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歴史短編小説群

古兵の記憶

作者: 塔野武衛



 将軍徳川秀忠が上洛の途上、尾張国熱田に逗留した折。上様御成りという事で在地の武士達はこぞって彼を出迎えた。彼らの中には嘗ての徳川直参も含まれており、秀忠や伴の者にとっても懐かしい顔は少なくなかった。

 その出迎えた者の中に、一人の老人が居た。良く言えば素朴、悪く言えば目立たぬ風貌の老人だ。だがよくよく見るとその肉体には数え切れないほどの傷跡が見え隠れしている。彼が嘗て歴戦の古兵だった証だ。

「修理はまだ壮健であったか」

 ぽつりと秀忠が漏らす。先程の老人を見ての発言である。

「性高院様亡き後も尾張国に留まり、成瀬殿らの下で働いておるとの事」

 土井利勝が小声で補足を加える。性高院とは前の尾張国太守松平忠吉の事だ。あの修理と呼ばれる老人は、忠吉付として尾張国に派遣された嘗ての徳川直参武士だったのだ。

「あれは確か、大御所様より一つ年上だったか」

「御意。当年七十七になりまする」

 利勝がそう応じるのに、秀忠は何事か考えるように目を伏せる。七十七歳とは大変な長寿であるが、同時にいつ亡くなるかわからぬ年齢でもある。次に上洛する時には、老人はもうこの世の人ではないかも知れない。

「利勝、兼松修理を我が宿所に召し出せ。かねてからあれには聞いてみたい事が幾つかあった。よい機会である事だし、聞ける時に聞いておきたいのでな」

「御意」




 その日の夜。秀忠の宿所には例の老人が参上していた。その場に居るのは秀忠と土井利勝だけで、他の供回りは部屋の外で待機している。

「久しいな、修理よ。変わらず壮健なようで何よりだ」

「いえ、近頃は昔のように体が動かず、些か難儀しております」

 訥々とした語り口で諮問に答える老人。歴戦の古兵だけあって、必要以上の恐縮はない。

「その点、若様は闊達で凛々しくあられる。羨ましい事です。性高院様が残念な事になられただけに、若様にはご壮健に育って頂きたいものです」

 仲の良かった弟の名が出て、秀忠の顔に一瞬影が差す。だがすぐに気を取り直し、本題に取り掛かった。

「本日そなたを呼んだのはな、修理よ。かねてよりそなたに幾つか聞いてみたい事があったのだ。そなたは当年七十七になる筈だな。此度の機会を逃せば、もう二度とそなたと生きて会う事もないかも知れぬ。これもなにかの縁であろうから是非話を聞きたく思うが、如何か」

 兼松修理と呼ばれる老人は目を瞬く。彼の知る由もない事だが、秀忠は武人に対する強い憧れがあり、それが高じて時折古兵より昔語りを聞く習慣に繋がった。今回のそれもまた、その一環だったのだ。

「それがしの如き者の話であれば、何なりと」

 そう秀忠に返答しながら、既に彼は己の記憶を辿り始めている。七十七年もの歳月を生きて来たのならば、若年の頃の記憶を呼び起こすのには相応の時間が掛かるものだ。何しろこの男の初陣は今から五十年以上も昔、かの桶狭間合戦だったのである。

 兼松修理亮正吉。それがこの男の名だった。




 永禄三年五月。駿河の今川義元が二万余の兵を尾張国東部に進めた。織田信長の攻勢で窮地に陥った鳴海・大高両城を救出する為である。今川軍の逆攻勢によって当地における形勢は逆転し、今川軍有利に戦況は進みつつあった。

 五月十八日、深更。今宵も清洲の兵馬が城を出る事がないままに夜が更けてゆく。今川の攻勢に有効な対処が出来ていない事に対する焦燥と不安が、清洲全体に渦巻いているような感覚すら覚える夜だった。

 そしてこの日も、なかなか寝付く事の出来ない者が居た。その風貌は若々しいが朴訥で、いかにも田舎から一旗揚げる機会を狙って仕官に及んだ若者のように見える。事実彼は、まだ二十歳にもなっていない。

(いつ今川方と戦う事になるんだろうか)

 高揚とも恐怖ともつかぬ感情を抑えながら兼松又四郎正吉は埒もない事を想う。彼にとって信長を始めとする清洲城に詰める重臣達は雲の上の存在。どうやって戦うかは彼らが決する事で、自分はその命令のままに戦うだけの存在に過ぎない。

だがそうであるからこそ、尚更に未来の事を考えずにおられぬのもまた確かだ。何しろ彼はこの戦いが初陣なのだ。明日の今頃には何処とも知れぬ場所に屍を晒す事になるかも知れぬ身だ。

(ああ、畜生)

 そう考えたせいか、また心臓が早鐘を打ち鳴らして眠気を削いでゆく。今川が攻めて来て、自分にも戦支度が命ぜられて以来、毎日この有様だ。ぎゅっと胸を鷲掴みにし、唇を噛みながら縮こまるように鼓動が落ち着いてくれるのを待つ。

(情けないな、おれ)

 槍働きによる功名で名を成したいとする望みと今の状況とがぐるぐると頭の中で駆け巡る。死ぬ事は誰だって怖いし、未体験の物事に挑むのもまた恐ろしいものなのだが、そう開き直って心を落ち着けるには、この青年は若く純朴に過ぎた。ただただ、自分の怯懦を情けなく恥に思う気持ちばかりが膨らみ、ますます眠れなくなるという悪循環に陥っていたのだ。

(親父から金を借りて馬まで買ったってのに、こんな調子じゃ情けなくて顔向け出来ねえよ……)

 彼の実家は尾張国葉栗郡島村にあり、元は越前国足羽郡兼松村に定住した武士の家柄だと系譜では伝わる。だがこの時期の兼松一族は無名に等しい下級武士の一家に過ぎない。馬を購入し、それを世話するだけの金を出すのも簡単ではない。それを承知で父は金を出し、送り出してくれた。それなのに……。

 こんな調子の堂々巡りが果たしていつまで続いたかはわからない。気付けば彼は不安を抱えたまま眠りについていた。肉体そのものは睡眠を欲していた為だ。それまでの不眠が嘘であるかのように、彼は深い眠りに身を委ねた。

 それが歯車の狂い始めである事など、知る由もなく。




 まどろみの中で何かの音が聴こえる。それを合図にして起きようと思うには、まだ眠り足りなく体が重い。空耳の類だろうと半ば決め込み、再び夢の中に入ろうとする。

 また音が聴こえる。今度は前よりもはっきりと。どうやら空耳ではなく、本当に自分の耳に届いているらしかった。まるで何事かを急かすかのような、独特な音色。もっと具体的に言えば法螺貝のような――。

(法螺貝!)

 がばりと跳ね起きる。頭を激しく振って無理矢理に意識を呼び覚まし、今一度耳を研ぎ澄ました。間違いなく法螺貝から発せられる音だ。それが何を意味するか考えるまでもない。既に空は明るくなりつつあった。

(出陣だ! 出陣なんだ、これは!)

 急速に高揚感と焦燥感が同時に湧き上がり、彼は大急ぎで戦支度に取り掛かる。だが手間取って思うように進まない。二つの感情が複雑に彼の心で渦巻いて、冷静さを欠いている証だった。舌打ちを何度も繰り返しながら苦労して防備を固め、槍を手に取って家を飛び出す。

 眩い光に晒され、一瞬目がくらむ。寝不足故の症状だ。だがそんな事に構ってはいられぬとばかり、彼は小さな厩に繋がれた粗末な安馬を連れ出し、飛ぶように背に乗ろうとした。

 ところがこれが上手く行かない。なかなか思うように馬に跨れず、やっと跨れたと思ったら姿勢が極めて不安定で馬を走らせる事など思いもよらない有様だった。一度など、無理に走らせようとして危うく落馬する所だった。

(なんで……なんでだよ!?)

 半ば錯乱しかかりながら、今一度馬に乗ろうとする正吉。そこでふと、何かの違和感を覚える。何かがおかしい。そう自覚した途端、冷や水でも浴びせられたかのように急速に彼の心から熱が引く。まじまじと馬を凝視する。

 違和感の正体はすぐにわかった。あろう事かその馬の鐙は逆さまにかけられていたのだ。これではどんな馬術の達人でもまともに馬に乗れる訳がない。彼は呆然と立ち尽くすしかなかった。

(なんなんだ、これは。なにか不吉な事の前触れなんじゃないのか)

 無論その考えは誤りだ。鐙のかけ方を間違えたのは彼自身の迂闊によるものである。だが今の彼にそんな冷静な考えを巡らす事など無理な話だった。

(もしかしたらこれは、出陣するなというお告げの類なんじゃないのか。だったら――)

 不穏な方向に考えを巡らしかけ、我に返るように激しく頭を振る。

(なにを馬鹿な事を考えているんだ、おれは! 初陣なのにこんな臆病風吹かしてどうする! しっかりしろ!)

 二度、三度と頬を張り、急いで鐙をかけ直す。これも気が急いて思うように進まず、やっと家を出た時には日もだいぶ高く上がっていた。もう早朝と言うには遅すぎる。

 信長一行が逗留する熱田神宮に到着した頃には、既に夥しい数の兵達が集結していた。これだけの人が一ヶ所に集まる様を、正吉は見た事がない。無理に馬を飛ばして来た為に人馬共疲労の色が濃い事もあって、呆けたように立ち尽くす。

「遅いぞ、たわけ!」

 突然の甲高い叱声に、びくりと体を震わせる。まるで女のような甲高い声だ。一拍遅れ、彼は誰に叱声を受けたのかを理解した。自分が仕えるべき主、織田信長その人だ。

「何をぐずぐずしているのだ、早く並ばぬか!」

「も、申し訳ございませぬ!」

 真っ青になり、急いで馬を繋いで列に並ぶ。主君の姿は見えなくなる。優に千人は超える兵が居るように思えた。先程の叱責とこの大勢の人を前に、正吉の高揚感はみるみる萎んでいった。

 その後前線に向けて兵を進めるにつれ、織田軍の兵力は更に増していった。その中には後続からの合流兵も居れば、砦に詰めていた兵も居た。

だがそれ以上に正吉に強烈な印象を与えたのは、鷲津・丸根砦からの敗残兵と、抜け駆けで今川勢と戦い敗走した佐々勢の残党達だった。その大部分は何らかの浅からぬ傷を負っており、中には肘から先がない者や、何とか逃れて来たが今にもその命が失われんとする瀕死の者まで居た。それは初陣の青年にとって、あまりに生々しい戦場の残滓だった。

(まかり間違えば、おれもああなるのか)

 再び激しい動悸がするのを自覚する。だが今度は収まってくれない。息苦しさか恐怖からか息は荒くなり、体中が震えていた。

「よいか、敵は払暁から戦を続けて疲弊しきっている。然るに我らは新手だ。小勢だからとて大勢を無闇に恐れるな。敵が攻めかけて来たならば退き、退いたならばこれを突き崩せ……」

 信長の全軍に向けた訓示も、どこか遠い出来事のようだ。高揚と恐怖とがないまぜになった感情が再び心に渦巻き、それどころではなかったのだ。

「もし、もし」

 不意に声を掛けられ、夢から覚めるように正吉がびくりと振り返る。彼の眼前には、首級が入っていると思しき袋を腰に括り付けた若武者が居た。さほど年頃も変わらない筈だが、その体は返り血に塗れ、顔には精悍さが満ち満ちていた。

「お主、気は確かか。殿のお言葉をしかと聞き及んでいたのか」

 怪訝そうに自分を凝視しながら問うて来る。どうやらこの男には自分の醜態が目に入っていたらしい。

「……面目もない。気持ちが落ち着かず、聞き漏らしてしまい申した」

 顔を赤くしながら、正直に言った。今更格好をつけても仕様がないし、つまらない嘘で恥の上塗りなどしたくはない。それに比べれば正直に恥を晒した方がまだましだ。

「お主、もしやこれが初陣か」

 小さく頷く。今すぐにでもどこかに消えてしまいたい思いだった。だが彼はそれを馬鹿にするでもなく、得心したとばかりに頷いて見せる。

「成程。それならば無理もない。俺も初陣の時はお主と同じく、自分の事しか考えられなかったものだからな。まして此度は織田の存亡に関わる大戦だ。それが初陣とは、運が良いのか悪いのか」

 苦笑する若武者の有様は、あくまで泰然自若として揺るぎがない。未だに心落ち着かぬ自分とは比較にもならない。それは合戦を知る者と知らぬ者の差なのだろうか。

「殿は首級を無闇に取らず打ち捨てにせよと仰せになられた。首級など獲る暇があったら一人でも多くの敵を殺せとな。だから無理に手柄を立てようとして勇み足はしない事だ。命あっての物種と言うからな。もっとも……」

 若武者がぷつりと言葉を切る。彼が飲み込んだ言葉が何であるか、正吉にはわかる気がした。

 雷鳴が轟いて、二人の会話が遮られる。その後に続くように、桶狭間山の方角から猛烈な雨が降り注いだ。それは前が見えなくなるほどに激しく、叩きつけるような雨だった。若武者が呟くように言う。

「馬は使い物になるまいな、この調子では」

 地面がぬかるめば馬は脚を滑らせやすくなる。それが乱戦の最中ならば致命的だ。しかもこれから攻撃しようとしている敵は山に陣取り、その周りは歩きにくい丘陵地帯なのだ。これでは馬の力は無に等しくなる。

「戦になったら、馬からは下りて徒歩立ちで戦うのがいいだろう。見ればお主、馬に乗るのには慣れていないように思える。ただでさえ初陣で戦慣れしていないのに、更に慣れない事をやれば死ぬだけだぞ」

 一体彼はどこまで自分の事を正確に観ているのだろう。確かに慣れているとは言えぬ馬上の行軍で先程から尻に痛みが走っている。その何気ない仕草を見咎めたのだろう。今にも戦が始まると言うのに、恐ろしく冷静で的確な観察と言える。とても自分と同じ年頃の青年とは思われなかった。まるで新兵と歴戦の勇者が対しているかのようだった。

「今こそ好機! 一気に山肌を駆け登って今川の先鋒を追い落とせ! ここが勝負の掛け時ぞ! 俺に続け、続けえいっ!」

 遠くから例の甲高い大音声が聴こえる。信長の突撃命令が発せられたのだ。地響きのような雄叫びと共に、周囲の人間達が一斉に山頂に向けて猛然たる突進を敢行する。

「生き延びたならばまた会おうぞ! 武運を祈る!」

 若武者もそう言うなり、遅れじと突っ走っていった。正吉も馬から下りてこれに続く。駆け登って目の当たりにする、旗指物や幟が入り乱れて敵味方の区別すらつかない乱戦模様。あちらこちらから聞こえる怒号は、この青年には聴こえていない。そんな余裕は眼前の殺し合いを見た時に、或いは信長の号令を聞いた時に吹き飛んでいた。

 腹の底から声を出しながら、彼は疾駆し続ける。大声を出さなければ、心を覆い尽くす幾つもの感情に己の命ごと飲み込まれてしまいそうだった。それは助けを求める悲鳴に似ていた。

 やがて一人の敵と対し、殺した。その男の絶望と恐怖に満ちた目が、呪いのように正吉の脳裏に深く刻み込まれる。それは二人、三人と殺しても消えるどころか増すばかりだった。信長の訓示があろうとなかろうと、首級を挙げるなど思いもよらない。彼にはただ、駆ける事しか出来なかった。

 どれだけ駆けただろう。それまで小高い丘陵地帯だったのが、俄かに平坦な地形に変わっている。先の豪雨で地面は泥濘と化し、皆が泥塗れになりながらなお激しい戦いを続けていた。

 また敵が現れた。だが今までの敵と違い、容易ならざる殺意と威圧感漂う壮年の男である。半ば忘我の境にあった正吉をして、思わず正気に立ち返らせる凄まじい殺気を放っていた。

「下郎めが……! 貴様ら薄汚い雑兵どもを、大殿に近付けはさせんぞ!」

 その構えは確かな鍛錬と実力に裏付けられた油断ならぬものだ。紛れもなく歴戦の勇者であろう。勢いだけで倒せる相手ではなく、そしてその勢いは既に失われていた。我に返った事で、心中が死への恐怖に満ちていたのだ。思わず後ずさって腰が引ける。

 それを見逃さず、男は稲妻のような疾さで槍を繰り出した。すんでの所でこれを防ぐが、男は休む事なく次々と鋭い攻撃を仕掛け続ける。恐怖に縛られた正吉には為す術もない。そして遂に、危うい均衡が破られた。強烈な横薙ぎに対応しきれず正吉が防御を崩した所に、素早く敵が石突きで胴を突いたのだ。

「あっ、ぐ」

 胴への痛打と地べたに叩きつけられた痛みで思わず喘ぐ。敵は油断なく近付き、とどめを刺すべく槍を構える。その姿が、みるみるぼやけていく。声が出せない事はむしろ救いだった。正吉はきつく瞼を閉じ、その時を迎えるべく心を落ち着けようとした。瞼から零れた雫が、頬を伝う。

 だが、来るべき痛みも苦しみもやっては来なかった。代わりに聴こえたのは鉄と鉄がぶつかり合う音と、誰かが舌打ちする音。

「……まったく、言わん事じゃない!」

 聞き覚えのあるその声を聴き、恐る恐る目を開けた。そこで見たのは、それまで自分にとどめを刺そうとしていた男が新手と対する様だった。そしてその新手は、突撃前に自分に声を掛けた若武者その人だったのだ。

「無理に前に出て勇み足をするなと言ったろうが! 今戦っている連中は皆義元の旗本ばかりだ! 初陣のお前が一人で勝てるものか!」

 荒々しく息を吐きながら、まるで至らぬ弟子を諭すように若武者が叫ぶ。既に激戦を戦い抜いたせいか戦前の余裕はない。言葉遣いが荒くなっているのがその証だった。

 二人の戦いは熾烈を極めた。技量はどちらが上とも言いきれない。だが疲労の度合いを考えれば若武者の側が不利である。事実、彼の表情には焦りの色が浮かんでいた。このままでは遠からず、打ち負けてしまうだろう。

(助けなければ)

 しかし、その想いとは裏腹に動く事が出来ない。足はがたがたと震え、腰はまるで抜けてしまったようである。一時死の淵に立たされた事への恐怖はそれほどまでに大きかった。だが――。

(ふざけるな、畜生! お前は一体なにをやっているんだ! 動け、動け!)

 それ以上に、自分に対する怒りの方が強かった。戦いに赴く前、戦いの直前、そして今この時。彼は三度に渡って臆病風に吹かれた。そんな自分が情けなく、許せなかった。まして今度は、自分を救ってくれた恩人の危機なのだ。

 涙を拭い、近くに落ちた槍を拾い上げる。それを杖代わりにして立つ。息を、鼓動を整える。足の震えがぴたりと止んだ。そして彼は衝動ではなく自分の意志で、駆けた。

 突如上がった凄絶な雄叫びに対し、しまったという表情で男が振り向く。先程打ち負かし、犬のように震えて涙していた小僧がもう一度立ち向かって来るなど思いもよらなかったのだ。そしてこの事態を若武者が見逃す筈はなく、すかさず槍を繰り出す。辛うじてそれを防いでも、後ろから迫り来るもう一人の若武者にまで対応する余力など、もうこの男に残されてはいなかった。

 断末魔の絶叫と夥しい返り血。正気と言える状態での、初めての経験だった。大きな溜め息と共に、へたり込むように尻餅をつく。再び息と鼓動が荒くなり、体中が震えていた。若武者も周囲を三度まで見回した後、槍を杖代わりにしながら大きく息をつく。

「……すまぬ」

「いいさ、別に」

 俯く正吉に、若武者は気にするなと手を振って打ち消そうとする。

「ともかく、無事で何よりだ。まさかこんな敵陣深くまで来ているとは思わなかったから、見つけた時は驚いたぞ。正直、ここまで勇敢だとは思わなかった。てっきりおれは……」

「違う」

 擦れ声で正吉が遮る。

「勇敢だから前に出たんじゃない。死ぬのが恐ろしくて、何が何だかわからなくなっただけだ。首級を獲ろうとか、勲を立てようとか、そんな事は全く考えられなかった」

 また視界が揺らぐ。自分はいつからこんなに涙脆くなったのだろうか? それとも弱気と臆病が表に出た為だろうか? みっともないとわかっていても、止められなかった。

「おれは、臆病者だ」

 若武者は素早く周りを見渡し、小さく息を吐いた。ゆるりと腰を下ろし、正吉の隣に座る。竹筒を取り、一息に水を干した。

「……まだ戦を知らなかった頃に聞いた話だがな」

 若武者はどこか遠くを見るような目で独り言のように語り始める。

「ある高名な武者が、初陣を終えたばかりの二人の若武者に、戦はどんな具合だったかと尋ねた。一人は『心は千々に乱れ、敵と対したら震えが止まらず、運良く討ち取った敵がどんな鎧を纏っていたかもまるで覚えていない』と答えた。もう一人は『自分は敵がどんな鎧を纏い、どんな馬に乗り、どこで組み合ったかなどを、全て鮮明に覚えている』と答えた」

 正吉は俯いたままだが、涙を拭いながら耳を傾けている。

「武者は二人が帰った後従者に対して『最初に話した者は正直な男だ。わしも戦いの経験が浅かった頃は戦いの有様などまるでわからなかった。敵と対するのも恐ろしくて仕方がなかった。だから正直に話をしているのだとわかる。あれは立派な武者になるだろう。だがもう一人の方は駄目だ。あれは恐らく誰かが打ち捨てたのを拾ったか、或いは手柄がないのを憐れんで譲って貰ったかした首級を、さも自分の活躍で獲ったかのように言葉を飾り嘘をついているのに相違あるまい。初陣でああもすらすらと戦いの詳細を語れる者など居るものではない。あの者は次の戦では活躍どころか、命を拾えるかすら心許なかろう』と述べた。そして後日の合戦では、その武者の言う通りの結果になったという」

 一息に喋り終えた後、若武者は今一度周りを見る。既に主戦場は遠くなっており、こちらに敵がやって来る気配はなかった。

「俺は最初、その話を頭から信じる気にはなれなかった。だが実際、初めて戦場に出てみたら……本当に、その話の通りだった。今のお前と同じように、周りなど何も見えず、何もわからず、訳もわからぬままに駆ける事しか出来なかった。……死にたくないという思いだけで、戦っているようなものだった。今だって心の中に死に対する恐れはある。多分戦に出る限り、その思いは消えないんだろう。だからお前が格別に臆病だとか、そんな事はないんだ。第一!」

 不意に大声を発した事で、思わず正吉は若武者の側を見た。若武者は真っ直ぐに彼を見返す。

「誰かを命がけで助けようとするような男が、臆病者の訳がないだろう」

 今までで一番熱の籠った口調だった。それは挫折で自信を失った年少者に対する説諭に似ていた。その熱に打たれてか、正吉は暫し返す言葉に窮した。未だ彼は、自分の事を信じ切れていないのだ。

「……それは、先におれの方が助けられたからで」

「だから助けるのは当たり前だろうと? 確かにそうかも知れんな。だが世の中には恩を仇で返す輩なんて珍しくもない。もしお前が本当に臆病なら、俺が奴と対している間にその場から逃げ出していただろうさ。以前助けた奴がまさにそんな奴だった。だがお前は、槍を取って再び立ち上がった」

 そして若武者は、はにかむように微笑った。

「お陰で俺は、こうして死なずに済んだ。お前が助けてくれたから勝てたんだ。……ありがとう」

 頭を下げる若武者の姿に、今度こそ言葉が出ない。本来自分がしっかりしていれば、彼を危険に晒す事はなかった。自分はただ、その穴埋めをしただけに過ぎない。だがそれでも、若武者の真心から来る言葉は、純粋に嬉しかった。

「――もう、こんな無様は晒さない。晒したくない」

 やがて心に灯った小さな火が、言葉となる。それは、戒めと共に心に刻む決意。

「今のおれは弱い。心も、技も、体も、何もかも。それでも、もう逃げない。自分の弱さからも、臆病さからも。そして、それを乗り越えられるくらいに、強くなるんだ」

 若武者がじっと正吉を見据える。その顔にはもう、迷いも恐れも見られなかった。

「……公、御討死!」

 不意に戦場を圧する大声が響く。咄嗟に若武者は鋭い眼光と共に声の方角に目を向ける。正吉もそれに続いた。その声の主は、背に織田木瓜の旗を背負った伝令役と思しき騎馬武者だった。彼は深呼吸をし、戦場全体に響かんとする大音声を再び発した。

「今川治部義元公、毛利新介良勝が手により御討死! 繰り返す! 今川治部義元公、毛利新介良勝が手により御討死!」

 思わず二人は再び顔を見合わせる。勝ったのか、と独りごちる正吉を見て、若武者は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「お前を助けたせいで、どうやら大魚を逃してしまったらしい」

 すると正吉は神妙な顔で暫く黙りこくり、

「すまん。おれのせいで」

 と深く頭を下げた。この返しに、若武者はぽかんと口を開けて目を瞬かせる。その後苦笑いを浮かべながら、

「冗談だ、馬鹿」

 と、軽く小突いた。今までの会話、独白、そして今しがたのやり取り。眼前の青年がどんな男であるのか、わかる思いがした。要するに馬鹿正直なまでに愚直な男なのだ。少なくとも彼はそう信じた。

(危なっかしい奴)

 そう思いながらも、眼前の不器用な男の事は、決して嫌いではなかった。

「名を、聞かせては貰えないだろうか」

 その青年の一言で、そういえば自分達はまだ互いに名乗ってもいないのだと今更ながら思い至る。それにしては随分と深く話し込んだものだ。

「おれは兼松又四郎正吉という。今日助けられた恩はいずれ必ず返す。だから名を聞かせてくれ」

 遠くからは甲高い声で音頭が取られた勝鬨が聴こえる。既に今川勢は逃げ散り、残されたのは敵味方の屍と、力尽きたように座り込む織田兵だけだ。そんな中発せられた正吉の声は力強く、確かな意思が宿っていた。

「俺は毛利河内長秀だ」

 長秀はそう言いながら手を差し出す。すぐに力強く握り返された。そこに居たのは、ほんの少し前死の恐怖に飲まれ涙した弱兵ではなかった。長秀はにっと笑みを浮かべて言った。

「それなら、今宵はお前の初陣と強運、そして勝ち戦を祝って酒でも酌み交わそう。無論、酒はお前持ちだからな」

 勿論だと言わんばかりに当然の如く頷いた正吉を見て、長秀は吹き出すように笑った。正吉は最初きょとんとしていたが、つられて自分も笑った。思えば久しぶりの笑いだった。

(今宵の酒は、うまいものになるだろうな)

 二人して、そんな思いを抱いていた。遠くからは勝鬨が聴こえる。二人は力強く立ち上がり、その輪に加わるべく駆け出して行った。




 天地を揺るがすような轟音と、夥しい人間の発する怒号と悲鳴が聴こえる。天には鉄砲による黒煙が渦巻き、地には凄惨な戦による血煙が上がっていた。

 その戦から背を向けるように、必死に逃げる青年が居る。その後ろからは敵が迫っていた。青年にとってその男は、地獄の悪鬼が地上にやって来たような存在にしか見えなかったろう。目には涙が滲んでいた。

 何かに躓き、倒れ伏す。急いで顔を上げた時に見えたのは、鬼が自分に向けて槍を突き出す姿だった。悲鳴すら間に合わず、自分の喉が突き破られる様を激痛と口から血が零れる感触で確かめたのが、彼の最期の記憶となった。

 槍を引き抜いたのは三十になろうかという男盛りの武者である。顔立ちは素朴ながらも精悍で生気に満ち溢れ、歴戦の風格すら漂っている。事実彼は、この乱世にあって十年もの長きに渡って最前線で戦って来た兵であった。

 その若き兵の目に、鮮やかな紅の母衣がふと映った。赤母衣を背負う武者は馬廻の中でも選りすぐりの若武者である。そしてこの母衣武者は敵の兵と激しい戦いを繰り広げていた。男は飛ぶように駆けつける。彼が古くからの知己だったからだ。

「おお、又四郎か! まだくたばっていなかったんだな!」

 母衣武者が軽口混じりに男の名を呼ぶ。

「俺は昔から運だけは強いんだ。それはお前だって知っているだろう、河内よ!」

 又四郎と呼ばれた男の返しに、母衣武者はにやりと笑みを浮かべる。その間にも敵の攻撃を上手くかわしている。その技量は確かに、赤母衣を背負うに相応しいものと言えた。

「まあなんにせよ、手を貸してくれ! この長末という男、なかなかの手練れでな! お前が加わらんとちと面倒だ!」

 兼松又四郎正吉は戦友への返事代わりに、長末と呼ばれた敵に鋭く槍を繰り出した。毛利河内長秀もそれに呼応するように仕掛ける。さしもの長末の顔に、焦りの色が浮かんだ。

 かの桶狭間合戦から十年の月日が経っている。その時には未熟な青二才であった正吉も、その後の美濃・北伊勢攻略や上洛戦などの数多くの戦いに従軍し、今や一人前の武者として大きな成長を遂げている。信長によって赤母衣衆の一員に選ばれた戦友の長秀にこそ及ばぬながらも、信長直属の馬廻としてその剛勇は一目置かれていた。

 程なくして、長末某の横腹に正吉の槍が深々と突き刺さる。どんな勇士でも複数の人間に取り囲まれれば勝機は薄い。まして対する相手がいずれ劣らぬ猛者二人なのでは勝てる道理がなかった。そのまま突き伏せられ、ぴくりとも動かなくなる。

「流石だな。今日も槍の技は冴え渡っていると見える」

「二人がかりで戦って技も何もあるか。桶狭間を思い出せ」

 槍を引き抜き、長末を指差すように槍先を示す。

「さあ、早く首級にしろ」

 ところが長秀は首を縦に振らなかった。

「誰かの手を借りて得た首級など手柄になるか。それはお前にやる。礼代わりに取っておけ」

 正吉は一瞬声が出なかった。思いもよらぬ言葉だったからだ。

「何を馬鹿な。俺はただの助太刀だ。助太刀が首級を横取りする法があるか。いいからお前が首級を獲れ」

「いや、お前に譲る。恐らくこの長末という男はひとかどの将に違いない。持って行って手柄にしろ。そうすれば殿も一層お前に目を掛けて下さる」

「冗談を言うな! 譲られた首級を我が物顔で殿に見せびらかせと言うのか! それこそ手柄と呼ぶに値すまい。そもそも俺はお前に大きな借りがあるんだ。その上更に借りを作る事など出来るか!」

 それは甚だ奇妙な光景と言えた。首級を奪い合うならありふれているが、譲り合うとなるとなかなかあるものではない。いっそ滑稽とすら言えるが、二人にとっては真剣そのものだった。堂々巡りの押し問答はなおも暫く続けられた。

 一際凄まじい轟音が戦場に響き渡るまでは。

その音に二人はぴたりと口論を止める。轟音は二度、三度と立て続けに響き、何かの合図と思しき法螺貝の音がそれに続いた。前方を見れば、味方が敵に押し戻されつつある。三好勢に加担した本願寺門徒勢が反撃を開始したのだ。長秀は舌打ちした。

「風向きが変わったか」

 戦いはしばしば勢いによって決する。勢いが失われれば、どんな猛者であってもあっさり討死を遂げてしまう事は珍しくない。そしてまさに今、織田軍は勢いを失い、敵軍の勢いは増しつつあった。遠からずここにも敵がやって来るだろう。そうなればのんびり首級など獲っている暇はない。

「どうやら譲り損のようだな」

「だから首級にしろと言ったんだ。むざむざ手柄を無駄にするな」

 既に二人は後退準備を始めている。少しの手間があれば首級が獲れると思うかも知れないが、敵の勢いはそれを許さないだろう。少なくとも二人はそう判断した。一瞬の判断の遅れが命取りになる事を、二人は熟知していた。

「それにしても相変わらず律儀な奴だ。もう十年も前の話だぞ。今更借りも何もあるか」

「命を助けられた借りに、年月なんて関係ない。俺はまだ借りを返していない」

(本当、変わらないなお前は)

 笑みを作りながら長秀は思う。二人の地位はこの十年で大きく変わった。信長にとっての馬廻とは単なる護衛、勇士集団ではない。時には彼の側近として槍働き以外の働きもこなさねばならない。そして正吉は良くも悪くも槍働きの人で、長秀はそうではなかった。自然、信長からの評価は変わって来る。長秀が首級を譲ろうとしたのもそれとは無関係ではない。その申し出を当然のように拒否する所が、兼松又四郎正吉という男の美徳であると同時に、限界をも示していた。

 それでも、その愚直で融通が利かず馬鹿正直な性格が長秀にとっては好ましく思われる所だった。十年経って、彼は本心から頼もしく思える戦友になっている。自分で宣言した通り、心技体は十年前とは比べ物にならない成長と変化を遂げている。だがその心根だけは、十年前と変わっていなかった。それが嬉しかった。

 また雷鳴の如き銃撃音が響く。それも二度、三度に渡ってだ。敵味方による鉄砲の応酬だった。それを合図にするかのように、二人は言葉もなく前線から退いた。その鮮やかな手並みは敵を倒す時のそれと何ら変わりがなかった。




 天正元年八月十三日の夜。田上山の朝倉軍を睨む山田山の陣城で、兼松又四郎正吉は死んだように眠っていた。昨日の出来事で、肉体が睡眠を求めていた為である。

 去る十二日。北近江一帯は猛烈な暴風雨に晒された。その勢いは凄まじく、砦そのものが風で持って行かれてしまうのではないかと錯覚するほどのものだった。信長が朝倉軍の出城である大嶽山砦と丁野砦を馬廻のみで攻撃したのは、まさにその只中であった。

「こうした大嵐の時こそ逆に好機というものぞ! 敵も味方も、まさかこんな時に兵を動かすとは考えまいからな! いざ、俺に続け!」

 そう喚いて自ら先頭に立ち突撃する主君を懸命に追い、前も碌に見えない山中を突っ走った。幸いにして完全に不意を衝かれた敵勢は速やかに降伏したものの、一日中続く大嵐での猛烈な逆風に逆らっての強行軍が肉体に響かぬ筈はなかった。だが……。

 不意に響いた微かな音に、正吉はがばりと跳ね起きた。

「しまった!」

 彼は思わず叫ぶ。大急ぎで軍装を整える間、今一度音が響いた。法螺貝の音だ。二度の強襲の後に兵を再編した信長は、重臣や馬廻の面々にこう告げていた。

「連年の戦と我が調略により、既に朝倉に戦意はない。その上二つの出城を失ったと知れば、必ず態勢を立て直すべく越前に撤退を図る事だろう。その機を用いて追撃し、一気に朝倉の息の根を止めてくれる。よいか、奴らは必ず撤退する。その時直ちに追撃に移れるよう、ゆめゆめ警戒を怠るでないぞ! 遅参など致しむざむざ好機を逃すような間抜けは我が家臣には要らぬからな!」

 信長のくどいまでの下知に、佐久間信盛を始めとする重臣達は半信半疑であり、馬廻の面々ですら疑ってかかる者が少なくなかった。味方は三万余、朝倉は二万余。決して正面から戦えぬ兵力差ではない。そんな彼らが金ヶ崎以来の紐帯を断ち切ってまで浅井を見捨て、本国に逃げ帰るとはどうしても信じられなかったのだ。正吉もその一人だった。

(何たる馬鹿だ、この俺は!)

 陣屋を飛び出して駆けながら、自らの愚かさを呪う。馬廻とは常に主君を護り参らせる存在でなければならぬ。なのにこの体たらくは何か。これでは不覚に不覚を重ねた桶狭間と何も変わらないではないか。

 やっと彼が追いついた時には既に戦いが、否、殺戮が始まっていた。朝倉軍には備えも何もなかった。信長が完全に自分達の心理や動きを読み切っていた事など知る由もなく、不毛な戦から解放されて本国に帰れると信じ切っていた。そこを無慈悲に強襲されたのである。鎧袖一触とはまさにこの事だった。

 田上山から地蔵山、そして最大の激戦地となった刀禰坂へと戦場が移りゆく中、正吉はひたすらに首級を求めて駆けていた。馬廻にも関わらず不覚を取った事の償いは手柄以外にあり得はしない。そう信じていたからだ。駆け続けで足に痛みがあるが、そんな事に構ってはいられなかった。

 そしてやっとの事で首級を獲り、信長への拝謁が叶うのにはなお暫くの時を要した。信長の下に次々と届けられた首級の中には『一乗谷奉行人』と称された朝倉家宿老河合吉統や、森可成を討ち取った功のある山崎吉家、更には嘗ての美濃太守斎藤龍興など名だたる武将の首級が数多く含まれていた為である。

「おう、又四郎か。そなたも手柄を立てたのだな、結構な事よ」

 そのせいかどうかはわからないが、信長の反応が思っていたほどではない。無論この一方的な勝ち戦に上機嫌ではある。だが少なくとも、自分の首級が彼の感情を更に昂らせるほどのものではないのだろうとは感じられた。

 しかし、信長が何かを言いかけてふと止めた。何事ならんやと思い、無礼を承知で主君を見つめる。信長の視線はある一点に集中していた。

「その足はどうしたのだ」

 そう言われて、自分も主君に倣って足元を見る。思わず顔が赤くなった。その足は紅に染まっていたのだ。そして本来履いているべき草履が、ない。慌てるあまり履き忘れていたのだろう。正吉は意を決して主君にもう一度向き直った。

「……恐れながら申し上げます。それがし殿のご下知あるにも関わらず、不覚にも遅参致しました。急ぎ追いつかんとするあまりに草履を履き忘れたのだと。しかし己の無様を恥に思い、何としても手柄を立てねばという思い以外は頭になく、夢中で駆け回っておりました」

 二人の視線が交わる。正吉の心に恐れはなかった。仮に信長の怒りに触れて斬られたとしても悔いはすまい。己の失態を糊塗するくらいなら、それこそ正直に話して手討ちにされる方が遥かにましだった。

「もう十年以上も前になるが」

 沈黙を先に破ったのは信長の方だった。

「わしが手勢を熱田神宮に集結させた時、もう儀式を始めようかという頃にのろのろと現れ、暫く列に並ぼうともしない小僧が居たな。遠目からでも、いかにも初陣という佇まいで頼りなく線の細い奴に見えたものだ」

 正吉の顔が前にも増して赤くなった。

「お、覚えておられたのですか」

「あれを忘れよと言う方が無理な話だろうが」

 信長が白い歯を見せてにやりと笑う。

「……今は立派な面構えだ。それでこそ我が馬廻の列に加わるに相応しい」

 信長は床机から立ち上がるや、腰から何かを取り出して放った。それは足半だった。

「山中を駆け回るのならば、それでも不足はあるまい」

 呆然とした面持ちの正吉を見下ろしながら言う。そして今度は、弟を見るような柔らかな笑みを浮かべた。

「次は後れを取るまいぞ、又四郎」

「……ははっ!」

 正吉は胸に足半を抱き、深々と頭を下げた。何を賜ったかなど問題ではなかった。ただ我が君が、若き日から今に至るまで自分の事を気に留めていてくれた事そのものが嬉しかった。この足半は彼にとって、主君の自分に対する真心そのものだった。

「殿より賜りしこの足半、兼松累代の宝と致します」

 故にごく自然と、そんな言葉が口から発せられた。信長は呆気に取られたような顔をした後、困ったような顔で微笑った。

「それでは意味がなかろうが、馬鹿め」




 それは戦場には似つかわしくない白髪の老人だった。齢は六十に届こうという風貌で、数多の傷跡と歴戦の佇まいがなければ、単なる朴訥な老人にしか見えない事だろう。だがその動きの切れは、若者ですら舌を巻くほどに鋭いものがあった。

 その老人が動きを止める。見知った顔を敵方に見つけたのだ。敵も老人を見つけたようで、まっしぐらに走り寄って来た。その男も若いとは言えない。

「誰かと思えば、修理ではないか。とっくに楽隠居でもしていると思っておったのに、老いさらばえてなお戦に首を突っ込もうとするのかね」

「お主こそ、自ら槍を取って戦うとは年甲斐もない。もう若くはないのだから引っ込んでおればよかろう、筑後」

 とても敵味方とは思えぬ雰囲気で軽口を叩き合う。この二人が古くからの知己である証だった。だが筑後と呼ばれた者の目は笑っていない。

「そうも行くまいよ。中納言様進退の危機に、己の命を惜しんでおられるものか。何しろあの御仁は亡き総見院様のご嫡孫なのだからな」

 そして彼は、厳しい表情で老人を睨み据えた。

「お主は内府に与して中納言様を討つつもりか。それが総見院様の馬廻を務めた男の為すべき事だと申すのか、修理よ」

 津田筑後守元綱の詰問に対し、兼松修理亮正吉は真正面から見返す事で応えた。

 慶長五年八月。美濃国は東軍と西軍の激しい鍔迫り合いの場と化した。当地を治める岐阜中納言織田秀信が西軍に与し、東から攻め寄せて来た東軍を迎え撃った為だ。福島正則と池田輝政を中心とした東軍は急進し、一気に秀信を屈服せしめんと大軍を差し向けた。その一方が派遣されたのが、この米野という地だった。そして正吉は東軍に与し、秀信方と戦う側に立っていた。

「中納言様は元々殿の会津征伐に従軍する約束をしておられた。それを反故にして治部に味方したのは中納言様ご自身ではないか。もし中納言様が意志を翻さねば、こうしてわしとそなたが槍を交える事もなかったのだ」

 二人は言葉と共に槍も交え続ける。集中を乱せば死に繋がるこの状況を鑑みれば恐るべき度胸と技量と言うべきだった。

「今更な話よ。わしは殿の下知に従うまでの事だ」

「それはわしも同じ事。わしが好き好んで中納言様を弑し奉らんとしているなどと、そなた本気で考えておるのか」

「まさかな」

 まるで休憩でもするかのように距離を取る。実際二人の息は荒いものがあった。

「だが嘗ては同じ旗を仰いでおったというに、今や敵味方。総見院様が亡くなられてからというもの、互いに大きく立場が変わりすぎたわ」

 そうして、元綱は辺りを見回す。正吉もこれに続いた。彼我の兵力差は歴然であり、既に秀信方の敗勢は覆いがたい。徐々に押し込まれ、岐阜方面に兵馬が後退を始めていた。

「一騎打ちには負けずとも、戦には負けたか」

 その口ぶりには、どこかほっとしたような趣があった。

「互いに生きておればまた会おう」

 そう言い残し、脱兎の如く駆け去る。正吉は追わなかった。追えなかったとも言える。心情的に殺したくない思いがあったのと同時に、肉体が悲鳴を上げていた。荒れた息遣いが元に戻らない。

(老いたな、俺も)

 しみじみと思う。当年六十歳。戦場で槍を振るうには齢を取りすぎた。自分が与する徳川家康よりも年上なのだ。のみならず、彼の直属の上官達も多くは自分の倅と言っても不思議でないほどの年下の将ばかりだった。

 初陣から奇しくも四十年。その間に彼とそれを取り巻く環境は二転三転、紆余曲折の極みとなった。その発端は今から十八年前の天正十年に主君織田信長が不慮の死を遂げた事だった。彼はその死に際して京に不在であり、信長に殉じる機を永遠に失ってしまった。その後も織田信雄や豊臣秀吉、秀次などに仕え、今は内大臣徳川家康の下で槍を振るっている。年月を経ても彼の役回りは変わらなかった。

だが嘗ての同輩の中に、彼のように古兵として前線で槍を振るう者など残っていない。その多くは大名になるか、一線を退くか、或いは既にこの世を去るかしている。そして鬼籍に入った戦友の一人に、毛利河内守の名も含まれていた。

 毛利河内守長秀は信長の厚い信任の下に信忠付の将となり、武田滅亡後には遂に信濃高遠城を与えられ大名に取り立てられた。信長の死による混乱で一旦所領から退去するも、後に飯田城主として再び大名となり十万石を領する。秀吉に仕えるに際して名を秀頼と改め、七年前の文禄二年にこの世を去っている。

 それに対して正吉の知行は千石。秀頼のそれの百分の一である。客観的に見れば最早同輩などと言うのはおこがましいかも知れない。友と呼ぶ事さえも。それでも正吉の秀頼に対する思いは変わらなかった。

「寒いな」

 まだ残暑の残る季節だ。戦いを終えたばかりでもある。それなのに心の中には、寒々しい風が吹き荒んでいた。今にも凍え死んでしまわんばかりに。

 敵を蹴散らし、意気揚々と岐阜へと進撃する東軍の中にあって、正吉の心に晴れやかさや高揚感は微塵もない。そしてもう、二度と湧き上がって来る事もないのだろうと自覚していた。その後ろ姿は勝ち戦にあって、まるで落ち武者のように見えた。




 記憶の海から現世へと還るかのように、老人は閉じていた目を見開いた。眼前には感に堪えぬ面持ちの将軍秀忠と静かに侍る土井利勝の姿がある。昔語りはどうやら終わったらしかった。まるで他人事のように思える時間だった。

「羨ましい事だな」

 秀忠がぽつりと呟く。その意味は正吉の推し量れる所ではない。だが雲上人には雲上人なりの悩みや憧れがあるのだろうとは考えている。

(大名というのは、皆が思うほど羨ましい地位でもない)

 秀頼とふとした機会で再会し、話をした時の事を正吉は今でも鮮明に記憶している。久方ぶりに会った戦友は、自分のそれ以上に老いているように感じられたものだった。

(もう昔のように自分の進退だけ考えればいいような単純な話ではない。時には自分の意に沿わない事でもやらねばならん。家臣を養わねばならぬからな)

 そして何処か寂寥感を漂わせる表情で、哀しげに秀頼は言った。

(俺はお前が羨ましいよ、又四郎)

 その時も正吉には何故友がそんな事を言ったかがわからなかった。多分生きている内にはわからないのだろう。そしてあの世に行ったとしても、それを追求しようとは思わなかった。心静かに酒でも飲めれば、それでいい。

「……時に一つ、聞いておきたい事があるのだがな」

 秀忠の問いで我に返る。

「猪子内匠という者の事は覚えておるか」

 猪子内匠一時とは信長に赤母衣衆の一人として仕えた正吉の同輩の事だ。無論忘れる筈もない。

「今あれはわしの御伽衆を務めておるのだが、あれとそなたとではどちらが年長であったかな?」

 正吉は目を伏せて記憶を呼び起こす。再び記憶の海を泳ぎ、今度はそう長い時間も掛けずに現実に戻り来った。

「……記憶が確かであれば、それがしの方が年上だったように思います」

 誰かが咳を払う音が聴こえた。土井利勝だ。じろりと横目で睨むようにしている。秀忠の表情も少しばかり硬くなっているように見える。つまり正吉の返事が、秀忠達の期待していたそれとは違った事を意味する。恐らく秀忠は猪子の側が年上と記憶しているのに違いあるまい。

 だが、正吉は老いた双眸に力を籠め、真っ直ぐに秀忠を見据えて言った。

「それがし既に老いさらばえ、記憶の全てが正しいとは申しませぬ。或いはそれがしの記憶が間違っており、内匠の方が年上であるのやも知れませぬ。しかし上様に言上仕るに当たって、自分が信じてもいない事を申すのはそれがしには出来申さぬ。嘘偽りを申して褒美の類を頂こうとは思いませぬ」

 利勝が口を開きかけるのを、秀忠は手で制した。そして先程とは打って変わり、穏やかな笑みを浮かべた。

「流石は歴戦の古兵よな。己の功を必要以上に誇らず、偽る事もない。いや、それでよいのだ。物語ご苦労だった。追って褒美を授ける故、下がるがよい」

 この言葉に対する正吉の態度は、謁見が始まった時のそれと何も変わりがなかった。




 その後兼松正吉はなお十年の余生を過ごし、寛永三年十月にこの世を去った。この時実に八十七歳。戦国の世にあって、なおかつ常に最前線を駆けて来た勇者としては類稀なる長命であると言えた。

 愛知県名古屋市中村公園に、秀吉清正記念館という施設がある。その名の通り、織豊時代を中心とした文物が多く展示されている資料館だ。その文物の中には足半が含まれている。その足半は兼松正吉が信長より賜ったそれであり、兼松家に代々伝わっていたものが寄贈されて今日に至るとされている。

 彼は大名に取り立てられた訳でもなければ、一方の大将や奉行人になった訳でもなかった。最期まで一介の武辺であり続け、高禄を得る事もなくこの世を去った。だがそれでも、その武辺としての彼は『信長公記』という一級史料によって、今日に至るまでその名が残されている。

『さる程に、信長、年来、御足なかを御腰に付けさせられ候。今度刀根山にて、金松又四郎、武者一騎山中を追い懸け、終に討ち止め、頚を持参候。其の時、生足に罷り成り、足はくれなゐに染みて参り候を御覧じ、日比御腰に付けさせられ候御足なか、此の時御用に立てられ候由、御諚候て、金松に下さる。且は冥加の至り、面目の次第なり』

 兼松正吉という男にとっては、或いはこの『冥加』と『面目』だけで、十二分に報われていたのかも知れない。




 兼松正吉という男は、かなり戦国時代に詳しい人でなければその名すら知らない事でしょう。柴田勝家や滝川一益、前田利家のような猛将でもなく、羽柴秀吉や明智光秀、丹羽長秀のような知将でもない。豊臣政権や徳川幕府で名を成す次代の名将とも違う、一介の武辺に過ぎません。古兵ふるつわもの以外に表現しようのない男です。

 冒頭の桶狭間における描写、別して毛利河内長秀との親交については相当に盛っています。殆ど創作に近いです。ただ、野田・福島合戦で首級の譲り合いをした話は『信長公記』にも記されたもので、そこから話を膨らませたのが実際の所です。史実での長秀(秀頼)は、前田利家に対する強い尊敬の念があった模様です。

 隆慶一郎氏の『影武者徳川家康』に、こんな台詞があります。

「どんな勇猛な男も臆病者になり下がることもあるし、どんなに清廉な男でも腐敗堕落することがある。それが凡人というものだ」

 今回の兼松又四郎正吉という人物描写は、その逆を行くというコンセプトで作りました。青年期、つまり初陣の彼があんなにも格好が悪いのはその為で、それが読み進める読者の皆さんにとって見苦しく映りはしないかと思ってしまうのですが……。ただ、偉人が最初から偉大だった訳もなく、勇者が初めから勇敢である訳もないと考える身としては、どうしてもあの描写は必要でした。戦国武将に荒々しい勇敢さを求める人にとっては物足りないかも知れませんが、ご理解を頂けたら幸いに存じます。

 余談ですが、猪子内匠一時の生まれた年は兼松正吉と同じです。つまり秀忠と正吉の記憶は両方が間違っていた事になります。秀忠にとっては数多の家臣の一人の話であり、正吉にとっては八十近い老齢である事を考えれば、無理からぬ間違いだろうと思います。

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