老人
群青は夜の街を走った。千夏は、おそらく群青が住んでいるアパートに向かっていると教えてくれたが、待っていられるはずもなかった。どこにいるかも分からない睦美を自分から迎えに行きたかった。誰かを待つという選択肢は、もう許すことが出来なかった。待っていれば、いつかきっとという、全てを他人任せにしていた今までの自分を恨んだ。自分の手の届かない世界だとしても、誰かに任せていたら、なにも変えられない。
自分から動かなければ、何も得られない。何も救えない。何も護れない。
この踏み出す一歩が、睦美に近づいているのか、それとも遠ざかっているのかなんて、彼に分かるはずもなかった。それでも走ることを止めなかった。足に乳酸が溜まり、棒のように動かせなくなっても、それでも群青は走った。
汗だらけになりながら、呼吸が詰まりながら、足をもつれさせ、転んで、血まみれになっても、それでも走った。
この街の中にいるのか、それとも外か、海の向こう側の世界か。そんなことは分からないが、関係がなかった。
月明かりだけが照らす先の見えない世界は、どこまでも続いているように感じられた。走っても走っても、この世界の隅には辿り着けない。しかし、この世界のどこかに睦美がいることだけは知っている。
自分を待っている人がいる。
自分が会いたい人がいる。
それだけの理由で、群青の体は走り続けた。
とうとう月が見えなくなり、太陽が東の空から顔を出した。スズメの鳴き声がする。いつのまにか大きな川が見えた。河川敷に降りてみる。膝は上がらず、足はもう引きずるしか移動方法がなかった。
川の流れの中に朝日が溶け込む。並木の葉が揺らめき、川の水は煌めいている。橋の横の階段の麓には、地図が設置されていた。そこでようやく、いつもの河川敷からかなり上流の場所に今自分がいることを知る。
夜と朝の丁度真ん中。空がまた紅く染まる頃、遠く向こうで人影を見た。
不器用に一歩一歩踏み出し、体を引きずり、それでも進む人の姿を見た。
群青は最後の力を踏み絞り走った。見間違えるはずがなかった。どんな姿をしていても、群青には分かった。
心がその人の名前を、呼んでいたから。
「……ッ」
喉を震わせても声は出ない。体中の力は入らない。それでも強く強く抱きしめた。もう見失わないように。離れないように。
「……グン……サ……」
辛うじて人だと認識出来る姿をしている少女は、一言だけ呟いて、気を失った。群青は崩れ落ちる体を支えた。朝日に顔が照らされる。
皮膚は爛れ、穴という穴からは滑りのある膿と血が混じった液体が垂れ流されている。どれだけ拭っても止まらなかった。呼吸をしているのが不思議なくらいだった。
「睦美……おかえり……。帰ってきてくれてありがとう」
気を失った少女を、壊れてしまいそうな力で抱きしめた。
吹けば消えてしまう蝋燭のような鼓動が、小さく脈を打つ。それがどんどん小さくなっていくのを感じた。群青は急いでスマートフォンを取り出し、千夏から教えてもらった番号に電話をかけた。早朝なので出ない可能性の方が高かったが、今はこれにかけるしかなかった。呼出音が繰り返される度に、心臓の音が早くなっていく。
五回目の呼出音が終わるとき、電子音がなった。
「も、もしもし……」
「はい、お電話ありがとうございます。当病院の診察時間は、午前九時からとなっております。御用件のある方は発信音のあとに…………」
手が震えた。留守番電話に繋がってしまった。群青はただ立ち尽くして空を見上げた。雲一つない天気だということを今更知った。
雲の上にもなかった天国は、一体どこにあるのだろう。
飛行機の中での会話を思い出していた。おそらく、人間が簡単に辿り着けないところにあるのだろう。千夏は無事に辿り着くことが出来たのだろうか。
また自分は、大切な人を救うことが出来なかった。
睦美の頬をそっと撫でる。綺麗な顔をしていた。次第に呼吸が浅くなっていく。心臓の音が弱まっていく。生命が消えようとしている。自分の手の中から。
いつのまにか空の赤みは消え、青に染まっていた。こんな日でも世界は変わらずに朝を迎えるのだ。この世界から静かに消えてしまっても、誰かがそれに気づいてくれるのだろうか。
遠く向こうからランニングをしている老人がやってくる。新聞屋のバイクの音が聞こえる。鳩が集団で羽ばたいた。空をえがく。
「一ノ瀬睦美さんだね?」
声をかけたのは、白い髭で口元を隠した優しそうな老人だった。




