名前を呼んでね
翌日の朝。
ホテルのフロントに気持ちの良い朝陽が差し込む。全てがきらめていた。そのフロントを通過し、食堂に二人はやってきた。清潔を保たれた室内に、数種類の料理が並んでいる。ピカピカに磨かれていたに違いないトングは、誰かが使用した後だったので、スクランブルエッグの欠片がついていた。
現時刻午前九時。昨晩はあのあとずっと、たわいもない話をしていた。いつ眠ってしまったのかは覚えていない。なので予定の時刻よりも起床が遅れてしまった。
バイキング形式だったが、気持ち程度しか料理は残っていなかった。他の宿泊客はとっくの昔に朝食を済ませ、出掛けてしまったのだろう。周りには老夫婦が一組残っているだけだった。彼らももう食後のコーヒーを飲んでいるようなので、ものの数分でこの食堂は自分たちだけしかいなくなってしまうだろう。
睦美がコーヒーだけ注いで、席についた。
「食べないのか?」
「うん、あんまり食欲ないんだ。あと眠いし」
口元を白い手で覆いながら、目に涙を浮かべて、大きな欠伸をした。それにつられて群青も大きな欠伸をした。真似しないでよ気持ち悪いわね……、と睦美は笑った。群青は彼女とは対称的に、皿に乗るだけ料理をとってきた。
スクランブルエッグ、トースト、ハム、ウィンナー、ポテトサラダ、ご飯、味噌汁、ヨーグルト、オレンジ、パイン、そして、うどん。
「どれだけ食べても料金が変わらないのなら、オレは限界まで食べるぞ」
「あ、そ……。自分の体と相談して食べなよ」
呆れた様子で、まだ湯気が揺らいでいるコーヒーを啜った。
このあと別れが来るなんてことが、嘘のように思えた。
「やっぱり私もせっかくだから、うどんくらい食べようかな」
「お前ほんとにうどん好きだな」
「うどんの国で生まれたんだから、最期の締めもうどんでいいと思うんだけど。でもまさか最期の晩餐がうどんになるなんて思いもしなかったな」
地元で作られたらしいうどんを、睦美は幸せそうに食べた。
「もしかして千夏さんもうどん好きだったのかなぁ。臓器が喜んでる気がするよ」
「どうだったかなぁ」
千夏はなんでも美味しそうに食べていたことを、群青は思い出していた。
ホテルの周りを時間まで散歩した。天候は曇りで、昨日の日差しが嘘みたいだった。しかし気温は高く、じっとりとした湿気が肌を包んだ。
なにも知らない道を歩いても、望んだものなど見つかるわけもなく。なにを望んでいるのかも分からないまま。駅前を歩くと、もう時間になった。なにも出来なかった。
表通りが見えるホテルのロビーで迎えを待っていると、時間丁度に例の黒塗りの車が停まった。中からダークスーツの男が出てきたので、二人も表に出た。
「じゃあ、行ってくるね。もう中を弄ることはないだろうから、今度はどこかな。もうほとんど私じゃないけど……また名前を呼んでくれたら嬉しい。私が私じゃなくなっても、名前を呼んでくれたら嬉しい。ありがとう」
車に乗り込む前、睦美に男が何か耳打ちをした。
「今度は一週間掛かるってさ」
睦美はまるで友達の車にでも乗り込むかのように笑顔をつくってさよならをした。睦美が作り笑いをするとき、本当は泣きたいのだということくらい、群青は気付いていた。




