サファイアの誘惑 1
私には昔から友達がいない。ついでに言うと、今現在の私は社交界からはほぼ遮断されている。22歳にもなって、私は友達が、非常に、少ない。社交性はほぼゼロに近い。
「はあ…」
再来週の舞踏会の招待状を見て私はまた溜息を吐き出した。王都は春真っ盛り。美しいチューリップがそこらじゅうで花を咲かせ、ひらひらと蝶が舞い踊り、暖かな陽光が庭先を照らす。なのに。私は外の明るさに相応しくない重い溜息を吐き出す。
招待状には、ローエンの名前しかない。同伴の許可もない。王城からの正式な誘いであるはずなのに。女王陛下は私の存在をもちろん知っているはずなのに。
多分、女王陛下は私のことが嫌いなのだ。なんたって私は元々隣国の姫。5年前に併合されたとはいえ、やはり元は敵国。ついでに結婚するまでに大騒ぎを起こしてしまったから、女王陛下には迷惑もかけている。ローエンと結婚してから5年が経つけれど、高々5年くらい大人しくしていたからといって、女王陛下は許してくれないらしい。
「…はあ………」
いいなあ、舞踏会。私は姫の頃から踊るのは大好きだったし、綺麗なドレスも大好き。定期的にマリア様からドレスを買ってはいるけれど、それは全て普段着かちょっとした余所行き用だから、煌びやかなパーティ用のドレスは持っていない。着るチャンスもないのに欲しいというのは酷い我儘だから控えているけれど、…正直言うとやっぱり着たいし、欲しい。眩しいほどのシャンデリアの光の中で踊りたいし、たまには同年代の女性とも話したい。
ローエン宛の招待状を、未練が残らないように裏返しにしてローエンの机に置いた。自分の部屋に帰って、侍女のエリザと一緒に新しいハンカチの刺繍をしていると、ローエンが帰ってくる音がした。私は直ぐに出迎えて、階段から降りた勢いそのままでローエンに飛びついた。
「ローエン!お帰りなさい!」
「…ただいま、リビー。寂しかった?」
「寂しかったわ!とってもよ!」
ローエンの肩に頬擦りする。ローエンの匂いがする。私は安心して、嬉しくって、そのままぎゅうっとローエンの身体を抱き締めた。ローエンも私の力に負けないくらい強く抱き締めかえす。
こほん。
エリザの咳払いで、ローエンは溜息を吐きながら私を手放した。私も仕方なく離れ、手を繋ぐ。ローエンはぎゅっと握り返してきた。
「リビー様。ちゃんと旦那様に言わないといけませんよ」
「ああ、そうだったわね」
エリザは私に手紙を渡し、私はそれをローエンに渡した。宛先には私の名前が載っているが、送り主の名前はない。手紙には、美しいダリアの花びらが同封されていた。とってもオシャレだ。ローエンはダリアを見てすぐに送り主に気が付いた。
「…マリア嬢からの手紙?」
「そう!マリア様が、今度の注文は出張じゃなくて引き取りに来たらどうかって」
「……まあ、いいでしょう。…行っておいで」
ローエンはたっぷり考え込んでから許可を出した。いつもならマリア様が私の屋敷に似合いそうなドレスを沢山持ってきてくれて、それを試着して欲しいものをいくつか選んで、マリア様が持ち帰り、サイズを調整して送ってくれる。手紙にはいつもより沢山見せたいから、と書いてあった。マリア様のお屋敷は1つの大きなクローゼットだから、私が欲しいものは山のようにある。女子なら目を輝かせないわけにはいかないほどの宝の山。マリア様が同じ服を着ているのを一度だって見たことがないし、いつだって今まで見てきた誰よりもお洒落で綺麗だから、私には憧れの存在だ。
「…僕が迎えに行くから」
「本当?」
「…僕も頼んでいる服があるから、取りに行くよ」
舞踏会用、か。私は表情が暗くならないように気をつけた。私が行けない、そもそも誘われてすらない舞踏会にローエンが行く。私はローエンの妻なのに。ローエンは代わりに誰かをエスコートする。それが、耐えられない。聞きたくない。
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マリア様の屋敷はマリア様の親しい友人達で埋まっていた。どうやらマリア様は忙しいらしい。私1人にかまけていられないようだった。マリア様は現役のローズであるミッシェル様をアシスタントに、集まった友人達にドレスをあれこれ渡している。
「リビー様はこっちよ」
赤茶色の髪をしたミッシェルというローズは、マリア様とはまた違った、気さくな人だった。マリア様よりずっと高慢な態度を取るが、何故か話しやすい人だ。
ミッシェル様に連れられて部屋に入る。私好みのドレスがみっちり詰まった部屋だった。ミッシェル様はどれでも好きなのを選んでね、と笑って部屋から出て行く。侍女のエリザの手伝いで、私は気に入ったドレスを試着し、部屋に控えているお針子にサイズを測ってもらった。いくつかサイズ直しを頼んで、私は着替え直す。靴などの小物類もいくつか見繕って屋敷に届けてもらう手配を済ませる。
「リビー様、ごめんなさいね。あんまりにも忙しいものですから」
「お気になさらず。呼んでいただけて嬉しいのです」
私が部屋から出ると、ようやく出てきたマリア様は眉を下げて謝った。マリア様が忙しい人なのはよく知っているから別に気にもならない。それよりもマリア様のお屋敷に来れる方が、嬉しい。
「今からお茶会をするので、もしよかったらリビー様も参加してくださらない?」
「私で良いのですか?」
「勿論!」
エリザを振り返ると、エリザは小さく頷いた。出ても良いようだ。私は首をぶんぶん縦に振って出たい意思を伝えた。マリア様はたおやかに笑った。
マリア様に連れられてサロンに入る。サロンには既に何人かの同年代の女性が座っていた。先ほど会ったミッシェル様も既に着席している。私はマリア様の隣に腰掛けた。ミッシェル様の隣にはワインのボトルが置いてあり、ミッシェル様は既にグラス数杯分を飲んでいるらしい。完全に出来上がっていた。
「私の周りにはロクな男がいない!」
ミッシェル様は向かいの女性に愚痴っていた。向かいの気弱そうな女性は困ったように眉を下げている。
「貴女のお兄様を紹介してよ、ルース様。もう貴女のお兄様しかいないのよ、私に釣り合う将来有望な若者は!」
「そう申されましても」
「そうじゃなきゃ私、あとは不倫の道に走るしかないわ!不倫よ!2番目よ!」
「それはあまり良くありませんね」
向かいの女性の顔は引き攣ったまま、マリア様に助けを求めるように視線を合わせに来た。マリア様はこっそり私に耳打ちする。
「彼女はルース・サン・マドック侯爵令嬢。昔私が婚約していたサミュエル・サン・マドックの妹です」
「サミュエル様の?」
「あら、サミュエルはご存知ですのね。ローエン様と仲がよろしいものね」
「ええ、何度か我が家へ来ていましたわ」
サミュエル様はたまにワイン片手に遊びに来ている、美青年だ。ローエンも邪魔だの何だの言いながら楽しく2人で飲んでいる。どうやら気があうようだし、ついでに領の運営も協力し合っているようだ。
それにしても、サミュエル様とルース様は全然似てない。金髪碧眼で自信に満ちていて、鼻筋のすっきり通ったサミュエル様。妹のルース様は、黒髪に大きな灰色の目をした、内気そうでどこか垢抜け切らないような、そんな感じ。何度見ても似ていない。
「ミッシェル、サミュエルはもう売約済みです」
「ええっ…そんなの聞いてない…!」
「もっと視野を広げて探しなさい。将来有望な未婚男性はもっと他にいます」
「未婚ではないけれど、他に狙うとしたらカドガン伯爵かしら」
「ミッシェル」
「カドガン伯爵って、あの?」
ビクッと私が動いたのをマリア様は察した。マリア様はミッシェル様の話を遮ろうとしたが、別の女性がミッシェル様の話を聞きたそうにした。
「そうよ。だって公の場に絶対に妻を連れてこないのだもの。絶対に不仲よ。奥様のことを愛していないんだわ。離婚間近よ!だったら私が後釜を狙っても、構わないわよね」
「確かにカドガン伯爵なら間違いないわね。陛下もカドガン伯爵がお気に入りだし、領の経営も上手いし、何よりハンサムだわ」
女性はうっとりと宙を見つめた。ミッシェル様は力強く肯定する。
「そうよ!結婚して5年になるのに、子供もいないわ。カドガン家には絶対に後継が必要だもの。決めたわ、私、カドガン伯爵を狙う。絶対に妻になるわ!」
「ミッシェル!」
マリア様が声を上げた。私が真っ青になるのを見ていられなかったらしい。私はマリア様のドレスのスカートを掴んで、止めた。私は知られたくなかった。
私こそが、ローエン・カドガン伯爵の惨めな妻だと。
「…はしたない事を言うのはおよしなさい」
「はあい、お姉様」
マリア様は静かにミッシェル様を窘めた。ミッシェル様は唇を尖らせたが、諦めたようには見えなかった。
「でもマリアお姉様はカドガン伯爵を良くご存知でしょう?もう5年の付き合いですし、社交界ではパートナーもなさるわ。今度の舞踏会でも一緒に行くと」
サアッと顔から血が降りていく感覚がした。マリア様が、妻の私が招待されていない舞踏会に、夫のローエンのパートナーとして行く?私の耳はおかしくなったのだろうか。マリア様も私の様子を見て血の気が失せていた。
「誤解なさらないで、カドガン伯爵の妻はお身体が弱くて、そのような場には出られないのです。私もパートナーがいませんから、お互いの利害が一致しているというだけです」
私の身体が、弱い?
5年前のあれ以来、確かに強くはないだろうけれど、それなりに元には戻っている。何よりこうしてこの場に出てこられているというのに、舞踏会で倒れるとでも思っているのか。ローエンももしかしてそう思っているのだろうか。マリア様にそう言って、2人で楽しく社交界を満喫して、私を馬鹿にしているの?
ミッシェル様をけしかけていた女性がマリア様に意地悪そうに問うた。
「マリア様はやはり噂に違わず、良い意味で奔放で派手なのね」
「どういう意味でしょう」
「次はカドガン伯爵と婚約なさるおつもりなのでしょう?私、応援致しますわよ」
「そんなつもりは毛頭ありません。彼は既婚者です。妻とは愛し合っていますから」
「その妻はお身体が悪いのでしょう?でしたら妻でなくとも妾として名乗りをあげれば、丸く収まりますわ。マリア様は子供が産めるお身体ですし」
その言葉は私の心を抉った。これでもかというほどに私は傷付いた。声を上げて泣かなかった私を、誰か褒めて欲しい。
私には子供は望めない。
牢獄での生活以来、月のものは不定期に訪れたり、来なかったりする。診察した医師にはもう望めないだろうと言われている。あの頃はそれでも気にもならなかったし、今日まで意識もしていなかった。世界の中で私とローエンの2人。それで、何が足りないというのだろうか。…それでも世間はそれを認めない。子供を産めない女に価値はない。貴族には爵位と領地を継ぐ後継が必要だ。
私はぐっと拳を膝の上で握って、耐えた。ほんの一瞬でも気を抜くと涙が零れ落ちてしまいそうだった。痛む心を無視して、私は王女だった頃の誇りを思い出して顔を上げて微笑む。先ほどの女性はまだマリア様に食ってかかっていた。
「それに誰がマリア様の美しさに勝てるというの?マリア様が迫ったら簡単にカドガン伯爵も靡きますわ」
「そんな簡単な方ではありません」
「ということはもう誘惑済みですのね!ミッシェル様、マリア様に靡かない方ですわよ。落とすのは大変かも」
「誤解です!誘惑なんて一度も」
「隠さなくてもよろしいのです!言いふらしたりしませんわ」
女性は赤い舌をちろりと出して請け負った。絶対に言いふらすつもりだろう。ミッシェル様は楽しそうに笑っていた。
「しがない子爵家に嫁いでしまって、退屈で退屈で。まだ結婚して2年しか経っていないのに、お互いに愛人を作って飽きないようにしているのですよ。だから他人のそういう話も聞きたいのですわ」
女性はさらに毒突く。
「私も子供ができないのです。理由は、知りません。ですから愛人でも妾でもなんでも許容しますわ。子供ができないのは言い訳できませんもの。捨てられたって文句も言えませんわ。それが妻というものでしょう?」
私のひび割れた心に、毒はじわじわと染み付いていく。子供ができないなら、愛人を作っても、仕方がないことらしい。私は知らなかった。父は沢山の愛人を持っていたし、私もその愛人の子供だけれど。だけど私は父や母のようにはなれない。私はローエンの愛人に、何も言わずに居られるだろうか?ローエンが私の他に誰かに愛を囁くのを黙って見ていられるだろうか。例えばマリア様がローエンに愛を囁かれて、私は冷静でいられる?
それでも私とローエンの間に子供を望めないのは言い訳できない。
お茶会はマリア様が笑顔のまま完全にブチ切れて、ミッシェルと件の女性を退場させて終了した。みんな変な空気のまま、それぞれ帰路につく。私は迎えに来るローエンを待つ予定だったが、マリア様と1秒でも長く同じ空間に居たくなかった。だから私は、サミュエル様の妹のルース様の馬車に乗せてもらった。私の顔色が非常に悪いのを、ルース様はよく分かっている。途中でサミュエル様とマリア様はとってもお似合いだからそっちと結婚するのもアリとミッシェルと女性が議論を展開させて以来、ルース様の顔色も悪い。そのせいで私とルース様はマリア様とちょっと居心地が悪くなってしまった。マリア様は私にもルース様にも、特に申し開きはしなかった。舞踏会に2人でいくのがどういう意味なのか、絶対に彼女には分かっている。サミュエル様と華々しい噂になっているのも。それでも辞めないのだから、私にはわけがわからない。
「まさかマリアお姉様に限ってそんなことはないとは思うのですけれどね」
「私も、頭では違うと分かってはいるのですけれども」
否定はしきれないけれど。
「私、実はマリアお姉様に相談したいことがあったのですが、今日の一件のせいでタイミングが掴めなくて。また出直すつもりです」
「なんだかごめんなさい。私がいなかったらあんな空気には」
「リビー様の所為ではありません。敢えて言うなら私があのワインを持ち込んだのが原因です」
サン・マドック印のワインは美味しい。手土産に持っていくなら最高だ。だからこそ私はルース様を責められない。というか責める理由がない。むしろ昼間からワインを空けたあの2人の方がおかしい。
「ルース様が私の立場ならどうなさいますか」
「立場とは?」
「私は子供が望めない身です。それに、どういうわけかローエンは一度も私を社交界に出さず、代わりにマリア様をパートナーとしています」
私は正直に話した。ルース様は困ったように眉を下げて、少し考えた。そして桃色の唇を小さく開く。
「子供が欲しいのであれば、私なら養子をとります。社交界に出たいのであれば別の方にお願いします」
「私ともローエンとも血の繋がらない子供を?…誰とも繋がりのない私なら誰に頼めば良いと?」
「私は結婚もしていませんから、分かりません。それに私と貴女は、随分違うみたい」
「それは、そうかもしれませんけども」
私の言葉にルース様は極めて冷静に言葉を落とす。
「私は不満があれば話し合います。妥協点を探して、解決させます。貴女はそうしていますか?」
「…しようとしているけれど」
ルース様の灰色の瞳は、淀んだ色を見せた。心底見下したように、ルース様はふっと溜息を漏らす。
「それでは何も変わりませんね。貴女も、ローエン様も」
どきり、と心臓が揺れた。それからルース様は小さく頭を下げる。
「失礼なことを言ってごめんなさい」
「いいえ、気にしていませんから」
「別に貴女が悪いとか、ローエン様が悪いとか、そういうことを言いたいわけではないのです。でも」
それは、私が悪い。子供も望めない、社交界にも出せないほど身体が弱いと思わせてしまった、私が。もしくは私が不美人だから社交界で妻だと言うことすらできないのだろうか。マリア様を見た後なら誰だって霞んでしまう。ローエンだってきっと。昔は自分の容姿に自信があったけれど、今は…髪の色も変なままだし…
「似た者同士じゃ話が進まないものだな、と思っただけです。話し合いができない状態だというなら、仕方ないけれど」
私が思い悩むのを見て、ルース様は素っ気なく言った。私はそれがどんな意味なのか、聞き返すことはしなかった。




