一、「先生、覚悟できていますか?」
学校のチャイムが鶴岡中学校に響いた。
この学校は、今年で創立三十年を迎える。
この学校には、教室や理科室、職員室が設置されているA棟。三階と二階の廊下からつながるB棟。B棟には、調理室や裁縫室、生徒会室などが設置されており、どちらかというと利用が少ない棟だといえる。
3年2組。担任は松崎先生。まだ若くて、部活動などでも生徒と一緒に走り回るという元気な姿が放課後には窺える。
なのに・・・・・。
チャイムが鳴ってから、五分が経過したが一向に教室に姿を見せない。教室がざわつき始める。
学級委員が気を利かせて、職員室へ向かう。
学級委員が一階にある職員室へ行くため階段を下りていると、一階の踊り場から教頭先生が姿を見せた。
そのまま、横を素通りしようと思ったが教頭に現在の状況を伝えた方が早く事が済むと考えた。
教頭もこちらの存在に気づき、声を一足先に掛けてきた。
「どうかしたのか、まだ授業中だぞ」
腕時計を確認して、こちらに来る。
「あのぉ、松崎先生が来ないのですが・・・・」
「とりあえず、教室に戻ってくれ」
教頭の表情が一瞬にして、変化した。
「はい? 」
こちらがもう一度聞くと教頭は怒鳴った。
「さっさと、戻れ! 」
さすがの学級委員も、それに怯えて教室へ逆戻りした。なんだよ、あのクソジジィこっちが気を利かせて呼びに行ったのに、と心の中で教頭の愚痴を言いながら階段を上り教室へ入る。
教室に戻ると、早速松崎先生の行方を質問してくる声が掛かる。
「松崎先生はどこに居んの? 」
学級委員は、クラスをとりあえず静かにさせて
事情を話す。
「いま、教頭先生から教室での待機命令がでた」
クラスを見渡すと、先ほどまでふざけていた連中が真剣に話を聞いていた。
すると、教室のドアが開いた。教頭だ。
クラスの雰囲気は、いつもよりも息苦しい。
こんなに静かなクラスは松崎先生が激怒した日ぐらいである。教頭は話を始めた。
「突然だが、君たちの担任の松崎先生が昨日で先生という職業をお辞めになった」
クラスの開いている窓から、冷たい風が教室に吹き込んできた。
「そんなの、嘘だろ」
クラスのムードメーカーが誰もがそう思いたい事実を口にした。
「悪いが嘘ではない」
教頭は冷静に言った。そしてこの事に関しては他のクラスはもう伝えてある、と伝えた。
「なんで、俺らに伝えてくれなかった? 」
クラスの座席の一番後ろの男子が教頭を睨む。
教頭は、いくらなんでも謝るだろうとクラス全員が思っていた。しかし、教頭は言った。
「なぜ、お前らに知らせる必要がある? 」
クラス全員が、教頭を一瞬にして見る。
「なぜって聞く必要あるか? 」
三列目の座席の男子が席を立ち、教頭の方へ歩を進める。男子は続けて言う。
「あんたさ、教頭だろ」
「誰に向かっての言葉遣いをしているんだ?」
教頭は細かい所を注意する。
場を考えない教頭の行為に男子は怒る。
「今、それより大事な話をしてんだろ! 」
教頭は、男子を目で追う。
「何だよ、大人って、先生って、生徒の気持ちも考えないで物事を決定して進める。そんな大人を俺ら生徒は先生と呼ぶのか、そんなの無理だよ! 」
男子の怒りは言葉だけでは静まらずに、教頭のむなぐらを掴んで言った。
「こんな学校に学ぶものなんて何もねぇ」
男子は、カバンを持って教室を出て行った。
普段は、冷静な男子が怒ったためクラスは静寂に包まれた。
教頭も少し間を空けて、教室から退場した。
教頭が事実を伝えてから一週間が経とうとしていた。3年2組には、非常勤講師や教頭などが交代しながら様子を見ていた。もちろん、松崎先生が担当していた数学については自己学習となった。他のクラスも担当していたためそのクラスも自己学習となった。
桜田 潤子。まだ二十二歳になったばかりだ。
教員免許を取得しているがが、教師をやる気は全くなかった。じゃあ、なぜ免許を取得したのかと聞かれたらそれまでだ。時間が空いていたから取得したとでも答えるのだろう。
そのような事を考えながら自分の家へと続く登り坂を歩く。家に到着すると、いつものように郵便ポストの中を確認する。封筒が一通。その他にはなにも入っていない。
なんだろうこれ、と思いながらその場で中身を見ようと思ったがとりあえず手に持っているバッグを置こうと考えて家に帰宅した。
「ただいまぁ」
だれからも返事はない。当然だ、と心をいつも通り慰めた。独身だから・・・・。
玄関で靴を脱ぎ、家の鍵を特定の場所に置きテレビやキッチンがある一階のリビングに入った。
バッグを投げて、ソファーに座る。
封筒を開けようとすると、裏面に何か書かれていることに気づいた。それを見たが、全く心当たりがない。鶴岡中学校。中身を続けて見る。
白い紙が四つ折りにされて封入してある。
手紙か、と思いつつ紙を広げた。予想は的中。
すると、パソコンで文字を書いたのだろう。
ワープロ文字が並んでいた。読む気が失せるが読まないことには物事が進行しない。
言葉にしながら読み始めた。
「こんにちは、鶴岡中学校の校長の久本です。単刀直入に言いますと私の学校の3年2組の担任が急遽辞任してしまいました。なので、もし都合がよければ引き受けてくださるとうれしく思います」
文章の下には、電話番号が書かれていた。
電話を掛けろという事なのだろうか。このスペースに書くということは読み終えた直後に電話番号が読者の目に留まるようにしてあるに間違いないと自分で決めつけ納得した。
電話番号を携帯に打ち込み、掛けた。二、三回、呼び出しベルが鳴ると、あちらから声がした。
「もしもし、どちら様でしょうか」
「あ、お手紙を頂いた桜田と申します」
あちらがどうやら用件を理解したようで。
「校長をお呼びします、少しお時間よろしいでしょうか」
「あ、はい」
電話からは人間の声の代わりにコンビニの入店音にも似た音が聞こえる。
突然、人間の声が聞こえた。校長だろう。
「もしもし、お電話かわりました。校長の堤下と申します。桜田潤子様でよろしいでしょうか」
「はい」
桜田は間髪を入れずに話を続ける。
「そちらの鶴岡中学校からお手紙を受け取りまして、中身を拝見させていただきました。わたしは具体的にどのような事をすればよいのでしょうか」
「中学校に勤務してくれるのですか」
校長は少し声を大きくして言った。
「えぇ、まぁ、はい」
どんだけ鈍感な校長なのだ、と心で言いながらも口には出さない。
「では、明日は予定大丈夫ですか? 」
桜田はスケジュール表を開いて明日の欄を見た。
明日は、残念なことにガラ空きだ。
「はい、いつでも」
「それは嬉しいことに。明日の正午にいらしてくださいますか」
「分かりました」
「では、明日よろしくお願いします」
プープー。あちらから電話を切った。
「失礼します」もないのかい、と思ったが別に細かい点を気にしていたら何事も前に進まない。
だから気にしない。よし、飯を食って寝るかぁ。
桜田は背伸びをした。
目覚ましが鳴った。桜田はいつものように起床した。寝起きは良い方だと自分で思う。
布団を畳んで朝ごはんを作る。今日は仕事がない。というより、実は昨日会社に学校に電話をした後、辞職表を送ったのだ。
中学教師に対して興味を抱いた。
早く中学生に勉強を教えたい。数学を。部屋の掛け時計を見た。十時を過ぎていた。
まずい、と思い少し早めに朝食を完食した。
着替えを済ませ、歯磨きからメイクまで全て済ませた。時計に目をやる。時は鐘なり。
本当だ。ハイヒールを履き、家を出た。鍵を閉めたのを確認してバッグに入れて最寄りのバス停へ向かった。バス停に向かうまでは以前の生活リズムと同じだが逆方向に鶴岡中学校は存在する。ホームページで見る限り校舎は清潔で四階建てということしか分からない。
しかも、最寄り駅にバス停の鶴岡中学校前としか記されていなかった。そんなに有名なのか、と思ったが行ってもいないのでその周囲の様子は全く想像がつかない。そのような面ではワクワクしないことはない。ただ、仕事面では不安でいっぱいであった。
しばらくバスに身を任せていると、バスの音声が鶴岡中学校前と案内する。桜田は降車の準備をした。
バスが停留所に停車する。桜田はバスから最初に降車した。降車した瞬間に鶴岡中学校の場所が分かった。分かったというより目の前に存在している。部活動の活発な声が聞こえる。校門を通り、職員玄関という看板が存在した。看板といっても木に黒いペンで書かれているだけだ。その看板の後ろには呼び出しボタンが設置されていた。それをポチと押す。ピーンポーンとドアの向こうで鳴っているのが聞こえてきた。
すると、右の曲がり角から黒いスーツを着用した男性が小走りでやってきた。男性はドアの鍵を解除した。ドアが両サイドに大きく開く。
桜田は男性に対して軽く一礼をしてから、玄関に右足を踏み入れた。男性は青色のスリッパを桜田に差しだす。「すいません」と桜田は言ってスリッパに足を入れた。男性は桜田を校長室へ誘導した。
「少し、お待ちください」
男性は言って礼をして部屋を出て行った。
「はい」
桜田は校長室を見渡しながら言う。
校長なのだろうか、男性が入ってきた。
桜田は起立して一礼した。その男性の名札に鶴岡中学校校長と書かれている。
やはり、校長か。
「どうぞ、お座りください」
校長が右手で椅子を示す。
桜田が座るのを確認すると校長も座った。
「桜田潤子さんですね? 」
「はい」
「改めまして、堤下と申します」
「桜田潤子です、よろしくお願いします」
「この学校はですねぇ、部活動がとても活発という特徴がありまして」
「そうみたいですねぇ」
桜田は校庭の方に視線を向ける。カーテンがあり見られないが声は聞こえてくる。
「桜田先生は、部活何をされていたのですか」
「バドミントンを中学三年間やっていました」
「高校の時は何を? 」
「高校の時もバドミントンを二年間」
すると、校長は席を立ちデスクに向かう。
桜田はその行動を目で追う。校長は引き出しを開けて中から紙を取り出した。引き出しを閉めてからこちらに戻ってきた。席に座ると校長は先ほど取り出した紙を桜田の前にあるテーブルに置いた。校長が話を始める。
「こちらの書類は大切なものになりますので、今からご記入お願いします」
校長はボールペンを添えた。
「はい、分かりました」
桜田はボールペンを手に持ち、書き始めた。
一通り、桜田は紙の内容を確認する。入部希望の部活動や担当教科を記入する欄などが設けられている。その他は履歴書と同じようなものである。
書き始めてから、十分ほどが経過した。
すると、桜田は書き終えた紙とボールペンを校長の方に返却した。
「ご記入できましたか? 」
校長は言うと紙を手に取る。校長はサラッと見た。
「お時間、ありがとうございます。只今わたくしが書類をお持ちしますので少々お待ちいただけますか」
「はい」
校長は桜田の返事を聞いて席を立ち校長室出て行った。
桜田は校長室を見渡す。部活動の活発な声は途切れることは一切ない。桜田の前の壁には歴代の校長が写真となって飾られていた。
すると、ドアが開いた。校長が薄い水色の封筒を持って入ってきた。校長は封筒を桜田の前のテーブルに置いた。桜田は手で受け止める。
「開けていただいて結構です」
校長は手で丁寧に封筒を指して言った。
「あっ、はい」
桜田は封筒のフタを開けて書類を封筒から出す。
書類はホチキスで左上を止めてある。
サラッとページを確認した。およそ十ページ前後というところだろうか。校長が唐突に話し始める。
「桜田先生には3年2組に就いてもらいます。まだ、部活動の顧問については決定していないですが後日お伝えします。出勤については来週の月曜日からとなりますので書類に目を通しておいてください」
「はい、分かりました」
「では、来週の月曜日にお会いしましょう」
一通りの流れの会話が終わり桜田は席を立った。
校長室を出ていこう、と桜田は思いドアのノブに手を掛けた。
「あっ、桜田さん」
桜田は後ろにいる校長の方に視線を向ける。
「はい、何でしょう」
「先生、覚悟できていますか? 」
その場の空気が一気に張り詰める。
その質問の意味が桜田にはよく理解できない。
思わず。
「それはどういう事ですか? 」
校長は桜田が質問をぶつけると顔が笑顔に戻る。
「いいえ、深い意味はありませんよ。では一週間後の月曜日にお会いしましょう」
ドアを開けて桜田は出ていく。校長は桜田の書いた紙をじっくり見て机の引き出しに入れた。
桜田は学校から部活動の活発な声を聞きながらバス停に向かう。さっきの校長の言葉が頭を
グルグルしている。「先生、覚悟できていますか」という言葉と今となっては意味ありげな笑顔。
今まで感じたことがない恐怖が桜田の背筋を凍らせる。
ただ、桜田には想像もしなかった試練がいくつも待っているのであった・・・・。