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王子人魚

作者: 高野優

 薄く青かった空が西の方から赤みを帯びた頃、家に帰ってみると、未だ玄関に黒革の靴が置いてあった。だから私は取って返して、今度は町の方へ出た。母に来客があったので、それが帰る迄外に出ているように云われたから。そしてその客とは山高帽子に、マントを着た男なのだった。やっぱり何処かで見たような気がするのだけれど、一体何時のどの場所で会ったのか皆目わからない。 無暗に広い通りを歩きながらずっと考えているが、如何にも思い出せない。

 町は横町が矢鱈多くて、地図にしてみれば恐らく碁盤の目の様になっていると思われた。次いで灰色の四角い建物が同じように並んでいるから、繰り返し巡っては戻ってきているような感じだった。しかし幾つ目かの四辻の角にのぼりが立っている。〝王子人魚〟――どうやら見世物らしい。

 曲がってみると、長方形の暗い入り口がぱっくりと空いている。男の人魚って絵本でも見たことがないな。そう思いながら中に入ると直ぐに人の居ない番台に何か貼ってあって「しゃべってはいけない」「お代は見てのお帰り」とだけ書かれて居た。特に前者には朱い傍線がついているので、殊更大事な決まり事と思われる。目の前には廊下が延びていて、その先に光の点が見えた。

 ……建物の外観はそれ程でもないのにもかかわらず、随分と長い上に、蟹のように進まねばならない位壁同士の間隔が狭い。毛布を何枚も重ねたみたいな壁だったけれど、どうにも息苦しかった。だが点は確かにどんどん大きくなってゆく。やがて視界の内が一瞬真っ白になり、私は広い平土間に出ていた。

 客は空席が数えられる程度に入っているが、どうしてだか皆一様に黒い背広を着て、山高帽子を被っている。

 仕舞った。そう思うと急に顔から冷たくなってゆく気がした。もう引き返した方が良いのだろうけれど、やはり男の人魚は見てみたい。一段高くなった舞台には窓に付けるような欄干が付いていて、それらしいのが身を乗り出す形で凭れ掛かっている。結局私は一番前の空いた所に座った。

 彼は華宵の絵に出て来そうな顔をして、学校の男の子よりも年かさに思われた。眠たそうに伏した白目勝ちの目の縁がほんのり紅くなっている。それを横坐りの足と組み合わせて見てみると、胸音の響きが段々大きくなってゆく、そんな心持ちがした。

 しかし人魚だと云うのに足には鱗すらなく、只ぬめぬめと照っている。両足は線のような窪みを作るばかりで、離れられずに足首まで引っ付いていた。それが魚の尾ひれの如く見えるのが人魚と呼ばれる所以なのだろう。だがこれでは男の人魚ではなく、人魚のような男でしかない。騙された。一体誰が責任をとってくれるのか。そんなことを思っていると人魚もどきが不意に顔を上げ、私の方を見て云った。「ねえ」

 辺りは変わらず白けていた。男は暫くの間じっと見つめていたが、やがて口を開く。「見ない顔だ。いちまさんみたい」私は答えなかった。

「可愛いな。少し話をしよう」

私は黙っている。

「喋るともっと良くなるよ。ね。ほら」

「……」

「きけないの。もったいない」

もったいない、と男はぼんやりとした様子で繰り返し呟いている。そんなことを云われても、決まりは決まりなのだから、どうしようもない。堪らない。

 他の客はどうしているのだろう。横を見てみると、釘付けになったように顔が舞台の方に向いている。反対側に居る客も同じ風で、振り返れば後ろのと目があう。首筋がぞわぞわして、いやな気持ちになった。やはり、あの時に帰らなければならなかったのだ。

 いつの間にか男の声が止んでいる。しかし私はもう元に戻る気はしなかった。「じゃあ僕が可愛いくしてあげよう」びたん、と何か打ち付けたらしい音が聞こえた瞬間、私は立ち上がって駆け出した。

 ……果てには小さな光も見えない。あの狭い廊下は走ることが出来ず、急いで歩かねばならなかった。その間、あれが腕だけで自分の跡をつけているさまばかりが頭に浮かぶ。はっきりとはしないけれど、ずるずるという音がずっと耳に纏わりついているような気がする。

 吐いた息はとても熱いのに、身体はすっかり冷えて、心臓ばかりが速く動く。こっちの方が速いんじゃないかしら。あちらは腕だけだもの。もしかしたら、とっくに取り押さえられているかもしれない。あれだけの人が居たのだし――。

 そんなことを思っても、足を止めることはせずに、どんどん進んでいった。後ろを見れば全部わかる。だけれど、本当に居たならばどうしたら良いのか。

 突然前のめりになって、倒れこみそうになる。どうやら出入口まで来たようだった。私は木戸銭も払わずに、外へ飛び出した。

 空はすっかり薄墨色に染まっている。私は幾つもの辻を通り過ぎて行った。繰り返し巡っては戻ってきているような感じだったけれど、きっと家に帰れるものだと思う。

 そして家の前まで来ると、玄関口に灯りが点いていないのに気がつく。構わずに入ってしまうと、戸を後ろ手に閉め、鍵を掛ける。

 上がり框の前に靴はなく、客はとうに帰ったようだった。茶の間の方からうっすらと灯りがさしているのが見え、向かうと母が私に背を向けるようにして坐っていた。

「ただいま」

「おかえり」

母は私を見もしないで云った。

「お母さん。私、とても怖いめにあったの」

「そう」

「可愛いって云われたの」

「そう」

「でも酷いことされそうになったの」

「早く、御飯食べちまいな。いつまでも片付かないじゃないの」

とうとうこちらに顔を向けないまま、母は立ち上がってそのまま廊下へ行ってしまう。


 布団に潜り込んでも、寝付けずにいた。外は強い風が吹いているようで、雨戸がずっとがたがた鳴っていたのに、不意にばん、と表で音がした。それから少しするとまた、叩かれているように続けて強く鳴り、やがて硝子戸が揺れるらしい音に変わる。

 そして戸が開いた。柔らかい物がべたんと打ち当たって、それが廊下でずるずる引き摺られているらしい。

 私はやはり布団に潜り込んだままである。しかし如何してだか腕だけが冷たくなってゆくように思われた。

 襖が引かれる。べたべた、ずりずり畳の上を這っている。音が頭の上を通り過ぎると、少しだけ頭を出してみた。

 枕辺の畳に黒い筋が見え、それが右から左へ延びているので、恐らく周りを囲んで回っているのだろうと思う。

 母は事態に気付いているのだろうか。そうでないなら、起きたらさぞ驚くと思う。――驚く。仰天して、母は掃除し始める。汚れているからだ。そうでなかったら、しない。

 再び音が近づいてきたので頭を潜らせる。瞬間何者かは動くのを止め、代わりに手を差し入れて来た。濡れていて、変な臭いのする、そんな手を、私のに添えた。

「君は好い子なんだもの。違うところは、僕がそういう風にしてあげようって思って来たんだ」

 だからここから出てきてくれと、男は云う。しかし手は私を引き出そうとはせず、腕さえ握ろうともしない。ただ掌がやたらに熱いだけである。……布団はどんどん湿っぽくなり、ついでに錆のような臭いが強まっていった。


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