昔話
一ノ瀬睦美の父親は、大病院の経営者だった。
地元で一番大きな病院を経営しており、先祖代々から経営権を受け継いできた。睦美の父は自分の子供に男を欲しがった。一ノ瀬家は代々、血の繋がった息子にしか病院を継がせないという暗黙のルールが存在していたからだ。
しかし、一ノ瀬家の第一子は女の子だった。父はそれを知ると激しく怒り、一ノ瀬家の親戚も女を産んでしまう母を強く非難した。
一族の恥を産むわけにはいかないと、中絶の話まで持ち上がったが、母が「それだけは許してほしい、必ず次は男を産みます」と悲願した。中絶を免れて産まれた赤ん坊こそが睦美だった。
父は一度も睦美を抱かなかった。まるで、嫁がどこかで買ってきた縫いぐるみぐらいの認知で無視をしていた。父の中では、一ノ瀬家はまだ子なしの家庭という認識だった。それほど、睦美の存在が憎らしかった。睦美は産まれたときから、居場所がなく、まるで罪人かのように扱われた。
産まれたときから無罪の罪を背負わされていた。
自我を持っていない赤ん坊に対してもこの仕打ちなのだ。自分の意思を持ち始める頃には、もっと苛酷な運命を迎えてしまうだろう。産まれてこなければよかったと思うかも知れない。そのときに中絶する話が出ていたことを知れば「なんで反対されてたのに私を産んだの。産まれる前に殺してくれれば、こんな辛い思いをせずに済んだのに」と考えてしまうかも知れない、と母は睦美の人生を憂いた。
当然、命名の際も父は一切関わらなかった。なので母がつけた。
悲しい運命が約束されてしまっている女の子。
罪を背負って産まれてしまった女の子。
でも、あなたが産まれてきたことは罪ではない。罰でもない。
罪を背負っていない女の子。
とても綺麗な、裸のまま何も持たずに自分の元に産まれてきてくれた我が子。
『一ノ瀬睦美』
母はそう命名した。一ノ瀬家への当てつけのように。しかし、その意図がバレないように、睦美の名前にもう一つの意味を仕込んで。
罪の無い子。無罪の子。むつみ。
母はこのときの事を振り返るたびに、この意味を仕込んでしまったことを激しく後悔することになる。自分もいつのまにか一ノ瀬家の色に染まってしまったいたからだ。
こんな名前では、一ノ瀬家の呪縛からは死ぬまで抜けられない。
しかし、母は名前の本当の意味を睦美には教えなかった。
母は睦美を産んだ翌年には、第二子を出産した。男の子だった。
父は自身にとっての第一子を喜んだ。一年以上経っても、睦美の名前を呼んだことは一度もなかった。そもそも名前すら覚えていないのかも知れない。
その翌年に続けて第三子も出産した。第三子も男の子だった。
二年以上経ってようやく、父は睦美の存在を認知し始めた。
安心して余裕が出来たからだろう。
しかし、認知はしても扱いが変わるわけではなかった。
第二子の名前は『一ノ瀬茂幸』
第三子の名前は『一ノ瀬邦博』
どちらも父が勝手に名付けた。
*
父親の教育により、睦美は血の繋がった兄弟からも忌み嫌われるようになっていった。自分の居場所はこの家にはないのだということを、小学生になることには理解していた。父親とはこういう存在なのだと自己完結していたのに。周りのクラスメイトの話や、学校の授業で嫌でも現実を知ることになってしまっていた。
父親は二人の息子の教育費を惜しまず、名門幼稚園に通わせ、医学と経営学を学ぶ環境を固めていった。一方睦美には必要していくうえで最低限の出費しか出さなかった。外食するとき、睦美だけコンビニ弁当という日は少なくなかった。
母は初めこそ睦美を庇ってはいたものの、一ノ瀬家に逆らっても自分ではなにも出来ないことを悟っていた。他の家族がいないときだけ、母は睦美に優しく接した。それが愛情だったのかは誰にも分からない。
息子たちは理想的な育ち方をしていった。父や親戚たちは息子たちを自分の誇りのように感じていた。睦美の姿はもうそこにはなかった。
息子たちが中学に上がる頃には、睦美は非行に走っていた。髪の毛を金髪に染め、タバコも吸っていた。そういうことが好きな人たちとの付き合いも増え、喧嘩に明け暮れる日々が続いていた。ここが自分の居場所なんだと思った。
自分が生きていても許される場所なんだと思った。
*
睦美は夢を見ていた。
泣いている夢だ。
自分ではない自分が、泣いている夢だった。
誰かを殴り、酒を飲み、タバコを吸って、みんなから恐れられている自分を、俯瞰して見ている自分が泣いていた。
この自分は誰なのか分からなかった。掌を見ると、やけに小さい。
手首にはまだ傷がない。ネイルもしていない。
何も持っていなかったときの手だ。
そこでようやく気がついた。この自分は子供のころの自分だ。
子供の頃の自分が、今の自分を見て泣いているのだ。
涙は止まらない。泣いている理由が分からなかった。
夢の中に、群青と千夏が現れた。それも俯瞰の視点から見ている。
幸せそうな二人の姿を、一人で眺めていた。
ただ、それだけの夢を見た。




