3等星は夢を見る 終
「おかえりなさい」
ローエンが帰ってくると、急ぎの連絡があった。私はエリザに頼んで、急いで余所行きのドレスを着せてもらった。それから化粧をして、髪を綺麗に結って、飾りを付けて、ローエンをエントランスで待った。ローエンの姿を見ると、きっと泣いてしまう。
程なくして馬車の音が屋敷の敷地に入り、執事が玄関の扉を開けた。眩しい外からローエンが、帰ってくる。ローエンの姿は痛々しかった。頭に巻かれた白い包帯が、黒髪のローエンには目立っている。
私は腰を落として淑女らしく礼をして迎えた。おかえりなさい、という言葉は涙を飲み込んでやっと言った。いつもの言葉なのに、いつもと違う。
「ただいま。遅くなってごめんね。…寂しかった?」
「ええ、…とっても、とっても寂しかった」
寂しくて、辛くて、心細くて。
瞬きをすると、涙が頬から滑り落ちた。耐えられない。一粒を許すと、涙腺が決壊した。ぼろぼろと溢れる涙を、止められない。私自身が、もう。
「ローエン…ッ!っ、ごめんなさい!私が、私が悪かったの…!」
両手で顔を覆い、床に座り込んでローエンに許しを乞うた。涙が、止まらない。胸が痛い。どうして私はあんな間違いを犯してしまったのだろう。
「…どうして泣くの?…僕はまた何かしてしまった?」
ローエンは困ったように、私を抱きしめた。私はローエンに縋り付いて、胸の中に渦巻くものを吐き出していく。
「な、ナタリー様と、…ずっと、仲が悪かった、こと、し、知らなかったの!む、昔に、私の悪いわがままのせいで、引き離されて、しまっただけと、思っていたの…っ!」
「…君は悪くないよ。ナタリーのことを説明しなかった僕が悪い。済まなかった。…まさかここまで来るとは思わなかったんだ」
そうじゃない。私が言いたいのは。私が本当に申し訳なく、苦しく思っているのは。
「ローエンの、たった1人のお姉さまだもの。私も仲良く、したかったの。今の私なら、できると思ったの。だけど、だけど…っ!」
「…あの人は君を追い出しに来たんだから、仲良くなれるはずがなかったんだ。仕方ないよ」
「でも、でもぉっ…」
うまく言葉にならなくて、もどかしい。私はローエンに、王女の時とは違う人間だと、そう思って欲しい。昔は毛嫌いしていたローエンの姉とでも、もう仲良くできると。なのにこんな結果になって。
ローエンは私の手を取って、泣いて鼻水まで出ている私の顔をじっと見つめた。
「…僕が怪我をしたのは、ナタリーの行動を見誤ったから。これは僕の自己責任。…リビーが気に病むことは何一つとしてないよ」
「でも、ローエンが、酷い怪我を、してしまって」
「…心配させてごめんね。ひとりぼっちになると、思ったんだよね?怖かったよね、本当に、ごめん」
ローエンは私の額に口付けを落とした。どうしてローエンが謝るの。悪いのは私なのに。
「…君が昔、ナタリーと僕を引き離してくれたことを、僕は感謝していたよ。…言わなかったけどね」
「え、エリザに、聞いたわ…」
「そう。エリザは君になんでも話してしまうね」
「だって、ローエンが、話して、くれないもの」
ローエンは何にも言ってくれない。私は、それが怖くて仕方ないのに。ローエンは私の眦にキスを落としながら言った。
「…ナタリーなんかの話をしてリビーが気に病むほうが、嫌なんだ。…君に暗い話はしたくない」
だからと言ってローエンに全てを背負わせるのも、私の本意ではないというのに。
「…僕は君を心底愛しているよ。…陳腐な言葉を使うとすれば、世界を敵に回しても良いくらいにね」
「つ…月並み、だわ」
でも、ローエンが無事で、私を怒ってない。失望してもいない。だったらそれでも良いかと…思ってしまった。くすっと笑うと、ローエンはやっと息を安心したように吐き出した。
その後の話、というほどでもない。
ローエンは私をデズモンドお兄様に引き合わせた。実に5年ぶりだった。どういうつもりでそうなったのかは、分からないけれど。
デズモンドお兄様はこの5年ですっかり変わっていた。
「その…木こりね」
どうしたその筋肉。
前は雪だるまのような、むちむちでパンパンだったのが、固そうな筋肉の塊に変化している。ムンッ!と腕の力こぶに力を込めながらデズモンドお兄様は嬉しそうに言った。
「サラがその方が好みだと言うからな」
あっそう……。ローエンが冷めた目でデズモンドお兄様の筋肉を見た。
「…デズモンドは相変わらず単純馬鹿で安心した」
「これでも領の運用は俺様がやっているぞ?」
「…椅子に座っているだけなら馬鹿でもできるからね」
多分お兄様はローエンの嫌味に気付いていない。私もお兄様に領の運営ができるとはとても思わない。
「5年ぶりだが、相変わらず仲が良さそうで安心した」
「お兄様に言われる筋合いはないわ。…ねえ、ローエン。お兄様と2人きりでお話ししたいの。いいかしら」
私がそうお願いすると、ローエンはじっと私の顔を見つめた。顔が近い。ちょっと呼吸を忘れそうになる。
「………………………、いいよ」
ローエンはやっと許可した。ローエンは別の部屋に行って、私は改めてデズモンドお兄様と向かい合う。
「仲良さそうだな」
「ええ、仲良しよ。お兄様は?」
「悪くはないんじゃないかな。サラは意外としっかりしているし」
「お兄様が頼りないのね、よく分かった」
本当に良く分かる。兄の面倒を見る妻はきっと大変だろう。
出された紅茶を飲んで一息つきながら、ぽつりと兄に零した。
「ねえ、お兄様は、生きていることを後悔したことはない?」
「何に後悔するんだ」
「ただ、…他の兄妹達や、父や母は処刑されたのに、ここでこうやってのうのうと生きていることに」
「しないね」
兄はばっさりと言い切った。
あまりにも勢いが良かったので、私は目を見開いて驚いてしまった。
「な、なぜ、そう言えるの?」
だったら私は、こんなに悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しいじゃないか。
「サラがいるから。サラに生きていて欲しいと言われるから」
胸のつかえが、取れるような。息が楽になったような気がした。急に身体が楽になった、そんな感覚。欲しかった言葉が貰えたのだと、そう思った。
「ローエンはお前に死んで欲しいと思っているのか?お前を助けたのは間違いだったと言われたのか?」
「そんなこと、一言も言われてないわ。ただ…」
私は、考えすぎなのだろうか。
「それとも死にたいのか?後悔しているのか?」
「……もう後悔していないわ。ローエンがいるから。ローエンと一緒に生きていきたいという気持ちに、嘘偽りはないもの」
兄があまりにも清々しいから、私は、私もそうあるべきだと思った。
でも、恐怖はある。迷いもある。
「お兄様、あの日ローエンを友達に選んでくれてありがとう。おかげで私は生きていられるわ」
「あ、感謝するなら俺じゃなくて爺やにだぞ」
「爺や…?」
誰それ。私が首をかしげるとお兄様も首をかしげた。
「覚えてない?まあいいか。爺やに、『あの中だったらローエンしかいない!王子が何かしても何とかしてくれそう!』ってイチオシされて」
「…本当に誰なの爺やって」
「お前には婆やがいただろ?」
「…………いないわよ」
誰、婆やって。
記憶をたどってもそんな人は出てこない。
「ああ、お前は婆やを解雇したからな。覚えてないか」
「そうなの?」
「醜くて見るだけでおぞましいって」
とんでもないことをしたということだけは伝わった。私はそういう、理不尽な理由で御付きのものを解雇しまくった記憶がある。ただ誰を何が理由で、というのはほとんど覚えていない。私は最低だ。最低の姫だった。こればかりは認めるしかない。
デズモンドとさようならをした。もう話すことがなかったからだ。隣の部屋のローエンを迎えに行くと、ローエンはデズモンドの妻と話していた。
「ローエン」
「リビー。…話は終わった?」
「ええ、終わったわ。サラセリア様、御機嫌よう」
デズモンドの妻のサラセリア様に礼をすると、同じように返された。サラセリア様は、小さく微笑む。
「リビエラ様、今の生活は楽しいかしら?」
「ええ、とても」
私は、今の生活が、好きだわ。
ローエンがいて、私は何不自由なく生きている。
「お兄様を…デズモンドをよろしくお願いします。大馬鹿者ですが、あれでも私のたった1人の…血の繋がった家族なのです」
「…ええ、勿論よ」
サラセリア様は美しく微笑んだ。ああきっと、サラセリア様も、今の生活が楽しいのだ。私と同じように、生きていられるということに感謝している。生きているからこそ愛する人と触れ合える、その奇跡に。
「また遊びにいらしてね」
馬車に乗る瞬間、サラセリア様は私にそう言った。
馬車が動き始めると、神妙な顔をしたローエンが私に問いかけた。
「…もっとデズモンドと過ごしたかった?」
「お兄様と?冗談じゃないわ、5年に1回2時間程度で十分よ、馬鹿が移るもの」
ローエンは笑わないように顔に力を入れていた。うっかりそれに笑いそうになるのを律する。
「ただ、兄に感謝してきたの。あの日ローエンを友達に選んでくれて有難う、って。そうじゃなければ私、今ここに居ないもの」
「…君が僕を見初めたのはデズモンドの友人候補を集めた日だったと記憶しているけど」
「でも兄が貴方を選ばなかったらきっと、婚約は認めてもらえなかったわ」
兄がローエンが良いと言ったから、父は2人のためにと認めてくれた。そうでなければ、私の婚約者になるのはもっと大貴族か、何処かの国の王子様だっただろう。
「それじゃ、僕も次に会ったらデズモンドには感謝の気持ちを述べておくことにする」
「ええ」
まだまだ先のことでしょうけども。
「それから、生きていて後悔していないか聞いてきたの」
「…何て言っていた?」
「『サラがいるから後悔しない』と言っていたわ。やっぱり兄妹なのね、私もローエンがいるからもう後悔しないと思っていたもの。…勿論、迷いも後ろめたさもあるけどね」
生きていたいことに間違いはない。生きていることに後ろめたさがあるのは、仕方ない。私が生きる上で背負っていく業だ。
「僕こそ国も家族も裏切ったけれど、リビーが側にいてくれるからこそ、その選択に間違いがなかったと思えるよ」
「感心したことにしておくわ」
ローエンが、楽しそうに頬を緩めて笑った。
「あら、笑ったわ」
「…僕だって偶には笑う」
「だって昔はずうっと仏頂面かムスッとしてたもの。なんだかこそばゆくて、嬉しいの」
何をするにしても、「そうしなければならないなら」「殿下にとってそれが必要なら」という言葉と共に昏い目をしていた少年はもういない。こうして一緒に笑ってくれる、私を想ってくれる人がいまここにいる。それがたまらなく嬉しい。そんな日々が、愛おしい。
「有難う、リビー」
「何かした?」
「君が生きていてくれて、僕は心底嬉しいんだ」
「や、やだ辞めてよ、恥ずかしい」
「それから、今回のことは本当に申し訳なかった。…僕の浅慮が招いた結果だ」
「それも辞めて」
ローエンが頭を下げた。私はそれを拒否する。確かに私に何も言わなかったローエンの落ち度もある。だけど、何も知ろうともしなかった私の落ち度でもある。夫婦なのに、何も共有できていない私たちの、お互いの落ち度なのだ。私たちは飼い主とそのペットではなく、夫と妻なのだから。
「私たち、夫婦なのよ。家族なの。何でも話し合って決めるべきだったわ。私にはあまりにも力がないから、ローエンが全部背負いこんでくれてるのは理解してる。でも、もうそれじゃ駄目だわ。これからは何かあればきちんと話し合いをしましょう?」
「…君がそうしたいなら、善処するよ」
それは昔の「それが殿下にとって必要ならば」という不本意の同意と同じ言葉だった。だけど、今のローエンにはこれが精一杯なのだ。きっと急には変われない。私だって、全てをぶちまけられても、きっと抱えきれない。ゆっくり2人で変わっていけば良い。
「ありがとう、ローエン。私、ローエンには感謝してもしきれないくらいなのよ。本当よ?色々してくれているってことは、本当に理解しているの」
「…僕がしたくてしているんだ。…君はもっと我儘に僕に色々要求してもいいんだよ。贈り物でも何でも」
「だって最近は私が欲しいと言う前にローエンが揃えてくれるのだもの」
「…僕も堪え性がないな」
ローエンは目を閉じて眉を下げた。
「思いついたら精一杯可愛くおねだりするわ」
「楽しみにしておくよ」
私が今更欲しいのは、ローエンと生きる未来だけ、だと思うけれど。
そのうちさらにその後の2人を投稿します。




