4
末期の水を飲ませに行く時はいつも、鬼王の報せで向かう。
この世の中に孤独な魂は多くあり、私が末期の水を含ませる事が出来るのは、ほんの一握りだ。孤独な魂の元を、全て回る事は出来ない。
夏休み中の今はともかく、学校のある平日は、訪問できる曜日や時間も限られる。鬼王はそれをよく汲み取っていて、私が向かうのに無理がない時間や距離の死に際しか知らせてこない。
けれど、鬼王の元にはおそらく、もっと多くの死の情報が下りてきている。時間や距離だけじゃなく、何某かの基準で、鬼王は私が向かう先を厳選しているのかもしれない。
そんな事を思いながら、この日も私はテレビを付けながら、一人の食卓で簡単な夕食を突いていた。
「五月上旬に新宿駅のガード下で死亡していた男性が、二十年前の埼玉県一家連続殺人事件で指名手配中の荻野彰広と判明し、警視庁は引き続き調査を続けると共に、被疑者死亡のまま――」
テレビから流れてきたニュースの一節。私は衝撃に、思わず食事中の箸を取り落した。
……私は、その男性の死を知っていた。いや、正確には、予感していた。
あれは、私の誕生日から一月ほど経った、ゴールデンウィークの最終日。私は既に、鬼王と共に片手の数ほどの魂を見送っていた。
その日も私は、鬼王から孤独な魂の旅立ちを聞かされて、その人の元に向かっていた。
途中で、鬼王と新宿駅のガード下を潜る。新宿駅のガード下にホームレスがいるのは既に、当たり前の景色になりつつある。
……あ、あの人。
直観、とでも言うのだろうか。すれ違いざまに見た、痩せ細り、横たわる男性の命の灯が間もなく消える、そんな予感がした。
私は鬼王とは違い、人の生死の情報を知らない。だからそれは、本当にただの勘だ。
横をいく鬼王をチラリと見上げた。鬼王は前を見据えたまま、物言わない。
私は結局、口を噤む事を選んだ。
そうして当初予定した通りに、孤独な老爺の魂を見送って帰宅した。
アナウンサーが次のニュースを読み上げる。私は弾かれるように食卓を立ち、逸る心のままパソコンの前に移動した。
今の時代、少しネットで調べれば、情報というのはすぐに得られる。
あの時死亡したホームレスは、ただのホームレスじゃなかった。男は殺人事件の容疑者。だけど男の容疑は、ただの殺人じゃない。快楽殺人に近い、猟奇殺人。
そしてネット上では犯人の身の上まで、容易に知る事が出来た。
複雑な家庭に生まれた男は天涯孤独で、無縁仏だ。
……ならば男もまた、縁のない孤独な魂のひとつという事になる。
あの時、男の旅立ちに鬼王も、気付いていたはず。というよりも、鬼王が気付いていない訳がなかった。
だけど鬼王は私を、当初予定していた魂の元に向かわせた。
魂の選別といえば大仰だが、これは鬼王が意図的に犯罪者を避けたという事。
普通に考えれば、犯罪者の魂と、あの時私が見送った人徳者の老爺の魂、どちらに天秤が傾くかは瞭然の事ともいえる。
もちろん私が、その是非に言及するつもりは更々ない。
けれど他ならない鬼王が、その賽をふったという事実を、少しだけ不思議には感じた。
「……俺の事を、軽蔑したか?」
まるで私の疑問を汲み取ったみたいに、隣から鬼王が声を上げた。
「ううん、鬼王。軽蔑だなんて、思う訳がないよ。ただ少し、不思議には思ってる」
しっかりと鬼王の瞳を見つめて告げた。
どうして私が鬼王を軽蔑など、するというのか。それこそが、あり得ない事だ。
「……本音を言えば、俺は今でも恐ろしいんだ」
恐ろしい? 鬼王から語られた答えは、予想だにしないものだった。
「かつて俺はこの身でもって、本物の狂気に触れている。嗜虐性や残忍性、それらは状況に窮してやむ無く発現する類ではない。その者の魂に刻まれた性であり、その性は再びの生でも引き継がれる。そんな魂との対峙が、俺は今でも恐ろしくてならない」
眦から、涙が雫になって零れた。
「魂の平等を頭では理解しながら、対峙する恐怖から逃げる俺は、とんだ臆病者だ」
私の頬を伝う涙に何を思ったのだろう、鬼王は自嘲気味に笑って、そんな事を言った。
私は必死で首を横に振った。
私の涙は、他ならない鬼王自身を想ってのもの。人ならざる者に姿を変えてなお、本能に刻まれた恐怖。鬼王がかつて体感した苦しみは、一体どれほどに辛い記憶なのか。
鬼王がその身に負ったであろう苦渋を思い、胸が張り裂けそうなくらい苦しかった。
……人の本質というのは清らかで優しい? そんな幻想に浸っていた、かつての自分を殴ってやりたい思いだった。
魂が清らかだと思えたのは、他ならな鬼王が、私を本物の狂気から遠ざけていたから。
「鬼王、これだけは言わせて。誰がなんの基準でもって人を裁こうが、そんな事は私にはどうでもいい。例えば鬼王、犯罪者の魂と、あの時私が見送った老爺のような善良な魂ならば、十人中十人の天秤は老爺に傾く。だけど私は、もし鬼王が何某かの考えで犯罪者の魂を優先したがったなら、喜んで老爺を通り過ぎて犯罪者の魂の元に走るよ」
鬼王は目を瞠って私を見下ろしていた。
「それくらい、私は鬼王を絶対的に信用してる。鬼王が恐いなら、寄らなきゃいい。鬼王が躊躇するならば、それは見送るに値しないのだと割り切っていい。……ね、鬼王? 私の思想こそ、相当に歪で乱暴でしょう? 軽蔑した?」
鬼王には、はじめて明かした。胸に燻る想いの一端を、ほんの少しだけ、敢えて伝えた。
鬼王は、私が内に秘める激しさを目の当たりにして驚いた様子だった。
「……馬鹿な事を。俺が美穂子を軽蔑など、ある訳がない」
鬼王がゆっくりと口を開いた時、その瞳は静かだった。
静かな瞳の後ろに、燃え立つような熱を見た気がしたのは、果たして私の願望が見せた幻なのか。
「なら、同じだね」
私は鬼王にひとつ微笑んで、すっかり冷めきった夕食の席に戻った。
鬼王はその間もずっと、静かに私の隣にいた。
……募る想いは、重く切なく、そして愛おしい。
「美穂子、……美穂子」
……ん?
鬼王に名前を呼ばれているような気がした。何度か瞬きを繰り返しながら薄く瞼を開けば、ベッドサイドで鬼王が私を見下ろしていた。
「……鬼王」
寝ぼけ眼を擦りながら、のろのろと身を起こした。
「おはよう、早いね?」
ベッドの中から、鬼王の後ろの長窓に視線をやれば、カーテン越しの外はまだ暗い。
「起こしてすまない。美穂子、これから東町まで行く事は出来るか?」
鬼王が私を起こしてまで伝えてきたのなら、それは当然誰かの死に関する事だ。
しかし、これまで死に際に向かう時は、いつもどこに何分後、そんな指示のされ方だった。それが今日は、鬼王は私に「行く事は出来るか」と、伺いをたててくる。
これはとても珍しい事だった。
「東町って、県境の?」
「あぁ」
私は枕元に置いていたスマホで時刻を確認し、僅かに逡巡した。
時刻は現在、午前四時。まだ、始発電車も走っていない。
「……うん。自転車で、行ける」
だけど私は躊躇わなかった。
「そうか!」
「急ぎ? 臨終は何時?」
私はベッドを抜け出すと、パジャマを脱ぎ捨てた。クローゼットの前で、Tシャツとジーンズに着替えながら、鬼王に情報を確認する。
「午前六時だ」
「六時なら間に合うね。結構距離はあるけど、流石に二時間は掛からないはず」
最後に薄手のパーカーを羽織り、リュックに末期の水の水筒を詰めた。自転車なら、両手は空いた方がいい。
「やっこさんは屋敷で、家族や訪問診療の医師看護師が看てる」
え?
身支度を手早く済ませ、部屋を出ようとしたところで、鬼王から告げられた予想外の台詞に思わず足を止めた。
「……ちょっと待って、それって私が行く必要ある? っていうか、そもそもそんなに人がいて、末期の水を飲ませる隙なんてあるの?」
行く必要があるかないかは、私が判断するものじゃない。鬼王が行く判断をしたのなら、末期の水が必要なのだろう。
だけど問題は、果たして飲ませる事が出来るのか。見ず知らずの者がいきなり訪ねて、これを飲ませたいなんて頼んでも、飲ませてもらえるとは思えない。
「ふむ、そこはなんとかしてみる」
意外な答えだった。
「とにかく、出ようか」
私は最後に、居間のテーブルにお母さんにあてた書置きを残し、自宅マンションを飛び出した。
マンションの駐輪場で自転車に飛び乗ると、後はひたすら自転車を漕いだ。
連日真夏日が続いているが、太陽が昇る前の早朝に風切って自転車を漕ぐのは、涼しくて心地よかった。
上り坂に差し掛かり、僅かにペースが落ちたところで、私の隣をタクシーが通り過ぎていった。
本当は、タクシーを使うという手もあった。
不規則な勤務で家を不在にする事の多い母は、生活費と小遣いとして、多めの金額を置いていってくれる。タクシー代もそこから十分に、捻出できた。
だけどそれに、鬼王がいい顔をしないだろう事は分かっていた。鬼王は、自分の指示で私が散財する事に引け目を感じている。
交通費に一定額が使われる状況を、いつも申し訳なさそうにしてる。だから敢えて、私は自転車を選んだ。
だけど本当は、鬼王が引け目に感じる必要なんてないのだ。だってこれは、私自身が望んでしている事だ。
きつくなりはじめた坂道の最後は、サドルから腰を浮かせて立ち漕ぎにかえて、グンっと力強くペダルを踏みしめた。
……うん、自転車も悪くない! 頬に感じる風に、目を細めた。
「すまんな美穂子」
立ち漕ぎで坂道を上る私に、鬼王が斜め後ろから声を掛けてきた。
これは、何に対しての「すまない」なのか。自転車の長距離移動に対してか、それとも、死に際を回るこの役目そのものに対してか。
「なにが? 早朝のサイクリングなんて気持ちいいじゃない」
私は鬼王から、なんら強制されていない。
はじめて鬼王から話を持ち掛けられた時、鬼王は私に「やってくれるか?」と聞いた。それに「やる」と答えたのは私で、私は自分の意思で決めた。
今でこそ、私が末期の水を含ませに回るという行為は、意図せず私に存在を明かしてしまった鬼王に対する、何某かのペナルティのようなものだったのではないかと思っている。
もちろん鬼王は、私が一言「やらない」と答えれば、強制せず回避の術を探っていたのだろうが。
「ねぇ鬼王、孤独な魂を守り導く、そんな尊い手伝いが私に出来るなら、やらない訳がないよ。私は一人でも多くの最期に立ち会いたいと思ってる」
語った言葉に嘘はない。
孤独のまま逝く魂の助けになりたいと思う心も、最期くらい憤怒や怨嗟から解き放たれて逝って欲しいと願う心も全て私の真実。
少しの損得勘定があるとすれば、それをする事で少しでも鬼王の役に立てているのなら、更に嬉しいと思っている事くらいだ。
自転車を必死に漕ぎながらだったから、鬼王の表情は見ていない。
「そうか」
鬼王は随分と長い間を置いて、一言だけそう言った。
坂道を上りきり、再びサドルに腰を下ろした。ひと心地ついたので、チラリと鬼王を振り返った。
この時の鬼王は、いつも通りの無表情だった。
その後、到着まで鬼王が声を掛けてくる事はなかった。私もこれ以降は口を噤み、静かな早朝の街を進んだ。
キキッと、自転車を止めた。
「あそこのお宅かな」
大きな家だった。車庫には二台の車が止まっていた。
「ああ」
庭には、自家用車とは別に、一台車が止まっていた。車の側方には診療所の文字が見える。
家族の他、急変の連絡を受けた訪問診療のスタッフまで揃っているようだった。
「鬼王、どうやって行く?」
「……ふむ」
隣の鬼王は眉間に皺を刻み、何かに集中しているようだった。
「少し、待ってくれ」
私は道路脇に自転車を止めた。鍵を掛けながら、家の様子を窺う。
家人は各部屋にいるのか、ほとんどの部屋のカーテンの隙間から灯りが漏れている。エアコンの室外機も、何台も回っている。
もしかすると、家族は患者さんの側に集まっている訳ではないのかもしれない。
「患者は、一階の和室だな」
鬼王が目を閉じたまま、ゆっくりと語り出す。
「家族は全員が二階の自室にいるな。患者の側にはいないようだ」
鬼王が只人でないのは明らかだし、不可思議な力を持っているのも知っている。それでも鬼王の力の詳細までは把握していなかった。
淡々と語られる室内の状況に、驚きは隠せなかった。
……今回の件だけじゃない。もしかすれば鬼王は、知ろうとすれば、その全てを見通す事が出来るのだろうか。
だとすれば、鬼王の前には何一つ隠し立てなど通用しない。
「医師と看護師は患者の側に……いや、医師は鎮静剤の投与を終えて、一旦患者の側を離れた。これから家族への説明に向かうようだ。看護師だけ、患者の側に残った」
スッと鬼王が目を見開く。
「美穂子、今ならいける。医師と家人は全員が応接間に集まった。俺が看護師を外に出るように仕向けるから、美穂子は患者に末期の水を頼む。外から和室に回ってくれ、長窓の鍵を開けておく」
「わ、分かった!」
私に指示を残して、鬼王が消えた。
瞬きして目を開けた時には、私の横から鬼王の気配は消えていた。
鬼王の指示で、外庭から和室に回り込む。
窓の内側の障子で、中の様子を窺う事は出来なかった。
長窓に手を掛けた。窓を引く瞬間はやはり、家人が全員集合する屋敷への大胆不敵な不法侵入に、肝が冷えた。
けれどふと、脳裏に過ぎった。法律は、人が作ったルール。だけど鬼王は、法律を凌駕するもっと大きなルールの下に、動くのではないだろうか。
本当のところは分からないが、背中を押された私は長窓を開け放ち、中の障子も引き開けて、ついに和室に侵入した。
患者さんは、介護用ベッドの上にいた。
松本春江さん、七十六歳。
ファッションに疎い私は鬼王に聞かされてもピンとこなかっのだが、春江さんは著名なファッションデザイナーだそうだ。また、自身の手掛けるファッションブランドの代表取締役会長でもある。
世界を股にかけ、春江さんのショーやコレクションは大変な盛況を博していたそうだ。それに伴い、春江さんの資産は数億円とも囁かれていた。
私が侵入した時、春江さんは目を開いていた。
私が侵入した窓はなんと、春江さんの真正面だった。
春江さんが私を見ているのかは分からない。けれど、フラットよりはやや頭部を高くしたベッドに横たわる春江さんの目線は、ぴったりと私の方を向いていた。
「春江さん、窓から失礼してすみません」
春江さんの枕元にゆっくりと歩み寄る。
ヒューヒューと細い息。痰の絡む、苦しそうな呼吸。
なのに春江さんは、笑っていた。
「妖精さん。可愛い可愛い妖精さん」
小さな切れ切れの声。だけど春江さんは、歌うように言葉を口にのせる。
高濃度の鎮静剤が、春江さんの苦痛を取り除く。同時に、春江さんから理性的な思考も奪っている。
春江さんは私に向かって、妖精さんと呼び掛ける。
だけどその目は、私を見ていない。
「春江さん、私、どうしても春江さんに飲んでいただきたいものがあって、持ってきました。ちょっと待って下さいね」
……急いだ方がいい。六時の臨終までは、時間的には少し間がある。けれど、鬼王が抑えてくれているとはいえ、万が一にも見咎められてしまっては大ごとだ。
大急ぎで、背負っていたリュックから、末期の水の水筒を取り出す。
水筒の蓋を外し、末期の水を注ぐ。
「春江さん、これを飲んで下さい」
春江さんの口元に、末期の水を寄せた。
「妖精さん、連れてっとくれぇ!」
口元に末期の水をあてがったところで、笑っていた春江さんが一転、ギンッと鋭い目を向けた。
え!?
衝撃で蓋に注がれた末期の水が、チャプンと大きく波打った。
「後生だよ! 私をここに置いとかないでくれ! ここにいたらハイエナが、私の死肉まで食らおうと寄ってたかる!! 早く連れてっとくれぇ、っっ!!」
吐き出すように叫び、春江さんはグルンと白目を剥いた。春江さんは口に、泡を吹いていた。
「! 春江さん!?」
春江さんは、ピクピクと小さく痙攣していた。
咄嗟に、頸動脈に手をあてた。脈は、あった。
落ちついて見れば、自発の呼吸もちゃんとある。
心臓はまだ、動いている。
……落ち着け。落ち着くの。臨終には、まだ間がある! 私は、やるべき事をやる!
自分自身に言い聞かせるようにして、私はまず春江さんの口元を汚す泡を拭う。春江さんの痙攣と眼振も一時的なものだったようで、既に収まっていた。
「春江さん、これを飲みましょう。私が春江さんを連れていく事は出来ないけれど、これが春江さんを導きます」
唇に、末期の水をあてがう。今度こそ、春江さんは末期の水を飲み干した。
コクリと喉が嚥下に動く。
「妖精さん、ありがとう」
一番最後、声になるかならないかの声で、春江さんは私に小さく呟いた。
その後は静かに瞼を閉じ、時々ヒュー、ヒューと細い息を吐きながら春江さんは眠った。
春江さんはもう、微笑む事も、興奮して叫ぶ事もしない。
私はそっと、春江さんの瞼に手をあてた。
グッと集中を高め、深層意識に潜り込む。そうすれば、これまでとは違い、早送りのように映像が流れ込む。人の一生分の情報量が、濃縮されて注ぎ込む。圧倒的な容量の情報に、眩暈がした。
カタン。
「美穂子、出るぞ! 看護師が戻る!」
膨大な記憶が現在にまで追い付いたところで、鬼王が現れた。
鬼王は慌てた様子で、窓の外から私を手招いていた。
「あ、すぐ行く!」
春江さんの瞼にあてていた手を引いた。そして最後に、私は春江さんに向け、そっと両手を合わせた。
「春江さんどうか安らかに。お疲れ様でした」
合掌を解くと、窓の外で待つ鬼王に向かって踏み出した。けれど踏み出した足は踏ん張りが利かず、私はクタリとその場に頽れた。
「美穂子!」
目の前が、ぐらぐらと揺れていた。
「大丈夫か!?」
窓の外にいたはずの鬼王が、気付けばすぐ隣にいた。鬼王は私の背中と膝裏を支え、横抱きに抱き上げた。
「落としたりはしない。そのまま寄り掛かっていろ」
反射的に身を硬くした私に、鬼王は安心させるように言った。そのまま鬼王は人一人抱えているとは思えない身軽さで、窓から外に飛び出した。
鬼王の肩越しにチラリと一瞬、春江さんの穏やかな寝顔が見えた。
春江さんはこのまま、眠ったまま逝く。春江さんが拒んだ、ハイエナを目にすることなく、穏やかに旅立つ。
……春江さんのハイエナの記憶は、私が引き受ける。
私も鬼王の胸に凭れ、撓む視界を、そっと閉じた。
鬼王が足を進める度、ゆらりゆらりと揺れるのが心地良かった。
「美穂子、六時だ。故人の魂が穏やかに天に昇っていった。美穂子のおかげだ」
夢うつつに、鬼王の優しい囁きを聞いた。
私の中に押し寄せて来た春江さんの記憶。
一言で春江さんを表せば、成功者というのが妥当だろう。
春江さんは旧財閥の流れを汲む、名家の生まれだ。
春江さんに戦中の記憶はない。けれど街中、いたるところに戦争の傷跡はあった。
そんな時代に春江さんは産声を上げ、戦後日本の復興をその目で見ながら成長していった。
春江さんの父親は戦後、戦前に営んでいた貿易商を再開させた。
家庭は比較的、裕福といえた。
それでも両親は堅実で、家庭生活は決して贅沢をしなかった。
「春江、そろそろ服が草臥れてきたでしょう?」
母親がそう言って風呂敷を解いて見せたのは、真っ白な木綿地。その下には、厚地の紺地も見えた。
「お母さん? それ、両方私の!?」
春江さんは真新しい生地に目を輝かせた。
「そうよ。春江にと思って、用意したの。これで新しいブラウスとスカート、間宮のおばさまに誂えてもらいなさい」
「うん!」
誂え品、オーダーメイドといえば、通常は高級品を想像する。けれど戦前の時代はまだ、繊維製品の工場生産と言うのは一般的ではなかった。
既製品として流通している品物を求める方が、むしろ高額になる場合が多かった。
だから裁縫を請け負う近所の女性に生地と手間賃を渡し、誂えるというのがよく見られた。
「母さん編み物は得意だから、新しいセーターは母さんが冬までに編むからね」
春江さんの家では戦後になっても継続して、近所の女性に誂えを頼んでいた。
「ありがとうお母さん! ねぇお母さん、さっそく間宮のおばさまにお願いしてきてもいい?」
「もちろんよ。お代はいつも通り母が後から払いますって、そう言っておいてね」
「はーい」
春江さんは丁寧に風呂敷を結び直すと、大切そうに新しい生地を抱えて家を出た。
「ごめんください」
「あら、春江ちゃん。こんにちは」
「間宮のおばさま、これで新しいブラウスとスカートをお願いします」
春江さんは嬉しそうに風呂敷包を持ち上げてみせた。
「あら、いいわね。どうぞ春江ちゃん、玄関先じゃあれだから、上がってちょうだい」
「おじゃまします」
玄関から客間に場所を移すと、春江さんはさっそく風呂敷包を差し出した。
「おばさま、これでお願いします」
「どぉれ?」
春江さんと、縫製を依頼された女性はとても打ち解けた様子だった。
「随分と上等な生地ね。お母さん、奮発してくれたんじゃない?」
風呂敷の中から生地を広げた女性は感嘆の声を上げた。春江さんは嬉しそうに笑みを深めた。
「ねぇおばさん、ブラウスなんだけど普通のじゃなくて、襟のところをリボンで結ぶように出来る?」
春江さんと女性は、新しい衣装について話し始めた。
「もちろん出来るわよ。せっかく春江ちゃんの新しいお洋服なんだもの。春江ちゃんがいいように、作りましょう?」
「ならおばさん、スカートも巻き付けて重ね合わせるようなのがいいわ! それで腰の部分は飾りで留めるの」
春江さんは目をキラキラと輝かせて、希望を伝えていく。
「うんうん、春江ちゃんちょっと待ってね。おばちゃん忘れちゃうとあれだから、春江ちゃんの希望を紙に書いておこうか」
女性は立ち上がると、藁半紙と鉛筆を手に戻った。その紙に、春江さんは目を輝かせて服のデザインを描いた。
「あらー、春江ちゃん上手い事描くわね」
「えー? そんな事無いよ。でもこうやって描いておけば、忘れないのはもちろんだけど、もっとこうしたいっていうのが明確に分かっていいかもしれない」
「あらまぁ、春江ちゃん、ゆっくり描いてて。おばちゃん、お茶を淹れてくるから」
この時、はじめて春江さんは衣服のデザイン画を描いた。それは藁半紙の隅に、思うまま書きなぐっただけのものだったけれど、これが春江さんにとっては転機だった。
春江さんは、衣服をデザインする面白さに目覚めた。もちろん幼い春江さんが、これを将来的な仕事にしたいという決意まで固めた訳ではない。
だけど春江さんは、暇さえあれば衣服のデザインを描いて過ごすようになった。
成長した春江さんはキリスト教系の女学校に入学した。そこで春江さんは、一人の英国人女性教師と出会った。
春江さんの入学と同じ年に新任した英国人女性教師は生徒達にとても親身で、春江さんもその教師を慕っていた。
「クリスティーナ先生? 先生は独身でらっしゃるでしょう? 一人で日本に渡る事に、国のご両親の反対はなかったんですか?」
放課後の教室で、たまたま教師と二人きりになる機会があった。
春江さんは、ずっと疑問に思っていた事を教師に聞いた。
「もちろんありましたよ。だけど私は、日本という国に興味があって、どうしても実際にこの目で見たかった。それにいざ渡ってきたら、こうして素敵な生徒さん達に巡り会う事が出来ました。あの時勇気を出して良かったと思っています」
教師は朗らかな笑みを春江さんに向けた。
「それに今では国の両親も、ちゃんと理解してくれています。貴方の人生だから、貴方のいいように過ごしなさいって、そんなふうに日本での生活を応援してくれています」
「そうですか」
春江さんの目に、女だてらに国を一人で飛び出した教師の行動力は、冒険者のように見えた。
春江さんは憧れの篭る目で、若い女性教師を見上げた。
「春江さんは? なにか、将来の事で迷っているの?」
春江さんの胸の内の葛藤を、まるで透かし見たみたい。教師は優しい声音で春江さんに水を向けた。
「ぼんやりとですが、やりたい事があるんです。この事はまだ、両親にも誰にも言っていません」
春江さんは教師の目をみつめ、ゆっくりと口を開く。
「その夢は、日本では、実現が難しい事なのね」
「日本でも出来ない事はないと思うけど、それじゃあきっと、中途半端になってしまいます」
教師は春江さんの話を急かさずに、静かに耳を傾ける。
「日本では、反物のデザインを手掛ける職人さんなんかは多くいます。だけど洋装のデザインは、まだまだ西洋が先端をいくので、その道を本気で目指すなら海外で学ぶ必要があると思っています」
はじめて明確な言葉にのせて伝えた、春江さんの夢。
「洋装のデザイン! 春江さん、とても素敵な夢ね! それは是非、実現させるべきよ!」
教師は顔を綻ばせた。
そして春江さんの肩をトンと抱き寄せると、しっかりと春江さんの目を見て告げた。
「それに春江さんは、この女学校を最大限に活用できます! ここには私だけじゃない、外国人の教師も多くいます。まずはここで、英会話をしっかりと身に付けましょう。海外に出て行くのなら、英会話は絶対に必要です。夢の実現に向かってひとつひとつ、目先の事からステップアップをしていきましょう」
まだ、女学校の一年生。だけど春江さんの夢が、ここから未来に向かって明るく開けていくような、そんな期待に溢れていた。
「はい! クリスティーナ先生、どうか一層厳しく英会話の指導をしてください! 私、絶対に英会話を身に付けて女学校を卒業します!」
「ええ! そう言う事なら手加減しませんよ」
こうして宣言通り、春江さんは英会話を習得し、女学校を卒業した。
けれど両親の反対は想像以上に強固で、渡米にはどしても踏み切れなかった。
「春江、お母さんはあんたが憎くて反対してるんじゃないよ。お母さん、あんたに苦労して欲しくないのよ。平凡でいいじゃない。女の子なんだから、良い人と結婚して所帯を持つでいいじゃないの」
「春江、母さんの言う通り、望んで苦労を買わなくていいと、父さんも思う。すまないが、父さんも渡米費用を出してやる事は出来ん」
なにより両親の協力なしに、渡米のための費用を春江さん一人で捻出できる訳もなかった。
「なら父さん、父さんの会社で働かせて? 父さんの会社が駄目なら、私は余所で働きます。就職だけは、私も譲れない」
「分かった。他で働くなら、うちで働きなさい」
春江さんは、父親の貿易会社に就職した。そこで持ち前の流暢な英語を活かして働きながら、根気強く両親の説得を続けた。
ここでも春江さんは、悪戯に日々を過ごす事をしない。父親の会社に就職したのは、父親の会社が貿易商だったからだ。父親の会社は繊維製品の輸入も多く扱っていた。ここで仕入れる一級品の繊維素材に触れ、実際に自分の目で見て、知識を深めていった。
暇さえあれば自身でもデザインを起こした。国内で得られる限り、海外のファッション情報も掻き集めて流行を追った。
もちろん英会話のスキル向上、社会人としての交渉力もここで学んだ。
そんな春江さんの勤勉な姿勢に、ついに父親が折れた。
「春江、アメリカに行きなさい」
「お父さん!」
父親は、自社スタッフが現地交渉を行う際の通訳をする事を条件に、春江さんの渡米費用と現地での生活費を約束した。
「春江、たまには帰って来いよ。母さん、お前の事が心配でたまんないんだ。年に一回くらいはちゃんと帰って、母さん安心させてやってくれ」
「うん……」
女学校を卒業し、父親の会社で働いて二年、春江さんはついに、渡米を叶えた。
渡米した春江さんはまさに、水を得た魚のようだった。
父親の会社の通訳を熟す傍ら、春江さんは小さなデザイン会社で下働きをするようになった。そこでプロのデザイナーの仕事を間近に見て、働きながら春江さん自身も基本を学んだ。
仕事を終えてアパートメントに帰っても、全ての時間を衣装デザインの技術向上のために費やした。
そうして数年が過ぎた頃、春江さんのデザイン画はついに、新進気鋭のデザイナーの目に留まった。
春江さんが世界的なデザイナーとして名を馳せるようになるのは、あっと言う間だった。
それからは休む間もなく、日々を駆け抜けた。
皮肉なもので、名前が売れれば売れるほど、日々の雑務に忙殺されるようになった。デザインを起こす時間を確保するために、春江さんは睡眠時間を削った。
四十歳代に入り、若い頃よりも体に無理が利かなくなっているのは自覚していた。
ショーやコレクション、春江さんの予定は二年先までギッシリ埋まっていた。
父親が倒れたと聞かされたのは、ショー最中の舞台袖だった。
ショーの煌びやかさとは対照的に、舞台袖は人や衣装小道具が行き交い、殺伐とした忙しさだ。
「春江先生! 国際電話で、国のお父様が倒れられたそうです。お相手の方が言うにはお父様、まだ息があるそうです! 先生、今電話を掛ければ最後にお父様とお話が出来るかもしれません!」
そんな中で、スタッフは走り回る春江さんの袖を引いて、耳元で囁いた。
ショーの最中に関係のない報告は上げるなと、春江さんは常日頃から口を酸っぱくしていた。スタッフはそれをよく知る古参の一人だった。
けれどスタッフは、敢えて報告を上げた。己の判断で、伝えるべきだと決断した。
「ショーの最中は、関係のない報告はしないように言っている筈よ! そんな事よりも、次のモデルの衣装飾り、曲がっているじゃないの!? 直しなさい!!」
けれど春江さんは、スタッフを叱咤した。
「……はい!」
スタッフは古参ゆえ、春江さんの心の内もまた、よく理解をしていた。
一瞬痛ましいものを見るように目を眇め、すぐに春江さんの指示でモデルの元に走った。
春江さんはそのまま、登場を待つ残りのモデルを全て、いつも通り自分の目で確認した。
「綺麗よ! 自信を持っていってらっしゃい!」
最後のモデルを春江さんが、自分の目でチェックして、背中を押してショーステージに送り出す。
「はい先生!」
最後のモデルがターンをして袖に戻れば、盛大な拍手に包まれて、ショーはフィナーレを迎える。
春江さんがショーステージに登場すれば、会場が拍手と歓声に包まれた。
「ハルエ・マツモト!!」
ショーの余韻と感動は止まず、春江さんを称える声が、そこかしこから上がっていた。会場内の興奮が、最高潮に達していた。
会場のゲストに膝を折って頭を下げながら、春江さんが涙を流した。
ゲストは春江さんの涙に拍手を大きくした。ショーの成功による歓喜と誰もが疑っていなかった。
春江さんは心の中、父を悼んで泣いた。
奇しくも状況は、母親の時と同じ。
春江さんは母親の死に目にも、会えていない。母の危篤を知らされてすぐ、最低限の段取りだけをつけて、日本に飛んだ。
けれど、間に合わなかった。
ショーステージを下がった春江さんは、舞台袖でお父さんの訃報を知らされた。
お父さんは、春江さんのショーの終わりを待たずに逝った。
「お父さん、ごめん。親不孝で、ごめん……」
一年に一回は顔を見せてやってくれと、言われていた。それは決して約束ではなかった。しかし、約束よりも重い、父親からの願いだった。
毎年帰国できたのは、最初の三年だけ。後は年々、帰国に間が空くようになった。
そうして渡米から長い時が過ぎ、デザイナーとしての成功も収めた今、春江さんはほとんど日本に帰れていない。
最後に帰ったのは母親の葬儀の時だ。それ以来、父親には会っていない。
「お父さん……、お父さぁーんっ!!」
そうして次に帰るのが、父親の葬儀という皮肉。
春江さんは、その場に泣き崩れた。
誰もが、掛ける言葉を見つけられずにいた。
そんな中で、一人の男性が春江さんに歩み寄った。男性は春江さんのマネージャー。
元は父親の会社の駐在社員で、渡米後の通訳の仕事でよく同行していた。
しかし男性は、春江さんがデザイナーとして身を立てる時に退社して、それ以来ずっと春江さんを支えてきたビジネスパートナーだ。
「春江、お前の成功は十分に親孝行だろう?」
春江さんはこのマネージャーの言葉に、救われた思いがした。
「春江の成功を、ご両親は誇らしく思っていたさ。今だってきっと、天国で春江を応援してる」
「っ、うぅっ、ううぅっっ……ぅああぁっ!」
春江さんはマネージャーの腕の中で、はじめて声を上げて泣いた。
男性は公私共に、春江さんのパートナーになった。
結婚に際し、夫が次男だった事もあり、二人は松本姓を名乗った。
春江さんはこの頃から、デザイナーとしての仕事をセーブするようにした。興したファッションブランド会社も社長職を退き、会長という役職に落ち着いた。実質的な経営から、身を引いた。
そうして結婚から二年後の四十三歳で、春江さんは第一子を妊娠した。
遅い結婚で、半ば諦めていた妊娠だった。
これまで二の次三の次だった健康にも、留意するようになった。
万全の状態で、出産に備えた。
待ちに待った我が子との対面では、ひとりでに涙が溢れた。生まれたばかりの我が子は小さくて、けれどずっしりと重たくて、愛しくて堪らなかった。
「ねぇあなた、我が子というのはなんて愛しいんでしょう」
我が子を持ってはじめて、両親の思いも痛いほど分かる気がした。
「ほんとうだな。春江が俺と一緒になってくれただけでも夢のようなのに、その上こんなに可愛い息子まで生んでくれて……春江、ありがとうな」
「あなた……。ねぇ、あなたのご両親まだ健在じゃない? 傍で孫の成長を見せてあげたいわ」
夫は春江さんの言葉に目を丸くした。
「春江……」
自分の両親には叶わなかった事を、夫の両親にしてあげたかった。
なにより春江さん自身、世界的な評価を手中にした今、日本が恋しいと思った。日本人の両親を持つ我が子を、故郷の日本で育てたいと思った。
「昔はね、ファッションビジネスの最先端は世界だった。日本じゃ駄目って思ったわ。だけど今はもう、そうじゃないでしょう? 時代は変わったわ」
「春江、帰ろう。春江の実家で、この子を育てよう」
春江さんは、一家で日本に戻った。
春江さんはその後も、生活の拠点を日本から移さなかった。必要な時は、春江さんが国外に飛んだ。
春江さんは日本で、子育てに奔走した。遅く出来た我が子は可愛くて、愛しくてならなかった。
春江さんは欲しがるままに、息子の順一さんに与えた。
「春江、順一を甘やかし過ぎだ! 高校生に何万も小遣いを与えるなんて、どうかしている!」
夫は春江さんの過保護を諫めた。
「あなた、私達が学生の時とは時代が違うんですよ。順一だってお友達とのお付き合いがあるんですから、これくらい必要ですよ」
夫は春江さんに呆れたような目を向けた。
「春江、これでは順一がまともに育たないぞ」
春江さんはそんな夫を、少しだけ煙たく思うようになった。
「もう、あなたったらなんて事を言うんですか。そんな事ありませんよ」
けれど夫の言葉は正しかった。
大学を出ても順一さんは働かず、家にいた。けれど春江さんはそれを嬉しとさえ思った。
春江さんが六十六歳の時、五歳年上の夫が亡くなった。
「母さん、金ちょうだい?」
すると、順一さんの春江さんへの金銭要求に歯止めがなくなってしまった。
順一さんの要求はエスカレートするばかりだった。
「順一、この間も纏まった額をあげたじゃない。前回のお金はどうしたの?」
「うるっせぇなぁ!」
「! ご、ごめんなさい。順一、幾ら入り用なの?」
順一さんの豪遊で、金が湯水のように消えた。
けれど春江さんを悩ませるのは順一さんだけではなかった。日本に戻ってきてからというもの、春江さんの元には、親類縁者からの金銭の相談が何かにつけて寄せられていた。
夫の存命中は、夫がそれら全てに対応していた。けれど夫の死後、春江さんは要求を断り切れず、手渡すようになっていたのだ。
夫の死から数年、順一さんが一人の女性を伴って帰宅した。
「順一? そちらの方は?」
「母さん、俺、この人と結婚するから。秋にはさ、子供も生まれっから」
順一さんが連れて来たのは水商売の女性で、お世辞にも身持ちが固いとは言えない雰囲気だった。
「お義母さん、温子といいます。どうぞよろしくお願いします」
けれど女性は、既に順一さんの子供を宿していた。子供の誕生を控えた状況で、反対など出来る訳もない。
「そう。子供も生まれるんだから、ちゃんと入籍して、新居も整えなくちゃならないわね」
春江さんは不安を抱えながらも、順一さんの結婚を見守るしか出来なかった。
「なあ母さん、母さんもいい年じゃん? 俺が出てって母さん一人にするのも心配だから、俺達ここで暮らすわ。温子も是非って言ってくれてっから」
「ええ、お義母さん。その方が私も安心ですから」
同居は順一さん夫婦からの提案だった。
「! 順一、温子さん、ありがとうね。母さん、出来るだけあんた達に迷惑かけないようにするから」
春江さんの目に、涙が滲んでいた。
優しい息子夫婦の気遣いに、春江さんの胸は張り裂けそうだった。
一家の生活費を全て負担する事も不満には感じなかった。
「ねぇお義母さん、生前贈与ってご存知ですか? テレビでやってたんですけど、随分と節税になるそうですよ」
「あらまぁ、資産がある人はそれもいいかもしれないわね。だけど私にはそんな資産はないもの。関係ないわね」
「いやだ、お義母さん。そんな謙遜してぇ」
一緒に暮らすようになり、何かにつけて持ち出された資産の話も、疑問には思ったが、さして気にも留めなかった。
嫁の段々と膨らんでいくお腹を見れば、嬉しいとしか感じなかった。
「私は幸せ者ね。多くの人に支えられて、助けられてここまで来たわ。世間様に何か、返していかないと罰があたるわね。会社の役員報酬をやり繰りすれば、来年はもう少し、寄付に多く用立てられるかしらねぇ」
「なぁ母さん! 可愛い孫も生まれるんだ! そこんとこ、ちゃんと考えてくれよな!?」
「そうですよお義母さん!」
「え? えぇ、それはもちろんよ。ちゃんと孫のお祝いは、考えていますよ」
「……ならいいけど」
そうして待ちに待って誕生した孫娘。けれど孫娘に、順一さんの面影はまるなかった。
小さな違和感が、スゥっと春江さんの胸を過ぎる。
……腕の中のこの子は、本当に順一の子なのだろうか?
恐ろしい想像が浮かんだ。
「っ! 可愛い子ね。いい子、いい子ね」
春江さんは慌てて打ち消して、孫娘をあやした。
けれど春江さんの胸にある、小さな違和感は消えなかった。
春江さんは、デザイナーの仕事を引退してはいない。デザイン画は日本でも描き続けていたし、頻度はかつてよりずっと減ったが、たまに渡米もしていた。
「ハルエ、久しぶりね!」
「えぇ、二年振りだわね。会社はどう?」
春江さんは家庭内では順一さんを可愛がり、甘やかした。
けれどデザイナーとしてのイロハも、経営者としてのビジネス感覚も、全て米国で培った。だから春江さんは、日本的な家族経営の概念は欠片も持っていなかった。
「順調よ! しいていうなら会長のハルエの足が遠くって、皆残念に思ってるわ!」
自分の興したブランド会社だからと、順一さんに後を継がせたいという考えはない。
「そう、貴方に社長をお願いしたのは大正解だったわね。会社は順調で、よかったわ」
「なによ、ハルエ? 会社は、って? それに貴方、なんだか随分と元気がないんじゃない?」
心配そうに春江さんを覗き込む社長は、二十五年前のショーの最中に、お父さんが倒れたと、春江さんに知らせた女性だった。
「……実はね、ーー」
女性とは三十年来の付き合いだった。今更取り繕う必要もなかった。
春江さんは洗いざらい、女性に話した。
「ハルエ、鑑定をした方がいいわ。資産の管理もしっかりしなさい。その嫁は信用できないわ。それから、可哀想だけどハルエの息子さんも、ちょっと信用できないわ」
「……そう、そうね。本当は、私にも疑惑はあったの。だけど、信じたくなくて……。私はきっと、背中を押してもらいたかったんだわ。帰ったらまず、血縁鑑定をするわ。それから息子の事も、もっと早く、経済的にも精神的にも自立を促すべきだった。なにより私が、子離れするべきだった。求められるままに与えるばかりが、愛情じゃなかった」
「ハルエ!」
春江さんは女性と固く抱き合った。
次に景色が切り替わった時、真っ暗な畳の部屋で、春江さんは正座していた。
膝の上、春江さんの震える手には、一枚の紙が握られていた。
私の脳内に直接、見えないはずの紙の内容が浮かび上がる。
孫娘と春江さんには、血縁関係が認められなかった。
春江さんは紙を握り締めたまま、背中を丸めて項垂れていた。
ガタン。
玄関の方向から、物音がした。複数の足音と、男女の話し声が聞こえた。
どうやら息子さん夫婦が帰宅したようだ。
「あれぇ? 母さんまだ帰ってないみたいだな」
「ハッ! 婆さんいい年して、どこほっつき歩ってんだか」
襖の僅かな隙間から、隣の部屋で灯った蛍光灯の明かりが漏れた。
「ははっ。家でデザイン画の一枚でも描きゃ金になんのにな?」
「言えてる言えてる!」
同様に、息子夫婦の会話も筒抜けに聞こえていた。
「ところで温子、いまだに母さん寄付とか寝ぼけた事言ってっけど、遺産は大丈夫なのかよ? 母さん前に、もし遺産を残せるとしたらそれは寄付したいとか本気で言ってたぞ?」
「大丈夫じゃないわよ! アンタがしっかりしないから、婆さんそんなトチ狂った事言うのよっ!」
「ハァ? お前がさっさと上手い事、母さん説得しろよ。孫に生前贈与させてやるって大口叩いてただろ? その為に、億の遺産がパァになるよりはマシと思って、お前の言い分のんで結婚してやったんだ」
二人は隣の和室にいる春江さんに気付かない。
「婆さんが頑固で聞きゃしないのよ! 時間がないんだから、アンタもちょっとは協力してよ!? 三年以内の贈与は無効だって教えたでしょ。婆さんだっていい年なんだから、いつぽっくり逝くか分かんないわよ? アンタだって婆さんの遺産あてこんで、怪しげな男達から借金してんでしょうが!?」
「っ、しょうがねぇだろ!? 母さん最近シケてんだ。ぜってぇイケルと思ってたのに、外しちまってさぁ。大金、スッちまったんだよ」
ここで、赤ん坊のむずがる声が上がった。
「バッカ! もういいや、それより上で寝かせて来てよ? 半分寝ちゃってんじゃん」
「ん? あぁ、ほんとだ。ってかさ、俺じゃ途中で起きんじゃん、温子も来いよ」
「えー? マジ面倒~」
二人は最後まで春江さんに気付かないまま、好き勝手な事を言い、二階に向かって行った。
ずっと肩を丸めていた春江さんは壁伝いに立ちあがり、ふらつく足取りで和室を後にした。
翌日から、春江さんは細々と自身の死に支度を、俗にいう終活を始めた。
やったのは主に、自身の持つ資産の整理だった。
やる事はやったと安心したのだろうか、春江さんが病に倒れたのは終活を終えて間もなくのことだった。
介護用ベッドで、春江さんは穏やかに眠る。その表情からは、やり切ったという達成感が透けて見えるようだった。
春江さんはそのまま眠り続け、やがて、微笑みながら天へ昇っていった。
「……ん?」
夢?
「美穂子、目覚めたか?」
目覚めてまず目に飛び込んだのは、心配そうに私を見下ろす鬼王だった。
「うん」
ゆっくりと周囲を見回す。人目から隠れるように、私は高架下の支柱の陰で、鬼王の腕に抱かれていた。
どうやって引いてきたのか想像がつかないが、私の自転車もほど近い場所にある。
「ごめんね鬼王、重かったでしょ?」
そっと鬼王の胸を押し、腕の中から抜け出した。
果たして鬼王が、常人と同じ基準で重さを感じるのかは分からない。それでも、意識のない私と自転車を、人目を憚って移動させるのは大変だっただろう。
「いや、こっちこそすまなかった。今回は無理を押させてしまった」
鬼王の表情が、常になく硬い。
「鬼王?」
「実は俺自身、少し迷いがあった。もしかすればこの魂は、末期の水の導きがなくとも違えずに昇っていったかもしれん」
「でも、これで安心でしょう? 弔う心に過剰というのはないから」
鬼王は目を眇めて、私を見た。
「私も、春江さんを見送れてよかった」
「そうだな、美穂子に見送ってもらって、彼女の魂は安心して夫や両親の元に昇れる」
鬼王は頷いて、表情を和らげた。
私も鬼王に力強く頷いて、晴天の空を仰いだ。
私は鬼王に、「過剰」と言った。けれどやはり、春江さんが家族から死を悼み、見送ってもらえるとは思えなかった。春江さんの魂に、家族の見送りは望めない。
息子夫婦に家屋敷と、自家用車、固定資産は残された。けれど春江さんに、現金資産はない。
もともと、春江さんはさほど多くの現金を持ってはいなかった。
望めばもっと多くの資産を保有する事も出来ただろう。
けれど春江さんは、自身のデザインにもブランドにも、金銭を目的とはしなかった。春江さんが堅実な両親の元で慎ましやかに成長した、少女時代も影響しているのかもしれない。春江さんは、金銭の潤沢と幸福を切り離して考えていた。
そんな春江さんの僅かばかりの現金資産は、既に順一さんと親類縁者の無心で底をついていた。
ならば、生前に春江さんがした資産整理とはなんだったのか。春江さんがしたのは自社株の売却だった。
自身のブランド会社の株は、多く保有していた。相続後に、順一さんが残り株の買い占めを図るのを危惧した。
春江さんは自身のブランドを、息子ではなく、市場の手に委ねたのだ。
「……鬼王、親子も一筋縄ではいかないね」
「そうかも知れんな」
これまで私は、孤独な魂とは、無縁仏とイコールと捉えていた。
けれど親類縁者があっても、死を悼み、弔って送られるとは限らない。
「でも縁っていうのは、血縁だけじゃないんだね。春江さんの死を悼む、多くの声が聞こえてくるみたい」
「そうだな」
仰いだ空越しに、春江さんの歩んだ軌跡が浮かぶ。
「さて、帰るとするか」
そこには春江さんだけじゃない、生前の春江さんと縁あって触れ合った多くの人々の姿もまた、浮かび上がっていた。
「うん」
見上げる青空に、ふわりと雲が流れる。
いつも歩いているんだか飛んでいるんだか、私の隣にふわふわといる鬼王に似ているような気がした。
……ん? 血縁じゃない、縁?
「ねぇ鬼王、そういう意味では私と鬼王もヘンな縁だよね」
「うん?」
「だってほら、私達は血縁じゃないけど、それ以上に親密だと思わない?」
「ふむ。そう言われればそうだな」
不思議と胸が満たされるような気がした。




