恋の
「それにこのままいけば、なんかほとんど私の部分なくなっちゃうだろうしさ。最後は完全に千夏さんになるんじゃないの? 体も脳も全部交換されちゃったらさ、それこそもう私を私だと証明出来るものはなくなっちゃうもんね」
「逃げよう」
「え……?」
「睦美が睦美でいられる間に逃げよう。どこか遠くへ。誰もいない場所へ」
「無理だよ。私監視されてるって言ったじゃん。体の深いところにナノチップが埋め込まれちゃってて、この世界のどこにも逃げ場なんてないんだよ。だから、もう黙って、死ぬしかないんだよ」
「……じゃあ尚更だな。荷物まとめて今日中に出るぞ」
群青は荷物をまとめ出した。とはいってもこの家は必要最低限のものしか置いていないので、コロコロのついたトランクは隙間が空いた。睦美も自分用のトランクに荷物を詰め込む。
「必要なものってなに? 歯ブラシとかもいるよね?」
「歯ブラシなかったらお前虫歯になるだろ。持ってっとけ」
「急に保護者みたいなこと言わないでよね」
二人分のトランクに入れただけで、随分と部屋は寂しくなってしまった。急に他人行儀な顔をしたその部屋をあとにした。部屋の中は家具と食器と電化製品と、あと少しの本。
群青は命よりも大切なギターと全部埋まらなかったトランクを持って、長年住んでいたアパートをあとにした。
夜空には数百数万の星たちが輝いていた。それぞれ違う光り方をしているのに、その違いを分かってやれる余裕はなかった。さすがにハードケースで逃亡するのは少し苦しいので、ソフトケースに入れて背負っている。
「ねっ、これってさ。あれみたいだね。ドラマでよく見るやつ」
「ん? なんかあったっけ? あれかナンタラブレイクみたいなやつか。悪いけど見てないな」
「そんな刑務所から脱走する系じゃなくてさぁ。どのドラマかって言われたら名前出てこないけど、あれだ。恋の逃避行だ」
「なんかアイドルグループが歌ってそうだなそれ」
「まぁ恋の○○はよくあるよね」
行く当ても決めていない二人の逃避行は、夏の夜に馴染んでいく。逃げきれないことはよく分かっていた。それでもあそこでじっと、睦美が変わっていくことを見ているなんてことは群青には出来なかった。なんでもいい。ここにいるよりはなんでもない。
護りたかった。
「これじゃ保護者じゃなくてただの誘拐犯だな」
「しかも未成年のね。この前すごく可愛い服があったんだけど高かったから買わなかったんだよね。群青さん訴えてみようかな。いくらくらい入るかな」
「俺の価値はすごく可愛い服以下か」
「うそうそ。冗談だよ」
そんな意味のない会話をしていたら、いつのまにか駅についた。交通系ICカードを使い、ホームに入る。
「どこへ行くつもり?」
「なにも決めてない」
「じゃあ、四国に行きたい」
「まるで修学旅行だな」
「だって、もうすぐ死んじゃうかもしれないんだから、好きなとこ行きたい」
「……」
「ねぇ、いいでしょう?」
断れるはずがなかった。逃げ切れるはずがなかった。そんなことは分かっていたから、だから叶えてやりたかった。
「じゃここからだったら新幹線で目指さないとな。新幹線の終電って何時だっけ?」
「さぁ、分かんない。とりあえず向かいながら調べてみようよ」
二人は東京行きの電車に乗り込んだ。時刻は十時を回っていて、東京に着くのもギリギリといったところだ。おそらく本格的な移動は明日からになるだろう。
*
東京駅につくと、予想通り時間は間に合わなかったので、駅から徒歩数分のビジネスホテルに宿をとった。翌日、ホテルで朝食をとり二人は羽田空港へ向かった。
羽田空港は迷路のように入り組んでいて、人の行き来もとんでもなかったが、睦美が数回来たことがあったようで、初めて飛行機に乗る群青の心配は杞憂に終わった。
前日にチケットの予約も済ませていた睦美は、それを受け取った。搭乗時刻まではまだ時間があったので、二人は空港のレストランコーナーで軽食を食べる。
土産屋も時間潰しのために見たが、二人とも特に土産屋を渡す人もいなかったし、逃避行なのに土産屋を購入するっていうのもおかしな話だと思い、結局何も購入はしなかった。
飛行機に乗ることが初めてだったので、群青は全てのものに目を奪われていた。搭乗口へ続く廊下や、キャビンアテンダント、窓から見える滑走路の様子。
飛行機がいよいよ飛び立つときは、壊れてしまうのではないかなんて思った。窓の隅っこに映る飛行機の羽の一部はバタバタとめくれていて、大丈夫なのかと心配になった。もちろん仕様なので問題はない。
いつのまにか飛行機は地上から離れて、宙を飛んでいた。それがだんだん雲を突き抜け、あっという間に空の世界に辿り着いた。雲の隙間から見える東京はミニチュアのようで、自分たちがさっきまであそこにいたのだと思うと、遠いところまで来てしまったような気がした。なにもない空だった。
「天国ってどこにあるんだろうね。雲の上に来ても見当たらない」
睦美が窓に向かってポツリと呟いた。
「きっと人間が行けないずっと遠くの空にあるよ」
「そうだね。飛行機で行けちゃうところが天国だったら、みんなそっち行っちゃうもんね」
そういうと、彼女はまた空の向こう側を見た。何かを探すように。でもなにもない。雲と空と青と白だけの世界と、一緒の飛行機に乗っている客たちの雑談だけが聞こえていた。




