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野生の牢獄  作者: 鴨野朗須斗
14人の漂流者たち
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一日目 1

 誰かの悲鳴を聞いた気がした。男は重い瞼をゆっくりと開く。頭上には青い空が広がっていた。

 男――須田彰浩(すだあきひろ)が緩慢な動作で床に手をつき体を持ち上げると、想定していたものとは違う感触が右手に伝わる。不安定で温かく、さらさらとしている。彰浩が身を横たえていた場所は慣れ親しんだベッドでもスプリングの軋むソファーでもなく、白い砂浜だった。存在を忘れていたかのように聴覚がふと蘇り、静かな波音が彼の耳に飛び込んでくる。そして誰かのすすり泣く声。

 彰浩が辺りを見回すと、長々と続く砂浜には彼以外の人間が存在していた。男、女、子供、年寄り。年齢層は広く分布していたが、数はそこまで多くはない。十数人といったところだろうか。現状を理解できない彰浩がうろたえた様に浅い呼吸を繰り返していると、穏やかな声が聞こえた。



「あ、目が覚めたんだね。怪我はないかい?」



 振り返ると、彰浩の後ろには穏やかな笑みを浮かべた中年の男性がいた。彼も彰浩と同じ状況だったのか、スーツのワイシャツは汚れ、砂に塗れている。



「おーい、大丈夫?」

「え、あ、はい。大丈夫、だと思います」

「そうか、それはよかった」



 彰浩は見知らぬ人間から忌避されるような外見であると自覚していた。

 それは彼の大きな図体だったり、三白眼気味の人相の悪さだったり、過去の経歴だったり。ともかく、彼は他人からは恐れられるような――あるいは目をつけられるような――見た目をしていた。

 しかし彰浩の目の前の男性は、彼を恐れる素振りなどなく会話を続ける。



「ところできみ……」

「あ、須田です。須田彰浩」

「うん、彰浩くんだね。僕は米村啓二(よねむらけいじ)



 米村は浜辺に座り込む彰浩にそっと手を差し伸べた。彰浩は小さく頭を下げ、その手を取る。お互い砂に汚れていたため、ざらりとした不快な感覚がする。



「彰浩くんは、今どうなってるか理解してるかい?」



 現状。そういわれて彰浩は己が記憶をたどった。

 ――確か自分は、沖縄にいたはずだ。一回り離れた兄が沖縄で結婚したので、その結婚式に参加した。自分のような脛に傷があるものが祝いの席に参加するなど避けた方がいいと兄には言ったが、兄は彰浩の主張を一切通そうとはしなかった。二人っきりの家族なんだから、という兄の言葉に彰浩は折れざるを得なかった。

 結果、かりゆしを着て朝から長々と続く沖縄特有の結婚式に参加してきたのだ。兄嫁はとてもいい人で強面の彰浩を笑顔で迎えてくれたし、式に参加した大勢の人たち――後から聞いたが、兄どころか兄嫁すら知らない人たちまで来ていたらしい。沖縄では普通のこと、だそうだ――もまるで十年来の知り合いのように彰浩を迎えてくれた。


 その後数日は兄や兄嫁の家族と一緒に沖縄の観光をした。兄が数年前から住んでいるだけあって、彰浩も何度か訪れたことはあったが、兄嫁たちの案内する場所は地元の者しか知らぬ浜辺だったり、漁師が営む磯焼の店だったり。数日という短い期間ではあるが、彰浩は命一杯沖縄を楽しんだ。

 そして翌日、職場への土産を買い、東京行の飛行機へと乗り込んだ。旅の疲れから、うとうととしている間に慣れ親しんだ東京へと着く――はずだった。



「飛行機が、落ちたんですか……?」



 いつの間にか彰浩の唇はかさつき、口の中が粘り気を帯びていた。砂を噛んだのだろう、嫌な音が脳に響く。しかしそんな不快感も気にならないくらい彼の鼓動は早鐘を打ち、心臓とは裏腹に頭や手足から血の気が引いたように末端が冷えた。

 米村は彰浩を落ち着かせるようにほほ笑んで頷く。



「うん、そうみたいだね。僕たちの乗った飛行機は離陸後……二十分くらいかな。すごい音が聞こえたんだ。無理やり何かを引きちぎるみたいな。僕は巨人が両手で飛行機を鷲づかみにしてねじってるんだと思ったよ。それくらい大きな音がして、多分、墜落したんだと思う」



 僕自身もあんまり覚えてる訳じゃないんだけどね、すぐ気絶しちゃったし。

 そういって苦笑いを浮かべた米村の顔色は、あまりいいものではなかった。彰浩はようやく米村が無理をしながら、自身を元気づけようとしていると気づく。



「まあでも、僕らは幸運だったよ。生きてるし」

「はい、救助もすぐ来るでしょうし……」

「うんうん、彰浩君も大きな怪我もなさそうだし、直射日光の中にいると体力を奪われちゃうらしいから日陰に移動しよう」



 砂浜の先には、森林が広がっていた。彰浩には森、としか表現できないが広く感じた砂浜よりもずっと長く先へ続いている。砂浜の方からは小高い山が見えたが、ここからでは背の高い木が邪魔して何も見えない。

 木陰には若い男女数人や壮年の夫婦などが休んでいるが、その中でも特に目を引いたのは金髪の女性だ。彼女は横たわった老婆に水を与えている。彼女以外はほとんどが日本人のようで、誰もが気落ちした様子でぐったりと座り込んでいた。



「あの、大丈夫なんですか?」



 彰浩が座り込み目線を合わせて尋ねると、女性は彰浩の言葉に引きつった笑顔を向けた。恐がらせたのかもしれない。そう思ったが、彼女の視線は彰浩から逸らされることなく真っ直ぐと射貫いている。もしかして、外国人観光客ならば日本語が通じないのかもしれない。そう思って彰浩が猫の額のような英語知識を総動員して言葉を選んでいると、彼女は瞳を伏せながら答えた。



「けが、してる。血がとまらない」



 返ってきたのは、流暢とは言い難い日本語だった。



「自分、誰か手当てができないか聞いてきます」

「うん。よろしく。わたし、ジェシカです」

「彰浩です。須田彰浩」

「アキヒロ、お願いします」



 それから彰浩は、この浜に流れ着いた人たちひとりひとりに尋ねて回った。しかし、壮年の夫婦は首を振ったし、高校生のグループらしき男女は女性が取り乱していて話をできるような状況ではなかった。兄妹らしき子供たち二人は、年下の女の子の方が泣き疲れて眠っている。木の陰で難しい顔をしていたスーツ姿の男性は――言葉すら通じなかった。

 てっきり日本人かと思っていた思っていた彰浩は慌てたが、何とか「イ、イングリッシュ、スピーク?」と口にすることができた。それに対して男性は頷いたので、後でジェシカを連れてくることにする。おそらく、彼女は英語圏の人間だろう。最後に米村にも確認してみたが、彼は困ったような顔で首を振った。


 ジェシカに眼鏡をした言葉の通じない男性のことを告げ、彼は他に遭難者がいないか浜沿いに歩き始める。

 海から山を見て、左手側には数十メートルほど進むと崖のようになっておりそこから先は進めなかった。人影もないので、彼は引き返して逆方向へと歩みを進める。長々と続く浜辺を歩くが右手側にも遭難者、あるいは生存者らしき影はない。

 歩きにくい足場に四苦八苦しながら歩みを進めると砂浜の終わりへと到達してしまったが、こちらも崖のようになっていて先に進めそうになかった。しかし断崖絶壁のような左手側と比較すれば、無理をすれば何とか登れそうな崖になっている。しかしながら右も左もわからぬ状態で危険を冒すべきではない。それに、崖下の砂の上には松に似た木が群生していて、半袖を着ていた彰浩には辛そうな道だ。


 人探しを諦めた彰浩は流されてきたスーツケースや荷物を海から引き揚げながら海沿いを戻る。海に入ることに不安はあったので、彼は足の着く範囲の荷物だけを集めていた。しかし二つ目のスーツケースを引き上げると、彰浩は視界の端で何かがぷかぷかと浮かんでいることに気づく。


 人だ。

 腰まで海水に浸かった彰浩の瞳が、スーツケースに縋りつくように漂流している人影をとらえた。



「おい! 大丈夫か!」



 彼は叫んだが、動きはない。彰浩とその人影との間には、十数メートルもの距離がある。確実に足のつかない深さだろう。彰浩は思案する。波音にかき消され声が届かないのか、気絶しているのか。あるいは――。

 嫌な想像を振り切るように、彼は濡れてまとわりつくかりゆしを脱ぎ捨てて海の中へと飛び込んだ。


 ――何で、こんなことを。

 彰浩は自問自答した。

 彼は泳ぎに自身がある訳でも、全ての人を救いたいと思うような英雄志願者でもなかった。自分にできることならば手を貸すのはやぶさかではないが、今回は荷が勝ちすぎている。現に彼のバタ足は波に負けて僅かばかり前に進むだけで、塩辛い水が口の中へ押し寄せる。目は痛くてぽろぽろと海水か涙かわからない液体が頬を伝っていた。



「―――っぐ!」



 だけど彰浩は、その長い腕を使って必死に水をかいた。義務感や正義心を感じたわけではない。ただ目の前で消えてしまうかもしれない命を助けなくては。漠然とそう感じた。

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