歌ってください
八月の夏休みということもあって、千夏は毎日群青の元に通った。初めて出会ったあの日から一日も欠かすことなく、群青の唄を聴きに来た。そのうち来なくなるだろうと予想していた群青は正直驚きを隠せなかった。
肌が火傷しそうなほどの直射日光でも、彼女はお構いない様子で、淡い色のヒラヒラと揺らいでいるワンピースを着て河川敷にやってきた。
艶やかな黒い髪。この季節でも反射して眩しい白い肌。どこで購入するのか分からないような高そうな洋服。その洋服に似合うようなつば広帽子を被り、いつも品良くニコニコと微笑んでいた。まるで西洋絵画のモデルみたいだな、と群青は思った。
特に横顔がとても美しい造形をしていて、群青は気がつけば度々目を奪われていた。スッと通った鼻筋、控えめで血行の良い唇。透き通るような白さの肌。
千夏の存在は儚くて、夢のようで、今すぐに消えてしまってもおかしくないほどの透明度を保ちながら、群青だけでなく周囲の人間の目を奪うほどの圧倒的な存在感を放っていた。
そんな千夏がいつも群青の唄を目の前の特等席で嬉しそうに聴くものだから、自然と河川敷の常連たちも群青の存在を認知し初めていた。通り過ぎていくありとあらゆる老若男女が、一度はこちらに目を向けた。おそらく殆どの人間は千夏の美しさに嫌でも反応してしまった結果ではあるが、それでも視界の中に群青もセットで入っていた。
二人目の観客は本屋のおじいさんだった。ここから徒歩五分程のところにある何十年と続いている個人経営の書店の店主だ。この店主との関係は今でも続いている。
おじいさんは群青に向けて気持ちの良い拍手を送った。その姿を見た千夏は演奏者である群青本人よりも嬉しそうに微笑んだ。日を重ねるごとに拍手してもらえることが増えていった。
ある日、そのことを千夏のおかげだと群青が礼を言うと、
「群青さんが頑張った結果ですよ」
と千夏は恥ずかしそうに微笑んだ。
千夏は群青と話すときは、決まって恥ずかしそうにしていた。それにつられて群青も少し照れがうつってしまう。人前で歌うことはいくらでも出来るのに、千夏と話すことはどうもうまく出来なかった。
しかし、二人ともそれが嫌だったわけではなかった。
*
そんな日々が続いて、群青と千夏は二人でセットの風景になっていた。
*
ある日、大雨が降った。窓ガラスを突き破りそうなほど強い風が吹いた。重力を無視した横殴りの雨が世界を襲った。頼りない音をあげる窓の向こうには、歩いている人間なんて一人も見えなかった。まだいつもの時間にはなっていないが、このあとさらに荒れた天気になるとニュースキャスターが言っていた。
天国からバケツをひっくり返したような豪雨は、誰が見ても意味もなく外出するのは危険だと判断するほどのものだった。
「今日はさすがにあいつも来ないだろう」
誰かに言い訳をするように、この世界に向けて呟いた。群青は、今日行かないことに決めた。
河川敷に行かない理由が、千夏が来ないことだということに気付いて、自分の変化に驚いていた。千夏に会うまでは誰にも聴いてもらえなくても、誰にも頼んでもらえなくても、ただ必死に音を鳴らしていたのに。千夏に会ってからは、千夏がいない河川敷に意味を見出せなくなっていた。
時計の針が十時を指した。お互いに約束はしなくとも、いつも集合している時間だ。窓の外をぼんやりと眺める。視界の数メートル先は見えない。
ふと、心の奥がざわめいた。頭の中に、豪雨の中、いつもの場所で待っている千夏の姿を思い描いてしまった。土砂降りの雨に打たれて、今にも泣き出しそうな顔をした千夏があそこで自分を待っている気がした。
玄関の扉を開けると、雨が室内に侵入した。安物の傘をさしたが、気休めにもならなかった。一分も経たないうちに傘はひしゃげて、原型を失ってしまった。
滝のような雨の中、いつのも場所に向かって一歩一歩足を進めていく。まるで水中にいるかのように、息をすることが難しく、溺れてしまいそうになっていた。
どれくらい歩いただろう。体内時計が狂い始めた頃、ようやく視界の奥に橋を見つけた。河川敷のいつも賑わっているグラウンドにはやっぱり誰もいない。散歩コースにも、バーベキュー場にも誰もいなかった。
ただし、一人だけいつもと変わらずに立っていた。
いつもの場所で、いつもと同じように、変わらずに待っていた。
千夏が群青を待っていた。
「千夏」
群青が声を掛けると、虚ろな目をした千夏が安心した子供のように笑った。
「……群青さん。よかった。今日は来ないのかと思いました」
「待ってくれている奴がいるなら、オレはいつだって、どこでだって歌うぞ」
群青は千夏の小さな手をとって、橋の下まで誘導した。
その小さな手は熱く、小刻みに震えていた。肌が雨粒を弾いて、水滴が浮かんでいる。濡れた黒い髪がいつもよりも色気を増していた。
雨のせいだろうか。泣いているようにも見えた。
いつもの血行の良い唇が青紫に染まっていた。華奢な体はガクガクと震えて、目は虚ろだった。見兼ねた群青が彼女の額に手を当てた。
「お前風邪ひいてるじゃねぇか。今日はもう帰るぞ」
千夏はカチカチと歯音をたてながら、かぶりを振った。
袖を掴んで、捨てられた子犬のように消えそうな声で、
「……歌ってください」
と哀願した。
「歌え……っても、お前……」
「お願いします……。歌ってください……。群青さんの歌を聴いてると元気が出るんです……。頑張ろうって思えるんです……。だから……、聴かせてください……」
声が震えていた。震えていた理由は寒さでも体調不良のせいでもないということに気付いた。泣いているのに笑っている千夏をギュッと抱きしめた。
「……群青……さん?」
橋の下にいるのに、頬を伝う水滴は止まらなかった。
「歌うから……聴いてくれ……」
「……ありがとう、ございます」
群青はハードケースに入れてきたギターを取り出した。千夏は息を切らしながら今できる精一杯の拍手をした。雨の音に掻き消されて聞こえなかった。
*
ギターの弦の揺れが終わった。また地面に衝突した雨音たちが空間を占めていく。車が一台だけ、近くを通り過ぎた。まだ昼前なのに夜のように暗い世界だった。千夏はもう一度拍手をしたあと、その場に力なくへたり込んだ。
呼吸が荒い。声をかけても虚ろな返事しか返ってこない。群青は慌てて千夏を背負い混み、ギターケースを持った。
歩いて行ける距離に病院がなく、自宅で休ませたほうが大事にもならないだろうと思い、自宅まで連れて帰ることにした。
追いかけるように吹きつける暴風が、このときばかりは背中を押してくれた。へばりついた服の遠く向こう側で、僅かに鳴っている鼓動を感じていた。




