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「おい、美穂子? 出掛けるのか?」
間もなく時刻は午前十一時。この時間から思い立って身支度を整え始めた私に、鬼王は怪訝そうに声を上げた。
私は基本インドアで、今日も別段、出掛ける予定があった訳じゃなかった。だけど夏休み中の一日くらい、ちょっと出掛けてみようという気になったのだ。
「そう、なんか寄席って学割があるんだって。たまにはいいでしょう?」
テレビ越しに落語を見る事はあっても、実際に足を運ぶのははじめてだった。
「ほう! 寄席か!」
私の答えに、鬼王はいつになく弾んだ声を上げた。
……知らなかった。どうやら鬼王は、落語が好きらしい。
「……テレビで見てても、無表情だったのに」
「ん? なに、テレビで見るのと実際の寄席で聴くのは別物だ」
「へー、そういうもの」
喜色を浮かべる鬼王の姿が、なんだか嬉しかった。きっとこれからは、定期的に通うようになる。そんな予感がした。
私は新宿の街に出た。
場所は、すぐに分かった。寄席の前には開演三十分前にして、既に行列が出来ていた。はじめて来たから、常の状況は分からない。けれど夏休みの今日は、かなり人入りが多いように感じられた。
私は列の最後尾に並んだ。
列が動いたのは、開演二十分前だった。段々と列が進み、正面の演目表が目に入った。
! 演目を見た瞬間、バクバクと心臓が煩く音を立てた。
今日の落語演目に、『道具屋』の文字があった。
『道具屋』は代表的な与太郎噺のひとつ。
……与太郎は、かつて私に与えられたあだ名だった。与太郎とは、嘘つきの代名詞。
私は嘘つきで、だから与太郎。そんな安直で残酷なあだ名で扱き下ろされた小学校時代は、思い出したくもなかった。
そもそも、どうして私が嘘つきと呼ばれるに至ったか。そこにはかつて、親友と信じた子の裏切りがあった。親友と信じたその子に、私は鬼王の存在を明かした。
翌日から、私のあだ名は与太郎になった。信じた私が浅はか、これは苦い教訓となって私の胸に居付く。
けれど私は、打ちのめされてはいない。私には、救いがある。悲しい時、辛い時、どんな時も傍らに鬼王がいた。
物言わずとも、いつだってそこにいた。
「……美穂子、すまんが寄席は次回に出来るか? 孤独の魂が、間もなく逝く」
「えっ!?」
耳元にもたらされた鬼王の囁きに、私は慌てて列を外れた。
孤独に旅立つ魂の元に向かいながら、見上げる鬼王の横顔に思った。
……鬼王だけは裏切らない。……私は鬼王だけが、いればいい。
「嫌ねぇ」
「行政も悪いわよ。この悪臭を知りながら、なんやかんやと言い訳を重ねたてて動きもしない」
ヒソヒソ声で囁き合う地元住民の脇を通り過ぎる。
「お爺さんが生きてた頃はこうじゃなかったんだけどねぇ……」
「まあね、お爺さんは男手ひとつで頑張ってたわよ。だけどやっぱり男親一人じゃ、行き届かなかったのかしら。結果が、あれだもの」
地元住民が視線を向ける向かいのその家は、所狭しと積み上げられたゴミが道路にまで溢れ出し、周囲に悪臭を漂わせていた。
いわゆる『ゴミ屋敷』だ。
「……美穂子、どこから入ればいいんだ?」
唖然として鬼王が呟くが、それはむしろ私の方が聞きたい。
「仕方ない。正面突破しかないでしょ」
「! そうか!」
どんなに眺めていたって、入口になりそうな空間なんてない。だったら重なり合うゴミに僅かな隙間がある正面玄関から行くしかない。
私は地元住民が立ち去ったタイミングで、這いずるようにしてゴミの隙間に潜り込んだ。
玄関から潜り込んだ中も、足の踏み場が無かった。
「岡江さん! 岡江さーん!!」
家人の岡江さんがどこにいるのか見当もつかない。散乱した物が行く手を阻み、奥に進むのも困難な状況だ。手当たり次第に岡江さんを探して回る事など、出来そうになかった。
「どこにいますか!? 岡江さん!!」
臨終の際にある岡江さんが、居所を報せる事ができるかは分からない。けれど一縷の望みを託し、私は声を張り上げた。そうして大声で呼びかけた後は口を噤み、耳を澄ます。
カタン、カタタン。
すると、右手奥の方向から、小さく物音が聞こえた。
「岡江さん、そっちですね!」
私は物音がした方向に、堆積する物を掻き分けて進んだ。
「!! 岡江さん!?」
すると物の隙間に埋もれるように、老爺が横たわっていた。異臭を放つ老爺を抱き上げる事に、躊躇はなかった。
私への合図がきっと、最後の力を振り絞った意思表示。
岡江さんはもう、物言わない。私を見る事もしない。
呼吸はまだある。けれど体全体を使うようにして、やっとする呼吸。
……間もなく、呼吸は止まる。岡江さんの臨終は近い。
私は岡江さんを膝に抱いたまま、掛けていた鞄から末期の水を取り出す。水筒の蓋に末期の水を注ぎ、口元に宛がった。
「岡江さん、これを飲んで下さい」
唇の間から、末期の水はスゥっと染み入るように口内に消えた。
飲み終えた岡江さんは穏やかな表情で、満足気にフゥーっとひとつ、息を吐き出した。
その後、岡江さんが息を吸う事はなかった。最期の、呼吸だった。
岡江勇一さん。享年六十二歳。
改めて腕の中の故人を見る。知らなければ、とても六十代には見えなかった。腕の中の枯れ木のような老爺は八十にも見えた。
お世辞にも綺麗とは言えない。伸ばし放題の髪も髭も、比喩でなくゴワゴワとして箒のようだった。
生前は地元住民に無体な態度で接した。訪問する行政職員に食ってかかりもした。
けれど今、私が触れる岡江さんの魂は清らかだった。
人は皆、無垢で清らかな魂を持って生まれる。そうして生まれた瞬間から、無垢な魂は様々な色に染まる。その色は必ずしも綺麗なばかりではない。
しかし私は思うのだ。
たとえ辛く厳しい人生が心を荒ませても、人の本質というのはきっと清らかで優しいのではないかと。
私は膝に抱く岡江さんの瞼に、そっと手のひらをあてた。私は岡江さんの記憶の渦に、呑み込まれていった。
勇一さんは平凡な家庭に生まれた。
町工場務めの職人の父親と専業主婦の母親。平均的な家庭だった。
勇一さんが二つの時、弟の隆二さんが生まれ、一家は四人家族になった。
「なぁ母さん、随分と風邪が長引いているんじゃないか? 一度大きな病院で診てもらった方がいい」
「勇一と隆二を連れてはちょっと難しいですから……。それに行きつけの内科さんの薬を飲んでいますから、じきに治りますよ」
母親は体調が思わしくないようだった。
けれど目が離せない二歳と生まれたばかりの乳児を連れての病院受診を躊躇している様子だった。
今、夫婦が会話をしている後ろでも勇一さんが無邪気パタパタと走り回り、ベビーベッドに寝かされた隆二さんもむずがり出していた。
「うーん、母さん、来週頭の納品が済んだら、なんとか時間を作る。そしたら俺が勇一と隆二を見るから受診してくれ」
「すいません貴方、忙しい時期なのに……」
ドンッ!
「ウェーーン」
「あぁ、勇一? どこかぶつけたのか?」
夫婦の会話は、勇一さんの泣き声で終わりをみた。父親が泣き声を上げる勇一さんを抱き上げた。
「ふえっ、ふぇぇえっ」
「あらあら隆二、どうしたの」
隆二さんの泣き声で、母親も隆二さんをあやしに椅子から立ち上がる。けれど母親の足元はふらついて、とてもつらそうな様子だった。
次に景色が切り替わった時、父親は黒の上下を着ていた。
父親は背中を丸め、ぽろぽろと大粒の涙を零していた。父親は両腕に、白い箱を抱いている。
後から後から零れる涙が、父親が持つ箱に沁みる。
……あぁ、男の人も、こんなふうに泣くのか。
私には男親がいない。それもあるのだろう、大の男がこんなふうに背中を丸めてむせび泣く事に純粋に衝撃を受けていた。
けれど視点を後ろに引くと、父親の周囲の状況が見えてくる。
父親が何故泣いているのか、その理由も望まずとも見えてくる。
泣き濡れる父親の向かいで、母親が微笑んでいた。
「母さんっ……」
父親が片方の手を伸ばす。指先が母親の頬に、愛し気に触れる。けれど母親は、父親に温もりを伝えない。
「母さん!」
父親が笑顔の母親を抱き締める。白い箱と一緒に懐に抱き締めた。
父親は背中を丸め、腕の中の御骨箱と笑みを浮かべた遺影の妻を抱き、声を上げて泣いた。
「母さん、俺は何を見ていたんだろうな。仕事が忙しいを言い訳に、病院にも連れて行かずに……母さん以上に大事なものも、優先するものもなかったのになぁ」
写真の中で微笑む母親に、父親は肩を震わせて泣いた。
「母さん、会いたいよ。話がしたいよ。……母さんのところに、行きたいよ」
父親が肩を震わせる部屋の隣、襖一枚を隔てた先で勇一さんと隆二さんの泣き声が上がる。父親は子供らが泣き出しても、しばらくは項垂れて立ち上がれずにいた。
だけど段々と大きくなる泣き声に、腰を上げた。父親は袖で乱暴に涙を拭い、子供達の元に向かった。
愛情深い優しい夫で父親。けれど生涯の伴侶と定め、愛した妻に先立たれ、父親は優しいばかりではいられなくなった。
容赦なく圧し掛かる仕事に家事育児。それらは容赦なく、父親から心のゆとりを奪う。
それでも父親は、朝一番に勇一さんと隆二さんを保育園に預け、駆け足で町工場に向かう。そうして夜は一目散に町工場から保育園に走った。
「勇一! 隆二のオムツ替えてやれって言っただろうが!」
家に戻り、ベランダで洗濯物を取り込みながら、父親が居間で座り込む勇一さんに声を張る。勇一さんはハッとした様子で、眺めていた帳面から顔を上げた。
どうしても年長の勇一さんへ、父親のあたりは厳しくなった。そうしなければ家が、回らなかった。
勇一さんは不満そうに父親を見上げたけれど、そのまま無言で隆二さんのオムツを交換した。四歳の勇一さんが、二歳の隆二さんのオムツを替えるのが、既に当たり前の光景になっていた。
足早に台所に向かう父親は、勇一さんが不満そうに見上げていた事すら気付かなかった。
「ほら、飯だぞ!」
父親は勇一さんの前に白米の盛られた茶碗と、炒め物のような物をフライパンのまま置いた。そのまま父親は隆二さんに手ずから幼児食を手べさせ始めた。
隆二さんが食べ終えてから、やっと父親は自分の茶碗に手を伸ばし、冷えた白米と炒め物を掻き込むように食べる。
父親は一息つく間もなく、夕食のテーブルを立ち上がり、風呂を沸かしに向かった。
「……」
勇一さんは茶碗を置き、手元の通園鞄を引き寄せた。鞄から取り出したのは、帰宅後も勇一さんが見ていた帳面だった。帳面は保育園との連絡ノート。
ペラリと勇一さんが捲ったのは、今日の日付のページ。
担当の保育士の丁寧な筆で、明日はお弁当持参の旨が記されていた。
勇一さんはまだ文字が読めない。けれど保育園で、保育士からきちんと両親に見せるように言い含められていた。
勇一さんはしばらく連絡ノートを眺めた後、無言でパタンと閉じた。そのまま通園鞄に連絡ノートを押し入れた。
「勇一、早く風呂に入っちまえ」
勇一さんは父親に、連絡ノートを見せなかった。父親も、勇一さんの連絡ノートの存在には気付くゆとりがなかった。
勇一さんは中学生になった。物静かで、落ち着いた少年に成長していた。
父親の背中を見て育った。幼いながらに父親の状況をよく理解し、可能な限り父親を助けた。
元来の真面目で忍耐強い性格もあるのだろう。勇一さんが父親に不平不満を零す事はなかった。
「兄ちゃん、新しいプラモデルが出るんだ。金くれよ」
忙しい父親に代わり、食材の買い出しや簡単な調理もしていたから、生活費の一部も預かるようになっていた。
台所で夕食の支度をはじめた勇一さんに、二階の部屋から降りて来た隆二さんが歩み寄った。
現れた隆二さんは、夕食時のこの時間でもパジャマ姿だった。
「隆二、それは生活費から出すもんじゃないだろう? 直接父さんに言えよ」
「いいじゃないか! 兄ちゃんだって父ちゃんに金出してもらって、好きにやってんじゃん! 俺のプラモデルだって同じだろ!」
勇一さんは父親にせがみ、春から週に二回学習塾に通うようになっていた。学習塾の月謝とプラモデルを、さも同列に語る隆二さん。
傍から見れば、隆二さんの言葉は子供らしい、よく分からない理論だった。だけど勇一さんには、妙に重く胸に突き刺さった。
勇一さんにとって塾通いは、勉強したいというのが理由じゃなかった。家で慌ただしい日常に追われ、長い時間を過ごす事が苦痛だった。
勇一さんは、逃げ場が欲しかった。
学習塾に逃げたという、隆二さんへの引け目が刺激された。
「……分かったよ、これで買え」
勇一さんは自分の財布から五百円札を二枚抜き出して、隆二さんに渡した。
「なんだよ~くれんじゃん! 最初からグチグチ言わずにくれればいいのに、兄ちゃんは相変わらずみみっちいんだよなぁ。そういうの、変えた方がいいぜ?」
勇一さんは唇を噛みしめた。チラリと見えた勇一さんの財布の中、お札は一枚もなかった。
勇一さんは預かっていた生活費を切り崩さなかった。これまで貯めてきた小遣いで、隆二さんに千円を渡した。勇一さんは黙々と夕食の準備を進めた。
隆二さんは取るものだけ取れば、夕食の支度を手伝おうともせず二階の自室に篭った。
小学校六年生の隆二さんは、あまり学校に行っていない。日がな一日パジャマで過ごし、夕飯まで下りて来ない事もある。
登校拒否の原因はよく分からない。父親が何度か問い質した事もある。だけど隆二さんはのらりくらりと適当な事を言って、その場をごまかす事しかしない。
いつの頃からか、父親は学校に行けと言わなくなった。父親は諦めて、隆二さんから顔を背けた。
「……三食食えて、小遣いもらって、何が不満だよ」
勇一さんが慣れた手つきで米を研ぎながら呟く。呟きは一見では隆二さんに向けたもの。だけどそれは、勇一さんが自分自身に言い聞かせているかのようでもあった。
勇一さんには、少しだけ隆二さんの気持ちが分かる気がした。変わり映えのない毎日の繰り返しが、無性に虚しくなる時がある。投げやりになって、全てがどうでもよくなる、そんな時があるのだ。
だけど勇一さんがその衝動に身を投じてしまうには、勇一さんは理性的過ぎた。そうして次男の隆二さんよりも大人で、目先だけでなく周囲の状況が見えてしまう。
隆二さんの不登校が分かった時、父親が母親の遺影の前で、噛み殺すように泣いていたのも知っている。
中学二年生の勇一さんは、子供のままではいられなかった。
スゥっと視界が切り替わる。
勇一さんは紳士服店で真新しいスーツに身を包んでいた。
「おお! 勇一、それがいいじゃないか。それにしよう!」
試着室から少し恥ずかしそうに出て来た勇一さんに、待っていた父親が相好を崩した。久しぶりに見る、父親の朗らかな表情に、勇一さんも照れた笑みを浮かべた。
「うん。じゃあ、これで」
「かしこまりました。丈詰めはズボンの裾だけですから、一時間後にはお渡しできます。こちらでお引換証をお渡しいたします」
勇一さんと父親は連れ立って紳士服店を後にした。
「勇一、一時間後だから、どっかでお茶でも飲んで時間を潰すか」
「うん」
勇一さんと父親は、紳士服店からほど近い喫茶室に入った。
二人の前に置かれたティーカップからは、サイフォンで淹れられたブルーマウンテンが芳醇に香る。
まず父親がクッと一口含み、味わうように飲み下した。
「お前が役所勤めとはなぁ」
そうしてカップをソーサーに戻した父親が、感慨深そうに呟いた。
「安定志向でつまんない? 隆二に言わせれば、俺はみみっちいらしい」
「馬鹿を言うな! お前がどれだけ助けになってくれたか! 大学だって通うには遠かったのに、お前はこれまで通り三人分の家事を熟しながら通って……、なのに隆二のヤツは……!」
父親はテーブルの下で拳を握り締めた。
「父さん……」
「なぁ勇一、隆二は二十歳にもなって家に引き篭もったまま、外の世界に出ようとしない。いつかは変わると確証のない希望に縋って、ここまでなぁなぁにきてしまった俺が悪い」
父親が悪かったと割り切る事は簡単だ。だけどそれはあくまでも、幾つもある要因のひとつ。それだけが原因じゃない。
「俺は育て方を間違えたんだろうなぁ。だが不思議なもんで、今から振り返っても、母さん亡くしたあの状況で、俺にはあれ以外のやり様が出来た気がしないんだ。情けねぇ話だ」
「父さんはさ、男手ひとつでよくやってくれたよ」
コーヒーのカップを傾けながら、勇一さんはさも当たり前のように口にした。
父親は目を瞠り、正面の勇一さんを見た。だけどすぐに、逃げるように伏し目がちに視線をテーブルに落とした。
「ははっ、そう真正面から言われちゃ、お世辞でも嬉しいやなぁ」
嬉しいと父親は言った。だけど父親の内心は、言葉とは裏腹にあるような気がした。
ここで父親は俯かせていた顔を上げると、勇一さんに向かいスッと表情を引き締めた。
「勇一、俺は親として、最後まで隆二の責任は持つ。これからはお前も学生とは違う、俺や隆二の分まで家事をやろうとしないでいい。家を出て、独身寮に入るのもいい。当然金もそうだ、町工場に定年はないからな。俺が隆二の分は、責任を持つ。兄弟のお前が負担を抱える必要はないんだからな。お前は自由に、お前の人生を歩め」
「……父さん」
「さて、そろそろスーツが上がった頃だろう。行ってみるか」
「うん……」
勇一さんと父親は喫茶室を後にした。
人の心は複雑で、一筋縄ではいかない。
もしかすればこの時、父親が「弟の事は兄であるお前の責任だ。面倒をみろよ」こんなふうに言っていたら、勇一さんは反骨心を持ったのだろうか。結果は、違っていたのだろか。
……いいや。こうだったら、ああだったら、そんな議論がいかに不毛であるかは百も承知だ。けれど、これにより勇一さんが永遠に実家を出る機会を逸した事は事実だった。
結局勇一さんは社会人になっても家を出ず、役所に通う事を選んだ。勇一さんは実家から役所に勤め、これまで通り可能な限り家事も熟して過ごした。
家と職場の往復をしながら過ごし、気付けば勇一さんも五十代になっていた。
同じ分だけ父親も、年を取る。
体の自由が利きにくくなり、父親はこれまで参加していた地区の集まりに出なくなった。勇一さんは、父親に代わり参加していく事も考えたのだが、若い単身世代は必ずしも参加していなかった。勇一さん自身独身だったし、なにより億劫な思いもあった。これ以降、岡江の家は地区の集まりには不参加になり、地域との繋がりが断たれた。
「おい岡江! お前んちの苦情はお前が担当しろよ! お前、いい加減にしろよ!?」
同じ頃、勇一さんは役所で苦境に立たされるようになる。
「も、申し訳ありません!」
住民相談の窓口に、岡江家の苦情が多く寄せられるようになったのだ。
隆二さんの問題行動が目立つようになっていた。以前から出始めてはいたのだが、その度に父親が火消しに奔走していた。
それが段々と、高齢の父親では、抑えがきかなくなっていたのだ。
隆二さんの問題行動は、騒音と周辺住民への迷惑行為。
昼夜逆転し、自室に引き篭もって過ごす隆二さんは、深夜に大音量で音楽を掛ける。
人と関りを持たないまま五十歳を過ぎた隆二さんは思考がとても幼稚で、落ち着いて会話をするという事が出来ない。
騒音の注意にやって来た地元住民に怒鳴り声を上げ、奇声を発する始末だった。
帰宅する勇一さんの耳が、切れ切れの音を拾う。それは道路を挟んで向かい、隆二さんの部屋から漏れていた。
眩暈を覚えた勇一さんは、額に手を当ててその場にしゃがみ込んだ。
勇一さんは疲れ果てていた。
勇一さんの存在は、役所にとっての厄介者以外なかった。役所は既に勇一さんにとって、針のむしろのような状態だった。
それでも勇一さんは今まで、背中を丸くして同僚に頭を下げて、なんとか凌いでいた。
けれどついに今日、勇一さんは朝礼で上司から相談窓口への人事応援を言い渡された。
当事者家族である勇一さんに弟の苦情処理など、完遂できる訳が無かった。上司は状況的に勇一さんを追い込む事で、勇一さんに自主退職を迫りたかった。
これは事実上の、肩たたき。
「もう、俺は無理だよ……。俺はもう、疲れた……」
この上、役所にしがみつく事など、勇一さんには出来る訳がなかった。
この翌日、勇一さんは役所に退職届を提出した。
父親の葬式が、岡江の家に人が入った最後だった。
生前、父親と付き合いのあった人が多く弔問に訪れた。けれどその弔問が途絶えれば、あっと言う間に物が積み上がり、人を入れられる状態ではなくなってしまった。
「父さん、父さんはよくやったよ。こうして家を残して、七十過ぎまで休みなく働いて、兄弟が細々食ってけるくらいには貯金残して逝って……」
勇一さんが語り掛けているのは、仏壇のようだった。けれど物が積み上がった仏壇は、既にご本尊すら見えない状態になっていた。
「でも父さん、父さんの言うように、本当はこうじゃなかったのかもね。父さんは育て方、間違えたのかもな。だって俺達、これじゃ社会のお荷物だろう?」
勇一さんの乾いた笑いが虚しくゴミの隙間に響いていた。
隆二さんの問題行動は騒音と地域住民への迷惑行為。
ならば廃棄物収集は、勇一さんが取った行動だった。使えそうな家電なんかをゴミ集積場から拾って来るようになったのがはじまり。
その後は目に付くものを軒並み運び入れるようになった。
「岡江さん、何度も言ってるでしょう? これは異常だよ?」
勇一さんにはもう、聞く耳が無かった。
「本当にね、これを日夜集める気が知れないね」
「触るなーーっっ! 俺のものに触るんじゃないっ!!」
訪問した行政職員が散乱するゴミのひとつを掴み上げた時、勇一さんは悪鬼のように行政職員に怒鳴って掛かった。
それはある種異様な執着心で、勇一さんは行政職員の手から奪い取ったゴミを胸に掻き抱いて、フーフーと獣のような唸りを上げていた。
得体の知れない、恐ろしいものでも見るような目で行政職員が勇一さんを見ていた。
浮かび上がる光景を間近に見つめていた私にも、勇一さんの行動には共感できなかった。もしかすると勇一さんは気が触れているのかもしれないとすら思っていた。
けれど最後の映像が、私に答えをくれた。
真っ白な空間の、真っ白なベッドに弟の隆二さんが横になっていた。
プシュー、プシューっと定期的に酸素の音が響く。隆二さんは酸素マスクをあてながらも、苦し気に肩で息をしていた。
落ち窪み、痩せこけた頬。隆二さんの死期が間近に迫っている事が、誰の目にも明らかだった。
「兄ちゃん、俺、言ったろう?」
ひと息、ひと息、吐き出す呼吸にのせて隆二さんが勇一さんに語る。
「隆二? 何の事を言っている?」
死期を間近にした患者が、せん妄状態で意味のなさない言葉を口にのせる事は多くある。
「昔、兄ちゃんに、みみっちいって、言ったろう」
「あぁ」
けれど隆二さんの言葉は、きちんとした意味を結ぶ。
はっきりとした、意思のある言葉。これから語られる言葉がきっと、隆二さんの遺言になるだろう事は瞭然だった。
「……今思えば、実に物の本質をついた言葉だった。お前の言う通りで、俺は所詮、狭量で卑しい男だったなぁ」
勇一さんが、自嘲の嗤いを浮かべ、隆二さんを見下ろした。
「違う、兄ちゃん。俺はただ、兄ちゃんは小さく、まとまり過ぎてるって意味で、言ったんだ。もっと大きく、構えてていいんじゃないかって、そう思ってた」
隆二さんから返った予想外の言葉に、勇一さんは目を見開いた。
「兄ちゃんは、俺と違って、優秀で、真面目で。だけどあれじゃ、疲れちゃうだろうって、ガキの頃から思ってた」
呼吸すら苦しいはずの隆二さんが、必死に語る。それはまるで、これが最後とばかりに、思いの丈を余さず伝えようとするかのようだった。
「俺さ、これでやっと、兄ちゃんに迷惑かけずに済みそうだ。これからは、お荷物もなくなって、兄ちゃんは自由だ。兄ちゃんの人生、自由に生きろ」
「隆二、馬鹿言うな……」
勇一さんは茫然と隆二さんを見つめていた。そうして戦慄く唇で、絞り出すように紡いだ。
「兄ちゃん、世話掛けてごめん。……それから、ありがとう」
「隆二っ」
勇一さんが隆二さんの手を握る。一瞬だけ、隆二さんも握り返したように見えた。
だけどすぐに、隆二さんの手はクタンと力が抜けた。隆二さんの枕元の機械がアラーム音を上げる。
「なにが迷惑な、もんか。……俺が選んだ。お前と父さんと離れられなかったのは、離れたくなかったのは、本当は俺の方だ」
隆二さんはもう答えない。
「父さんはずっと、お前の事を心配してた。最期の時も、やっぱり父さんはお前の心配しながら逝った。俺はずっと、父さんに俺を見て欲しかった。父さんに、褒めて欲しかった。家の事をやってきたのだって、それをすれば父さんが嬉しそうに俺を労ったからだ。それにお前も、俺が飯を作ればその時は居間に下りて来たしな」
けれど勇一さんは、物言わぬ隆二さんに語り続ける。
「だけど父さんがいなくなって、お前はますます部屋から出て来なくなった。そうしたら居間が、まるでがらんどうみたいに静かなんだ。昔はあれだけ、飯だ風呂だ、明日の支度だって慌ただしく立ち動いてた居間が、可笑しいくらいに静かなんだ。妙にそわそわと落ち着かないんだ。だけど不思議なもんで、家に物があると少し安心する。昔みたいに、賑やかに感じるんだ。……隆二、昔に戻ってやり直したいなぁ」
勇一さんの目から、ボタボタと大粒の涙が落ちる。
廊下から、複数の足音が近づいていた。
「父さんも母さんも、隆二も、皆がいた頃に、戻りたいなぁ……」
勇一さんは宙を仰ぎ見て呟くと、その後は口を真一文字に引き結んだ。
一人になった勇一さんに、歯止めは利かなかった。家の中となく外となく、敷地から溢れるほどのゴミの山が出来上がった。
孤独を何で埋めるのか。
ひとつ道が違っていれば、別の未来もあっただろう。けれど勇一さんは、別の未来を選べなかった。
「勇一さん、どんなに物を集めても孤独は埋まらないです」
長い回想から覚めた私は、腕の中の勇一さんに語っていた。
別段、綺麗ごとが言いたかった訳じゃない。私もまた、実体験で知るからこそ、身に沁みていた。
「物を得れば、一時充足感を味わえる。だけど物は、本当の意味で心を満たしてはくれないから」
だけど本当は勇一さんだって分かってた。分かっていながら、立ち止まる事も、引き返す事も出来なかった。
独りの勇一さんには、その歯止めが見つからなかった。
隆二さんの枕辺で勇一さんは「皆がいた頃に戻りたい」と言った。
奇しくも勇一さんが今世を終えた事で、望みは近い形で叶う。勇一さんはこの後、「皆のいる処に向かう」事になる。
末期の水は魂を導く守り水。だから勇一さんは必ずまた、両親と弟と巡り逢う。
家族と再会し、その後勇一さんがどんなスタートを切るのかは、これもまた勇一さん次第だ。
私は今回、勇一さんの記憶を貰い受ける事をしない。
勇一さんの記憶は、家族への愛と孤独が折り重なって同居する。だから無理に、引き剥がさないでいい。
そのままの心を持って天に昇り、家族との再会で満たせばいい。
「勇一さん、どうか安らかに」
私は勇一さんの瞼にのせていた手を外し、そっと両手を合わせた。
勇一さんの亡骸を残し、再び這って家を出た。
物が山積した真っ暗がりを出て仰いだ空は、夕焼け空にも関わらず、目に滲みるくらい眩しかった。
「美穂子、泣いているのか?」
え? 指先で目尻にそっと触れてみた。触れた指先に、確かに濡れた感触が伝わった。
鬼王に言われてはじめて、目に涙が滲んでいるのに気が付いた。
「泣いてないよ。西日が眩しいから、それでだよ」
勇一さんの死に名前を付ければ、孤独死というのになるんだろう。
私が末期の水を与えてきた中には、勇一さんの迎えた最期より、もっと凄惨な死は多くあった。
だけど死に触れれば、どの人の死も、やはり痛ましい。
「……そうか」
鬼王はそれ以上、追及しない。いつも通り、ただ静かに私の後ろにいた。
私は鬼王を伴って、駅の方向に足を進めた。
駅前の賑わいに、少し、また少しと近づいていた。
「ねぇ鬼王、私もさ、ひとり親世帯でしょ? 忙しいお母さんの背中、いつも寂しく見てたから、勇一さんの孤独が分かるような気がするの。もちろん、それとゴミは別だけど」
だけど私には鬼王がいた。物言わない、ただ、そこにいるだけ。……だけどそれが、どれだけ救いだったか。
「ふむ。しかし命あるものは皆、一人で生まれ一人で死ぬ。孤独を理由に道を踏み外すのは、少々傲慢ではないか?」
! 死神の持つ死生観は、ちょっと達観している。
鬼王が死神とイコールであるかはさて置き、万物の根源をも知る存在のはずの鬼王は、もっとも単純なところを見落としている。
「……鬼王って、寂しい事を言うね」
たぶん、人が孤独を薙ぎ払って生きられる生き物なら、この街のほとんどが不要と消える。
「孤独を認識しなくなったら、あの男性は帰っちゃう。あのお店は、潰れちゃうよ」
「? どういう意味だ?」
私が指し示した、仕事帰りだろう中年男性は、電光看板が灯ったばかりのスナックの扉を嬉々として潜る。
「ああいう対面式の接客って、軒並みなくなるんじゃないかな。皆、お酒が飲みたいだけなら居酒屋でしょう? わざわざ高いお金を出してお酒を飲みに行くのは、お酒以外を求めているんだよ」
「そういうものか?」
「そういうものでしょ」
扉を潜ればママがくれる笑顔に会える。話を聞いて、共感や叱咤激励をしてくれる。
「ふむ、若いのに美穂子は物の道理をよく弁えているな」
鬼王が腕組みし、感慨深げに頷いていた。
「えー? 普通だよ」
私が示したのはほんの一例。
だけどそんな温もりを、きっと誰もが、そこかしこに求めてる。
「……ねぇ鬼王、手を繋いでもいい?」
「うん? 俺と繋いだって別段温くはないぞ?」
うだるような日中の暑さも、夕方になり、大分涼しさを増してきた。鬼王は、私が暖を求めたとでも思ったようだ。
鬼王は小首を傾げながらも、大きな手でそっと私の手を握った。
触れ合えば、じんわりと熱が灯る。熱は全身に巡り、心と体を熱くする。
「……ちゃんと、あったかいよ」
「なんと!? よもや俺は、いつの間にか体温を持ってしまったのではあるまいな?」
心の声が、どうやら呟きとして口から零れ出ていたらしい。
耳ざとく聞き付けた鬼王が一転、慌て出す。
鬼王は私と繋ぐのと逆の手を翳してクルクルとひっくり返してみたり、振ってみたりと忙しそうだ。
その姿がなんだか可愛らしく思えて、私はしばらく訂正をしないまま、手繋ぎのまま鬼王を眺めてた。
鬼王が頓着しないのをいい事に、キュッと握り込んだ鬼王の手は、やはりとても温かいと思った。




