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へん



 睦美はリハビリを始めた。

 不思議なもので、自殺願望を持っているにも関わらず、生きていくためにやらなければやらないことは、きちんとやるのだ。矛盾していることだと分かっているが、やはり死ぬことが怖いのだろうな、と睦美は思う。

 生きることも死ぬこともまともに出来なくて、まるでこれじゃ死にながら生きているリビングデッドと同じようだった。

 なんとなくでも毎日は過ぎていくし、なにもしなくても生きてしまう。



 群青は隣で必死に作詞をしている。コピー用紙に鉛筆でガリガリと描いては消しての繰り返しだ。ただでさえ暑苦しいこの部屋は、群青のボサボサに伸びきった髪の毛のせいで余計に暑く感じる。

 睦美は相変わらず、すぐに転ぶし物も落とした。だからこそリハビリを続けた。このリハビリが終われば、もっともっといい絵が描ける。そんな気がしていたから。それはただの都合の良い希望に過ぎないけれど、今の睦美にはこの虚像の希望こそが生きていくのに必要なものだった。

 バンッ! と群青が机を叩いた。



「よし! 完成したぞ。さっそくライブ会場に向かおう」

 群青がライブ会場と呼んでいるのはいつもの河川敷のことだ。睦美は黙っていつもの絵描きセットの準備をした。

 いくら保護者の仕事を請け負って収入が今だけ安定しているとはいえ、よく来る日も来る日も新曲を引っさげてギターを弾けるよなぁ。心が折れたりしないのかな。自分の才能の限界を知ることはないのだろうか。本当に音楽で食べていく人たちは、もうこんなところにはいないんじゃないだろうか。音楽業界のことはよく知らないから分からないけれど、群青の歳だったらそろそろ考えないといけないんじゃないだろうか。

 夢を諦めることを、考えないといけないんじゃないだろうか。



「あの……さ、ちょっと失礼な質問になっちゃうかも知れないんだけど、訊いてもいい?」

「ん? なんだ?」

 直射日光を跳ね返すアスファルトの上で、汗だくの群青は振り返った。

 睦美は足がまだ上手く動かせないので、ゆっくりゆっくりと近づいてくる。そんなに近づかなくても声は届くというのに。

 控えめな声で睦美は訊ねる。

「いつまでこんな生活を続けるの……?」



 睦美は一瞬、しまったといったような顔をした。言葉をもっと選ぶべきだったと後悔した。恐る恐る群青の顔を見上げる。

 群青はそんな睦美の心情も知らずに一言。

「オレが死ぬまで」

 不敵な笑みを浮かべて、そう言った。




 *




 いつもの河川敷のいつもの場所に行くと、小学生くらいの女の子がいた。肩に掛かる長さの髪を二つくくりしている。目は大きく猫のようで、活発そうな女の子だった。画板に画用紙を挟んで、絵の具を使って描いているので、夏休みの宿題をしているのだろう。



 群青は気にせずギターのチューニングをしている。睦美は女の子の絵が気になり、そっと後ろに回り込んだ。河川敷で描いているのだから当然といえば当然なのだが、川の絵を描いていた。

 思った通りに描けないのか女の子は首をかしげながら不機嫌そうに描いている。余りにも上手く描けないものだから、女の子は背伸びをした。そのとき、睦美と目があった。



「あっ、絵が上手いいつも変な人といる変なお姉ちゃんだ」

 そんな風に思われていたのか……、と睦美は軽くショックを受けた。

「変な人じゃないよ」

「変だよ。だって、あんな変な人と毎日一緒にいるんだもん。そのこと自体が変だよ」

 歌っている群青を見ると、なるほどたしかに、群青の周りには誰もいない。というよりも意図的にみんな距離をとっているようにも見える。

 毎日昼間の河川敷で、浮浪者のような格好でギターを弾いていたら変な人だと思われても仕方がないか。そういえば自分が小さいときにも近所で変な行動をとっている人がいるっていう話はよくあったし、見かけても近づかないようにしていた。ああいう人と一緒にずっといたら、その事実だけで十分変な人になる……。理屈では分かるが、納得出来ない。みんな、その人のことをなにも知らないのに表面だけ見て全部分かったように判断する。



 でもこの社会じゃそれが正解。危ない人や知らない人には出来るだけ近づかないほうがいい。何かあってからでは遅い。自分の身は自分で護れるように。

 みんな、自分は事件なんかに巻き込まれないって思って生きているから。だから数ヶ月先の予定だって、平気でたてたりするんだろう。



「お姉ちゃんっていつも絵描いてるよね。教えてほしいな」

「えっ、でも……あたし教えたことないし……」

「今日から始めればいいよ。私、生徒第一号ね。私、柿木伊織っていうの。先生の名前はなんていうの?」

 伊織は混じり気のない無垢な笑顔で訪ねた。



「あたしの名前は一ノ瀬睦美っていうの」

「じゃあ、睦美先生だね。私のことは伊織って呼んでね。じゃあ先生、さっそくですけど川の色が上手く濡れません。どうすればいいですか?」



 睦美は伊織の勢いに圧される形になった。

 こんな歳が離れている子と話したこともなかった。

 それにあたしは……。

「今は……うまく描けないよ」



 伊織がキョトンとした顔をした。

「描くのは私だから、別にお姉ちゃんが描けても描けなくても関係ないよ。ほら、早く教えて。睦美せんせー」

 睦美は服の袖を掴まれて逃げられなかった。いや、逃げようと思えばいくらでも逃げられたはずだった。

 もともと睦美は人と接することが苦手だった。教えるなんて論外である。

 しかし、伸ばされた手を振りほどくことはしなかった。

 その手が温かかったからだ。体温が届いたわけではない。言葉でもない。

 繋がったその手が自分を求めてくれたから。だから温かかったのだ。

 求めることをしなかったから、求められなくてもいいと思っていた。

 睦美は伊織の目を見つめた。猫の目のようだった。小さくため息を吐いた。



「……わかったわよ。ちょっとだけね」

「やったぁ」

 伊織は両手をあげて喜んだ。伊織の笑った顔は眩しくて、羨ましかった。

 そんな風に周りを気にせずに笑ったことなんて、もう何年もなかったから。

 二人は絵の制作に取り掛かった。相変わらず睦美は手先が震えていたが、口で教えるだけだったので幾らか気が楽だった。伊織は意外と器用で、睦美の教えたことをどんどん修得していった。

 白い画用紙に色が塗られていく。そして三十分ほど過ぎたころ。



「おおー! 完成したぁ!」

 伊織が画板ごと持ち上げて、絵を掲げた。

「うん、上手く描けたね。伊織ちゃん上手」

「睦美せんせーのおかげだよ。どうもありがとぉ」

「え? あたしは隣で口を出しただけだよ?」

「ううん、これは睦美せんせーと私の絵だよ。二人だから描けたの」



 伊織は愛しいものを見る目で絵と睦美を見つめた。

 この絵は確かに二人だけの絵になった。同じ場所で同じ構図を違う人物が描いても、決してこの絵は生まれない。二人だから、この絵が描けたのか。



「そうだね。この絵はあたしたち二人の絵だね」

「むひひ」

 二人の気持ちが込もったから出来た絵。その絵は、今まで睦美が描いてきたどんな絵よりも技術はないけれど、輝いて見えた。宝物に見えた。

 教えていたつもりが、いつの間にか教えられていたんだ。

 こんなにも簡単で、こんなにも大切なことを。



「おーすげぇ。上手に描けてるなぁ」

 いつのまにか群青が後ろに立っていた。

「わっ、変なおじさんだ」

「変なおじさんじゃない。群青って名前のアーティストだ」

「ふーん。あの空の色みたいな名前。やっぱり変な人だぁ」



 睦美はそのやりとりが微笑ましくて、クスクスと笑った。

 今、世界とちゃんと繋がっている気がして、心が温かかくなった。






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