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ダメになりそう



 カーテンから漏れる明かりに照らされて、睦美は目を覚ました。

 群青は相変わらずいびきをかいてよく寝ている。



 そういえば昨日はこの人の前で泣いてしまったんだな。どうにかしてなかったことにならないかな、なんてことを睦美は考えていた。

 泣いていたことを冷やかしたりはしないだろうけれど、それでもどこか気恥ずかしさが残ってしまう。ちゃんと一定の距離感を持って接したい。明確な理由はないけれど、自分の直感がそう告げている。



 ダメになりそうな気がした。

 今まで我慢してきたことが、全部無駄になりそうで怖かった。

 無駄になることは、無駄にはならないということは知っている。

 それでも、今までの自分の人生を否定するにはとても大きな勇気が必要になる。



 寝癖でボサボサになった髪を手櫛ですいた。肩に違和感がある。

 肩どころか、指も満足に動かせそうにない。力の入り方が昨日からおかしい。

 まるで胴体と腕の接続を間違えられたロボットのようにぎこちなかった。



「……うーん」

 悩みながら腕を組むことすら一苦労だ。どっちの腕を上にして組んでいたのか、それすらも忘れてしまったようだった。まるで新品の腕のようだった。

 肩をグルグルと回してはみるが、こんな単純な動きでもストレスがたまるほどの違和感があった。しばらく考えてはみたものの、医学の知識がないので考えても仕方がないという結論になった。



 とりあえず朝ごはんの支度をしよう、と睦美は思った。

 布団を払いのけ、起き上がろうとする。しかし、足も腕と同様に上手く動かなかった。足元の布団に顔面から突っ込んでしまう。

 細心の注意を払い、ゆっくりゆっくり立ち上がった。足が上手く動かないので引きずる形で室内を移動する。このときばかりは部屋が狭くてよかったとおもった。

 カーテンを開け、太陽の光を迎え入れる。複数の元気な小学生の声と、ボールを地面につく音が聞こえた。これから遊びに行くのだろう。



 朝の一本を吸うために窓の鍵を開ける。それだけのことに三分かかってしまった。タバコを吸う動作など身にしみているはずなのに、火をつけるまでに結局十分程かかってしまう。ライターを上手く扱えなかったことが原因だ。



 尻餅をつくようにベランダのすのこに座り、ようやく一服出来た。

 手足が上手く動かないだけで、吸って吐く動作は今まで通りに出来た。

 体に異常があるというより、手足がおかしくなってしまった。

 睦美はまるで他人の体の診断でもするかのように冷静に自己分析をした。

 これからの生活全てが難儀なものになる予感がした。



 ベランダから戻ってくると群青が起きていた。

 朝ご飯は納豆と白御飯である。白御飯は一度に一気に炊いて、それを茶碗一杯分にラップで巻いて冷凍保存したものである。

 レンジで温めて、よくかき混ぜた納豆を乗っけて完成だ。ここまでは問題なかったが、お箸を持つのが難しかった。



「やっぱり箸使うの難しそうだな」

「うん、まぁ、ね」

 あまり心配をかけたくないので睦美は曖昧な返事をしたが、うまく箸で掴めないので表情は段々と焦りの色に染まっていく。

 群青は黙って立ち上がると、スプーンを持ってきて睦美に渡した。



「納豆をスプーンで食べる人なんて聞いたことないんだけど」

「でも、食べられないよりマシだろ?」

「うん、まぁ、ね」



 群青の言う通り、箸で食べるよりも何倍も楽だった。睦美は幼少期を思い出していた。ほとんど残っていない記憶の断片。昔使っていたキャラクターが描かれた小さなスプーンとフォークのセット。

 あれはどこにいったのだろう。気がつくと見かけなくなっていた。母が棄てたのだろうか。

 洗い物をするとき、睦美は長袖を捲った。夏の水道水はぬるい。冷たくて手がかじかむよりはマシだが、なんだか気持ち悪い。



「あ……」

 睦美は自分の腕を見て、思わず呟いてしまった。

「どうした?」

「なんでもない」

 睦美は咄嗟に袖を元に戻した。群青に見つかると面倒なことになりそうな気がしたからだ。

 一定の距離感は維持していたい。

 そのためには、出来るだけ心配をかけさせたくない。




 *




「よし、じゃあ今日もギターを弾きに行ってくる」

「仕事探したほうがいいんじゃないの……?」

「仕事を得るためにギターを弾くんだよ……」



 群青は睦美の保護者となり一定の収入を得てはいるが、こんな怪しい仕事で一生食べていけるわけがない。これからもギターを続けていくために、こんな不安定な状態からさっさと脱出したほうがいいという意味で伝えたのだが、睦美の忠告はイマイチ群青には伝わっていなかった。

 面倒を見てもらっている身で他人の生活にケチをつけることに負い目を感じているので、これ以上はしつこく言わなかった。



 家にいても暇なので、いつもの絵描きセットを持って睦美も群青についていくことにした。

 河川敷へ行く途中、足をうまく動かせない睦美は何度も転んでしまった。そのたびに作り笑いをして立ち上がった。心配されたくなかった。

 心配されてしまうと、惨めな気持ちになってしまいそうで怖かった。

 何度も転び、膝を擦りむいて血を流している睦美に群青は手を差しのべたが「触らないでよ。変態」と一蹴されてしまった。

 少し言い方がキツかったかな……、とショックを受けている群青を見て反省した。




 *




 河川敷は今日もたくさんの人たちで賑わっていた。サッカーをしている小学生。ウォーキングをしている老人。バーベキューをしている家族もいた。

 そんな光景の中に異物が紛れ込む。それもこの河川敷ではいつものことだ。

 誰も聴いていないのに群青は一人でギターを掻き鳴らしている。睦美はそばの木陰で絵を描いている。その光景もすっかり馴染んでいて、睦美は子供たちから『変な人といつも一緒にいる変な人』という印象を持たれてしまっている。



 いつもなら群青の唄の片隅で、睦美の色鉛筆が迷いのない軽快な音を鳴らしていた。しかし、今日はその音はなかった。

 睦美が真っ青な顔で固まっている。群青がそのことに気付いて声をかけた。

「絵……描けなくなったのか?」

「うん……、絵だったらずっと描いてきたから大丈夫だろうって思ったんだけどな……」

 睦美が金色の髪をくしゃっとした。

「どう……しよう……。あたしが得意なことって……これくらいだったのに……描けなくなったら……あたし……、なにもなくなっちゃうよ……」



 色鉛筆を持っている手は震えていた。キャンパスにはいつもの綺麗な線はなく、波打っている迷い線で埋め尽くされていた。



「あっ……」

 色鉛筆が手からこぼれた。地面にぶつかって円を描くように半回転して、そこからコロコロと転がっていく。群青はそれを拾い、見つめる。



「上手じゃなくなってもいいんじゃねぇか。描くの好きなんだろ?」

「でも……こんなんじゃ描いたうちに入らないよ」

「それでもオレより上手い」



 睦美は以前、群青が遊びで描いた絵を思い出していた。たしかに、それよりかは上手い。

「気持ちなんだよ。大切なのはさ。心がこもっていれば、それは輝く。輝くことができれば、きっと誰かが見つけてくれる。きっと誰かがそれを宝物だと言ってくれる」

「…………」

 拾った色鉛筆を睦美に渡す。



「だからこそ、オレは睦美の絵を見つけることが出来た。お前の描きたいって気持ちが、オレを引き寄せてくれた。上手いとか下手とか、どうでもいいんだよ。

 それに、このスランプを乗り越えれば、きっともっとすごい絵を描ける。乗り越えた奴にしか作れないものがきっとあるから」

 新しい希望……、のような気がした。

 歩いてきた道が行き止まりになってしまったからって、辞めることはないんだ。第一の道がなくなってしまったら、第二の道を歩けばいいのだから。



「群青さん……ありがとう……」

「こう見えてオレも似たような経験あるからな。ま、生きてる限り作ることは許されるんだ。気長に描こうぜ」



 ポン、と優しく背中を叩いた。睦美の色鉛筆を持つ手はまだ震えていたが、さっきまでとは違う震えになっていた。



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