カサブランカの溜息
僕は昔から偏屈な人間だった。
同じ年頃の王子とどうしても仲良くなりたくなくて、わざと髪を伸ばしてダサくて挙動不審な人物演じてみたり、王女からの求婚からは本気で逃げた。僕が好むものと言えば、そういった華やかな世界ではなく、むしろ穏やかで殺風景な場所だった。心の底から貴族ではなく農民にでも生まれたかったと思う。避けていたはずの王子からもいつの間にか友達だと思われていたし、王女からの求婚は逃げ損なって婚約者になっていた。幼い頃から出世が確約した僕を同じ年頃の男達は嫉妬した。かといって友達が欲しかったわけでもない僕は、その状況に満足とはいかなくともある種の諦念を抱いていた。
婚約が決まってすぐのリビエラは、偉そうなお子様だった。ほとんど赤ん坊と言っても良い。我儘を言って叶わなければ泣き叫ぶ、非常に面倒なお子様だった。僕が帰ろうとすれば泣き叫び、少しでも冷たい態度を取るとまた泣き叫んだ。僕がリビエラに最初にした教育は感情のコントロールだった。
リビエラが泣き叫ばなくなるのに丸一年かかり、その頃の僕はリビエラという出来の悪いお子様にほとほと疲れていた。とはいえ、天使のような顔の少女が自分の後ろを、まるで雛鳥が親鳥の後ろを追うように、一生懸命付いてくる様は非常に可愛らしいものだった。僕はリビエラを妹のように、それなりに可愛がった。
リビエラが10歳を超える頃に、彼女は兄のデズモンドからとんでもない教育を施されていた。必殺「お父様に言うわよ」と「私は王女よ」だった。これを聞けば誰でも震え上がる。僕も例外ではない。デズモンドはこれを乱発して騎士から侍従に至るまで幅広く震え上がらせていた。
リビエラもデズモンドも、王位継承権は非常に低い。リビエラは末っ子で第14王女、デズモンドは第3王子だった。この国の王族は側妃をこれでもかというほど抱え込むのが常だった。リビエラ達の母は非常に美しい舞台女優で、その美しさを買われて妃となった。だからデズモンドには後ろ盾が存在せず、王子とは名ばかりの存在である。王位継承権も、王子ながらそこそこ低い。それはリビエラにも同じことが言えた。
兄妹が大勢いる2人だが、父王にとってこの2人は格別だった、といえる。
「リビエラにはそのお色、似合わないんじゃなくって?」
「まあ、失礼しちゃう!お父様に言いつけるわよ!」
今日も仲の悪い姉妹に対し元気に必殺技を披露するリビエラを僕は生温い目で眺めた。リビエラは腰に手を当てて眉を吊り上げて腹違いの姉を威嚇していた。対する姉姫は、必殺技にたじろいでそそくさと退出する。嫌味を言うためだけにここまで来るなんて大した度胸だ。
リビエラには敵が多い。王族とはいえ末席のリビエラに、生き残る道はそう多くない。王族同士の蹴落としあいは常に悲惨だ。
「ローエン、私にこの色、似合わない?」
今日のリビエラのドレスは、可愛らしい赤だった。リビエラの濃い金髪に映える赤。母親譲りの美しさに幼い可愛気が混ざって、それはそれは可愛らしかった。吸い込まれそうなほど丸くて大きな瞳は父から受け継いだ真っ青なものだった。似合わなくはないけれど。リビエラは不安そうに眉を下げて、唇をへの字に曲げていた。
「…瞳の色とは合わないかもしれませんね」
「酷いわ!私は王女なのよ!お父様に言いつけちゃうんだから!」
「…大変失礼致しました」
彼女の必殺技が効くのは、彼女の父が本当に彼女を溺愛しているからだ。リビエラがまた怒って吼え始め、僕はひたすら謝った。
子供なんて見飽きたであろう王は殊更にリビエラを可愛がった。リビエラがとてつもなく可愛らしい少女であったからである。彼女の姉達が醜いというわけではなく、リビエラが飛び抜けていた。兄のデズモンドも同じ理由で王から目をかけられていた。
いつ蹴落とされるか分からない彼女にとって王の存在はまさに最大の盾だった。僕は彼女にいろんな教育を施したが、ここは敢えて触れなかった。彼女の生命線とも言えたからだ。
「ねえローエン、私、ドレスが欲しいわ」
「…では次の誕生日にはそのように」
「違うわ!ローエンが選ぶのも素敵だけど」
彼女は少し成長して、14歳になった。相変わらず美しい金色の髪を指先に巻きつけて弄びながら、ため息をほうっと吐き出す。ただそうしているだけで絵になる少女は思い詰めていた。あの日姉姫に「色が似合わない」と言われて以来、彼女の関心の殆どはオシャレだ。僕は日に日に綺麗になる彼女から目が離せなくなっていた。ちょっとした会にエスコートするだけで、貴族の男たちはリビエラに熱い視線を送っていたからだ。彼女はまるで蜜の滴る花のように、百合の香りで男たちを虜にしていた。僕は周りに目を光らせてリビエラを守った。
「隣の国のローズという方に、ドレスを見繕ってほしいわ!ドレスだけじゃなくて全部ローズヒルズのものが良い!貿易商から買うにしても、流行がすぐに変わってしまうのだもの。ローエン、買ってきてよ!ねえ!」
僕が買いに行けば貿易商から買うより時間がかかるし、何より3日と開けずに僕を呼び出すくせにそれなりに長い期間会わずにいられるのだろうか。
「私は王女なのに!…ちっともオシャレじゃないわ」
「…十分ですよ」
「それじゃいけないわ!」
隣の国はね、と長話が始まった。リビエラはお隣の国が大好きだ。国としては戦争するくらい仲が悪いが、リビエラは隣の国の文化の豊かさに憧れを抱いている。特に件のローズには並々ならぬ関心があるらしい。別に着るものなんて何でもいいし、美しさも最低限の清潔さがあればそれでいいじゃないか。僕は基本的に贅沢を好まないし、リビエラほど美に拘りがない。
でも。
リビエラを着飾らせるのは楽しいと思う。リビエラに服や宝石を与えるのは存外嫌いではないし、手をかけた分に比例してリビエラは輝く。僕は僕の作品に満足していた。
同様にリビエラには最低限必要だと思われる知識やマナーを、それとなく教育して仕込んだ。侍女の忠言も教師からの厳しい教育も必殺技を連発して辞めさせすぎて、リビエラはお馬鹿だった。だから僕があの手この手でマナーと知識を仕込んだ。役に立っているかは…微妙。でもやればやるたけリビエラはきちんと覚えてくれた。
リビエラが17歳になる頃、僕はデズモンドの側近としては活動していた。デズモンドは王位からは程遠いが、父王からそれなりの地位を約束されている。普段の素行は悪いが、僕が必死にカバーしてデズモンドの体面を保った。それもこれも、デズモンドにある程度の力を付けさせるため。デズモンドに力があれば自ずと側近の僕にも権力が生まれる。そうして目論見通り、僕はある程度の権力を得た。それは敵の多いリビエラを、我儘以外から守る力となった。
僕の目下の教育はリビエラの必殺技を封じることになった。
新しく雇ったエリザという侍女は、とても優秀だった。賢く慈悲深く思慮深く。非の打ちどころのない完璧な侍女だった。教育の材料は早々に決まった。巷で流行っていた勧善懲悪の物語がまさにリビエラの教育に打ってつけだった。僕は早速エリザにそれを持たせた。
翌朝エリザは牢獄に放り込まれた。
「だってとっても失礼な本を読ませたのよ?私に死ねと言っているみたいじゃない」
リビエラはぷりぷり怒っていた。僕は笑いそうになった。あまりに上手く乗せられていたからだ。リビエラの長所、素直さは完璧に僕の読み通りの動きを見せていた。
「…僕もその話は好きですけどね。…彼女の最期は見ものだ」
リビエラが息を飲んだ。凍りつくような眼差しで僕を見る。僕は堪えきれずに昏く笑った。
「僕ならあんな結末にはしないけれど」
僕ならそんなお馬鹿な婚約者はきちんと教育する。
リビエラの行動は早かった。
エリザに泣きついて、侍女に戻し、苦手な本を読み始めた。やはりリビエラは素直で、言われるがまま、ありとあらゆる本をするする読み解いていった。人に優しくしないと優しくはされない、とか。人を呪わば穴二つ、とか。今更どこまで影響できるかは分からないが、とにかく彼女の今までの我儘哲学は根元から折っておいた。
が、何故かリビエラは僕を避けるようになった。
僕には理由が全くわからなかった。リビエラに何かしたつもりはないし、僕の教育に「婚約者とは会ってはいけない」という文言はない。エリザも首を傾げていた。あのド天然と言えるほど素直な姫は何か勘違いしているのかもしれない。または下手な駆け引きをしているのかもしれない。最近流行りの恋愛小説を読んでいるという報告も上がっている。いずれ諦めて普段通りに戻るだろうと、僕は事態を甘く見ていた。
リビエラも僕も参加する必要のある舞踏会では当然リビエラが僕をパートナーとして指名するだろうと思った。が、リビエラは兄のデズモンドにくっついて回ることを選んだ。パートナーのいない僕の立場はどうなる。相手の気持ちを考えられないリビエラにはもう少し教育が必要だと思った。
デズモンド王子は予定通り、隣国へ赴くことになった。隣国の何れかの王女と婚姻を結び、彼方の王となり、国を内側から乗っ取る計画だった。僕はそこで宰相にでもなって、リビエラを呼んで暮らすつもりだった。リビエラはあちらの国が大好きだし、多分喜ぶ。それにこの国はもう破綻する。財政が逼迫していて、もう危ない。リビエラの贅沢癖はこちらにいては危ないだろう。
暫くリビエラの元を離れることを報告しに行くか、それとも呼ばれるまで待っているか、またはいっそ何も言わず離れるか。迷っているうちに、選択肢は自ずと2つ目になった。リビエラが久方ぶりに僕を呼び出したのだ。何食わぬ顔でリビエラの部屋に入る。リビエラは赤い下唇を噛んで何かに耐えているような、切羽詰まった顔をしていた。憔悴していたが、やはりそれでも絵になるほど美しかった。久し振りに会うリビエラは、まるで別人のように大人しく、いつもの尊大さは欠片も感じられなかった。
「知らなかった。ローエンはお兄様に着いて隣国へ行くのね」
「…はい」
何処から聞いたのかは分からないが、リビエラは酷く傷付いた顔をしながら言った。
「そうすれば私と結婚なんてしなくて済むものね」
「…そうですね」
そう来たか。リビエラの想像は僕の考えの斜め上を突き抜けていた。僕は答えを少し考えたが、上手い回答が思い浮かばなかった。リビエラをあちらの国に呼ぶのはまだ秘密にしておきたい。
いつもなら「そんなことは許さないわ!私は王女なのに!お父様に言いつけるんだから!」と続くはずのリビエラの唇は、またぐっと噛んで封印された。リビエラは少し俯いて、目を潤ませて、静かに言った。
「あなたと婚約を解消します」
なぜそうなる。意味がわからなくて、やはり考え込んだ。リビエラがどう解釈したかは定かではないが、リビエラは泣き出しそうな顔で叫んだ。
「顔も見たくない!はやくどこかへ消えてよ!」
とにかく虫の居所が悪いのだろう。暫く放置されて、挙げ句の果てには国を離れるなど、リビエラのプライドが許さなかったのかもしれない。僕が前もってリビエラの許可を取らなかったのも気に食わなかったことだろう。とにかく落ち着くまで待って、エリザに後のことは任せよう。
「…仰せのままに、殿下」
隣国から何か気の利いた物でも送れば機嫌を直すだろう。
婚約解消の件は、リビエラから上には行かないように取計らった。一時の癇癪で解消されてなるものか。隣国に着くとバカ王子が色々と騒ぎを起こしたせいで忙しく、とてもリビエラの機嫌を取る為の物を仕入れられなかった。特にデズモンドが第1王女アリシアに夜這いをかけて撃退されて激昂し、たまたま泊まりに来ていたローズヒルズ伯爵家のマリア嬢を殴って退散してきた件では3日くらい眠れないほど事後処理が大変だった。そのときのアリシア殿下の呪いの言葉は強烈そのものだった。曰く、王になったら我が国の王族は全員公開処刑…。その事件のせいでデズモンドは何故かアホ王子を慕う第2王女のサラセリアに軟禁されて行動が落ち着いた。僕はデズモンドにはほとほと愛想が尽きた。立場を弁えない行動は命取りだ。
僕はアリシア殿下のクーデターに加担することにした。元々国にいた頃から打診があり、頭の片隅に置いていた。リビエラの必殺技封印を急いだのもこのためだった。他の王族とは違うという印象にしたかったがそこまでは時間が足りない。どちらにせよ僕にしか興味のないリビエラはわざわざ城下に降りて民を愚弄するようなお馬鹿な姉姫達とは根本的に違っている。聡明な殿下は直ぐに全てを取計らって、伯爵の地位とリビエラの助命を約束した。見返りに、僕は国の内情を教え、我が国でこちら側に寝返りそうな要人を説得して引き入れた。アリシア殿下の勢力は水面下で大きくなり、それを知らないのはもはやサラセリア殿下の取り巻きたちのみと言えた。
戦争が始まって、脆かった国は裏切りによって内側と外側、両方から崩壊した。王族は地下牢に閉じ込められ、処刑を待つ身となった。そのあたりの手順は僕に全て委ねられた。リビエラの処刑を、ごく自然に回避させるためだった。そもそも処刑対象が多いし、その中でも民の恨みを買った王族は相当数いる。僕が思うに、その恨みを買った王族達さえ死ねばあとはどうでも良い。末席のリビエラのことなど誰が覚えているだろうか?デズモンドはあれから、自分のせいで可愛い妹まで死ぬと思って震え上がっている。アリシア殿下…否、陛下はそれを見て嬉しそうに昏く笑っていた。可愛がっていたマリア嬢にデズモンドが怪我をさせた件で本気で怒っていたからだ。陛下はデズモンドが震え上がるのを見るためだけに王族皆殺しを命じていた。大きな声では言えないが…この人は相当病んでいる。彼女もまた僕と同じように、手段を選ばない苛烈な人だった。
リビエラは本当は牢獄に入らなくても、良かった。捕らえてそのままこちらへ送っても良かった。だけど、婚約解消の件だとか、避けられた件ですっかり僕の心はささくれ立っていた。許せなかったのだ。心の狭い僕はリビエラに反省させることにした。一月も牢獄で過ごせばプライドの高いリビエラも反省することだろう。寂しくって泣いてしまったリビエラを慰めるのも、悪くない。
「まあ、それは恋ですわね!貴方は無表情なお方かと思っておりましたが、顔に好きだ!と出るくらい単純なのですね」
ローズヒルズ伯爵家のマリア嬢の思考回路はどことなくリビエラに似ていた。予想の斜め上を行く発想に僕はまた振り回されていた。戦勝祝賀パーティで婚約者を連れて現れ、話題を掻っ攫ったマリア嬢と、パーティの翌日に城で朝食を取っている時だった。ついうっかり婚約者の話を漏らすとマリア嬢はうっとりと頬を緩めて夢見る瞳になった。
「でも牢獄に1ヶ月なんて、酷すぎます。普通の令嬢なら…愛想尽かすどころかいつ死んでもおかしくありませんよ」
「…牢獄といっても、毛布は山のように積んでおいたし、ろうそくの火も暖炉も自分で付けられるようにしているから暗くも寒くもないし、食事も好きなものを取っていいのです。…実質自分の部屋とあまり変わりません」
「牢獄、というだけで随分違いますわ」
「…僕の婚約者はそんな繊細な人じゃありませんから」
ケロッと寛いでいる様子が目に浮かぶ。それでも寂しがりやだから、僕が現れたら喜んで駆け寄ることだろう。罰は十分に与えたし、そろそろ僕が迎えに行ってこの国に連れてくる時がやってきた。
「…それに、別に好きなわけではありませんよ。…妹みたいな人です。もしくは犬か猫」
「嫌ですわ、恋する男の顔をしていますのに!」
リビエラの頓珍漢は別に気にならないが、マリア嬢の頓珍漢には苛立った。腹の痛む部分を突かれているような感じで、癇に障った。マリア嬢は楽しそうにコロコロ笑っていた。マリア嬢も十二分に美しいが、リビエラの美しさとは違う。僕は今、なぜかリビエラに無性に会いたかった。
「私も意に沿わぬ婚約をさせられましてね、でもその方にはあの手この手で教育して好みのタイプにできるほど熱意を向けられませんでしたわ」
「…ある程度育ってますからね。教育ができるのは…子供の頃くらいでしょう?」
「あら、最近になって教育しようとしていた方のお話とは思えませんわね?…彼女を守りたいと思ったり、婚約解消と言われて傷付くなら、それはローエン様の御心がリビエラ殿下の下にある証拠です」
「…あんな顔しか取り柄がない王女に、僕が?」
「あら!中身も可愛らしいお方ではありませんか。貴方が好きで独占したかっただけですわ。私も我儘で強欲ですからよーくわかります」
「…貴女と彼女は違います」
マリア嬢は、やや頓珍漢な所はあるが非常に気さくで話しやすい方だ。これならリビエラも気に入るに違いない。僕は国から肌身離さず持ってきたリビエラの肖像画をマリア嬢に渡し、彼女に色々揃えてやりたいと伝えた。マリア嬢は黙って指を3本上げた。
「私の出張費用は高いのです」
ぼったくりだった。