二日目
彰浩が太陽のまぶしさに目を覚ますと、誰かのすすり泣く声が聞こえた。辺りを見回すと、皆暗い顔をしている。状況が読めない彰浩が困惑していると、それを見た真凛が難しい顔でこちらへと寄ってきた。
「あのね、怪我してるおばあさんいたでしょ。その人、今朝起きたら亡くなってたって」
真凛も泣いたのか、目の周りが赤くなっていた。そして彼女は今も、泣き出しそうな顔をしている。
「ジェシカは『自分がちゃんと見てなかったせいだ』ってすごい泣いちゃって……」
「そう、ですか。教えてくれてありがとうございます」
「うん、用はそれだけ。じゃあね」
その後はまとめて置いてある沖縄銘菓を口にして、空になったペットボトルにぬるくなったお湯を補給した。どうやらフェイの蒸留装置は順調に真水を生み出しているらしく、数人がかりで海水を汲んだり中に溜まった真水を貯水用の鍋へと移したりしている。
「これ、どうなってるんだ」
蓋が逆さにはめられた土鍋を見ながら、彰浩は独り言ちた。つもりだった。
「あの外人さんいわくな」
しかしそれを耳ざとく聞き取った男がいた。笹原だ。
笹原は昨日とは打って変わって草色の甚兵衛を身にまとい、砂浜にあぐらをかいていた。手に持った長い棒は火焚き用なのか、妙に様になっている。
「水蒸気が逆さにした鍋の蓋を伝って、中央に溜まる仕組みらしい。あいにく、中にはちいせぇ器しかなかったから何度も取り換えにゃならんがな」
「なるほど」
「坊主は誰だ。わしはまだ名前も聞いとらんぞ」
「あ、すみません。須田彰浩と言います」
「そうか。わしは笹原だ。あれはさよ」
そういって笹原が顎をしゃくると、彼の妻が海を覗き込んでいた。
□
手持無沙汰になった彰浩は、流れ着いたものがないか海岸沿いに砂浜を歩いていた。松の生えていた場所までくると、先の岩場部分をじっと覗き込む影が二つ見える。近づいてみると、昨日泣き疲れて眠っていた子供たちだった。
兄であろう少年は小学校高学年程度だろうか。沖縄のデザインがおかしなシーサーの描かれた赤いTシャツに、黒い短パンを履いている。妹はもっと小さく、五、六歳程度に見えた。彼女はピンク色のワンピースの裾が濡れることも厭わず、興味津々といった様子で岩場を眺めている。
彰浩が注意しようとして彼らに近づくと、兄の方がこちらを振り返った。
「あ、おっきい兄ちゃんだ」
「……何、見てるんだ」
「潮だまり。変なのがいるんだ」
そういって少年の指の先を見ると、岩場にぽっかりと大きなくぼみのようなものができていた。満潮時は海に沈んでしまっていたが、潮が引くと姿を現すようだ。
直径が彰浩の身長ほどもありそうな潮だまりには、魚や蟹がうようよとしている。彰浩は魚に詳しいわけでもないが、彼の見たことのある魚は一匹もいそうにないほどおかしな魚がいる。額から長い角が生えている小魚だったり、青い蟹だったり、透明で中身が透けて見える貝だったり、どう考えても普通ではない種類だ。極め付けが、少年の言う「変なの」だ。
それは直径三十センチほどのカタツムリのような貝に見えた。貝の口からはクリーム色のような触手が何本も生えている。
「タコかな?」
少女が首を傾げる。確かに貝の中に身をひそめるタコもいるとは聞くが、その貝の中からはみ出た触手は吸盤などなくつるりとした形をしていた。
「何だろう、これ」
「食べれる?」
「……わからない」
「笹原のおじちゃんに聞いてみよう。おっきい兄ちゃん、捕まえて!」
兄妹から羨望のまなざしを受けた彰浩は、頷くより他になかった。危険なのでその場から動かないことを言い含め、岩場を乗り越えて潮だまりへと向かう。
彰浩が潮だまりを覗き込むと、気配に敏感な小魚たちはさっと岩陰に姿を消してしまった。しかし、彼らの言う「変なの」は危機感の欠片もなく同じ場所で触手をふよふよと動かしている。これでこのおかしな貝が姿を消してしまったら「逃げられた」で済むが、その貝はあっけなく彰浩の手に収まってしまった。
遠くで兄妹のはしゃぐ声が聞こえる。中の触手もするりと逃げてしまう――ことはなく、ぬるりとした感触が彰浩の腕へと伝わった。
「こいつらさ、他の魚につんつんされても知らん顔だったんだよね。だからおっきい兄ちゃんでも捕まえられると思ってた」
謎の貝を持って歩く彰浩の周りを、兄妹がはしゃぎながらぐるぐると回ってついてきている。彰浩が通り過ぎるとマリはぎょっとした顔をするし、隆太や隼人は面白いものを見るように距離を取ってついてくる。更には「ねぇ、何これ、何?」と騒ぐ米村まで加わり、この行進も大分人数が増えてしまった。
「何だ、それは」
「……わかりません」
笹原に「変なの」を渡すと、彼は神妙な顔で彰浩へと問うた。彰浩の想像していた通りの反応である。兄妹は笹原の手に渡った貝の触手部分をつつきながら、観察していた貝の様子を報告していた。
兄妹の話を聞いた笹原はしばらく考え込むと、触手の一本を手にひっぱる。するとその触手は何の抵抗もなくずるりと貝から抜けた。
「一匹じゃねぇみてぇだな。ますますわしの知っとるものに当てはまらん」
その触手は一本の長さが六十センチほどあった。直径は五センチ程度だろうか、ぶにぶにとした触感だ。頭から尾まで太さが一定で、バルーンアートで使う風船のようだと彰浩は感じた。
「お、目があるぞ。見てみろ」
そういって笹原は彰浩へと触手を突き付けた。確かに、黒ゴマのようなものが二つ並んでいる。しかしそれが何だというのだ。彰浩が困惑していると、笹原は割れてしまった土鍋の一部を火にかけ、その上に触手を乗せた。
「焼くんですか!?」
「まあ、小魚が食ってたんだろ? じゃあ食えるだろ」
土鍋に熱が伝わるまで中々の時間がかかったが、十数分後にそれはこんがりとおいしそうに焼けていた。もういいだろ、と笹原が手に取り尾の方をかじる。もぐもぐと口の中で咀嚼すると、彼は少し考え込んで残りを彰浩へと渡した。
「じ、自分ですか?」
「安全が確認できねぇもんをガキに食わせるわけにはいかねぇだろ」
「……そう、ですよね」
「まあ食ってみろ。多分毒はねぇ。味も中々だ」
笹原に渡された触手を、彰浩が一口頬張った。中々歯ごたえがあり、嚙み切ると骨が歯に当たる。焼く前の触感とは違い、触手の身はぎゅっとつまっていた。彰浩はぎゅむぎゅむと歯ごたえを楽しんだあと、触手を飲み込んだ。
「イカです!」
「ああ、小骨のあるイカみてぇなもんだ。本当、何なんだろうなこいつは」
「醤油が欲しいです」
「塩で我慢しとけ。流れ着いたやつがある」
笹原から塩を受け取ると、彰浩は再び触手を口へと運んだ。丸一日甘いものしか食べていなかったのだ、謎生物だとしても塩気のある海産物はうまい。彰浩の様子に、周りで見物していた隼人たちが「俺も俺も」と要求するので、笹原は無言で次の触手に手をかけた。ぎゅっとひっぱたらぞろりと触手が抜ける。十分に熱された土鍋の上に置くと、じゅっと水分が蒸発する音が響く。
しかしその日、触手焼きが彰浩と笹原以外の口へと入ることはなかった。騒ぎを聞きつけたフェイによって人体への安全が確認されるまでお預けとなったのだ。未知の食材を口にすることへの危険を隼人越しにこんこんと説教された彰浩と笹原は、砂浜の上で正座をしてフェイへの中国語での謝罪を練習させられた。発音が難しいので復唱することすら大変なのに、和訳すれば「私たちは何でも食べる馬鹿です。今後は必ず確認して口へと運びます」なんて中国語一生使いそうにない。二人は肩を落とした。
幸いだったのは、ことの顛末を聞いたジェシカが笑い、少し元気を取り戻してくれたことだろうか。結局隼人たちがその職種――兄妹命名のタコ貝――を口にできたのは、日が暮れてからのことだった。




