残念なことに
日が暮れても千夏は帰って来なかった。心配になった群青は家の周りを探したが、どこにもいなかった。そのまま足を伸ばし、河川敷のところまで来たが千夏どころか、人っ子一人いなかった。西の空はもう光も消えかけ、東の空は夜に覆われ始める。薄暗い空間だけが、川のそばにぽっかりと出現し、全てを飲み込むブラックホールのようだった。ここにいないことが分かると、さらに足を伸ばした。千夏の実家があった場所は、もう知らない誰かの家が建っていた。
空は完全に夜になった。昼間の明るさが嘘のように消えて、ただこの世界に太陽の残り香だけが風と共に運ばれてくる。
睦美と初めて出会った商店街に辿り着いた。あの日のような叫び声でも上がっていれば、見つけることは容易かっただろう。しかし、今日に限って商店街は静まり帰っていた。自動販売機の稼働音だけがよく聞こえ、シャッターは全て降ろされている。世界から人が消えてしまったと言われても、信じてしまえるほど、静寂は維持され続ける。
夜空に大きな月が昇るころ、群青のスマートフォンが鳴った。反射的に取り出し、発信者の名前すら確認せずにスライドする。千夏だと思った。
「千夏か……?」
しかし、あとから冷静になって考えれば、かけてくる相手など、一人しかいないことくらい容易に分かることだった。
「コーディネーターの田中です」
感情を感じさせない加工された合成音声が、群青の鼓膜を震わせた。相変わらず、通話状態はよくなかった。ノイズが混じり、遠くで大きな機械が稼働している音が聞こえる。それに隠れるように田中の加工された声が顔を出す。
一体なんだというのだろう。保護者失格の引導を渡されるのだろうかとおもったとき、田中はいつもの調子で言う。
「無事、契約終了です。お疲れ様でした。残りの契約金は全て指定の口座にお振込致します」
「……え、どういうことだよ?」
「現時刻をもって、一ノ瀬睦美様の保護者役は終了になります」
「いや、だって……。急にそんな……、睦美は今どこにいるんだよ?」
「我々が回収し、治療を施しましたが強い拒絶反応が出ました。もう手遅れです。彼女は自らの意思で施設を出て行きました。彼女から我々に関する情報は全て抹消してありますので、あとはご自由にどうぞ」
怒りも悲しみも感じさせない声で、機械のように田中が言う。まだ嘲笑してくれた方がいくらかマシだと、群青は思った。無の感情に対して、何を返せばいいのか分からない。こちらから何を発しても無意味のように感じた。
「今、睦美はどこにいるんだ?」
「我々はもう把握していません。発信機も取り外しておりますので。……ただ、これはあくまで私の個人的な予想なのですが、一ノ瀬睦美様は群青様のご自宅を目指して向かわれたと思います。ただ、先ほども申し上げましたが、睦美様のお身体は強い拒絶反応が出ています。そのため、殆どの皮膚の皮が火傷をしたように爛れ、記憶が混濁し、意識も朦朧としている状態です。おそらく運よく再会出来たとしても、お互いがお互いを認識出来ることはもうないでしょう」
「……今日はよく話すじゃないか」
「こうして話をするのも、今日で最後になりますから。私はこの仕事が終われば、用済みになって処分されてしまいます」
ノイズ混じりの合成音声から、初めて感情らしきものを感じ取ることが出来た。この声から初めて得た感情は、寂しさだった。
「この通話もいつ切られるか分かりません。幸い、私以外にも電話係は複数人存在しておりまして、常に会話の内容を監視されているというわけではありません。なので、まず先にこれだけ伝えさせてください。一ノ瀬睦美様ともし出会えたとしても、一般の病院では治療は出来ません。なので、信頼できる医者を一人ご紹介致します。電話番号は……」
群青は通話しながら、スマートフォンに電話番号を登録した。
「これで安心です。途中で通話が切れても群青様ならなんとか出来るでしょう。さて、では何から話しましょうか。訊きたいことはたくさんあると思いますが」
「……なんで、千夏の体を睦美に移植したんだ?」
「当財団は人体実験を行っています。お気付きだとは思いますが、倫理的に許されない実験を行い、そのデータを流しています。一ノ瀬睦美様は、御父様に人体実験用の人材として売られました。よくある話です。事業拡大の資金にされる方や、単純に邪魔だからという理由で売られた方もいらっしゃいます。それは私も例外ではありませんでした。ただ、私の場合は資金繰りで首が回らなくなり、家族全員身売りすることになりました。群青様もよく知っておられると思います。消息不明になった飛行機事件。あの飛行機の乗客全て、人体実験用に売られた人間だったのです」
「じゃあ……あんたも千夏と一緒のときに……」
「というよりも、私がその七海千夏なんですけどね……」
ノイズの中の合成音声が初めて笑った気がした。悲しみを誤魔化すように。しかし、やはりそこにはもう感情を表現する術は残されていないようだった。後ろの機械の稼働音がやけに耳障りに感じる。
「ち……なつ……?」
「はい、そうですよ。群青さん」
「生きてる……のか?」
「……残念ながらもう死んでます」




