ありがとう
「お邪魔します」
毎日を二人で過ごした部屋の中を、睦美は新しい住居でも探しに来たようにキョロキョロと一つ一つ確認しながら入った。社会人になってもお金がないことには変わりがないので、余計なものは一切買っていない。あの夏の頃から増えたものといえば、仕事用のスーツや鞄くらいだ。部屋は散らかってはいないが、特別整理されているわけでもなかった。睦美が一歩ずつ足を踏み入れていく。
「ここで私は夏の間過ごしていたんですね」
「そうだ。話したとおり、オレが保護者役で睦美の世話をみていた。でも、睦美はしっかりしていたから、オレが手をかけることなんてなかったよ」
睦美は窓の外を眺めた。睦美が毎朝喫煙していたベランダは、今はもう雪が積もって真っ白になっている。
「なにか思い出しそうか?」
「ううん、でも。話を聞いたときに私がイメージしてた部屋と一緒だった。だからちょっと安心したの。私の記憶は完全には消えてないんだなって。今は眠っているだけで、ちゃんと私の中に残ってくれてる。そんな気がするの」
「そっか」
「群青さん……。これは……?」
睦美が指さしたのは、群青が睦美からもらった河川敷の絵だった。もらったときからずっと部屋に飾ってあるものだ。
「これは睦美の絵だ。それをオレがもらって、部屋に飾ったんだ。
あっ、そうだ。絵で思い出した。伊織から預かってるものがあるんだ」
群青は髪留めで丸めた画用紙を手にとった。
「……千夏の……髪留め」
「……どうしたの?」
「いや、なんでもない」
群青は気付かれないように、千夏の髪留めをズボンのポケットにしまった。伊織から預かっていた絵を睦美に渡した。
「これを……私に?」
「あぁ。実はオレもまだ見てない。一番最初に見るのはきっと、睦美の方がいいって思ったから」
「……うん……ありがとう」
ゆっくり、ゆっくり時間をかけて、丁寧に画用紙を開いた。現実で流れた時間は、たった数秒だったが、二人には今までの全ての時間がもう一度流れたような、そんな気がした。
「あ……」
画用紙をひろげた睦美から、ポロポロと涙が溢れた。溢れてとまらなかった。記憶がなくなっているから、この涙の理由は分からない。ただ、たしかに体が涙を流した。睦美には分かっていた。これは悲しいから流れた涙ではないということを。嬉しくて自分の体は涙を流しているのだ。胸の中が温かさで、優しさでいっぱいになる。
安心できた。なぜだろう。分からない。でも、睦美は安心できた。
安心できたから、今まで不安だったのだと知った。
なんで不安だったのだろう。
記憶が……、再生される。また再び生きるために記憶が蘇る。
また一緒に生きるために。
誰と……? 居場所なんてないのに……?
居場所がなかったの……。生きることを望まれてなかったから。
恵まれていたのに、大切なものは何ももらえなかったから。
でも、もらえたの。こんな人生でも行き続ければもらえた。
誰から?
群青……さん?
伊織ちゃん……。もみじちゃん……。お婆ちゃん……。
それと……千夏……さん……。
みんなが居場所を作ってくれた。ここにいていいんだって教えてくれた。
みんなが私を作ってくれたんだ。この体も、この命も。
優しさも、温かさも、全部。
名前を……呼んでくれた……。
それだけで生きていてもいいんだって思えたんだ。
それだけでよかったんだ。
「うあぁ……あ……あ……」
「睦美……?」
嗚咽が混じる。それがどんどん膨らんで、呼吸が乱れ、とうとう肩で息をする。それでも涙はとまらなかった。嬉しかった。
「群青さん……あたし……睦美……だよ……」
帰ってこれた。ようやく、自分が生きていたい場所に帰ってこれた。
また、会えた。
「む……つみ……? 記憶が戻った……のか?」
「うん……群青さん……ありがとう。あたし……ここにいても……いいかな。まだみんなと一緒にいても……いいのかな」
群青は睦美を抱きしめた。
「いていいに決まってるだろ。みんなお前が大好きなんだ。お前にいてほしいんだ。ずっと一緒にいよう。睦美。大好きだ」
「ありが……とう。あたしも大好きだよ……」
伊織からもらった画用紙には絵の具で絵が描かれていた。
その絵には、睦美と群青が笑っている似顔絵。
『ありがとう』とメッセージも添えられていた。




