旅立ちの日
二人の交際が始まった。
基本的に毎日することは決まっていて、日中は河川敷で演奏。日が暮れ始めるとスーパーに夕食の買い出しに行き、一人暮らしの群青の家で夕食を共に食べる。千夏の家は門限があり、午後八時には家に着いていないといけなかった。
群青は日雇いや、近所の人たちからの依頼で日銭を稼いで生活していた。生活は安定せず、金欠になることもしばしばあったが、千夏が実家で作ってくれたおかずを持ってきてくれることもあったので、なんとか日々を繋げていた。
元々物欲はあまりない二人だったので、この毎日が続いているだけで二人は幸せだった。
群青は来る日も来る日も唄を歌った。千夏も毎日欠かすことなく聴いていた。
*
「あいたたた」
千夏は何もないところでよく転んだ。簡単にいえばドジだった。
また、千夏は一度ギターを弾いてみたいと言い出したことがあった。群青は喜んで指導したが、彼女の指はなかなか弦をうまく押さえることが出来なかった。錆びきったロボットの音が聞こえてきそうなほど、ぎこちなく彼女の指は動いた。初めて触るならそんなものだろう、というレベルを超えるくらいに不器用だった。ものの十分ほどで千夏はギターを弾くことを止めた。そしてもう二度と弾くことはなかった。
その代わり、料理の腕だけは確かだった。特売品の材料を買ってくると、群青は貧乏料理だが、千夏はしっかりとした料理を作ることが出来た。
しかし、料理はうまくとも、それを運ぶときに落としてしまうことも多々あった。彼女はその度に涙目になった。料理を台無しにしてしまった悲しさと、自分の不甲斐なさが悔しかったのだ。
千夏はそういう女の子だった。
「いつもごめんなさい。……私、迷惑ばかりかけていますね……」
「そんなことないさ。お前がいつもドジばかりするから、オレはその度にお前を慰める口実が手にはいるんだ」
群青は千夏の頭を優しく撫でた。彼女はあまり納得していない表情であったが、群青はそれでもよかった。慰めることで千夏が笑顔になってくれるなら、彼はそれだけで幸せだった。
*
河川敷が橙色に染まるころ、二人は家路に着いていた。 手を繋いで、夕日を背に足元に伸びる影を見つめていた。雲が高いところで赤紫に染まり、一日の終わりに相応しい景色を演出していた。
「群青さん」
嬉しいのか自然と声が大きくなる。
「明日から家族で旅行に行ってきます」
「へえ、どこまで行くの?」
「ヨーロッパです」
「金持ちめ」
千夏は裕福な家庭の娘だった。親は厳しく、群青のようなその日暮らしをしているような人間と遊んでいると知られたら何を言われるか分からないので、二人は交際を秘密にしている。
「お土産何がいいですか?」
「なんでもいいや、無事に帰ってきてくれれば、それでいい」
「はい……ありがとうございます」
ふいに千夏が手を話した。群青が振り向くが、逆光で表情がよく見えない。
「唄が……」
「唄?」
「群青さんの唄が……いつも私を助けてくれています。今までも、これからも。
この世界には群青さんの唄を待っている人が、きっとたくさんいます。
だから、デビューするのを楽しみに待っていますね」
「じゃあ、千夏がファン第一号だな」
「私が……ですか?」
「嫌か?」
「……嬉しいです!」
千夏は嬉しそうに笑ってくれたと、群青は思った。
その日を最後に千夏は消えてしまった。
*
千夏が旅立った日、とある事件が世間を騒がせた。
成田国際空港から離陸したゴーイング三三三便が突如レーダーから姿を消した。乗員乗客合わせて二百二十人が乗っていた飛行機は、消息不明になって二週間が経っても機体の欠片一つすら発見されることはなかった。
連日ワイドショーでもこの話題が取り上げられた。インターネットの掲示板では様々な憶測が飛び交った。日本からは自衛隊の捜索チームが派遣されたが、一ヶ月経つころには、次第に世間の関心は薄れていった。
ゴーイング三三三便に搭乗していた日本人客のリストも公開された。彼らは消息不明の扱いになっている。生存の確率は絶望的に低く、亡き者として扱われた。
その中に七海千夏の名前があった。




