アイスバー
蝉の声が死んでいく。まだ陽射しの強い夏。でも少しずつ終わりに近づいていく。世界は秋を迎える準備を密かに始めていた。誰にもバレないように。眩しすぎる夏の光の下で、小さく動く。終わってしまったことを悲しまれないように。終わってしまったあと、もうそれは昔のことだと告げられるように。
安い木造アパートの狭い部屋の片隅で、扇風機がガタガタと軋みながら風を送っている。温度のある、夏の風だ。睦美の髪が空気に撫でられて、そよそよと揺れている。こめかみの汗が横に流れる。
「あ、つ、いー」
回る扇風機の羽に向かって声を震わせている。首筋から通り抜けていく風は、汗の温度を奪っていく。窓の向こうは真っ白に煌めいていて、まるでどこか遠くの星が超新星爆発でも起こしたのではないかと思うほど、目が痛んだ。
短めに切り揃えられた金髪が、美しく反射していた。冬になったら、きっと雪に溶けてより神秘的になるのだろう。群青はそんなことを思いながら、睦美のいる風景を眺めた。
睦美が扇風機の前を陣取っているせいで、群青まで風は届かなかった。駅前で配っていたプラスチックの団扇で頬を仰いだ。腕を動かしている分で、涼しさは相殺されてしまう気がしたが、扇がないわけにはいかなかった。
睦美はおもむろに立ち上がると、部屋の隅っこでブーンと低音を鳴らしている冷蔵庫に向かい、一番下の引き出しの冷凍庫からアイスを取り出した。
汗が顎から滴り落ちて、その道筋に痒みが生じた。足元に水の跡が出来た。
「あ、オレの分もアイスとって」
睦美は冷凍庫に入っている爽やかな色合いの箱に手を突っ込み、数秒漁った。しかし、出てきたアイスバーは一本だけだった。どこまでも澄んでいる青いソーダ色だった。その様子を見ていた群青は、睦美に音が聞こえるくらい大きく固唾を飲んだ。
「……もしかして、それが最後の一本なのか?」
睦美は振り返らず、ただこくりと頷いた。アイスバーが入っていた空箱を取り出し、小さく折り畳んでゴミ箱に捨てた。手に持っているアイスバーは夏の光をいっぱいに吸収してキラキラと雪のように光を乱反射させている。それはまるで、宝石のような輝きを纏っていた。
睦美は何も言わず、手に持っていたアイスバーの袋を開封した。そのまま一口かぶりつく。一瞬のことだった。群青にそのアイスバーが誰のものになるのかの有無も言わさず、固まっている群青を横目に、もう一口かぶりついた。
今度はシャリッと、涼しい音を響かせた。氷が削られる音だ。シャクシャクと咀嚼音がねっとりと汗ばんだ部屋に響いた。群青はようやく我にかえると、自分の分のアイスが足りていないことに気づいた。その間も睦美は食べ進める。
「ちょっと待て」
睦美はそれでも無視して食べ進める。心なしか、睦美の体温は少し下がったようにも見えた。あと二口ほどになったころ、群青が睦美の細くて折れてしまいそうな腕を掴んだ。
「……一口くれ」
「……アイスぐらいまた買ってきたらいいじゃん」
「いや、今欲しいんだ。この暑い中アイスなんて買いに行ったら、コンビニに辿り着く前に熱中症になって死んでしまうだろ」
「いや、大丈夫でしょ……」
睦美は呆れた顔でアイスを食べきった。アイスの木の棒は虚しく、宙を舞い、そのままゴミ箱に吸い込まれるように捨てられた。
「それに高校生の食べかけのアイス欲しいなんて、ちょっと変態ぽくてキモいから言わないほうがいいよ」
「お前には分からないさ……。このクソ暑い夏の日に、自分が食べたかったアイスを目の前で奪われる悲しみが……」
「奪われるって、そんな大袈裟な……」
睦美は大きくため息を吐いた。よく冷えたアイスが体の内側から熱を吸い取ってくれたので、いつのまにか汗は引いていた。睦美はもう一度群青に聞こえるようにわざとらしく大きなため息を吐いた。髪を掻きながら、ブランドものの財布を手にとる。
「……さっきと同じのでいいの?」
「まさか……買いに行ってくれるのか?」
「だって、このままだったら子供みたいに次のアイス買うときまで引きずられそうで嫌なのよ。……で、前のと同じでいいわけ?」
「あ……あぁ、でもそれならオレも行くよ」
「二人で行く意味ないでしょ。それだったらあたし行かないから」
睦美は群青の返事を待たずに、家を出て行った。開けた扉の向こうは、夏の景色が広がっていた。蒼い空がどこまでも遠くに伸びていた。睦美はその世界に消えていった。
扇風機がガタガタと鳴っている。ごみ捨て場で拾ってきたものだ。綺麗に洗えば、まだまだ現役で使えるものだった。目の前に座って陣取る者もいなくなったので、首振りに切り替える。音はさらに大きく歪んで、今にも首が取れそうだった。窓の外は風が吹いていない。降り注ぐ強い日差しは、この世界の全てを焦がしていく。
睦美はもう随分と歩けるようになっていた。転けることもなくなっていた。諦めずにリハビリを繰り返した結果だった。睦美には物事を最後までやりきる力と強い意志があった。だからやり遂げることが出来たのだろう。
思えば、睦美がいる世界が自分にとって当たり前の世界になった。睦美がいない世界は、今はもう想像することが出来ない。
ピリリリリ。
群青のスマートフォンに着信が入った。一人だけの部屋に嫌に大きく響いた。それはまるで、群青と睦美が離れたときを見計らっていたようにかかってきた。
画面には無機質な文字で『非通知』とだけ表示されている。電話口の向こうの人間の体温を感じられない冷たい文字だった。
三回目のコールが鳴り終わる前に、群青は通話に切り替えた。
前回と同じようにノイズが混じり、遠くで機械音がする。女性の機械音声でまた話しかけられる。
「お世話になっております。私、コーディネーターの田中でございます」
相変わらず表情が読めない口調で、淡々と挨拶をした。
「一ノ瀬睦美様の症状は如何でしょうか?」
「……元気にしてるよ」
「左様ですか。どこか動かしにくい箇所等はございませんか?」
動かしにくいところ……。腕や足のいわゆる四肢だ。しかしそれはもう治っている。睦美が努力して治したのだ。それをこんな簡単に問われることに群青は理屈ではない憤りを覚えた。
「あぁ、ないよ。おかげさまでな」
「分かりました。では引き続き、保護者の役割をよろしくお願い致します」
ブッ……。ツー……、ツー……。
群青の胸に悔しさが溢れた。なんの悔しさかはまだ言葉に出来なかった。ただ毒ガスのような、体によくないモヤモヤが、体中を侵食していっているのが分かった。脳までガスがまわったところで、その正体に気づいた。
睦美を物のように扱われていることが、耐えきれないほど苦しかった。睦美を、睦美として扱ってほしかった。自分よりも睦美のことを大切にしてほしいと、こんな電話しか寄越さない連中相手に思ってしまった。そんな叶わないことを願ってしまった自分が情けなくて、あまりにも情けなくてただやりきれなかった。そんなことで睦美は変わりはしないのに。
「ただいま」
冷静になり、丁度体に充満した毒素が抜け始めたころ、汗まみれになった睦美が、外の熱気を引き連れて帰ってきた。ビニール袋の中には、さっき食べたものと同じアイスバーの箱が入っていた。
「ほら、群青さんの分買ってきたから一緒に食べようよ」
何も知らない睦美は、気の抜けた微笑みをくれた。それだけでいいと思った。
「一日に何本もアイス食べたらお腹壊すぞ」
「でも、一緒に食べたほうが美味しいじゃん」
そう言って睦美は本日二本目のアイスバーをさっきよりも幸せな顔で食べた。




