称える。
美しい悪魔の中でも一際優れた容姿を持つことは、ヒルダとしても悪い気はしていなかったのだが。
「…人間の中に混じると、自分がここまで目立つだなんて思っても見なかったわ。」
悪魔だけが住む街ではそう気にならなかったのに、今自分の周りにいる人々の目が殆ど自分に向いていることに辟易する。
しかも面倒なことに、どうやら数人に跡をつけられているらしい。足音の間隔がばらばらな事から仲間同士では無いようだが、厄介なことに変わりはない。このまま追いかけるだけということは無いだろう。
それならば何かされる前に、ここらでひとつ彼らを撒こうか。
そう考えると、ヒルダはフードを目深に被ったまま、人通りの少ない路地を選んで足を速める。すると人気がなくなったことをいいことに、つけてきている者たちは一気に距離を詰めようとヒルダを追いかけてきた。
足は遅くないが、比較的華奢な体つきのヒルダでは距離が離せない。思ったより早く追いつかれるかもしれないと考えながらつき当たりの角を曲がった瞬間、ヒルダは思い切り何かにぶつかって盛大に尻餅をついてその場に伏す。
「い、痛……」
躊躇なく勢いよくぶつかったせいで痛みが激しく、すぐに身体を起こせない。
追いかけてきた者たちがすぐそこに迫っているのに、と思っていると。
「…大丈夫か。」
とても低い、抑揚のない声が降ってきた。
顔を上げると、目の前には黒衣に身を包んだ黒髪の男が立っている。
歳は二十代前半と言ったところか。目にかかるほど長い前髪は整えることなく下ろし、眼鏡をかけている。
彼はヒルダを見て一瞬眉を顰めるような、なんとも言えない表情をした。だがそれも一瞬で、すぐに何の感情もない顔に戻ったかと思うと、地面に座り込んだままのヒルダに手を差し伸べる。どうやら助け起こしてくれるつもりらしい。
「ありがとう」
遠慮なく彼の手を借り、ヒルダは痛みが残るお尻部分を庇いながら身体を起こした。
衣服に付いた汚れを払い、改めて目の前の男を見る。
よく見れば、男の顔立ちは随分と整っていた。だが黒髪に黒衣、さらには感情のない表情のせいか、薄いすみれ色の瞳は綺麗だが冷たい印象の男だなと思う。
そしてふとある事に気づく。
見た目に重くるしいほどの黒衣は立襟で、裾は足首近くまである長さでコートのように少し裾が広がっている。
実際に目にするのは初めてだが、ヒルダはこの格好をよく知っている。
「神父…さま?」
人間の中でも特に敵として悪魔を忌み嫌い、悪魔を滅しようとしてくる者たちだと街にいた頃によく教わった。できる限り関わるなと言われたあの『神父』ではないだろうか。
つい街にいた時の名残で敬称を付けるのを忘れてしまい、慌てて付け足してみたが彼からの返事は無い。怒っただろうかと彼の様子をうかがい見る。
そんなヒルダの杞憂をよそに、神父であろう男はヒルダのことを見てもおらず、怒っている様子はない。彼の視線は、ヒルダの背後に向けられていた。
「…彼らは君の知り合いか?」
ヒルダをチラリとも見ることなく、男は訊ねてくる。そう言えば、とヒルダは自分の状況を思い出した。
「いいえ。ずっと跡をつけられていて、撒こうとしていたところで」
そう言ってヒルダが己の背後へと目を向ければ、そんなに離れていないところに三人の男が居た。皆息を荒げ、ただジッとヒルダを見ている。
人間の中には悪魔の力に耐性が無いものも少なくない。彼らの様子を見るに、特に耐性が無い者達なのだろう。ヒルダの力にあてられたのか、些か正気を失っているように見える。だが完全に意識が飛んでいるわけでもないせいか、神父がいる手前こちらに容易に近づけないようだった。少し離れた位置でこちらの様子を窺っている。
「…なんだか様子がおかしいようだが」
「おかしい人たちだから、追いかけてくるのでは?身の危険を感じていたところだったのですけれど…助けていただけません?」
小首を傾げながら、ヒルダはにっこりと微笑む。通常の男性なら頬を緩めて是と言うところだろうが、目の前の男はあからさまに迷惑だと言わんばかりに眉を顰めた。
(あら。綺麗な顔してるからかしら。意外とそういう顔嫌いじゃないわ。)
口に出したらさらに嫌がられそうなことを考えながら、ヒルダはじっと神父の男を見る。助けてくれないの?と言いたげな、いたいけな瞳で。
すると何拍かおいて、彼は観念したようにはぁ、と小さくため息を吐いた。
「連れに何か用か」
感情のない低い声が辺りに響く。喧騒から外れた路地裏で、且つ周りには追ってきた男たちと自分たちしか居ないせいか、彼の声はよく通った。自分たちに向けられた、威圧を感じる彼の言葉に男たちは見るからにまごついた。
「…用は無いようだな」
そう言って、神父の男はヒルダの肩を掴んで踵を返す。掴まれた肩は痛くは無いが、丁寧な扱いでも無かった。
(随分と素っ気ない人だわ)
そんなことを考えながら、とりあえず神父の男に連れられるままその場を離れる。
男たちが追ってくる様子は無い。
路地裏でのこの出来事が、ヒルダと神父の男の偶然な出会いだった。