古着屋リゼットの初恋
窓から差し込む柔らかな早春の陽射しが、店の隅に並べられた大小さまざまな端切れを黄金色に染めている。
光を反射してキラキラと舞う埃の中で、リゼットは一心不乱に針を動かしていた。
リゼットが家族と営む古着屋には、毎日のように服が持ち込まれ、そして売られていく。
季節が変わって着なくなった外套やサイズが合わなくなった子供服、持ち主が亡くなりクローゼットに放置されていたシャツ。困窮した貴族から古いドレスの買い取りを頼まれることもある。
リゼットたち古着屋の仕事は、引き取った服を洗い、染め直し、補修して、もう一度誰かのもとへ送り出すことだ。
この国では衣服はいまだ貴重なもので、新しい服を仕立てられるのは貴族や一部の裕福な商人のみ。庶民の多くはこうした古着を買い、ぼろぼろになるまで大切に着るのだ。
多岐にわたる古着屋の業務の中でもリゼットは針仕事が一番好きだった。
物心がつくかどうかという頃から母が仕込んでくれた技術によって、くたびれた古着たちが息を吹き返していくさまは、何ものにも代え難い達成感がある。
母はもう亡くなったが、この店の片隅で母が使っていたハサミを握り、針を動かしていると今でも母を身近に感じることができるのだった。
扉が開き、来客を知らせるドアベルが鳴ったところで、リゼットはハッとして顔を上げた。
「いらっしゃいませ!」
慌てて立ち上がると、幼馴染のアルベールが長身を屈めるようにしながら入ってきた。幼い頃から家族同然の付き合いで、リゼットが思いを寄せる相手でもあった。
「また根を詰めているのか、リゼット」
「アルベール!久しぶり!帰って来たのね」
「ああ、ただいま」
リゼットの声が弾む。
運送業の商会で働くアルベールは冬の間仕事で王都を離れていた。新たな取引先との交渉に出向く商会長のお供で、西方の主要な街を三ヶ所ほど廻ると張り切っていたのはもう三ヶ月ほど前のことだった。
「いつ戻ったの?」
「昨日の夜だよ。留守の間、母さんの様子を見てくれてありがとうな」
「どういたしまして。でも大したことしてないよ。朝、水を汲んでたまにご飯を一緒に食べたくらい」
「いや本当に助かったよ。一人残していくの心配だったから」
幼い頃に父親を亡くしたアルベールは、母親と二人で暮らしている。
母は病弱で、身の回りのことは一通り自分でできるものの、無理をすると寝込んでしまうため、水汲みや洗濯といった力仕事は人に頼らざるを得ない状況だった。
お礼も兼ねての帰宅報告なのだろうが、帰ってきて真っ先にリゼットに会いに来てくれたことが嬉しい。
日に焼けた肌、会わない間に少し伸びた前髪。久しぶりに見上げたアルベールは相変わらず魅力的で、リゼットは胸の高まりを覚えた。
「それで、はい、お土産」
「わあっ、ありがとう!開けてもいい?」
「うん。気に入ってくれるといいけど」
リゼットが包みを開けると、貝殻をあしらった小ぶりの櫛が現れた。木製の本体は手に馴染むように磨き上げられ、キラキラと虹色に光るかけらが繊細に配置されている。
リゼットは顔が赤くなるのを感じた。
(アルベールがこんな贈り物をしてくれるなんて初めて!私の想いが通じたの?だってこんなの、恋人に贈るようなプレゼントじゃない!)
「ありがとう、アルベール。とっても素敵!こんな高そうなものをもらっちゃっていいの?」
「この前誕生日だったろ。成人のお祝いも兼ねてな。リゼット、おめでとう」
「嬉しい!本当にありがとう。大事にするね」
嬉しさで胸がいっぱいになりながら、リゼットは櫛をそっと撫でた。
ついこの間、リゼットは十六歳になり大人の仲間入りをした。
七歳年上のアルベールはリゼットが分かりやすく好意をにじませても、彼女を子供扱いしてまともに取り合おうとしなかったから、リゼットは早く大人になりたかった。
(やっと女性として見てくれるようになったんだわ!)
リゼットは舞い上がっていた。
「ところでリゼット、お願いがあるんだ」
アルベールがそわそわと落ち着かない様子でリゼットを見つめる。心なしか顔が赤い。
(え、もしかしてデートのお誘いとか?)
リゼットの胸にあった小さな期待が膨れ上がった。
「実は……紹介したい人がいて」
「んん?」
予想外の言葉に反応できないでいると、アルベールは店の外に向かって手を振る。
「ジュリ、入っておいで」
現れた女性は、柔らかそうな栗色の髪をゆるくまとめた、聡明そうな人だった。
「初めまして、リゼットさん。ジュリです。あなたのことはアルからよく聞いているわ」
「あの、初めまして」
リゼットの戸惑いには気付かない様子で、アルベールとジュリは目線を合わせてうなずき合った。
「ジュリは西方の港町の商会の娘さんで、仕事で会ってすぐに意気投合したんだ。彼女と夏前に結婚しようと思ってる」
「………け、結婚?」
膨れ上がっていた期待が砕け散る音を聞いたような気がした。
胸が張り裂けそうな痛みを覚えながらも、リゼットはどうにか声を絞り出した。
「……おめでとうっ」
「ありがとう。それでさっき言ったお願いのことなんだけど。リゼットにウェディングドレスを用意してもらいたいんだ。俺たちの希望でもあるけど、母さんも喜ぶと思う」
断る理由は無かった。断りたい気持ちを、誰にも見せるわけにはいかなかった。
動揺が顔に出ないよう、リゼットは精一杯微笑んだ。
「……っ、もちろん、任せて!」
(上手く笑えたかな。声が少し震えてしまったかも)
アルベールもジュリもお互いしか見えていなかったから、そんなリゼットの心中に気づくはずもなかった。
こうしてリゼットの初恋はあっけなく終わった。残酷な依頼を伴って。
◇◇◇
アルベールはリゼットにとっていつでも特別な存在だった。
母親同士が仲が良く、幼い頃から長く一緒に過ごしていた幼馴染。七歳も年下の女の子の相手も嫌がらないどころか、何かにつけ面倒を見てくれる大好きなお兄さんでもあった。
髪や瞳は平凡な茶色だったが背が高く、運送商会の仕事をしているからか広い肩幅に引き締まった体つきをしている。そんな体型に似合わない涼しげな目元と優しい物腰で近所中の女の子たちに人気で、そんなアルベールと親しくしていることがリゼットのちょっとした自慢だった。
アルベールに対する大好きの気持ちに、特別な意味が加わったのは三年前。
王都で多数の死者を出した流行病で、リゼットの母は帰らぬ人となり、アルベールの母は後遺症で寝つくようになった頃のことだった。
当時リゼットは十三歳。
父は葬式の準備や親戚などへの連絡で忙しく、また最愛を失った衝撃が大きすぎて、母を亡くした子ども達を気にかける余裕がなかった。
リゼットは呆然としながら、泣くばかりの弟を慰めることしかできなかった。
母が埋葬されるまで、涙も出なかったリゼットの悲しみに気づいてくれたのがアルベールだった。
弟の肩を抱きながら、所在なげにただ立ち尽くすしかなかったリゼットに寄り添い、手を握ってくれた。
ただそれだけのこと。でも、それがリゼットにはどんなに心強かったことか。
その後も、折に触れて気にかけてくれた。
「薪を割っておいたよ」
「その荷物、重いだろう?俺が持つよ」
「悲しい時は泣いていいんだ」
こんなふうに優しくされて好きにならない訳がなかった。
でもそれはリゼット側の感情であって、アルベールにとってはリゼットはただの妹でしかなかった。
アルベールの視線に優しさはあっても、そこに熱はない。頭をくしゃくしゃに撫でる手は暖かかったが、幼い子や動物を愛でるのと同じ意味合いだった。「頑張ったな」という言葉は、庇護者が与えるご褒美のようなもの。
どこまでも彼女を子ども扱いする態度は一貫して変わらなかったし、それに気づかないリゼットでもなかった。
ただ、それを認めたくなかったし、諦めきれなかっただけ。
◇◇◇
カサリ、と仮縫いの布が擦れる音が作業場に響いた。
「胸元はきつくないですか?」
淡いクリーム色のドレスを身につけたジュリの背後で、リゼットはピンの位置を調節する。
「ちょうどいいわ」
ジュリが着ているドレスは、かつて裕福だった貴族が家の事情で手放したのをリゼットが買い取ったもの。先日採寸に訪れたジュリが、数着のドレスの候補の中から選んだ。
デザインこそ古臭さを感じさせるものの生地は一級品で、リゼットはこのドレスに針を入れるのをそれは楽しみにしていた。
(こんな苦い気持ちでこのドレスを仕立て直すとは思わなかった)
涙が滲みそうになるのを感じて、リゼットは慌てて目元に力を入れた。お客様の前で余計なことを考えるなんて職人として半人前だ。
(集中しなきゃ)
「素晴らしいドレスだわ。まるで最初から私のために作られたみたい」
ジュリは姿見の前で満足げに微笑んだ。
「ありがとうございます。古着屋にとって最高の褒め言葉です」
「アルが言ってたのよ。リゼットさんの腕もセンスも確かだって。本当ね」
ジュリの言葉が、胸の奥をちくりと刺す。
アルベールがリゼットのことを褒めていたという事実が嬉しくもあるが、同時に息苦しさも押し寄せる。
そのアルベールの言葉のせいで、こうして彼の選んだ最愛の人のドレスをこの手で仕立て直すことになってしまったのだ。
リゼットは曖昧にほほ笑むしかなかった。
「最初にこのドレスを選んだ時は、色は気に入ったけど少しゴテゴテしすぎると思ってたのよ。それがこんな洗練されたものになるなんて」
手直し前のドレスは袖もスカートもボリュームがたっぷりある流行遅れのデザインで、リボンがいたるところに縫い付けられ、レースは幾重にも重ねられていた。
リゼットはまず全体的にボリュームを落とし、シルエットがシンプルになるよう調整することにした。そのほうがジュリの凜とした雰囲気とすらりとした体型が引き立つし、今の流行にも合っている。
また、夏の挙式に合わせて長袖を半袖に変更する。
さらに、スカートの一部に刺繍を施し、リボンは取り除いて花のモチーフに作り変え、レースの一部は手袋とベールにリメイクするつもりだ。
リゼットはかがみ込んで、ドレスの裾の仮縫いを進めた。すると頭上から声が降ってくる。
「ねえ、リゼットさん。今度王都で流行り始めたっていうティーサロンに二人で行ってみない?」
「えっ、私と?アルベールとじゃなくていいんですか?」
「アルは甘いもの、好きじゃないでしょう?そういう人と一緒に行ってもつまらないわ。それに私、王都ではお友達がいないから、リゼットさんと仲良くできたら嬉しいと思ってるの」
ジュリと二人で出かけるなんて、かなり気まずいような気はするが、かといって断る理由も咄嗟には思いつかなかった。それに、リゼットだって話題のティーサロンに行ってみたい。
「あの、私でよければ、はい」
「よかった!じゃあ決まりね。楽しみだわ」
ジュリは跳び上がらんばかりに喜んだ。
「あっ、あんまり動かないでくださいっ」
「っ!ごめんなさい。ついはしゃいでしまったわ」
「ふふっ。私もティーサロン楽しみです」
ジュリにこんな一面があったとは。同性で年下のリゼットから見ても、嬉しそうに頬を緩める彼女の姿は可愛らしかった。初対面の時の、落ち着いた大人の雰囲気とは違う魅力がある。
(憎めない人。こういうところをアルベールは好きになったのかな)
すっかり毒気を抜かれたリゼットは、彼女に好感を持ちはじめているのを自覚していた。
(アルベールの結婚相手として出会わなければ、普通に良い友達になれそうな人なんだよね)
「そういえば、あの櫛、使い心地はどう?」
「え……あの櫛って、アルベールのお土産の?」
「それよ!アルったら変な人形を買おうとするから止めたのよ。十六歳に贈るものじゃないでしょう?それで、うちの商会で扱ってる櫛を勧めたのよ」
◇◇◇
仮縫いを終えたリゼットは、櫛を手にしばらくぼんやりと考え込んでいた。
初めてアルベールから貰ったプレゼントは、ジュリが選んだものだった。その事実はリゼットを落ち込ませたが、それ以上に、アルベールが人形を選ぼうとしていたことにリゼットは打ちのめされていた。
(分かってはいたけれど。本当に、アルベールは私のことを子供としか思っていなかった。それをあんなに喜んで、勝手に期待しちゃって、バカみたい)
分かりやすい形で現実を突きつけられて、リゼットはようやく自分の気持ちに折り合いをつけられるような気がした。
(いい加減、諦めなきゃ)
櫛を持つ手が微かに震える。あんなにキラキラとしていた貝殻の模様の輝きが、少し鈍ったような気がした。
ため息をひとつついたところで店の扉が勢いよく開いた。
「ただいま!姉ちゃん、アルベール兄さんのお嫁さんにそこで会ったよ。相変わらずきれいな人だよなあ」
「おかえり、ノエル」
弟のノエルは初等学校から帰宅する途中で、仮縫いを終えたジュリとばったり会ったらしい。
ノエルは目を輝かせる。
「結婚式、楽しみだな」
「……そうね」
「招待客に貴族もいるって聞いたけど、アルベール兄さん、なんかすごいな」
「うん、仕事で関係がある貴族の人たちらしいね。アルベールはいずれ運送商会の支店を任されるって話があるみたいで、その顔つなぎも兼ねてるって。ジュリさんの実家の商会も、出資したのが領主様だっていうし」
「そうかあ。貴族の人って目が肥えてるっていうし、姉ちゃんのドレス、注目されるといいな」
「うん、がんばるね」
「あー、アルベール兄さん、いいなあ。偉くなるし、きれいな人と結婚できるし」
ノエルはリゼットの想いなど知るよしもない。兄と慕っているアルベールの幸せを、ただ無邪気に喜んでいるだけだ。
店の片隅で帳簿を記入していた父親が静かに顔を上げた。
リゼットがここ最近塞ぎ込んでいるのを、父はきっと気付いている。それでも何も言わず見守ってくれている。その距離感が今はありがたかった。
◇◇◇
本縫いの作業を始めると、リゼットの心は不思議と凪いできた。
こうして針を持ち、布に触れていると母の言葉を思い出す。
「布は人を幸せにするのよ」
「自分の感情は縫い目に表れるわ」
「最後まで丁寧に。着る人の顔を思い浮かべると気持ちが引き締まるものよ」
悲しみに呑まれそうになっても、母が見守ってくれているような気がして励みになった。
毎日少しずつ出来上がっていくドレス。その一針一針に、リゼットはさまざまな想いを縫い込んでいった。
諦めきれない恋情。
振り向いてもらえない痛み。
急に現れた恋敵への嫉妬。
幼馴染へ向ける純粋な親愛。
家族のように過ごした思い出。
辛い時にそばにいてくれたことへの感謝。
そして何より、二人の幸せを心の底から願う気持ちを。
そうしているうちに、絡み合っていた複雑な想いが、ほぐされ、整理され、胸の中に大切に仕舞われていくのを感じるようになった。
いつからか、リゼットは悲しみよりもドレスを縫う充実感で満たされていった。
◇◇◇
結婚式当日。
教会は祝福の空気で包まれ、招待客の笑顔で溢れていた。
扉が開き新郎新婦が現れると、会場から感嘆のため息が漏れた。
「なんて綺麗なの」
「あのドレス、素晴らしい仕立てだ」
「あの刺繍の見事なこと」
「平民があのレベルのドレスを用意できるとは」
リゼットのドレスが輝いていた。艶やかな生地に幸福を意味する花の刺繍が咲いている。繊細なレースは軽やかで、それが古着だったとは誰も気がつかないだろう。
ジュリはそのドレスを纏い、誰の目にも眩しいほど美しく、幸せな様子で微笑んだ。
アルベールは思わず息をのみ、蕩けるような笑顔を見せた。
(アルベールのあんな顔、見たことなかった。本当にジュリさんのことが好きなのね)
アルベールの隣が自分だったら良かったのに、と思わないといえば嘘になる。けれど満ち足りた様子の彼を目の当たりにして、アルベールの幸せはジュリとともにあるのだと、ストンとリゼットの腑に落ちた。
誓いの言葉を交わす二人を、会場の隅から見ていたリゼットの胸に誇らしさがじんわりと広がっていく。
母から受け継いだ技術が、誰かの人生で一番の幸福な日を彩っている。その職人としての喜びと誇りは、失恋の悲しみよりもずっと大きかった。
「幸せになってね、アルベール、ジュリさん。あ、もう幸せか」
式の後に声をかけたリゼットに、アルベールとジュリは笑顔でうなずいた。
「リゼット、ありがとう。このドレス、最高だよ」
「うちの店の一番の職人が仕立てたからね!」
リゼットは胸を張って笑ってみせた。少し大げさに言いすぎたかなと思ったけれど、将来は必ずそうなる、という宣言でもあった。
腕を組み並んで歩く二人の後ろ姿を見送ると、リゼットはくるりと踵を返した。
「さてと。次の仕事に取り掛かりますか」
リゼットの胸にもう痛みはない。そこにあるのは叶わなかった初恋のほろ苦い思い出と、職人として生きていくという決意だった。
次はどんなお客さんに、何を作ることになるだろうか。
そんなことを考えると、自然と店へと帰る足取りは軽くなった。




