きみの手
意識が朦朧としている千夏を家に担ぎ込んだ。自分で体を拭いて着替えをする力はなんとか残っていたので、群青は洗濯済みのバスタオルと服を手渡した。熱いシャワーを浴びさせてたあと、布団をひいて寝かしつけた。
体温計で熱を測ると、38℃を超えていた。氷袋を額に当てて、風邪薬を飲ませた。十分ほど苦しそうに唸ったあと、ストンと気を失ったように千夏は眠りについた。
*
午後七時。太陽が沈み、夜が訪れるころ雨が上がった。湿った風が水滴を乗せた葉をふわりと撫でた。部屋の中は暗く、外の街灯からの光が柔らかく差し込むほどの視界だった。
隣で寝息が聞こえる。遠くで走るバイクのエンジン音がやけに非力に聞こえた。汗を吸い取った服が冷たくて、寝起きの体温を下げてくれる。頭の上には温水のビニール袋が乗せられていた。
ケホッ、と気が抜けた咳がもれた。頭が痛い。体が怠く、掛け布団でさえも重たく感じる。動かしたくない。千夏は天井を眺めた。ここがどこかは覚えていないけれど、隣の寝息の主が誰なのかはハッキリとは分からないけれど、この身が安全なのは直感で理解出来た。救ってもらったことは、なんとなく覚えている。
徐々に頭が回り始める。鼓動と合わせて頭に鈍痛が刻まれる。
腕を布団の外に逃がしてみる。柔らかいものに触れた。
それは男性の手だった。
男は気づかない。まだ気持ちよさそうに寝息を立てている。
「……」
その手を握ってみる。案外大きい。繋いでみても男は起きない。
群青はまだ目を覚まさない。
優しくて大きな手だった。指先だけ、皮が他の箇所と比べて何倍も硬くなっていた。その硬さが、今まで彼が音楽と向き合ってきた努力の証なのだろう。
千夏の耳は紅く染まっていた。風邪のせいだと何度も自分に言い聞かせた。
こんなことをされては迷惑だろう。彼には夢があるのだから、邪魔するわけにもいかない。私は彼の音楽が聴ければ、それだけで幸せなのだから、と千夏は思った。
「……」
指を絡ませてみた。もっと近くになれた気がした。自分の掌の皮の厚さが煩わしかった。いけないことだと分かっていたが、こんな機会が自分には二度と来ないのだということを千夏はよく理解していた。
ごめんなさい、と心の中で謝罪した。
幸せです、と心の中で礼を言った。
「……!」
絡んでいた指が、さらにギュッと絡んだことが分かった。いつの間にか寝息は治まっていた。
「……起きたか?」
「は、はい」
「体調はどうだ?」
「もう大丈夫です」
頭痛がまだ少しだけ残っていたが、それはなんとなく内緒にした。
「そっか、よかった」
暗闇の中でも、笑ってくれたことが分かった。声が柔らかかったからだ。
先程まで世界に降り注いでいたノイズがなくなったせいで、今度は逆に怖いくらいに静まりかえっている。息遣いが聞こえる。鼓動の音が体外に洩れてしまいそうだ。今更になって手汗に気付いてしまった。恥ずかしさを隠すように、もっとぎゅっと強く握りしめた。忘れないように。
これからどんなことがあっても忘れないように。
「群青さん……」
「ん……?」
誰かに聞かれてしまわないように、小さな声で話した。誰もいないのに。誰にも聞こえるわけなんてないのに。それでも二人の中で包んであげたかった。
「群青さん……好きです……」
「うん……」
そばにいれるだけで幸せだった。それ以上を望んでしまった。
頭からではなく、心からの言葉が口から溢れてしまった。
嘘じゃない。こっちが自分の本心だったのだと、伝えてから実感した。
「群青……さん……」
手を握り返された。自分の力よりも、ずっと強く。
「オレも……千夏のことが好きだ」
だから、同じ気持ちなのだと彼女にも分かった。
心臓の音が聞こえた。聞こえないふりをした。うるさすぎたから。相手の服が擦れる音。吐息。生きている音の全てを、今この瞬間の全てを受け入れたかった。
大きな手に体が引き寄せられる。汗で冷えた服が背中に当たり、少しだけ体温が下がった。それを補うように、相手の体温を必死に感じた。同時に自分の温もりも渡した。
群青は千夏を抱きしめた。静かな部屋で、真っ暗な部屋で、心臓と心臓を重ねて、生きている時間を合わせた。次第に鼓動が同じペースに落ち着いていく。
千夏は目を瞑った。そうしたいと思ったからだ。視覚以外の五感で相手を感じたかった。視覚で認識出来ることは、もうここにはなかったから。
「群青さん……いつもありがとう……」
「こちらこそ……」
小さな体の中に、大きな命を感じた。たった一つの小さな臓器の中に、全身を駆け巡る血と、それに乗って体を構築する希望が託されていた。




