一日目 2
スーツケースに手が届いた頃には、彰浩の呼吸はまるで全力疾走したかのように乱れていた。幸いだったのは、彼ともう一人、ぐったりとした女性がつかまっても問題ない程度の浮力をスーツケースが持っていたことだろうか。女性に声をかける気力もなく、彰浩はスーツケースを浮き輪代わりにして砂浜を目指す。
女性を落とさないように右手で抱え、足の力だけで浜を目指す。スーツケースのおかげで溺れる心配は減ったが、今度は足の力だけで進まなければならない。不明瞭な視界で浜辺の先にしげる緑を目印にして半ばもがくように足を動かしていると、数分後――彰浩には数時間にも感じた――ようやく彼の足が柔らかな砂場をとらえた。
「…………はっ」
女性を担ぐようにして抱え、一歩ずつ進んでいくと彰浩が海に飛び込んだのが見えたのか、浜辺には米村を始めとした数人が集まっていた。米村とジェシカ、言葉の通じなかった男性と高校生グループの中の一人が濡れるのを厭わず彰浩の方へと駆けだす。
「大丈夫です! こちらは深いので、皆さんは無理をしないでください!」
彰浩はそう叫んだが、四人はそれを無視して全身を海水で濡らしながら彰浩から女性を受け取った。
「わたしが」
そういって彰浩の手からは荷物を奪い取ったジェシカは胸まで海水に浸かっていたし、米村と男子高校生は二人がかりで女性を担いでいる。もう一人の男性は担がれた女性の首や腕を握って何かを調べているようだ。
外国人の男性が難しい顔でジェシカに何かを叫ぶ。それを聞いたジェシカは顔を蒼白にして、荷物を抱えていた両手を強く握りしめた。
「急ぐ! 息ないです、Cardiopulmonary resuscitationを早くっ!」
ジェシカの言った英語を理解した日本人はいなかったようだが、彼女の剣幕に皆慌てて女性を浜へと運ぶ。彰浩は「意識のない人間はとても重い」とどこかで聞いたことがあったが、どうやらそれは本当のことだったらしく米村と男子高生二人がかりでも彼女を持ち上げるのは大変そうだった。
海から左程遠くない場所に女性を寝かせると、眼鏡の男性が女性の顔の向きをそっと変え、強く胸を押し始める。心肺蘇生法だ。テレビでしか見たことのないような出来事に、彰浩を始めとした周りの面々はただ茫然と見守ることしかできない。
しかしその中で、眼鏡の男性はジェシカに英語で指示をしている。彼らは何度か言葉を交わすと、ジェシカは決心したようにうなずいた。
「ケイジ、フェイと代わって」
「う、うん」
「ここ手を当てて、一分間に百回は押して。最低限」
ジェシカの指示に従って米村が女性の胸の真ん中を押す。フェイと呼ばれた眼鏡の男性は横たわる女性の首の位置を調節し、人工呼吸を始めた。
「もっと強く! 二インチくらい、押す」
「二インチって?」
「…………五センチ! ケイジ、疲れたら代わる。アキヒロとあなた。準備して。途切れるのだめ」
心肺蘇生法は余程体力を使うのか、米村と男子高生が交代する。そして、彰浩、再び米村と順番を回していき米村に三度目の順番が回ってきたとき、フェイが女性から口を離し小さく首を振った。
言葉はなかったが、全員にその意味は通じている。ジェシカは今にも泣きだしてしまいそうだし、米村も眉を下げている。男子高生は何かを食いしばるようにうつむいていた。いつの間にか集まってきていた他の遭難者たちも悲しそうにため息を吐いたり、青い顔で泣き出してしまうものもいる。
平和な日本で生きるには遠い死というものが、今この場では随分と身近に感じた。
□
息のない女性を木の傍へ横たえ、皆力のない足取りでめいめいの場所へと戻って行った。隣を歩く米村もジェシカも、うつむいて一言も話す素振りもない。しかしフェイがジェシカに二、三何かを言うと、彼女は弱弱し気な笑みを張り付けてこちらを向いた。
「ケイジもアキヒロも、水飲めとフェイが言ってる。体力使う、水分必要だって」
「わかりました。フェイさんも、ありがとうございます」
彰浩がフェイに深々と頭を下げると、伝わったのか彼は小さく首を振る。
「アキヒロ、水ある?」
「はい、幸い手荷物は流れ着いていたので今日明日くらいは大丈夫です」
「……うん?」
「あー、イエス、アイアム」
「わかった。しっかり休むして」
けがをした老婆のいる場所へと戻ると、ジェシカはまた甲斐甲斐しく彼女の世話を焼きだした。どうやら、出血は収まったようだ。フェイは治療について詳しい、とジェシカが言う。
彰浩は手荷物から引っ張り出した未開封のさんぴん茶を口に含むとほっと息を吐いた。自分で思っていたよりも喉が渇いていたらしく、一リットルのペットボトルの中身がみるみる間に三分の二まで減ってしまう。
木に寄りかかり大きくゆっくりと呼吸を繰り返すと、海に入ったことで体力を消耗したのか、潮風がまどろみを誘った。
□
いつの間にか転寝していたようで、自分の寝言で彰浩は目を覚ました。羞恥から頬を赤く染めて辺りを見回すと、ばっちり聞いていたらしいジェシカがいたずらっ子のような笑みを浮かべている。
「おはよう」
「おはようございます」
「ぐっすりしたね」
「自分は、そんなに寝ていましたか?」
「ううん、えーっと……ショウイチジカンくらいよ」
小一時間、と彰浩は訂正する。
「Rescue、来ないよ」
「まあ流石に自分たちが流れ着いてから精々三時間程度ですし、もう少しかかるでしょう」
「フェイも言ってた。だけど、いなくなったら七十二時間までにおおまかな人たちが発見するって」
「……遭難者は七十二時間以内にほとんどが発見されてる、と?」
「Hmm……おそらくそう」
ジェシカとの日本語での意思疎通は困難だ。彼女曰く、母国アメリカで3年日本語を学んで、初めての訪日だったらしい。沖縄で観光を楽しんで、東京経由でアメリカへ戻る日程だ。乗り継ぎの時間がシビアなので、もしかすると自分が乗るはずだったアメリカ行きの飛行機は既に発っているいるかもしれないと嘆いていた。
「アキヒロは、沖縄に行った? それとも東京に行く?」
「沖縄に行った、の方です」
「観光?」
「いえ、兄の結婚式があったので」
「ひとり?」
「はい、ひとりです」
良かったね、と彼女はほほ笑む。
ジェシカも一人旅ではあったが、沖縄で知り合った日本人観光客が同じ便に乗っていたそうだ。友人のことが心配ではあるが、きっと彼女もどこかで元気にしているはずだ、とジェシカは明るく振る舞う。
「わたしより先に、Rescueするかもね」
そういって彼女は長い金の髪をかきあげた。沖縄の海のような青い瞳に白い肌。鼻筋はすっと通っていて小さな唇は浜辺で見つけた桜貝のように薄く色づいている。海に落ちて砂にまみれてしまった白いシフォンのワンピースを身にまとっていても、ジェシカは美しい少女だった。




