一緒に大切にしてくれてありがとう
夏の強い日差しが照りつける中、四人は揃ってアパートまで帰ってきた。
帰宅中は誰も話さなかった。話すこともなかったし、何かを話しても解決することなど何一つないってことを全員が理解していたからだ。
地震が起きれば一番に崩れてしまいそうなアパートのドアを開ける。もみじの部屋だ。間取りは隣の群青の部屋と対照的になっていて、それ以外には大きな違いは見当たらない。
ドアを開けた瞬間、もみじの匂いがした。正確にいえばそれはシンナーの香りだ。部屋の中には大なり小なりのキャンパスが壁に立てかけられている。傍らに三つ折りに畳まれた布団があるので、ここで生活していることは間違いないのだが、これでは自宅で油絵に取り組んでいるというよりは、アトリエで寝泊まりしているといったところだった。
「すごい臭いだな……。早く換気してくれ……」
鏡堂が鼻を摘みながら、入るのを躊躇している。
それに引き換え、もみじはさも当たり前のように中に入り、ベランダに続く一番大きな窓を開けた。
夏の深い緑色をした風が部屋を吹き抜けていった。
「ちょっと散らかってるけど、どうぞっす。ご遠慮なく」
もみじに続いて、群青、睦美の順に入っていく。鏡堂は換気が完了してから入室した。
入ってすぐ右手の壁に立てかけられている、人の背くらいありそうな大きなキャンパスに描かれていたのは、ひまわり畑と一人の女性の絵だった。
群青と睦美は、油絵には疎いので壮大で綺麗な絵だな、程度の感想しか抱けなかった。鏡堂も油絵に対しての知識はこれっぽっちもなかった。それでもただ一人だけ、この絵を見て思わず固唾を飲んでしまった。
「この絵は……」
鏡堂だけが、この絵の意味を分かっているようだった。
「お父さん、私ね、こういう作品をつくりたい。見てくれた人の心にある大切な思い出を、もう一度大切にすることが出来るような作品をつくりたい。
そのために、もっともっと色んなことを勉強したいの」
もみじの言葉が鏡堂の耳に届いているのかは分からない。それでも鏡堂はもみじが描いた油絵のただ一点を黙ってずっと見つめていた。
蒼い空。白い雲が浮かんでいるひまわり畑の景色。その中に一人で立っている女性。
「最後の家族旅行で……行った場所……」
「そうだよ。私が小さいころのずっとずっと昔の記憶。お母さん……この旅行から帰ってすぐ、死んじゃったから……。お父さん……、覚えていてくれてたんだね……」
「忘れるわけ……ないだろう……」
「そだね……」
群青たちにはない記憶。父と娘だけの二人だけの記憶。
誰も知らない二人が忘れてしまったら、この世界から消えてしまうそんな脆く柔く、儚い記憶。風が吹けば消えてしまいそうな、終わりかけの蝋燭の火を、消さないように必死に紡いできた。二人にとって宝物の記憶。
「私ね……気づいていたの……。どれほどお父さんがお母さんのことを愛していたかってこと。だって私は、四年ぽっちの時間しか一緒にいれなかった。お父さんは私が生まれる前から、ずっと前から、お母さんを愛していたってこと、ちゃんと気付いていたよ。
ありがとう。私もお母さんのことが大好きだから。同じ人を好きでいてくれてありがとう。大切な人を一緒に大切にしてくれてありがとう。
本当は私が、男に生まれた方がよかったってことも薄々気づいてるよ。
それでも誰かと再婚しなかったのは、私のお母さんはこの世界でたった一人で、お父さんのお嫁さんもたった一人がよかったからなんだよね?
それが正しいか間違いかなんて分からないけど、ごめんなさい。
すごく嬉しかったよ。すごく嬉しいって思ってしまったんだ。
私たち二人だけのこの記憶は、なんだかお母さんが残してくれた形見みたいでさ。残したかったの。この世界にちゃんと、三人でいたんだよって。
私の、自分の手で残したくて描いた。
誰かの心に残りたい絵じゃなくていい。誰かの心を大切に出来る絵を描けるように、私はもっともっと絵を描いていきたいの。
私は、自分勝手かも知れないけれど、そういう人生を生きたい」
柔らかい風が吹き抜ける小さな部屋の大きな油絵の前で、もみじは子守唄のように、優しさだけで満ちている声で話した。説得というよりは、独白のようなものだった。
いつのまにか、鏡堂は目頭をおさえて肩を震わせていた。その様子を群青たちは何も言わずに見守る。
どれくらい経っただろう。蝉の声が何度目かの小休止を迎えたころ、鏡堂が口を開いた。
「……お前のやりたいことは分かった。頑張っていたこともようやく知ることが出来た。教えてくれてありがとう。
そうだな……。なんだかこの絵を見ていると、母さんの声が聴こえた気がした。もみじのことを、もっと知ってあげてって。たった二人だけの家族なんだからって……」
鏡堂は呼吸を整える。言葉を選んでいるようだ。
「ごめんな。今までちゃんとお前のこと、俺は見てあげていただろうか。自分の都合に合うように、思い込んでいただけかもしれない。
もみじはいつだって、こんなにも見てくれていたのに……。
ただ……、親としてお前が路頭に迷うところは見たくないんだ。いつの時代だって、絵だけで食べていくことは難しい。それは分かってくれるか?」
もみじはこくりと頷いた。
「だから、条件をつけよう。美大には通ってもいい。絵も描いてもいい。ただ、三十歳までだ。それまでに芽が出なかったら、うちの会社に入ってもらう。いいか?」
「……うん。三十歳までやってダメだったら、もうダメだよ。それでも遅いくらいだけど……。ありがとう……」
鏡堂は最大限の譲歩をした。もみじはこれで約十年間の間、創作活動に専念することが出来る。もしも、駄目だったとしても帰れる場所がある。
駄目だったとしても、きっとそれは無駄にはならない。
*
もみじは駅まで鏡堂を見送った。家族水入らずの、久しぶりの会話だった。駅が近づくにつれて、街には活気が溢れてくる。この暑さの元凶の太陽はすっかり姿を隠してはいるが、蒸し暑さだけは夜になっても残ったままだった。
「……お父さん、一つ訊いてもいい?」
「なんだ?」
「今まで私がどれだけ話しても聞く耳持ってくれなかったのに、どうして今日納得してくれたの?」
「それはだな……」
鏡堂は少し照れて、自身の頬を掻いた。
「もみじの絵を、もっと見たいって思ったんだ。……自分でもびっくりしているが、そうとしか言いようがない。破綻しててすまん」
「ううん、嬉しいよ。ありがとう」
もみじは大きく見開いた目を、三日月のようにして微笑んだ。
久しぶりに見た我が子の笑顔だった。
それが一番大切なことだったのだと、思い出したのだった。




