動かない
家に帰ると深夜三時を回っていた。
ようやく安堵すると、二人は揃って大きなため息を吐いた。その瞬間スマートフォンから音が鳴った。こんな時間に電話をかけてくる迷惑なバカは一人しかいない。案の定、画面には大きく『非通知』とだけ表示されている。コーディネーターの田中だ。そもそも田中という名前が本名なのかすら疑わしい。
不安そうに睦美は群青の顔を見た。どうせほっといても鳴り止まないので、渋々電話に出る。
「明日の正午、一ノ瀬睦美様をお迎えに参ります。そちらで待機していてください。もしいない場合は契約違反となり、違約金を支払っていただき、契約の解除となります。違約金はお支払いする予定の金額の三倍の額となっておりますのでくれぐれもご注意下さい」
ブッ。ツー……、ツー……。
相変わらず一方的に通話は切れた。
おそらく隣で通話内容は把握していただろうが、念のため同じ内容を伝える。
「明日の正午、ここにいろってよ。どうする?」
「別にいいんじゃない? 殺されやしないでしょ。それに契約違反になったら色々困るじゃん」
「こんなめちゃくちゃな請求なんて無視しとけばいいけどな」
「そうじゃなくて……あたしの泊まる場所がなくなっちゃうじゃないってこと」
つい、と顔をそらして、照れを隠すように睦美がそう言った。
*
約束の時間になり、迎えの車が来た。黒の車体にスモークが張ってある。中からダークスーツの屈強な男が出てきた。身長はおそらく百九十センチは超えているだろう。逆らうつもりなど毛頭ないが、逆らっても無意味だろうな。と二人は思った。
ダークスーツの男は一言「今日中に帰宅する予定です」睦美を車の中に誘導して、流れるようにこの場から遠ざかっていった。強面の顔をした男だったが、声色は優しかった。相手を安心させる話し方を心得ているのだろう。どこか、その男の本当の声ではないような気がした。
今日は群青も別件の仕事が入っていたので、そちらに向かった。こうして群青は日銭を稼いで暮らしている。たまに家賃が足りない月もあるが、そこはなんとか大家と交渉して凌いでいた。
*
仕事が終わって帰ってきても、睦美の姿はなかった。もし、前回のように睦美が保護者の目の届かないところで危険なことをしていたら何らかの連絡が来るはずなので、まだコーディネーター田中の元にいるのだろう。
今日は仕事先からイワシをもらったので、群青はイワシの煮込み料理を作った。生姜をたっぷり摩り下ろしたものを使うのが彼の拘りである。蓋をして煮込みおわったのと同時に、玄関の扉があいた。ほぼ同時に車のエンジン音が遠ざかっていった。
帰ってきた睦美の顔は真っ青になっていた。そしてそのまま玄関に倒れこんだ。ゴンッ。と鈍い音が響いた。驚いた群青は慌てて睦美の元に駆け寄り、体を支えた。睦美は群青を一瞥すると、ヘラリと笑って、
「ごめんなさい……」
と、そう言った。
「なに謝ってんだよ。ご飯が出来たから食うぞ」
「えー……、群青さんの作ったご飯かぁ……。心配だなぁ……」
睦美は言葉尻を切ったあと、ポロポロと大粒の涙を流した。しゃくりをあげて、縋り付くように群青の胸の中で泣いた。群青はそんな彼女に何も言わず、そっと、ぎゅっと、強く抱きしめた。
睦美は肩を震わし、群青の服を強く掴んだ。嗚咽が漏れる。服は涙でぐしゃぐしゃに濡れていく。もっと濡らせ、とでもいうように彼が抱きしめる力は強くなった。
「……群青さん、ごめんね。もう大丈夫」
ひとしきり泣いた彼女は、ティッシュで顔を拭うと、いつもの下手くそな作り笑いをくれた。それが自分を安心させるためだけのものだと群青は気付いていた。
「さ、ご飯食べようよ。群青さんのご飯久しぶりだなぁ」
「あ……、あぁ。今日はイワシの煮込みだ。仕事先のおっさんからイワシもらえてな」
「イワシかぁ……。骨が多いね」
「わがまま言うんならなしだぞ」
本気でなしにするつもりはなかった。ただ、この場の空気を和やかなものにしたかったのだ。少しでも睦美には笑ってほしかった。その理由は分からない。でもその大きな理由の中の小さな部分に、自分が安心したいからだということに、群青は気付いていた。気付いていたが、気付かないふりをして、バカなふりをして、笑った。笑わないといけない気がした。弱い自分を晒してしまうのが怖かった。
鍋からイワシの煮物を崩さないように丁寧に皿に盛り付けた。醤油と生姜の良い香りがした。その間に睦美は炊飯器から白ご飯をよそい、箸を用意する。普段は折りたたまれている机に向かい合う形で着座する。
「いただきます」
二人が手を合わせて、声を重ねて合掌をした。イワシの身は箸で押すと柔らかくほぐれ、中から染み込んだ出汁が滲み出している。ここのところはずっと睦美にご飯を担当してもらっていたが、なんとか食べられる出来になっていたので群青はほっとした。
対する睦美は箸が止まってしまっていた。
「そ……、そんなにまずかったかよ……?」
睦美の震えた手を見て、ようやく気がついた。
止まっているのではない。動かないのだ。
「お前……。どうしたんだよ……。箸を動かせないのか?」
「えへへ」
隠し笑いをした。
「……えへへ」
彼女は次に続く言葉を見つけられなかった。
群青は、睦美のイワシをほぐし、箸でつまんで口まで運んでやった。思わずパクリと食いついてしまった。睦美はなんだか、この行為が恥ずかしくなって、顔を紅潮させてしまった。うつむいて、イワシを咀嚼する。耳まで赤い。
「……恥ずかしいんだけど」
「いいから黙ってくえ。これなら食べられるだろ?」
コクリと小さくうなづいた。初めてあったときの威勢はどこかへ置いてきてしまったようだった。それから一口、一口、ゆっくり、ゆっくり食べた。相変わらず睦美は箸を動かせなかった。
「しょっぱいなぁ」
「それはお前のだけだ」
二人だけの夜は静かに更けていく。




