愛しているよ
結局、群青が鏡堂もみじの父である鏡堂誠治の説得をすることになった。説得する内容は『もみじが美大に通い続けることを了承してもらうこと』である。
日曜日の昼間。コーヒーの香りが漂うチェーン系の喫茶店で群青と鏡堂は待ち合わせすることになっている。本来なら二人だけで会うことになっていたのだが、もみじがどうしても気になるということで、睦美を誘った。
二人は簡単な変装をして、群青たちが来るのを店内で待った。
「睦美ちゃん、すんませんっす。こんなことに付き合わせたりしてしまって」
サングラスとマスクをつけ、さらに帽子を目深に被った不審者全開のもみじがペコリと頭を下げた。
「いいよ。あたしも暇だったし」
睦美もサングラスをかけ、パーカーのフードを目深に被っている。端から見たらかなり目立っているのだろうか。店長らしき人物がカウンターの向こう側からチラチラとこちらの様子を伺っているが、二人は気付いていない。
「うあっちち」
「そりゃまだ熱いよ。だからアイスにしとけばいいって言ったのに。なんでこのクソ熱い中でホット頼んでるのよ。バカね」
一回り大きいパーカーを羽織り、指の付け根まで袖が伸びている手で、くるくるとミルクとシロップをかき混ぜる。どっちが歳上なんだか分かりゃしない、と溜息を吐いた。そりゃこんなうっかり者の娘をもてば心配になるのも分からないでもなかった。ちなみに睦美の方が歳下だが、初対面のときに敬語は堅苦しいから使わないでほしいと、もみじの方から頼んできたのだ。どっちにしろ、睦美の性格から目上の人にも敬語を使うかは怪しいところではあるが。
アイスコーヒーの中の四角い氷が、清涼感のある音を立ててカップの中を回っている。クルクルクルクル、睦美はその白い指先で回していた。
手持ち無沙汰だったのだ。もみじは喉が渇いていて早く飲みたいのか、まだ火傷してしまうほど熱いホットコーヒーを無理やり口の中に運ぼうとしている。
――――カラン。
何度目かの氷の音が鳴ったとき、入り口の自動ドアが開いた。
「……来たよ」
入り口にいる二人には聞こえるはずもないのだが、一応小声で話す。群青は普段の服装とは違い、可能な限りの小綺麗な格好をしていた。
「……そっすね」
意外にももみじは表情一つ変えず、ホットコーヒーを口に運んだ。もう熱さは飲める程度には柔らいでいた。
群青たちが席に座った。睦美たちは自分たちのトレーを持って席を移動する。群青たちが座った席に対して間に薄い磨りガラスがある席を選んだ。ここなら立ち上がりでもしない限り、群青たちにバレることはないだろう。聴力に集中すれば声が二人の会話が聞こえてくる。睦美たちは黙って聴き入った。
「樋口群青さん……だったね。ここに来ると娘に会えると君が言っていたから来たのはいいが、娘の姿はないようだね」
二人の胸が大きく鳴った。サングラス越しに睦美はもみじの顔を見た。もみじはかぶりを振っている。「そんな約束は群青さんとはしていない」というアイコンタクトが飛んでくる。
ということは、群青が口から出まかせを言ってもみじの父親をここまで連れてきたのだ。
どうするつもりなのだろう。いつまでたってももみじが現れる予定はないというのに。その間も群青は話を進めていく。
「実は……、娘さんから鏡堂さんに伝えてほしいと頼まれたことがございまして」
「伝えてほしいこと……ですか?」
もみじはまたかぶりを振る。そんなことを言った覚えはない……と。
出まかせにも程がある。しかし、群青は堂々と、それがまるで真実のように語る。この場にいる三人が、群青の言葉に集中していた。
「はい、心配かけてごめんなさい。愛しているよ……と」
――――ブッ!
磨りガラスの向こう側にいた二人は口に含んでいた飲み物を勢いよく噴き出した。盛大にむせてしまったが、なんとか向こう側の二人には気づかれなかった。
トレーの上にある紙ナプキンで汚してしまった箇所を拭った。話はどんどん進んでいく。
「娘が……そんなふうに思ってくれていたなんて……」
鏡堂が熱くなった目頭を、ポケットから取り出したハンカチでおさえた。
「はい、ですから娘さんの意思を尊重してあげてくれませんか?」
「……」
目頭をおさえて数秒が経った。群青の問いに対して、鏡堂はゆっくりと沈黙に時間を使ったのち、はっきりと、
「それは出来ません」
と告げた。
「……そりゃあ、そーっすよね」
立て肘に顎を乗せて、もみじは小さく溜息を吐いた。
分かっていたことだった。今更父親の意思が覆ることはない。
「娘には私の会社を継いでもらいます。百年以上私の先祖が継いできたものを、私の代で途絶えさせるわけにはいきません。血の繋がりもないような人間に、会社を渡すなどの愚行、許されるわけもありません。そのためには娘にはいい大学に入り、経営の勉強をしてもらわないと困ります」
「……」
もみじは、何度も聞いてきたであろうその話を静かに聞いて、ぬるくなったコーヒーを飲んだ。
「……だって、私はそれだけのために産まれてきたんだもんね」
*
「……話になりませんな。百歩譲って経営の勉強とは関係のない学部に入ったとしても、有名大学でないと箔がつかない。会社に入ったところで誰も娘のいうことなど聞かないでしょう。娘には、周りの人間を黙らせるだけの社会的地位を築く義務があるのです。そして私たちの会社に役員候補として入り、いずれは社員全員を引っ張っていく必要がある。
私の会社には、二代以上に渡って働いてくれている社員もいる。私たちは、そういった社員一人一人の生活を保障していかなければいけません。そのためには娘自身の価値を高めていく必要がある。
今までこの会社のおかげで、ここで働く社員たちのおかげで、私たちの一族は明日食べるご飯の心配もせず、生活することが出来ました。
その会社のために生きることは、鏡堂家に産まれてきた者の宿命なのです。
それが私たちの責任です。生かせていただいた分、自分の人生をかけて返していかなければいけません。
絵を一枚上手に描ければ、全社員の生活を保障するこが出来ますか?
絵を一枚描けたところで、稼げる金はよくて自分一人の生活を支える程度でしょう。
そんな自分だけが好きなことをして生きていければいいなんて、あまりにも身勝手すぎるとは思いませんか?
樋口群青さん。私の言っていることはそんなに間違っていますか?」
「……」
群青は何も答えず、カプチーノを一口飲んだ。長い長い沈黙があった。
睦美ともみじは磨りガラスの向こう側で、固唾を飲んで見守っている。
群青がゆっくりと重たい口を開く。いつも軽口ばかり発しているのと同じ口には見えないほど、ゆっくりと開いた。
「間違ってもいないし、正解でもないです。そんなことは誰にも分かりませんよ」
睦美ともみじは顔を見合わせた。空気が強張るのがこちら側にも伝わってきた。
「もみじさんの人生は貴方が決めることじゃない。もちろん、会社のためにあるわけでもありません。もみじさんの人生はもみじさんのものです。楽しく生きるのも、辛い目にあるのも全部もみじさんが決めることです。それはいくら貴方が親でも決める権利はありませんよ」
「……人の家庭に口を挟まないでいただきたい。もういいです。もみじを呼んで下さい。直接私が躾けます」
「……鏡堂さん。娘さんの絵を一度でもちゃんと見たことはありますか?」
「……そんなもの、見る必要はないでしょう?」
「いいえ、一度見るべきです。出来れば、娘さんと一緒に」
群青はスマホを操作し、そのまま耳に当てた。
磨りガラスの向こう側に座っているもみじのスマートフォンが音を発した。
「わっ、わっ、マナーにしとくの忘れてたっす」
声がしたので立ち上がると、すぐそばに睦美ともみじが変な格好で座っていた。
「なんだ。こんなところにいたのか。ちょうどよかった。今からお前の部屋に行くぞ」
群青以外の三人は固まってしまったが、群青だけひょうひょうといつもの感じでそう言った。




