花が咲くだろうか
睦美は関川の病院に入院した。手術が終わっても意識は回復しなかった。
群青はその間、就職活動をし、一ヶ月かかってようやく正社員の職を見つけた。コピー機の営業の仕事で、職場環境は劣悪だった。毎朝五時に出社し、一日の業務が終わるのが終電前だ。ノルマは鬼のように高く設定されていて、誰一人として達成できていない。月末のノルマ未達成者は上司からたっぷり絞られる。もちろん残業代は出ない。それどころか、会社の備品や営業者のガソリン代も自腹で払わなければいけなかった。中途採用で入ってきた人間は殆どが一ヶ月以内に辞めていく。人材の入れ替わりが激しい会社なので、同僚の名前などほとんど覚えてはいなかった。
季節は、秋を通り越し寒さが骨身に沁みる冬になった。初雪が降って、世間が白く染まる景色にはしゃいでも、睦美は入院したままだった。体調は安定しても、意識は戻る気配がない。群青はその間も、なんとか時間を作って見舞いに通った。給料は自分が生活出来る最低限の分だけ残して、全て借金の返済に充てた。自宅から病院までの距離は車で移動する距離だったが、節約のため雨の日も風の日も、群青は自転車で通っていた。
群青の現状は関川の忠告通りになっていた。それでも群青は愚痴を一度も言わずに真面目に働き続けた。
久しぶりに丸一日の休日が出来た。朝起きて、洗面所で顔を洗う。鏡を見ると、就職してから三ヶ月ほどで頬は瘦せこけ、目付きは鋭くなり、顔色は悪かった。
「……誰だこれ。あぁ、オレ……か」
ボサボサだった髪の毛も短髪にしたのに、いつの間にかまた伸びてしまっていることにようやく気付いた。もう一度、冬の冷水で顔を洗うと、両頬を叩き自分の体に鞭を打った。こんな生活が一生続いていくのだ。自分で決めたことだ。
これも全て睦美のためだと思うと、群青は頑張ることが出来た。
睦美が入院している病院に向かおうと、玄関で靴を履いたとき群青のスマートフォンが鳴った。
「あ、もしもし。樋口さん。たった今ですね、一ノ瀬さんが……」
「えっ……」
*
「む……つみ……」
病室に辿り着くと、睦美は目を覚ましていた。こちらのことは気にせず、窓の向こうを静かに眺めていた。群青は切らした息を整えながら、もう一度名前を呼ぶ。
「睦美……」
「……」
睦美は群青の呼びかけには応じず、振り向かなかった。群青の隣で様子をみていた関川が口を開く。
「意識は無事戻った。ただ、記憶がない。樋口さんが千夏さんから聞いた情報を鵜呑みにするならば、おそらく千夏さんの記憶を加えられたことで、異常をきたしているのだと思う。
まだ詳しく検査してみないと分からないが、今の容態だとなんらかの記憶障害が起こっていることは間違いない。私たちは検査を続けるから、樋口さんは出来るだけ一ノ瀬さんのそばで会話をしたりして、なにか気付いたことがあったら教えてほしい。なにか記憶を呼び覚ますきっかけを得られるかもしれない」
「分かりました」
シミ一つない白い壁の病室の中で、睦美は窓からの斜陽をその小さな体に受けていた。横顔は千夏の頭部が移植される前に近づいていた。皮膚の手術をするとき、昔の写真を参考にして、出来るだけ元の睦美の顔に近づけた。
「睦美」
包帯を頭に巻いた睦美は、ようやく自分が呼ばれているのだと認知し、群青の方に振り向いた。
「……こんにちは?」
眉毛を八の字にして、困った顔で微笑んだ。その笑顔は群青の心を握り潰すには十分すぎた。しかし、群青はなんとか耐えて、挨拶を返した。
「オレのこと、覚えてるか……?」
「すみません……。なにも……思い出せないんです。自分がどこの誰で、あなたが私にとって、なんだったのかも……。すみません……」
睦美は降り出した小雨のように、ポツリポツリと言葉を紡いだ。
「あなたのことを教えていただいてもいいですか?」
群青はベッドの横に置かれていたパイプ椅子に腰を下ろした。
「……名前は樋口群青。会社員だ。そして、睦美の婚約者だ」
「え……」
「……って、急にそんなこと言われても信じられるわけがないよな」
負担をかけないように、群青は自分を誤魔化すように笑った。
「信じなくていい。自分の意思で信じたくなったときに、信じてくれればいい。もちろん、オレが信用ならない人間だと判断してくれてもいい。そのときオレは睦美の前から消えるから」
それを聞いた睦美は、一瞬瞳孔を大きく開き、静かに瞼を下ろした。その瞳から溢れた涙は、頬に一筋の線を描いた。体を群青に届くところまで近づけ、そっと優しく、感触を確かめるように群青の手を握った。
「……そんな寂しいこと、言わないでください」
指先の皮が異常に分厚い手が、急に離れてしまわないように繋いでいる。
「だって、あなたは急いで来てくれた。外はこんなに寒いのに、あなたは汗まみれになって、一番に私に会いにきてくれた。だから、そんな寂しいことを、言わないでください。
あなたが悲しい顔をすると、なせか私も悲しくなります……。きっと私はあなたのことが大好きだったのだと思います……。ごめんなさい。きっとあなたの方が辛いですよね……。ごめんなさい」
それから、群青は今までのことを順番に睦美に話した。睦美はただ、ずっと静かに頷いて聞いていた。このとき群青はいくつか隠し事をした。ギターを弾いていたこと。夢があったこと。その夢を捨てて身を粉にして朝から晩まで働いていること。治療費の全てを肩代わりして借金を背負っていること。面会時間が終了になったので、群青はまた来ると一言告げ、病院を後にした。睦美の記憶は戻らなかった。睦美は何度もありがとうとごめんなさいを繰り返していた。それしか言える言葉がなかったのだろう。
雪が降っている。この街に雪が積もっていく。地面にも、全ての建物の屋根にも、あの河川敷にもきっと、この白い雪は平等に今まで人間が作ってきた文化を何もなかったかのように白く染めていく。無に帰していく。
睦美の記憶も同じなのだろうか。今は雪にまみれて何も見えなくても、いつかは暖かい春がきて、雪を溶かし、その下で眠っていた花が咲くのだろうか。
生きている人間の白い息が、雪の代わりに天国に持っていかれているようだった。誰かのための祈りを、一緒に乗せた。天国なら奇跡も起こるがした。それをまた雪にして返してほしい。この小さな世界に奇跡を起こしてほしかった。




