素麺
次の日、目覚めると、千夏の姿は消えていた。睦美がいた朝と比べると、どこか肌寒く感じた。九月の朝は、気付かぬうちに暑さを隠そうとしている。柔らかい光が斜めに注いで、部屋の中を明るく照らしている。また一日が始まったことを思い知らされる。
ボサボサに乱れた髪の毛を洗面所で整える。歯を磨き、髭剃りを逆刃にして剃る。肌が切れてしまい、丸い血がぷっくりと溢れた。顔を洗ったあと、鏡に映る自分の顔を見た。自分を自分だと認識しているものはなんだろうと、群青は思った。顔も体も手も、この鏡に映っているものは自分の姿をしている。だからこれは自分なのだと認識出来る。では例えば今、顔だけが誰かと挿げ替えられてしまったら、鏡に映るのは樋口群青という人間ではなくなってしまうのだろうか。そんなことはないのだと分かっている。では顔だけでなく、四肢も臓器も挿げ替えられたとしたら、記憶も挿げ替えられたとしたら、樋口群青ではなくなってしまうのだろうか。群青の中では、答えは決まっている。全部が挿げ替えられても、変わりはしない。ただ理由は分からなかった。
鏡の中の自分をじっと見つめていると、ドアがノックされた。まだ半覚醒状態の体で玄関に向かった。床が軋む。ドアを開けると、隣の部屋のもみじが立っていた。
「あ、あはようございまっす。これ、また実家から送られてきたんすけど、よかったらどうぞ」
もみじは、また木箱に入った素麺を持ってきてくれた。
「もう季節外れなんすけど、賞味期限は大丈夫っすよ」
群青はお礼を言って受け取った。
「……よかったら昼飯一緒にどうだ?」
「あ、じゃあ、お言葉に甘えて」
換気扇は余計な音を立てながら、自分の職務を全うしている。ガスコンロからの青い炎が、鍋にたまった水道水に熱を与える。群青が調理をしている間、もみじは居間に座って待っていた。
「そういえば、睦美さん帰ってきたんですね」
「……」
群青はなんと答えればいいのか分からなかった。一瞬思考が固まり、持っていた菜箸が鍋の縁に当たり、乾いた音をたてる。
「昨日大学で呑み会があって、それで早朝の五時頃帰ってきたんすけど、そのときすれ違ったんす」
すれ違った。とすれば、顔も見たであろう。群青はもみじの言葉を待った。
「……あの人は、睦美さんっすよ。間違いなく。どういう事情があったかは分かんないっすけど、それでもあの人は睦美さんっす。私、これでも一応美大生なんで、人よりも観察眼には自信あるんす……」
もみじは千夏のことを知らない。
いつのまにか鍋のお湯は沸騰していて、まるで早く麺を入れろと催促しているようだった。
「なんで……分かったんだ……?」
「なんで……っすかねぇ。自分でもよく分からないんすけど……。私の心の中にある何かが、睦美さんだっていうんすよ。あはは、変っすよね。よく言われるっす」
「オレも……そうだよ……」
群青がそう答えると、鍋の中に素麺が投入された。沸騰している鍋の中で溺れる麺たちが、まだかまだかと助けを乞う。その様子を茹で上がるまでじっと黙って見つめていた。もみじもこれ以上は何も言わなかった。
素麺は相変わらず美味しくて、でもここにいるはずの人間が一人いないだけで寂しい味になった。なにか大切な調味料を入れ忘れたような、でもそれが何か分からないような、何かが抜けた味がした。




