もみじ
ドンドンドン!
早朝にドアが叩かれる音がして、睦美と群青は飛び起きた。
「は……、え? な、なにごと?」
よく聴いてみると叩かれているのは群青の部屋のドアではなかった。隣の部屋のドアが叩かれているようだ。
「なんだなんだこんな朝早くから。最近の借金取りは早起きだなオイ」
「ちょっと群青さん止めてきてよ。朝からうるさいし」
「うーん、まぁそうだな。ちょっと見てくるか」
群青は寝癖で爆発している頭のまま、玄関のつっかけを履いて玄関の扉を開けた。ドアを叩かれていたのは、思った通り隣の部屋だった。
ドアを叩いているのは中年の男性だった。高そうなスーツをキッチリと着こなしていて、高級腕時計が袖元からチラリと見えている。群青の姿を見て我に戻ったのか、ドアを叩くのを止めて「朝から騒がしくしてしまい申し訳ございません」と平謝りした。
隣人は近所の美大に通っている女子大生だ。
「実は私、ここに住んでいる鏡堂もみじの父、鏡堂誠治と申します」
こういうものです。とでもいいたげに名刺を一枚群青に差し出した。
「高校を卒業と同時に家出をしてしまいまして、一年半探してようやく居場所を突き止めまして……。すみません。少し取り乱していました」
鏡堂は群青の全身を一瞥した。無理もない。こんな平日の昼間から無造作に伸びた髪に寝癖をつけながらヨレヨレのティーシャツ姿で急に出て来られたら普通は値踏みしてしまう。
この男は大丈夫なのか……? と。
「あー、たぶん。もみじさん今居ませんよ。水曜日は早朝から学校行っていますし。帰ってくるのも遅くなるか、もしかすると夜勤のアルバイト先にそのまま直行すると思いますよ。お気持ちは分かりますが日を改めた方がいいかと思います。この暑い中待っていて熱中症になったら大変ですし」
「そう……ですか。分かりました。ありがとうございます……。また日を改めようと思います。もしよろしければ私が来たことを伝えてもらってもよろしいですか? 心配してるって……」
「分かりました。もし会えましたら伝えておきます」
「あと、もみじは元気でしたか……?」
「……ええ、心配しなくても大丈夫なくらい元気ですよ」
「それなら……よかった」
鏡堂は踵を返しアパートを去っていった。
*
「…………」
「行ったぞ」
鏡堂の姿が見えなくなったころ、群青が呟いた。隣人のドアがゆっくりと開かれる。
「すみませんっす。助かりました」
そこにいたのは眼鏡をかけた女子大生。鏡堂もみじ。いつも真っ黒なティーシャツを着ている。ズボンはジャージ。制作作業で汚れてもいいためだろう。
「お前が早朝から活動してるなんて絶対ないわな」
「ははっ……、さすがっすね。よく分かっていらっしゃる」
肩にかかるくらいに伸びた黒髪をポリポリと掻いた。もみじは困ったときはいつも頭を掻く癖があった。大きく欠伸をしたあと、眼鏡の下の眠気まなこを擦る。
「お前、家出してきたのか?」
「家出って言われると、うーんっすね。一人暮らしを内緒で始めたって感じっす。親の反対を押し切って近所の美大に入学したんす。結局最後まで親は反対してたんすけど、説得しきれなかったので親に行き先を告げずに出てきました」
「ほとんど家出じゃねぇか」
「言われてみれば、そっすね」
もみじは眉毛を八の字にして困ったように小さく笑った。
「……このアパートは家出娘が集まる不思議な力でもあんのか」
「あー……、そういえば群青さんちにも家出娘ちゃんいるっすね。白い金髪の綺麗な子。さすがに犯罪っすよ。睦美ちゃん未成年っすよね?」
「仕事で預かってんだよ」
「それっていわゆる危ない仕事ってやつっすよね。映画とかで便利屋が巻き込まれるお約束のやつじゃないっすか。大丈夫なんすか?」
まともか、まともじゃないかでいうと、絶対にまともではないだろう。
知らない間に勝手に契約させられる上に、途中で破棄すれば違約金で報酬額の三倍回収されてしまう。警察に行こうにも、逆に未成年者誘拐などで捕まってしまうかも知れない。なにより、保護しているだけなのに報酬額が高すぎる。
この世界にうまい話などあるわけがないのに、まんまと乗せられている状況である。
だからといって、群青が三倍の違約金を支払ったところで(実際には払う金はないので契約を継続するしかない)睦美は違う家に引き取られてしまう可能性がある。例えば、次の保護者が睦美に乱暴をするような男である可能性だって十分ある。それならまだ安全な自分の家で保護しておいたほうがいいだろう。という考えも群青の中にはあった。
いつのまにか群青にとって睦美は大切な存在になっていた。ただ、それだけのことだった。
*
いつの間にか睦美も家の前に出てきた。タバコを咥えている。
「とりあえず、もう一回親と話したほうがいいんじゃない? あのタイプの人は毎日くるよ」
言い終わると、ブルーベリーの甘ったるい香りが混じる煙を長く吐いた。
「話したところでうちの親、絶対納得しないっすよ。高校一年のときからずっと説得してたんすけど、無理でしたもん。だから高校生の間にアルバイトしてお金貯めたっす」
「どうしてそこまでするの……?」
「好きなことするのに、理由なんていらないじゃないっすか。理由が必要なのは嫌いなことをするときだけっす」
睦美は遠く向こうに伸びている入道雲を見つめていった。
「私は、私の好きなことをして自分の人生を歩んでいきたいんす。一回だけの後戻り出来ないこの人生。私は誰かに気を使って浪費してしまいたくないだけです」
睦美はタバコの火を見つめながら、
「……つよいね」
と伏し目勝ちににそう言った。
「まっ、とにかくだ。これから毎日朝からドアをドンドンされちゃこっちもたまらねぇから、頼むぜ」
もみじの肩をぽんと叩き、家に戻ろうとしたそのとき手首を掴まれた。
嫌な予感がした。なんとなく長年の勘で分かる。そして次に出てくる言葉も。
「便利屋さん。お仕事お願いします」
「い・や・だ!」
と、言えればどれだけいいだろう。もちろん、いかに便利屋といえどんな仕事でも請け負わないといけないわけではないのだが、このくらいの仕事を断っていては食べていけない。群青は心底面倒くさそうな顔をして「分かった」と了承した。
「いやった! 大好きっす! 群青さん!」
「愛はいいから金をくれ」
抱きつこうと飛び込んできたもみじを、踊るような軽いステップでかわした。
「お前なぁ。こういうこと金で済ましてたら禄な大人になれないぞ」
「大丈夫っす。そんな誰かが描いた理想の大人像になってあげる気なんて微塵もありませんから」
「……これだから芸術系の奴は苦手なんだ。何考えてんのか分からん……」
「群青さんも似たようなもんでしょ」
二人の芸術系変人の会話を聞いて睦美は呆れて溜息を吐いた。タバコは灰色に変わっていた。




