むつみ
千夏は群青が落ち着くまで、背中を優しく撫でた。彼女にとって、この悲しみの正体は分からなかったが、群青が悲しんでいるということが、彼女にとって悲しいことだった。いつのまにか時計の針は午後二時を通り過ぎようとしていた。
古い扇風機がカタカタと音をたてている。首が折り返し地点に到達すると、ちょうど窓際に吊るされている風鈴の短冊が風を受け取り、内側の舌が当たって涼しげな音色を奏でた。九月になっても響き続ける風鈴は、生まれる季節を間違えた蝉のように儚い存在だった。
懐かしむように、群青の手入れがされていない長い髪の毛を撫でた。毛が太く、硬いので余計にごわついて見える。群青が泣くところを見たことがなかった千夏は、泣き止んでほしいという気持ちの中に、もう少しだけこのままにしてあげたいという気持ちも芽生えていた。
泣かない人間なんていない。泣かないのは泣くことを我慢しているからだ。だったら、今だけは素直に泣いてほしい。泣き疲れて眠るまで、泣いてほしいと千夏は思った。いつの間にか撫でることをやめ、背中を抱きしめていた。
「すまん……」
辛うじて出した台詞だった。そこからティッシュで顔を拭い、立ち上がり、洗面所で顔を濯いだ。鏡に映っている目は赤く腫れて、白い部分はなくなっていた。その間に千夏はやかんに水を汲みガスコンロに置いた。年季の入ったコンロはなかなか着火せず、三回目でようやくかかった。青い火が開花する話のように丸く燃えた。九月の扇風機と風鈴の音の中に、ガスの揺れる音が加わった。
温かいお茶を湯呑みにいれて群青に渡した。彼はそれを少しずつ飲んだ。温かいものが喉から通って体の臓器に染み渡っていくことを感じる。涙を出しすぎたせいだろうか。脱水症状のように意識がふらついた。
「すまん……」
群青はもう一度、同じ声で謝った。
「謝ることなんて、ないんですよ。だって、なにも悪いことをしてないのですから」
懐かしい声で千夏が微笑んだ。
二人は並んで壁にもたれて、窓の向こうを眺めている。外の世界は相変わらず強い光が空の高いところから降り注いでいる。ベランダの雑草が生い茂っているので、掃除をしなければならない。首元の汗が流れ落ちる。交わす言葉はなにもなかった。千夏は旅の疲れを癒すために、群青は現実を受け入れるために、なにもしない時間を過ごしていた。蝉の声は泣き止まない。九月の夏は、誰かの忘れ物のように、自分の存在理由を探しているようにみえた。この窓の向こうに、冬に舞い降りる白い雪を思い描いた。二度と同じ夏は来ないことを、二人はいつからか知っていた。千夏がようやく口を開いたのは、西の雲が橙色に染まり始めようとしたときだった。
「今日はもう帰りますね。旅行の荷物の整理もしなければいけません」
睦美は久しぶりに体を動かすように、ゆっくりと立ち上がり、旅行ケースを手にとって出て行った。群青はその間も動くことが出来なかった。部屋の中は電気をつけていなかったので、世界と合わせて暗くなる。カタカタと揺れる扇風機は、誰かに電源のスイッチを押してもらわないと休むことさえ出来ないらしい。
睦美は扇風機の前をよく独占していた。おかげで風がこっちまで届かなかったことを、群青はよく覚えている。今日はよく風が当たる。
街灯が灯る瞬間を見た。光はまだ弱かったが、頬を伝う涙は精一杯光を集めて、誰かに見つけてもらうために輝いてみせた。
顎で止まっていた涙が重力に負けた頃、玄関の扉がノックされた。
「むつ……み……?」
ちぐはぐな足の動きで、前のめりになりながらドアノブを掴んだ。開けるとそこには千夏が立っていた。さっき持って帰った旅行ケースも一緒に持っている。
「すみません……。今日だけ泊めてもらってもいいですか? どういうわけか家がなくなってて……」
千夏の家は自宅兼職場の医院を経営していた。飛行機失踪事件の数ヶ月後、建物は壊され、空き地になり、その数ヶ月後に別の家が建っていた。そのことを今まで忘れていた。しかし、それがやはり千夏が行方不明になっていたことが現実だという確固たる証拠になった。
「スマホもなくしちゃったみたいで……。家族とも連絡が取れないんですよね……」
千夏は状況が把握出来ていないようだった。落ち着いてはいるが、どこか不気味さを感じている。群青の表情を見て安心したのか、目が合うと彼女の肩の力が抜けた。
「今日だけじゃなくていい。ずっとここにいてくれ……」
「ありがとう……ございます……」
一瞬驚いたが、ゆっくりと彼女は微笑んだ。
群青が真実を語ることはなかった。なにも知らないふりをして日々を過ごすことに決めた。なぜか、全てを伝えることが出来なかった。




