3等星は夢を見る 2
ぶっつりと記憶が途切れている。
ローエンがあの部屋から私を出してくれたのは、朧げに覚えているけれど、その前後が全く思い出せない。気がついたら私は夫婦の寝室で眠っていたし、服も違うものに変わっていた。目が腫れているし、胃も喉も痛い。
「リビー様、起きられましたか」
「エリザ…私、どうなったの」
エリザは起き上がった私に、まず水を飲ませた。
「暫く熱が出ていました」
「そう」
エリザはこれ以上の情報をくれるつもりはないらしい。
部屋の外から激しい怒鳴り声が聞こえた。ナタリー様と、言い返すローエンの声だった。
「あれは、ナタリー様とローエン?」
「そのようですが、リビー様はお気になさらず」
「そうはいかないわ。2人が喧嘩しているなら、原因は間違いなく私だもの」
私のせいで、2人を引き裂きたくない。ナタリー様は、誤解している。私とローエンでちゃんと説明をすればきっと、仲良くなれる。
私はもう2度とローエンから家族を引き離したりしない。
声は私の衣装部屋から漏れていた。
私が部屋に入ると、とんでもない光景が繰り広げられていた。倒れるナタリー、馬乗りになって首を絞めようとしているローエン。ナタリーの手には私のブローチのピン。まるでローエンを刺そうとしているようだった。
「やめてぇっ!」
発作的だった。何かを考えての行動ではなかった。2人の間に入り込むのがどれほど危険か、私は全く考えていなかった。ただ2人を見ていられなくて、どうにかしなければならなくて、咄嗟に2人の間に割り込んだ。
ローエンは私を見て直ぐに私を止めるように抱きしめて、ローエンの後ろに隠した。ナタリーはゆっくり上半身だけ起き上がって、ピンを握ったままローエンとその背後の私を睨みつけた。
「か、家族は、仲良く、するものだわ。そうでしょう…?」
声が震えた。私は間違ったことは言ってない、そう思う。だけどローエンは、重々しく言った。
「…僕の家族は後にも先にもリビエラ1人だ」
ナタリーは恨みのこもった目をしている。こわくて、とても見ていられない。目線をそらして床を見る。床には私の宝石が散らばっていた。
「…たった今この女を殺すこともできる。…誰からも探されないだろうから気付かれないでしょう?…でも、リビエラが望まないならそうしない」
それは今までで一番恐ろしい問いかけだった。ローエンが、何故こんなにナタリーと仲良くできないのか、私には分からない。ナタリーを家族だと思わないことも。私だけが家族なんて、そんなことは、ないはず。だけど。
「私はそんなことを、望んでいないわ」
「…そう。…それでも僕はナタリーが君にしたことを決して許せない。だから」
ローエンは小さく息を止めた。ふっと息を吐き出して、重い決断を下す。
「ナタリー、君を嫁に出す。それも可能な限り早く。リビエラから遠く離れたガーディン地方で、だ」
ナタリーは期待に満ちた顔になった。嬉しそうだった。ナタリーは最初から、それを望んでいたのかもしれない。だけど続くローエンの言葉は、ナタリーの希望を打ち砕くほどに残酷なものだった。
「…そうだ、レックス伯あたりがいいな。辺境でいい感じに没落していて、妻に逃げられたから新妻を募集していると聞いた。それに彼は御歳67、現役の好色爺らしいね。ぴったりの条件だ」
国の中で考えうる限り最悪の相手だった。私ですら彼の悪評は知っている。彼の称号は5年前から何も変わっていないようだ。ナタリーは一瞬表情を失い、直ぐに顔にサッと血が登った。まるで悪鬼のような表情だった。
「あの男に私を?!私が誰だか分かっているの!?貴いカドガン伯爵家の長女、ナタリー・カドガンよ!それがあの貧乏なスケベ親父に嫁ぐというの?冗談じゃない、冗談じゃないわ!」
「…似合いの結末だと思うけどね。…結婚できるときにしておかなかったからこうなるんだ。…身の丈に合わない高望みはこれを機に辞めるんだね」
ナタリーは、聞き取れないような罵声と、キンキン響く奇声を上げた。叫んで唾が飛び、鬼のように目がつり上がった。顔を真っ赤にして勢いよく立ち上がり、ガラス細工と石で出来た宝石箱を掴んだ。それをそのまま、振り上げた。
あっという間の出来事だった。
ローエンは私を守ろうと強く抱きしめた。私の重い宝石箱がローエンの頭にまともに振り下ろされるのが、スローモーションのように見えた。
鈍い音が響き、ローエンの身体が傾ぐ。それでも私を手放さず、強く抱きしめられた。
「う、うそよ、ローエン、そんな」
ローエンの頭からは血が滴っていた。
執事がナタリーを止めるべく動き、ナタリーは後ろ手に拘束された。エリザが私とローエンに駆け寄って、ローエンに手当てを施す。でも医者でもない私たちには何もできない。
「ローエン!ローエン、お願い、目を開けて!」
視界が歪む。ローエンは意識を失って、ついに私を抱きしめていた手からも力が抜けた。
「いや、嫌よ、ローエン!私を1人にしないで、ローエン!」
ああ、神様。もし貴方が本当にいるなら、私からローエンを奪わないで。私にはローエンしかいない。ローエンが居なければ、生きていけない。ローエン無しの人生は考えられない。これからずっと良い子に生きていくから、我儘も言わないから、お願い。
ローエンは王城に運び込まれた。
大急ぎで呼んだ医者に、そうするように言われたからだった。私は着いてこないほうがいいと執事に言われて、確かにそうだと思ったから屋敷に残った。エリザは私を心配して残ってくれた。
「どうして…どうしてたった1人の弟にあんなことを、したのですか」
ナタリーのことはわざわざ将軍が引き取りに来た。まるでナタリーは大規模な暴動を引き起こした重罪人のようだった。連れていかれるナタリーの背中に問いかけると、ナタリーはギリギリと歯ぎしりをした。
「あれは弟なんかじゃない。私の弟なら私を幸せにするはず。私はレックス伯爵なんかに嫁がない!私は王子様と結婚する!」
「王子なんて、どこにいるというの…」
ナタリーが出会える範囲で、王子様なんていない。ナタリーの夢は、所詮は叶わぬ妄想にすぎない。ナタリーは将軍が連れていた屈強な兵士に背中を押され、馬車に乗り込んだ。
「お前達なんて不幸になれば良い!没落して、私のように苦しめばいい!」
ナタリーが呪いの言葉を吐きだし、馬車がゆっくり動き始めた。将軍はそれを冷たい顔で見送る。
「自分以外の他人を道具としか思えない人間は確かに存在します。そういう人と僕たち常人は分かり合えないものです」
綺麗なプラチナブロンドに、マリア様と同じ青い目をした将軍は私にそう語りかけて、自分は別の馬車に乗ってナタリーの馬車とは逆方向に消えて言った。
私はナタリーの馬車が見えなくなるまで、その後ろ姿を見送った。
分かり合えないなんて、思いたくなかった。他人を道具としか思えない人間という言葉は、そのまま私にも、のしかかる。王女時代の私はまさにそんな人間で、それでもエリザやローエンのおかげで変われた。人の痛みが分かるようになった。自分以外の他人を尊重できるようになった。ナタリーだってきっと、変われるのに。
でも私が干渉して、ローエンには怪我をさせた。私が何もしなければ、何も起こらなかったのに。もう問題を起こしたくない。
執事が毎日ローエンを見舞いに行って、様子を教えてくれる。
ローエンは3日経っても目を覚まさなかった。
「心配していました。眠れていないようですが、大丈夫ですか?」
ローエンのことを聞いたマリア様が、私を心配して屋敷に来てくれた。マリア様は珍しく、夫を連れてやってきた。夫は壁に背を預けて目を閉じている。初めましてなのに挨拶もなかった。
「私は、大丈夫です。それより、その」
「…私の夫が気になります?来なくて良いって言ったのにどうしてもリビー様を見ておきたいって言い張るものですから。挨拶もしないのは気にしないでください。そういう人なんです」
「おもてなしをしないと、と…」
「ああ、そういうのは不要です。会話に参加せず、無視されて壁際で立ってるのがすきなんです、多分。1つ置物が増えたと思っていらして」
マリア様は、そう言って笑った。私も力が抜けて、少し笑った。久しぶりだった。
「先程目が覚めたらしいですよ。お見舞いに行きませんか」
「行きません…行けません。ローエンもそれを、望まないでしょう。私が動けば…また何かを問題が起こってしまうから」
「貴方達って、本当に…。まあ良いでしょう。私はお見舞いに行きます。何かお伝えしておきましょうか?」
「そうですね…お願いしたいわ」
でも、何を?
私のせいで傷付いたローエンに、何を言えばいいの。どうやって謝れば、いいの。私は、私には…わからない。どうすればいいのか、わからない。
「ナタリーという方は?」
「あの後直ぐにガーディンのカドガン領に帰りました。怖い顔をした将軍がいらして…軍用の馬車で、連れていかれました」
「その将軍、うちの兄です。怖がらせてしまったならごめんなさい、後で反省させておきます」
道理で似てると思った。私は首を振って、それは不要だと意思表示した。マリア様はきゅっと私の手を握る。
「ローエン様に会いたくはない?」
「会いたい、とっても、会いたい…っ」
ローエンに会いたい。我慢していた涙が零れ落ちた。ローエンがいないと、寂しくて、辛くて、恋しくて、自分が生きているのか死んでいるのかすら分からなくなる。夜も眠れない。私はローエンがいないと生きていけない。
だけど、どうすればいいの?
ローエンには酷いことをしてしまった。ローエンがわざわざナタリー様を遠ざけていたのに、私が家に入れてしまった。
ローエンがナタリー様のことを私に言わなかったから、という見方もできる。
だけどローエンが私にそんなことを打ち明けられただろうか。何の力もなくて、ただローエンに守られていることしかできない私に。私にはあまりにも力がなくて、私に降りかかる全てをローエンが身体を張って守ってくれている。私はただ待っていることしかできない。
「一緒に会いに行きましょう?」
「っ、わたし、…行きません。行けません。私にできるのは、待つことだけ。今の私には何も…できません。ローエンが帰って来たら、精一杯謝って、話し合いのできる夫婦になりたい。ローエンに、私を守るために隠していることを、教えてもらいたいの。私もローエンを支えたい。今は、ただそれだけ…それだけなのです。マリア様、私は間違っているでしょうか?」
「いいえ、リビー様は間違ってなんかいません。でも、もっと我儘になって良いのですよ」
もう昔のように我儘を言うことはできなくなってしまった。ローエンに負担を掛けたくなくて、控えめな我儘を言うくらい。何も言わないとローエンか心配をするから。
「私はどんな我儘を…?」
「今直ぐ帰って来て、と私に伝言をさせるというのは如何でしょう」
「…今直ぐ」
違う。そうじゃない。
私がローエンに伝えたいのは、私が寂しいから帰って来て、なんて独りよがりなものではなくて。私はただ、ローエンに無事な姿を見せて欲しい、それだけ。いつものように元気な姿を見せて、私を安心させてほしいだけ。
「マリア様、伝言をお願いできますか」
涙を飲み込むと、声がかすれた。
マリア様に深々と頭を下げる。瞬きと共に零れ落ちた涙が、上等な木の床に吸い込まれていく。マリア様は頷いて、微笑んだ。
「勿論です。何なりと」
私は、私が言いたいのは。私がローエンに伝えるべき言葉は。
「っ、…ローエンの、帰りを…良い子にして、待っている、と」
お伝え頂けるでしょうか、とまでは言えなかった。嗚咽が漏れて、言葉にならなかった。私の精一杯の言葉を、マリア様はきょとんとした顔で聞いていた。
「貴女達の関係って特殊ですね。まるでペットと主人。飼い主の都合に振り回されているのに、素直に帰りを待ち続ける。お互いがそれで良いなら、それもまた1つの愛の形なのでしょう。でも不安があるなら、早めに打ち明けたほうが宜しいですよ。もう結婚して5年も経つのですから」
不安はある。私が、頼りないことについて。私が至らないことについて。ローエンは、本当に良く頑張っている。手のかかる私をここまで真剣に愛して、慈しんでくれている。ちゃんと分かっている。でも、守られすぎた。私は、あまりにも弱くて、ローエンがしてくれるままに守られすぎた。執事も侍女も、みんな私を守ってくれる。だからって私はいい加減甘えすぎだ。
マリア様が帰ると、泣いている私にエリザがタオルを渡してくれた。
それから、少しずつ話をしてくれた。
「ナタリー様は…ローエン様とは違った環境でお育ちになりました」
「それは、私のせいで、ということよね」
お姉さまに会っては駄目よ。お母さまにもよ。
私の我儘が脳裏に蘇る。ローエンは従順にそれに従って、ナタリーとも、母とも会わなかった。彼の父がそれを許さなかった。
「その通りです。ですが、ローエン様はむしろそれを望んでいました。過干渉な母と、ローエン様を下僕と蔑むナタリー様から逃げたかったのです」
「下僕と蔑む…?」
「ええ。その時既に、ローエン様のお父様がナタリー様を後継にすると決めていたので、カドガン家ではナタリー様の方が重く扱われていたのです」
知らなかった。そんなこと、何一つ。
「ローエン様はデズモンド様の側近として、リビー様の婚約者としてそれなりの地位が授けられる見込みがありましたから、お父様のご判断は正しいと思います」
「そうね」
そうすれば2人の子供どちらにも不公平はなかったはずだった。
「リビー様の強い要望によって、お2人は離れて育てられました。ローエン様はデズモンド様と一緒に王城で高度な教育を、ナタリー様はカドガン家で教師を付けず、のびのびと好きなように育ちました。それであの2人はあんなに違うのです」
「…確か、腹違いだったわよね」
「ええそうです。ナタリー様とローエン様は母が違います。もうお2人とも亡くなりましたが」
「亡くなっていたの?知らなかったわ…」
「亡くなったのはリビー様がまだリビエラ様だった頃ですから」
言われても、気にもしなかったのね。本当に、つくづく自分が嫌になる。なんて愚かな人間だったのか、私は。
「エリザはローエンとどれくらいの付き合いなの?」
「7年ほど、ですかね。私はカドガン家の方にお仕えしていましたが、ローエン様に引き抜かれたので」
「長いのね」
それも、知らなかった。私は本当に、何も知らない。ローエンは何も話してくれない。
「ローエン様はリビー様が、ナタリー様やお母様をローエン様から引き離してくれたことを感謝していましたよ」
「なのに私、自分から呼び寄せてしまったのね」
せっかくローエンが遠ざけていたのに。
謝らないと。ローエンに、きちんと謝って、許してもらわないと。それからローエンとは話し合おう。
私もローエンを支えたいのだと。
もう家で帰りを待ち続ける、ペットではいられないと。




