ちゃんと殺してあげないと
フェリーに乗って香川県高松市に戻ってきた。たった一週間ほどの逃避行だった。この世界に逃げられる場所なんてないのだという現実が、無慈悲に突きつけられた。どこに逃げても結局、自分たちは元の場所に戻ってきてしまう。
睦美がインターネットで予約した宿に着く。フロントで諸々の手続きを済ませて、ようやく部屋に辿り着いた。
この旅で、最後の夜だった。一週間も知らない土地で過ごしたのに、時間は思っていた以上に早く過ぎてしまった。だから、二人はこの最後の旅が楽しかったのだと知ることが出来た。分かっていたつもりでも分かっていなかった。
部屋には二人用の大きなベッドが一つだけあった。
「ごめん。ツインで空いてる部屋なかったんだ。でも、別にいいよね。いつも一緒の布団で寝てたんだもん」
「あぁ、気にするな。先にシャワー入ってこいよ。オレはそのあと入るから」
「うん、ありがとう」
一週間分の疲労が溜まった体に最後の鞭を打って、ゆっくりと睦美はベッドから起き上がる。一式を持って、洗面所に向かった。群青はその間ずっと、部屋の天井を見上げるように、仰向きでベッドに寝転がっていた。
「ありがとう。お待たせ」
睦美が出てきたので、今度は群青が入った。その間に睦美は帰り支度を済ませる。口元に違和感を感じた。血の味がした。そこでようやく、鼻血が出ていることに気づいた。浴室からは、シャワーの音が響いている。
「最後まで保ちそうで……よかった。ありがとうね。……千夏さん」
睦美は自分の体を抱きしめた。腕も脚も、臓器がたっぷり詰め込まれている体も、全部強く抱きしめた。他人から見たら自分の体、でも自分からしたら他人の体を、ちゃんと大切に出来るように、大切にしていることを知ってもらえるように、出来るだけ強く抱きしめた。
「……ありがとう、ね」
口から発した声は、鼓膜を震わせ、脳を通り、心臓から全身に血となって伝えることが出来たのだろうか。それだけが少しだけ心配だった。
浴室の扉が開かれた。部屋の備え付けられていたガウンに身を包んだ群青が出てきた。
「今日はどこにも行かずに寝ようか」
「そうだね」
睦美は錠剤を飲んだ。これが最後の錠剤だった。鼻血はバレないように拭き取った。余計な心配をかけさせたくなかった。せめていつも通りの夜が来てほしかったから。
枕元のスイッチを操作して、部屋の電気を消した。沈黙が降ってくると、遠くで車の音がした。宿の前を歩く酔っ払いの笑い声がした。また少し静まって、衣摺れの音がした。呼吸の音もした。それらの姿を見なくても、何の音か分かるくらいには、長く生きてきたのだ。
暗闇の中で、手を伸ばした。目が慣れることはなかった。閉められた一枚のカーテンは、それはまるで海底までの光を遮断する、遠い遠い海のようだった。
二人は漂う。水の代わりに空気で溢れたこの世界を。
もがいてももがいても、運命に翻弄され続けるしかないこの世界を。
必死で、泳いだ。その先に、触れた手。出会えた命が、ようやく目の前にあった。
出会う前から出会いたかったと思えるくらい、運命を感じられる人間がいることを、二人は少なからず理解していた。その相手が目の前にいた。
海の底で、出会えた。
目に見えないから、目を閉じたときにだけ見つけることが出来た。
手が無意識に伸びる。指を不器用に掴んだ。指先の皮が厚い。自分とは違う他人の手。涙が出てきた。二人で流した涙は、気づかれないようにそっと、枕の中に隠れていく。
自分は今、どっちなのだろう。
そんなことが頭に浮かんだ。
群青さんを愛しているのは、どっちの意思なのだろう。
自分では、分からなかった。
ただ、この体は激しく脈を打つ。苦しそうに、生きている。
どちらにせよ、愛することが出来て、よかった。
深海で分かる答えは、たったそれだけ。
「群青さん、あのね。ごめん。性格悪いこと聞いても……いい?」
「うん?」
声が思っていたよりも近かった。
「千夏さんのことは……」
「あぁ、うん」
目が見えなくとも、どんな表情をしているのか分かった。それだけずっと一緒に、営んできたから。
「ちゃんと殺してあげないとな……。自分の中で、いつまでも生かしていたら、あいつも浮かばれないだろう……。
オレさ、本当にどうしたらいいのか分からなかったんだ。まさか自分の彼女が行方不明になるなんて、思ってもみなかったから。捜索も打ち切られたことも、世間から忘れ去られたことも知ってる。でも、オレだけは待っていてあげないとって思ってた。生きてる可能性が一パーセントでもあるなら、オレだけは待っているべきだと。
でも、もうその可能性もなくなった。
千夏はもう、……死んだんだ。
だから、前に進もうと思った。忘れてしまうのではなく、千夏のこと全部覚えながら、それでもちゃんと生きていこうと思った。オレを必要としてくれる人がまた現れてくれたから、だから前に進みたかった。一緒に」
おそらく、群青は泣きながら微笑んでいるのだろう、と睦美は思った。
しかしそれは、強がりでも気遣いでもなかった。
自然に溢れ出た群青の本心だった。
繋いでいた手を握りなおした。
「一緒に生きていこうね。何があっても、またここに二人で来ようね」
睦美は続けて言う。
「どこにもいかないから。約束。ちゃんと戻ってくるから」
群青が声を出せないことに気づいていた。
それを隠すように、睦美は何度も繰り返した。
「また絶対、生きて会おうね」




