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 その日は珍しく、日勤の勤務を終えた母が真っ直ぐに帰宅した。

「ただいまー」

「おかえりなさい、今日は早かったね」

 台所で夕飯の支度をしていた私は、母の早い帰宅に驚きながらも、久しぶりに一緒に食卓を囲める事が嬉しかった。

「そ、急変もないのに残らないわよ。あ、今晩はカレー? いい匂いね」

 ダイニングからカウンター越しに覗き込み、母がくんくんと鼻をひくつかせた。

 だけど、そう言って微笑む母の横顔が、なんだか疲れて見えた。

「お母さん? 病院で、何かあった?」

「うん? んー、ちょっとね。婦長と揉めたのよ」

 母は肩に掛けていたバックを、ドサリとダイニングテーブルに投げ出した。

「婦長さんと? 珍しいね」

 そうしてダイニングチェアに腰掛けた母は、ダイニングテーブルに突っ伏して大きなため息を吐いた。

「看護師は慈善じゃない。看護師だって生活があって、時間いくらの給金で働いてる。それを無視して、時間外のサービスを強要されちゃたまんないわよ」

 時間外のサービス?

 母は普段、どんなに忙しくても、忙しい事に対して愚痴を言わない。母が不平不満を叫ぶ時は、人に曲がった事をされた時。

「時間外手当を渋られたとか?」

 現在、母が勤務するのは総合病院の緩和ケア病棟だ。

 緩和ケア病棟勤務の今でこそほとんどないが、かつて母がICU勤務だった頃は、患者さんの急変による勤務超過がとても多かった。

 けれどその全てにきちんと手当てがついていたし、母も急変は仕方がないと言って、勤務超過に対しても納得していた。

「それだったらどんなにいいか。きちんと申請して、時間分付けさせればいいんだから。だけど心遣いとか、そんな体のいい言葉でサービス労働強要されちゃたまんないわ」

 母の言葉が気になって、盛り付けまで終えたところで、私は一旦手を止めた。そうして台所からダイニングに回り、突っ伏す母の向かいに腰掛けた。

「お母さん、それってどういう事?」

 むくりと頭を起こした母は、テーブルに片肘を突き、物凄く不満そうに口を開いた。

「入院患者の家族がね、相談したい事があるって持ち掛けてきたの。私の勤務は終わってたし、緊急性のない相談事だった。だから私は、明日改めて時間を作りますって答えて、家族も了承した。なのにそれを見ていた婦長が、心遣いが足りないって、そのくらい聞く耳を持ちなさいって言った! 一体私の何処が悪いっていうのよ!?」

 母は常になく、憤慨していた。

 もしかしたら人によって、賛否は様々かもしれない。だけど私には、母の言葉は一本筋の通った言葉だと思えた。

 母だって、すっぱり切り捨てた訳じゃない。看護師である母が、緊急性がないと判断した。その上で丁寧に、翌日改めて聞く時間を作る事を説明し、納得を得た。

 それを心遣いが足りないと言い切るのは、いささか乱暴に思えた。

「いつだって患者さんには、誠心誠意向き合ってる。勤務時間外だって、緊急性のある案件を前にすれば、脇目も振らずに看護処置にあたる! なのに心遣いって、婦長の押し付けもいいところよ」

 母の憤りは、仕事への姿勢まで否定された思いがあるから。

「お母さん、お母さんが看護師の仕事に誠実に向き合ってるのは、私が一番よく知ってる。私も話を聞いて、婦長さんの言葉が適切じゃなかったって思う」

「美穂子……」

 私の共感に、母は少し、怒りの温度を低くした。

 私は一旦席を立つと、用意していたカレーを、母と私の前にそれぞれ置く。母が言っていた通り、カレーからは食欲をそそるスパイシーな香りが立ち昇る。

 一見では刺激的なスパイスは、実は癒しの効果に優れている。

 事実、スパイスが香るカレーを前にして、母の表情はどことなく柔らかい。

「お母さん、良かったら温かい内に食べない?」

「えぇ、そうね。いただきます」

 そうしてカレーを頬張れば、母は目に見えて表情を明るくした。

「ん! これ美味しいわよ、美穂子!」

「ふふっ、それは良かった。それでさお母さん、婦長さんもお母さんの普段の仕事振りまで否定するつもりでは、なかったと思うよ」

「うん、そんな感じね。今思えば、その場の勢いで言っちゃったんでしょ」

 母の態度も随分と、軟化していた。

「お母さん嫌がるかもしれないけど、割と似た者同士かもよ? だってきっと、その婦長さんもお母さんに負けず劣らず看護に対しては実直でしょ? 婦長さんなりに看護に対しては確固たるものがあって、それが行き過ぎて今回の言葉になっちゃったのかな。今頃婦長さんも反省、してるんじゃない?」

「それはまぁ、分かってるわよ。だって彼女、仕事に自己犠牲も厭わない覚悟だもん」

 母は大きくカレーを掬って、大口で頬張った。

「とはいえ、私への不当な説教は断じて許すまじ! でもさ、なんか沼津婦長、最近顔色悪いんだよね。真面目過ぎるからよ……。うん、今度はこっちがクソ真面目過ぎるからだって言ってやろ」

 カレーの食べ終わりに呟かれた母の台詞は、婦長さんへの労わりの言葉だった。

「お母さん、いつもお仕事お疲れ様です」

 母と婦長さん、タイプは違えど、仕事に対する姿勢はどちらも真面目だ。

 どちらにも、自然と頭が下がる思いだった。

「? なによいきなり」

「いきなりじゃないよ、いつも感謝してるの。さ、お母さん、お風呂入ってサッパリしてきたら? 沸いてるよ」

「わ! 気が利く~! 美穂子、カレーご馳走様!」

 母は嬉々として、風呂に向かった。

 母の背中を見送って、私も二人分の食器を持って席を立った。

「……美穂子」

 すると後ろの鬼王が、常になく遠慮がちに私を呼んだ。

「鬼王?」

 怪訝に思って振り返れば、鬼王は眉間に皺を刻んでいた。

「その婦長だが、間もなく臨終だ。婦長は天涯孤独で縁がない」

 僅かな間を置いてもたらされた鬼王の答え。

「!?」

 私は衝撃に皿を、取り落しそうになった。

 さっきまで母と話題にしていた。その人が、死ぬ?

 本当なら、なんの冗談だと笑い飛ばしてしまいたかった。けれど鬼王は、間違っても人の生き死にに対して、不謹慎な冗談など言わない。

 それもまた、分かり過ぎるくらい、分かっていた。

「すぐ、すぐ支度する!」

 私はシンクに皿を置くと、自分の部屋に駆けた。そうして鞄に末期の水を詰めると、今度は風呂場に走った。

「お母さーん! 私、レンタルビデオ店に行ってくるね! 今日までのDVD返すの忘れちゃってたみたい。ついでに新しいのも見てくるから、遅くなるかも」

 脱衣所から扉越しに浴室の母に声を張る。母には精一杯の平静を装ってみせた。

 咄嗟の割りには、我ながらいい言い訳も思いついた。

 けれど心臓はいつになく煩く鼓動を刻んでいた。

「はーい、気を付けてね」

 扉越しの母から、くぐもった返事が返る。母が私の外出を訝しむ様子はなかった。

 私は風呂場を後にすると、玄関を飛び出した。

 私はこれまでにも、幾度となく臨終に立ち会っている。けれど身近な人の死は、一度もなかった。

 正確には、私と婦長さんに面識はなく、身近という言葉は当てはまらないかもしれない。

 けれど婦長さんは今さっきまで、母との会話で話題にしていた人なのだ。

 母が、婦長さんの顔色の悪さを心配していたところなのだ。

「美穂子、婦長の臨終は病院だ」

「病院!? お母さんの!?」

 だけど鬼王から聞かされた行き先に、一層の衝撃が走った。

「ああ。婦長は勤務後に倒れ、巡回警備の者が発見する時には息を引き取っている」

「どうして病院で倒れたのに、発見されるのが死後なの? スタッフが蘇生にあたってるんじゃないの?」

 母の勤める病院は電車で二駅の距離だ。私は少しでも気を抜けば縺れそうな足を叱咤して、駅に走った。

「いや、婦長は勤務時間後にランドリールームにいたために発見されなかった。退勤を済ませた婦長が病棟内にいる事は、同僚看護師らも知らなかった」

「……そんな。病院にいながら、誰にも知られずにっ……」

 駅に着き、改札を通ってホームで電車の到着を待つ。

 ホームは人目が多く、鬼王との会話を中断して口を噤む。そうすれば一人、なんで、どうして、と頭の中には疑問ばかりが忙しなく浮かんでいた。

 電車が到着するまでのほんの二~三分が、永遠にも思えるくらい長く感じた。




 面会時間の終わりがけだった事が幸いした。多くの患者家族が退館して行く脇を、さり気なく通り過ぎる。そうすれば誰に咎められる事もなく、病棟内に入り込む事に成功していた。

 私は一直線に婦長さんの元へと走った。婦長さんが倒れたのは、緩和ケア病棟内のランドリールーム。

 緩和ケア病棟の入院患者の多くは、ベッドから起き上がる事が難しい。だからランドリールームは主に、患者家族が患者の衣類やリネン類を洗うのに利用している。面会終了時刻が目前に差し迫れば、当然利用者はいない。

「美穂子、そこの角の部屋がランドリールームだ」

「うん!」

 通常、看護師が患者の私物を洗う事はしない。それは、看護行為には該当しないからだ。

 それを行える家族がおらず、患者自身も行えない場合には、別途ヘルパーに依頼するのが病棟ルールにもなっている。

 けれど婦長さんの担当患者の中に、金銭的にそれを依頼するのが難しい患者がいた。業務から逸脱した行為である事を、婦長さんが知らない訳がない。

 けれど婦長さんは、敢えてそれを買って出た。


「婦長さん!」

 ランドリールームに駆け込めば、婦長さんがドラム式の乾燥機に凭れ掛かるようにして倒れていた。

 駆け寄って肩を抱き起せば、婦長さんは泡を吹き、既に意識がなかった。

「……婦長さん、最後にどうしても飲んでいただきたいものがあるんです」

 本当は少しだけ、期待していた。

 鬼王だってたまには、違える事もあるだろう。

 婦長さんが倒れたのは病院だから、すぐに医師が蘇生にあたれば、もしかして命を繋ぐ事もあり得るのではないか。本来いないはずの私が駆け付ける事で、救えないはずの命が救えてしまう可能性もあり得るのではないか。

 運命にも、悪戯があっていいのではないかと、藁にも縋る思いでここに向かった。

 けれど目の前の婦長さんに、猶予はなかった。

 いくつもの臨終に立ち会ってきたからこそ、分かってしまった。婦長さんの命はもう、救えない。

 私は婦長さんを胸に抱き寄せたまま、鞄の中から末期の水の水筒を取り出した。

「これを、飲んで下さい」

 蓋に注いだそれを、婦長さんの口元に宛がった。

 蓋を傾ければ、末期の水は婦長さんの口内に、スゥっと染み入るように消えた。婦長さんの口角が僅かに上がる。

 それは紛う事無い、微笑み。

 その笑みはどこか誇らしげで、満足気だった。

「婦長さん、三十五年間お疲れ様でした。どうか安らかに」

 婦長さんが紡いだ三十五年という年月は、人の一生としては決して長くはなかったけれど、時間だけでは測れない密度の濃い人生だったに違いない。

 水筒を置くと、私は婦長さんの瞼にそっと手をあてた。婦長さんの三十五年の人生に、看護師として走り抜けた十四年間に、敬意を込めて黙祷した。


 婦長さんは沼津由香さん、三十五歳。

 最年少で緩和ケア病棟の婦長に就任したのは、一年前の事だ。

 だけど役職は、由香さんの仕事への実直な姿勢になんら影響するものではない。看護師を志した時からずっと、由香さんの看護への思いは変わっていない。

 看護学生だった頃も、新任の頃も、主任や婦長と役職が付いても、由香さんはずっと目の前の患者さんと実直に向き合ってきた。

 いくつかの診療科の勤務を経て、緩和ケア病棟は由香さんが自ら配属を希望した。

 患者さんの残りの人生をいかに居心地よく快適に過ごしてもらえるか、由香さんはいつも心を砕いていた。

 由香さんが終末看護に懸ける、熱い思い。その根底にあるもの……。

 触れ合う手のひらから由香さんの記憶が、心が流れ込む。私は逆らわず同調し、そっと瞼を閉じた。





 由香さんには両親が居ない。

 両親は、幼い由香さんを残して事故で亡くなっている。

 物心つく前に亡くなったために、記憶もない。けれど由香さんには、祖父と祖母がいた。祖父母がずっと、親代わりだった。

 両親がいなくとも、由香さんは寂しいと思った事が一度もない。

「ばあちゃん、明日の運動会のお弁当、唐揚げ忘れないでね?」

「もちろんだよ! 他にもばあちゃん、お友達のお弁当に負けないように腕を揮うからね!」

「やったぁ! ばあちゃんのお弁当、いつも可愛いって皆が羨ましがるんだから! 運動会、楽しみだな~。……あ、だけどじいちゃんの保護者競技はちょっと不安かなぁ」

「なんだ由香、じいちゃんまだまだ若いもんには負けないぞ!」

「えー? ほんと? 無理しないでいいって」

 祖父母と、由香さんの三人。これが由香さんにとって、家族のスタンダードだった。

 幼稚園も小学校も、全部、祖父母が不足なく整えてくれた。学校行事にも全て参加してくれて、肩身の狭い思いをした事は一度もなかった。


 由香さんの姿が、ランドセルから真新しいセーラー服に変わる。

 由香さんは小学校を卒業し、中学生になった。

 祖母が町内会の仲間と昼食会に出掛け、不在にした日の事だった。

「! じいちゃん!?」

 帰宅した由香さんが、玄関先で倒れる祖父を見つけた。

 祖父は、ピクリとも動かない。

「じいちゃんっ!!」

 由香さんは荷物を放り出し、祖父の元に駆けた。

 すると祖父が、由香さんに向かって僅かに顔を上げた。

「じいちゃん!」

 由香さんの目に、安堵の涙が滲んだ。

「じいちゃんどうしたの!? 大丈夫!?」

 由香さんはうつ伏せに倒れる祖父の背中に腕を回して、顔を覗き込む。

「散歩に行こうとしたんだが、うっかり転んでしまってな」

 祖父の意識はしっかりしていた。

 けれど祖父は、いつもお昼過ぎ、日の高い時間に散歩に出る。既に夕暮れに差し掛かっていた。

 祖父はそれだけの時間を身動きできず、倒れたままでいたという事だ。

 見た目にも、祖父の憔悴は色濃かった。

「じいちゃんどこ打った? 頭とか、打ってない?」

「いや、頭は打ってない。だけど足を、痛めてしまったようでな……」

「立てないんだね?」

 祖父が頷く。由香さんは頭を巡らせた。祖母が不在の中、頼れるのは自分自身だけだった。

「……じいちゃん、救急車呼ぼう」

「由香、そんなのは、みっともないからいい」

 祖父は救急車を否定する。

「じいちゃん、昼から動けずにいるんだよ。これは救急車呼んで、病院行かなきゃ駄目だよ」

 けれど由香さんは、首を横に振った。

「じいちゃん、待ってて」

 祖父の横を通り過ぎ、玄関から居間の電話機に走った。由香さんは靴を履いたままだった。


 119番をコールすれば、すぐにオペレーターに繋がった。オペレーターはプロで、動揺する由香さんから正しく状況を確認していく。

 この電話で由香さんも少し、冷静さを取り戻した。

 由香さんは電話を切ると、祖父母の部屋に向かい、保険証と祖父の持病の薬を鞄に詰めた。タンスの前で少し迷い、着替え一式も押し込んだ。

 次に台所に向かい、食器棚の引き出しから、祖母が生活費として置いている封筒を掴んだ。封筒の中には、三万円が入っていた。

 それらを全て詰め込んで、由香さんは玄関の祖父の元に駆けた。

 祖父の脇で救急車到着までの間、祖母に向けてメモ書きを残した。祖父が転倒し、救急搬送される事。いたずらに心配させないように、意識がある事も書いた。最後は搬送先の病院が決まったら、家に電話を入れるとしか締めようがなかった。

 すると書き終えていくらもしない内に、救急車が到着した。由香さんは自宅玄関を施錠して、祖父に付き添って救急車に乗り込んだ。

 この時まだ、由香さんは十二歳。その由香さんが極限の中で取った行動のどれもが、その場で取り得る最善であった。

 ただし、由香さんが祖母に残した書置きの文字は、震えて所々掠れていた。





 由香さんは救急病棟の長椅子で、緊張にピンと背筋を伸ばして座っていた。

「由香!」

 祖母の声に、弾かれた様に顔を向けた。

 祖母の顔を見た瞬間、由香さんはクシャリと顔を歪め、ヘロヘロと長椅子に頽れた。

「由香っ!!」

 駆け寄った祖母が、ギュッと由香さんを抱き締めた。

「ばあちゃん! ばあちゃんっ!!」

 祖母の腕に抱かれ、由香さんは声を上げて泣いた。

「偉かったね由香! よく救急車を呼んでくれた、よくじいちゃんに付き添ってくれた!」

 こんなふうに祖母の腕に抱かれるのは、随分と久しぶりの事だった。張り詰めていた緊張の糸が緩む。安堵に、肩の力が抜けた。

「由香、ありがとうね!」

 けれど同時に、由香さんの胸に、言いようのない恐怖が浮かぶ。

 祖母の肩が、随分と薄く小さくなっている。頭髪の白さが際立つ。

 改めて見下ろす祖母は、ひどく年老いて、か弱い存在に思えた。祖父母の老いを、目の当たりにした思いだった。

「ばあちゃん、じいちゃん膝悪くしちゃったみたい。この後先生から詳しく説明あると思う」

 由香さんはギュッと祖母を抱き返して、低く告げた。

「そう、膝か……。じいちゃんも年だから、治るまで少し掛かるかもしれないね」

 祖母が表情を翳らせた。

「ばあちゃん、大丈夫だよ。じいちゃんの身の回りの世話、私も協力するよ」

 祖母を安心させるように、由香さんは内心の不安をひた隠し、力強く頷いてみせた。

「由香……」

 由香さんを見上げる祖母の目に、薄く涙が光っていた。由香さんは祖母の小さな肩を、きつく抱き締めた。





 祖父は膝の皿を骨折し、三日間の手術入院を経て退院した。

 通院で様子を見ながら、手術の傷は二週間で抜糸した。

「じいちゃん、しっかり固定してるから、先生も少しずつ動くようにしましょうって言ってたよ。私肩を貸すから、庭に出ない? ツツジが見頃だよ」

「……いや、いい。少し寝るよ」

 けれど祖父は、膝の怪我から急に気概をなくしてしまった。

 覇気がなく、自主的に何かしようという気がまるでなくなってしまったようだった。

 そこからはまるで、坂道を下るように状況が悪くなった。

「じいちゃん、トイレそろそろ行っとこう?」

「まだ、いい」

「まだよくても、いざ行きたくなった時に間に合わなくなっちゃうから。だから早めに、行っとこう?」

「……あぁ」

 祖父はなかなか、起き上がる事が出来ない。

「じいちゃん、足ここにちゃんと突いてね? 引き上げるよ、よーいしょっ!」

 由香さんは祖父のズボンの尻側をグッと掴み上げ、慣れた様子で介助をする。

 だけどやがて、祖父は伝い歩きで用を足しに行けなくなった。オムツに頼るようになり、いつの間にか完全に寝たきりになった。

「じいちゃん、オムツ替えるよ」

「……すまないな」

 中学生の由香さんも、文句ひとつ言わずに祖父のオムツを替えた。

「おばあちゃん、今日、じいちゃんの入浴介助にヘルパーさんが来るからね。タオル、用意しておいたから」

「由香、ありがとうね」

 けれど体の自由が利かなくなるのは、祖父だけじゃない。祖母もまた、老いる。

 この頃には由香さんが、高齢の祖母に変わって、家の事、介護の事、ほとんどを担うようになっていた。

「いいの! 出来る事を協力するのは当然でしょ? それじゃ、いってきまーす」

 それでも由香さんには、不満なんてなかった。

「いってらっしゃい、気を付けてよ」

「はーい」



 だけどそんな日々も長くは続かない。

 由香さんが高校生になってすぐ、寝たきりの祖父と由香さんを残し、祖母が急逝した。

 心臓発作だった。その死はあまりにも突然で、悲しむ間すらなかった。

 高校に連絡が入り、由香さんが病院に駆け付けた時にはもう、祖母は息絶えていた。

「ばあちゃん、あんまりにも急だよ。私、ばあちゃんにお礼のひとつも言えてない……。ばあちゃんに何も、してあげられてない……」

 由香さんは、大粒の涙を零し、答えぬ祖母の頬を撫でた。


 祖母の葬儀は家族葬で、しめやかに執り行われた。喪主は祖父に代わって、由香さんの大叔母が務めた。祖母の妹にあたる女性だ。

 大叔母は遠方に住んでいたし、さほど親密な付き合いがある訳ではなかったのだが、祖父はもう、喪主が務まるような状態ではなかった。

 それを見兼ねた大叔母から、喪主を申し出てくれた。

「由香さん、由香さんはこれまでも頑張ってきたね。だけど高校行きながら、お祖父さんを家で看る事は出来ないよ」

 由香さんと大叔母、ケースワーカーさんの三人で、今後について相談の場が持たれた。

「……でも」

 大叔母の親身な説得にも、由香さんはなかなか首を縦に振る事が出来なかった。

「ええ、状況が状況ですから、施設の順番は問題ないです。お祖父さんを、預けましょう?」

 ケースワーカーさんが由香さんの肩を抱いて諭す。

「……私、高校辞めてじいちゃん看ます。高校は義務教育じゃないし、またいつか通う事も出来る。だけどじいちゃんは、たった一人の家族だから……」

 ケースワーカーさんも、大叔母も、由香さんの言葉に目を剥いた。高校一年生の由香さんが、祖父に寄せる切ない覚悟に胸を打たれていた。

 けれど現実問題は、そう簡単に割り切れるものではない。事は由香さんの将来を左右する、あまりにも大きな決断だ。

「だけど由香さん、高校中退だなんて、」

「由香、中退なんて駄目だ。高校卒業しないでどうする。由香にそんなんさせたら、ばあさんに顔向けができない」

 由香さんを説得しようと大叔母が上げた声を、襖越しに祖父がピシャリと遮った。

「じいちゃん!?」

 最近はほとんどを寝て過ごし、意思表示も少なかった。痴呆の進行は、在宅診療の訪問医からも指摘されていた。

 その祖父が、隣室で繰り広げられる話を聞き、自ら声を上げた。

 こんなふうに明確に意思を示し、声を上げる祖父の姿など、もう何年も見ていなかった。

「俺は施設に入所する。もう決めてる。どうか、そのようにお願いします」

 由香さんは慌てて襖を開け、祖父の介護ベットに駆け寄る。祖父はしっかりと目を見開き、由香さん越しに見る、大叔母とケースワーカーさんに懇願した。

「はい! すぐに、入所の手配をします」

 ケースワーカーさんが力強く返答すれば、祖父はまたスゥっと瞼を閉じてしまった。

「……じいちゃん、学校帰りは毎日面会に寄る。一時帰宅出来るなら、毎週だって連れて帰る。長期休みは私が全部全部、じいちゃんの事を看るからっ」

 由香さんは拳を硬く握り締め、目に涙を溜めて叫んだ。

 瞼を閉じ、寝息を立てる祖父が、確かに微笑んでいるように見えた。





 由香さんは泣く泣く、祖父の入所を了承した。

 宣言通り、由香さんは毎日、学校帰りに面会に寄った。面会時間終了の午後六時まで、由香さんは祖父の隣で過ごした。

 血行不良で冷たい祖父の足をマッサージしたり、蒸しタオルで温めたりも積極的に行った。

 その日、由香さんはベッドにビニールシートを敷いて、祖父の体を拭いてあげていた。

「あら由香ちゃん、おじいちゃんの体拭いてあげてたの? どれ、手伝おうか」

 廊下から部屋を覗いた担当看護師は、由香さんが祖父の清拭を行っているのに気付くと、腕まくりしながら歩み寄った。

「看護師さん? もう仕事上がりじゃなかったんですか?」

 毎日通っていれば、施設内の状況も自ずと知れてくる。施設の日勤勤務は五時まで。時刻は間もなく五時半になろうかというところだった。

「えー、そんな事はいいのよ。まめに体位交換してるんだけど、おじいちゃん最近、床ずれになりかけてるから気になってたの。やっぱり栄養状態が、悪くなってきちゃったからからかなぁ」

 日勤勤務を終えた看護師は、バックヤードに戻る途中のはずだった。けれど嫌な顔一つせず、蒸しタオルを手に取って、清拭を手伝った。

 由香さんが石鹸を付けたガーゼで拭き、看護師がその後を手際よく蒸しタオルで拭き取っていく。一人では大変な作業なのだが、二人でやればあっという間だ。

 なにより短時間で終える事で、祖父の体を冷やさずに済むのも嬉しかった。

「由香ちゃん、清拭する時は遠慮しないで声をかけてね」

 後片付けまで手伝いながら、看護師は由香さんに微笑んだ。

「え、でも決まった回数はちゃんとやってもらってますから……」

 清拭は、決まった時間に看護師かヘルパーが入所者の元を回り、きちんと行ってくれている。

 由香さんは祖父のかぶれが気になって、多く行っていた。

「やぁね、気兼ねする事ないのよ。こうやって清潔を保ってあげる事が、床ずれ予防にも重要なの。なによりおじいちゃんも、すっきりするしね」

 由香さんにとって、祖父は唯一無二の大切な存在。けれど施設スタッフにとっては、多くいる入所者の一人。

 決められたルールの中で介護をしてもらう。それ以上は望めない、いや、望んでは申し訳ないと気が引けていた。

「あら? なんだかおじいちゃん、笑ってるように見えるわ!」

 看護師が祖父を見て、驚きの声を上げた。

 もう、祖父が自分の感情を訴える事はない。けれど清拭を終えた祖父は、笑っていた。

「ほんとだ、じいちゃんが、笑ってる!」

「由香ちゃん、おじいちゃんが快適に過ごせるように、私もぜひ協力させてちょうだい。私もおじいちゃんが嬉しいと、嬉しいもの!」

 けれど看護師は祖父のために労を厭わず、あまつさえ嬉しいとまで言ってくれた。

「あ、ありがとうございます!」

 朗らかな看護師の笑顔が、由香さんの心に光を差し込んだ。

 祖父の命の灯が段々と細くなっていく様を見守る。それは、先の見えない暗闇を進むような心細さ。しかも、暗闇の終わりにあるのは、祖父との永遠の別れ。

 ならば暗闇が明ける事もまた、望めない。

 そんな暗闇の中で見た看護師の優しさは、由香さんの目に眩しいくらいに明るかった。




 季節が春から夏に変わる頃、ついに祖父も施設で息を引き取った。由香さんの夏休みを待たずに、祖父は逝った。

 高校一年生で、由香さんは一人になった。

 だけど祖父を見送った由香さんに、悲壮感はなかった。由香さんの胸には、ある種の達成感があった。祖母の死に際して感じた後悔が、欠片もなかった。

 祖父が応えずとも、日々、耳元で感謝を伝えてきた。祖父の身の回りの介助も、やれる事はやり切ったと自負もある。

 そう思わせてくれたのは、あの看護師の女性だ。看護師はただ、笑顔で清拭を手伝ってくれただけじゃない。

「おじいちゃんとのお別れは、もしかするとそう遠くないかもしれない。だからおじいちゃんと過ごす一時一時を、大事にしましょう」

 看護師は、折に触れて由香さんを励ました。由香さんを鼓舞し、時には厳しい話もした。

「由香ちゃん、おじいちゃんだけじゃないわよ。誰にでも最後はあるよ。だから一緒にいられるその一瞬を、後悔の無いように過ごしましょう」

 別れへの覚悟もまた、看護師の女性がくれた。

 そうして祖父を見送った今、介護に明け暮れて過ごした日々も、終業のチャイムと共に介護施設に走った日々も、全てがただ懐かしかった。

 そうして過ぎ去った全てがかけがえなく、愛おしかった。


「由香さん、よかったらうちに来ない? 一人でこの家は、寂しいでしょう? なによりこの家ももう古いわ。維持費も大変なんじゃない?」

 大叔母が、由香さんに同居を申し出てくれた。

「おばちゃん、ありがとう。でも私は、これからもこの家で暮らす。もちろん高校は、じいちゃんとの約束通り、絶対卒業するよ」

 だけど由香さんは、祖父母と過ごした家に、残る決断をした。

 遺族年金が十八歳まで下りる。僅かだが、祖父母の蓄えもあった。なんとか、なると思った。

「うん、そうね。それじゃあもし、何か困った事があったら電話してきてちょうだい」

「ありがとう、おばちゃん」

 大叔母が帰れば、由香さんは今度こそ、広い家に一人になった。


 だけど由香さんは、孤独じゃなかった。由香さんの胸には希望があった。

「じいちゃん、ばあちゃん、私、看護師になる。看護師になって、患者さんも、患者さんの家族も、皆を笑顔にするんだ」

 祖父母の遺影の前で、由香さんが誓った。

 由香さんにとって看護師が灯した明かりは暗闇を照らしただけじゃなく、将来までも明るく照らす光になった。

 光は由香さんの胸の中、何年の時を経ても、変わらぬ明るさで輝き続けた。

 そうして由香さんは、そのままの輝きで駆け抜けて、そして天に昇っていった。






「由香さん、頑張ってこられましたね。中でも看護師として過ごした十四年は立派過ぎて、私には言葉が見つかりません……」

 ゆっくりと瞼を開く。

 由香さんにあてていた手をそっと外した。

 そうすれば由香さんの表情は、やはりとても満足そうに見えた。

「由香さん、本当にお疲れさまでした」

 最後にそっと、両手を合わせた。

「美穂子、そろそろ行こう。婦長が洗濯をしてやっていた患者が、婦長が戻らない事を別の看護師に伝えたぞ」

「うん……」

 私は由香さんを丁寧に床に横たえて、ランドリールームを後にした。



 病院を後する私の足取りは重かった。

 由香さんの死は、心臓突然死だ。突如意識を失くし、そのまま逝った由香さんに苦しみはなかった。

実際に触れ合った由香さんの心にも、未練はない。

 あるのは患者さんへの献身と愛情、そんな清らかな感情ばかり。私が貰い受けるべき、孤独な感情はない。

「なんだ美穂子、釈然としないって顔だな。無事に末期の水は間に合い、婦長は迷わず祖父母や両親の元に昇っていける。この上、何を憂う?」

 鬼王の言う通りだった。

 由香さんは末期の水を含み、無事に天へと昇っていった。

 この上、私は何を憂うのだろう……。

「……ねぇ鬼王、由香さんは十四年間、ずっと患者さんに寄り添って過ごした。間違いなく由香さんの志は立派で尊い。でも、由香さんの心に寄り添って過ごす誰かは?」

 けれど本当に、孤独はなかったのだろうか?

「婦長が恋人の一人も作らず独身だったからといって、その発言は世の独身者から反感を買うのではないか?」

「いや、別に私は異性に限定したかった訳じゃないよ」

 異性に限らず、同性の友人でもいい。

「心臓突然死の原因を特定は出来ないけど、ストレスとか過労とかが多少なり関係するとしたら、誰かと分け合う事でまた違う結果もあったかもって……」

 ……いや、そうじゃないのかな?

 鬼王に言葉を投げかけながら、ふと思った。

「はははっ! それは少々傲慢なこじつけではないか?」

 高らかに、鬼王が笑う。

 鬼王の言う通り、もしかすれば私は傲慢な物の見方をしていたのだろうか?

 そもそも、誰がなんの基準でもって心の重荷を分け合う相手を生者と限定できるだろう。

 孤独だって、もちろんあったに違いない。だけど決して、孤独が由香さんの胸の内の全てじゃない。

 患者さんに向き合う由香さんの心には、いつだって大切な祖父母が共にいた。だから由香さんは、一人じゃなかった……!

「人の思考は様々で、望んで一人を好む者もいる。皆が皆、馴れ合いたい訳ではない。かくいう美穂子だってその筆頭だろう? 美穂子は学校でも一匹狼を好む」

 ……鬼王の言葉は一見、人の本質を捉えているかのようで、少し理解がズレている。

 馴れ合わないと、望んで一人を好む、これは果たしてイコールになり得るのだろうか?

「ははっ、そうかも。外野が変な邪推しちゃったかな」

 私はこの話題を、曖昧に笑って幕引きした。そもそも鬼王は、一番肝心なところを見逃している。

「ふむ。うさぎじゃあるまいし、人は一人だからと死なんからな」

「いや鬼王、うさぎが寂しいと死んじゃうってのは迷信だから」

「! そうなのか!?」

「……」

 だって私は、一人じゃない。

 私は鬼王がいるから、寂しくない。もっと言えば、私は鬼王がいれば寂しくない。

「おい美穂子、うさぎは本当に寂しくても死なんのか?」

「……帰ったら、ネットで調べなよ」

「ふむ!」

 私は誰といるよりも、鬼王と二人がいい……。




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