②
寒さに震えながら、灯りを数えていた。
夜明けが遅いこの季節、一軒また一軒と消えゆく民家の門灯を見ているだけで随分と暇つぶしになったりもする。十三階建てマンションの十一階にある我が家の朝は早い。
「おはよう…。あなた、また一晩中起きてたの?」
憂鬱そうに母は呟いた。私は、無言で小さく頷いた。
「そう。ところで、今日も学校お休みするつもり?」
「はい。そのつもりです」
わざとらしく丁寧に答えると、母は、唐突に私の顔をじっと凝視した。
「なに? 怖いんやけど」
「華織、あなた学校でなにかあったんじゃないの。少し前まではきちんと毎日学校に通っていたじゃないの。お母さんには隠しごとをせんといてほしいねんよ」
確かに。高校に入学してから二年生の夏休み明けまでは、休むことなく真面目に学校に通い続けていた。ここまでは実に皆勤で、私のちょっとした自慢にもなっていた。この皆勤を卒業まで続けようと本気で考えていた時期もあったのだが、ある日なんの理由もなく学校をサボってみると、張りつめていた糸が切れるように、突然学校に通うことが億劫になった。明確な理由はなにもなく、もしかするとなにか理由があるのかもしれないが、もう二度と学校には行きたくないという気持ちで私の心は支配されるようになっていった。もはや、自分自身でもわからなかった。
「なんも、ないよ」
「なんもないことはないでしょう」
「自分でもわからへんねんって」
「お母さんにも、言われへんことやの?」
「なんもないねんってば」
いい加減に無益な押し問答に苛立ちを隠せなくなってきたころ、リビングの父が私の部屋にまでやってきた。思えば、父がこの部屋にまで入ってきたのは何年かぶりのような気がする。父はあの頃に比べ格段に派手に変化した部屋にも全く興味を示さずに、驚きもせず、どうにも冷めたような、しかし険悪な態度で言った。
「もう放っとけ。相手にするな。会社行ってくる」
その言葉に引っ張られるように、母もいそいそと身支度を始めた。しかし、
「ねぇ、お母さんのお友達の旦那さんで、中高生を中心にカウンセリングをしてはる方がいてるんやけど、お母さんが駄目ならその先生に相談してみたらどない?」
諦めがつかない様子で母は食い下がる。カウンセリングなんて、冗談じゃない。私は病人でも精神異常でもない。
「ママ、ひとつだけお願い聞いてくれる?」
「なに? 言ってごらんなさい」
身を乗り出すようにして、母の声に力が入る。
「お願いやから、私のことはしばらく放っといて」
幻滅したような目で私を見つめる母と目が合うと、少し泣きそうになった。
「わからない。あなたが全くわからない…」
喘ぐように呟いて、母は仕事に出た。あの人は、いつからあんなにも神経質そうな顔をするようになったのだろう。夕飯の支度をする母にまとわり付いて、今日の出来事などを延々と話し続けていたことが大昔のことのように思えた。私は随分と変わってしまった。あの人も、随分と変わってしまった。布団に入ると泣いてしまいそうだったので、コーヒーの香りが充満するリビングで煙草を吸った。のどが渇いて仕方がなかったので、久しぶりに母の入れたコーヒーに口をつけた。私の好きなアメリカンコーヒーだった。
「石川(いしかわ)さん。終わってからちょっと飲みにいかへん?」
会社員の帰宅ラッシュもひと段落したころ、先輩のクマさんが唐突に言った。熊田だか熊野だかというその先輩は、人懐っこそうな笑顔を崩すことはなかった。
「いいですよ。誰と行くんですか?」
とりわけ断る理由もなく、人からのお誘いに多少の喜びも感じつつ、笑顔で返した。
「いややなぁ。俺は石川さんを誘ってるねんで。邪魔物はいらんやろ」
「ははっ。私を誘ってるんや」
ストレートだな、と少し笑ってしまった。こういう誘い文句嫌いじゃない。
「石川さんって、なんか妙な落ち着きあるよね。とても女子高生には見えへんわ」
「だって私、女子高生じゃないですよ。年齢は、女子高生やけど」
「えー、そうなん? なんか女子校じゃなかったっけ?」
「もう、半年は行ってないっす」
へー。といいながら、クマさんは紙コップに商品の即席コーヒーを入れた。会議かなにかで店長不在のこんな日が毎日続けばいいと思う。
「飲む?」
湯気の立つコーヒーを手渡しクマさんは笑った。大阪市内の大学生だというクマさんの笑顔は、どこか洗練されているなと感じた。隙がなく、世慣れているような、そんな感じ。
「私、アメリカンじゃないと無理なんです。ここのコーヒー、濃くてちょっと苦手」
クマさんは、どこまでも洗練された笑顔で微笑んだ。
その笑顔は飲みに行ってもそのままで、クマさんは色々なところへ連れていってくれた。少し飲みすぎた私がフラフラとした足取りで帰宅したのは、終電もとっくに過ぎたころだった。宵も深まり、月の綺麗な夜だった。
あれ? 月明かりってほかに呼び方があったはず…。アルコールのせいか、その単語が思い出せずにいた。少し胸のあたりがモヤモヤとした。
「ただいまー」
部屋に戻った私は、両親を起こさぬよう細心の注意を払い囁いた。
「怖いながらも、」
「みっちゃん?」
「通りゃんせ、通りゃんせ」
今日も来てくれた。今日もみっちゃんはかわいい。にこにこと、本当に楽しそうに歌を唄う。
「こんばんは。今日は三つ編みにしてるんやね。似合ってるでぇ」
「通りゃんせ、通りゃんせ」
「みっちゃんは、いくつなんかな?」
みっちゃんの耳元に顔を近づけ、囁いた。みっちゃんは驚いたように後ろに飛び跳ねた。
「ごめん。びっくりさせてもうた?」
「七つ」
「うん?」
「ウチ、七つになってん」
思ったとおりだ。このくらいの年頃の子供はかわいいなぁ。特にみっちゃんには無上の愛おしさすら感じる。こんなにもかわいい子供を見たことがない。
「へぇ、お誕生日はいつなん? お姉ちゃんが、なんかお祝いしたげよか?」
みっちゃんは、考え込むように虚空を見上げた。ややあって、ポリポリと頭を掻きながらチロッと舌を出した。
「いつかはわからんねん。でも、おっちゃんが七つになったさかいお札を納めに行かなあかんって言うててん」
「昨日も言うてたけど、おっちゃんって誰なん? 親戚のおっちゃんなんかな?」
真っ黒でサラサラな、人間社会の煤(すす)も、塵一つも付いていないかのような綺麗な髪をゆっくりと撫でてみた。その綺麗な髪は手櫛でも充分なほどに全くの絡まりもなく、サラッと私の指先に馴染んでいった。このまま、私の手が溶けてなくなってしまうのではないかと思うほどに、浮世離れした感覚だった。
「あかん!」
突如、大きな声を出したみっちゃんに驚いた。
「どうしたん?」
「お姉ちゃん、ウチに触ったらあかんねん。おっちゃんが見とったら怒られんねん」
時計をチラッと見たみっちゃんは、名残惜しそうに口を尖らせた。
「ウチ、もう行かなあかんねん。お姉ちゃん、また来るね」
私の制止も聞かず、みっちゃんはゆっくりと去っていった。リズミカルに、楽しそうに、いつもの歌を唄いながら。
ちょおっと通してくだしゃんせ。
ちょおっと通してくだしゃんせ。
みっちゃんのかわいい歌声。みっちゃんの楽しそうな表情。
だけど、一瞬見せたみっちゃんの横顔は、寂しさがそこはかとなく漂っていた。みっちゃんのことを考えていると、酔いも一気に醒めていくのが実感としてわかった。
あまりの寒さに耐えかねて、リビングでコーンポタージュを飲んでいた。時刻は早朝五時半。冷える時間帯でもある。街全体が寝静まるこの時間帯、冬場は近所のコンビニ前でバカ騒ぎをする若者も現れることなく静かだった。時折通り過ぎていく新聞屋さんの原付きの音がなんとなく好きだった。しかし、あまりリビングに長居すると朝の早い両親どちらかと顔を合わせることになるため、適度に頃合いを見計らっては自室に戻るようにしていた。
昨年の暮れ、自室のエアコンが故障した。故障といっても稼動ことは稼動するので、恐らくフィルターに埃やらが溜まりすぎているだけなのだろう。私が中学に上がるくらいまでは、父が月に一度はフィルターを掃除してくれていた。しかし、いつしかそれがなくなった。
もう、あれから四年強だ。
四年間、フィルターに詰まる埃は溜まり続けた。同時に、会話もコミュニケーションもなくなった親子の埃も溜まり続ける。定期的な掃除がなくなったせいだろう。あ。我ながらちょっとうまいじゃん。ぼんやりと、そんなことを考えていた。
ふぅ。と小さくため息を吐き、背伸びをするとガチャリ。と、ドアが静かに開いた。
「あなた…。また?」
やはり神経質そうな表情で、母が呟いた。
「おはよう」
私は小声で唸るように言った。
「もう…。せめて、夜は眠るようにしてくれないと」
懇願するような母の声は、あまりにも情けなかった。
「おはよう」
「若いうちからそんな自堕落な生活でどうするの? 人間は、夜は眠るようになっているのよ」
「おはよう」
母は、額を左手で押さえた。声にならないため息が小さく聞こえてきた。
「あなた、お母さんをバカにしているの?」
母は、私の顔もまともに見ようとしない。バカにしているのはそっちだ。「おはよう」の挨拶すら存在しない家族なんて、それはもう家族ではない。真意というものは、いつもギリギリで伝わらない。私の言い方にも問題があるのは百も承知だが。
「だから、おはよう! って」
ポットのお湯が沸いた。ピーっと、少し耳障りな音が静かな空間に響いた。母は今からコーヒーを入れる。いつもと変わらぬ、この家の日常。
「今日も学校、行かへんつもり?」
無機質な声で母は呟いた。その瞬間、私の中でなにかが変わった。正確には、頭で考えていた色々なことが弾けた。うまくいえないけれど、そうとしかいえない。
「ママ、私学校辞める」
友達の誘いを断るような感じで、あまりにも自然に口をついた言葉に自分自身で驚いた。その言葉の重みを脳内で反芻すると、少し頭がクラッとした。
「そう。わかったわ」
左手でドリッパーを持ったままの状態で、母は言った。その声は、今までに聞いたことのない声のトーンだった。ドリッパーから零れ落ちるコーヒーはまるで、琥珀のように美しく、淡い色だった。間接照明しか点けていないせいだろう。私は無言で、その場を離れた。母の口から出る次の言葉が怖かったのかもしれない。
私を立てれば、家族が犠牲になる。現に、なっている。
家族を立てれば、私が犠牲になる。
一人前に、犠牲、だって。おこがましいのは解っている。
どうして、ただ一言「おはよう」と言ってくれないの?
どうして、ただ一言「今日も寒いね」と言ってくれないの?
みっちゃんに会いたい。そう、思った。